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 (題字は「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



サイトをご訪問いただき、ありがとうございます
このサイトは、石川啄木が遺した日記を紹介しています

歌人であり、詩人である石川啄木は代表的な歌集「一握の砂」「悲しき玩具」のほか、詩集や論説、小説など数多くの作品を遺しています


当サイト管理人のわたしは、中学校卒業まで函館で過ごしました。

サラリーマン生活の長い間、本州を転々とし、リタイヤして我が家がある札幌に帰ってきました。

北海道に帰ってみると、石川啄木に関する情報が多く、おりしも、2007年は石川啄木が来道してちょうど100年の節目であり、各地で記念の展示会等が催されました。

中学生・高校生のころ、何度も何度も読み返した「一握の砂」、あのころの啄木に対する想いがふつふつと甦ってきます。

遺されている小説や詩を読み、北海道内の歌碑巡りなどをしていると、ますます啄木に対する興味が募ります。





ネットを探索してみると、根強いファンも多く、およそ100年前の作品が、今なお、活き活きと息づいています。


啄木研究の成果を公表されているサイトもあり、作品は数多くデジタル化されてサイトに紹介されています。

中でも、「青空文庫」は、著作権の期限が終了した作品を中心にデジタル化し、ネット上に公開しています。

    

著作権切れの作品だから、コピーや流用も自由という寛大ぶりに感動しました。


こうして、啄木ファンが増えることはとてもうれしいことなので、私も何かお手伝いをと思い、日記をデジタル化してみようと思い立ちました。

このサイトへのリンクはご自由に

また、サイト内のデータは自由にコピーして使っていただいてかまいません。
サイト管理人へのご連絡も強要しませんが、その旨ご連絡いただくのもうれしいかな、と思っています。
なお、ホームページなどで当サイトのデータを使用する際は、ちょっとだけ、その旨記載していただけるとうれしく思います。
なお、詳細は「リンクについて」のページをごらんください。


石川啄木は几帳面な性格だったといわれており、克明につづられた日記を遺しています。

啄木はこの日記を「俺が死んだら焼却するように」と妻節子に言ったのですが、節子は大切に保存していて、後にその価値が見直されました。なかでも、「ローマ字日記」は赤裸々な記述に評価が高まりました。

石川啄木の歌や詩を観賞する際、この日記を並行して読んでみると、詠まれた歌の背景を活き活きと感じとることが出来ます。

これまでは、日記を拾い読みしていたのですが、デジタル化に当たって、一文字一文字を丁寧に読み取って入力してみたいと思い立ちました。

なんとか、現存しているすべての日記の入力が終りましたので、日記部分にまつわる歌や、歌碑めぐりなどの記事を補遺してゆこうと考えています。


石川啄木の略年譜と日記対応表
石川啄木の年譜と日記との対応はつぎのようになっています。

      年齢 主なできごと 日記
明治19年 18886    2月20日、岩手県日戸村に生れる本名一(はじめ)               
明治20年 1887 1歳 父が渋民村の宝徳寺住職となり、渋民村に移住
明治24年 1891 5歳 渋民尋常小学校に入学
明治28年 1895 9歳 渋民尋常小学校を守首席で卒業、盛岡高小入学
明治31年 1898 12歳 盛岡中学校入学。野村胡堂、金田一京助は先輩
明治32年 1899 13歳 盛岡女学校に通う堀合節子と知りあう
明治34年 1901 15歳 回覧雑誌「爾伎多麻」(にぎたま)発行
15歳 岩手日報に「白羊会詠草」を翠江の名で発表
明治35年 1902 16歳 成績下落、試験の不正で譴責処分
16歳 「明星」に白蘋の名で短歌一首掲載
16歳 中学退学、上京。メドたたず、病気に。 明治35 秋韷笛語
明治36年 1903 17歳 帰郷、療養。11月、新詩社同人となる。    
明治37年 1904 18歳 処女詩集刊行を目的に上京 明治37 甲辰詩程
18歳 12月、父一禎、住職罷免   
明治38年 1905 19歳 一家は宝徳寺から退去。5月「あこがれ」刊行   
19歳 堀合節子と結婚、盛岡に一家五人で生活、困窮   
19歳 9月、雑誌「小天地」創刊。   
明治39年 1906 20歳 3月、妻・母と渋民村に帰る。小学校代用教員 明治39 渋民日記
20歳 6月上京、新詩社に滞在。帰郷。12月長女誕生
明治40年 1907 21歳 3月、父復職断念し家出。北海道移住を決意 明治40 丁未歳日誌
21歳 4月校長排斥スト、5月、一家離散、啄木は函館へ 明治40 函館~小樽
21歳 函館で「紅苜蓿」編集に関わる
21歳 商業会議所、小学校代用教員、新聞社遊軍記者
21歳 7~8月、妻子、母、妹を呼び寄せ、同居
21歳 8月25日、函館大火により失職
21歳 9月、札幌北門新報社、小樽日報社勤務
21歳 12月、小樽日報社退社、貧窮のうちに越年
明治41年 1908 22歳 釧路新聞社に単身赴任、4月退社 明治41 日誌其一
22歳 家族を宮崎郁雨に託し上京。赤心館止宿。 明治41 日誌其二
22歳 小説、短歌を多作するが売れず、困窮 明治41 日誌其三
22歳 「明星」100号で終刊。「スバル」創刊準備
明治42年 1909 23歳 3月、東京朝日新聞就職。家族上京。本郷弓町 明治42 当用日誌
明治42 ローマ字日記
明治43年 1910 24歳 二葉亭全集の編集。長男誕生するも、24日で死亡 明治43 4月より
明治44年 1911 25歳 2月、慢性腹膜炎で入院、妻・母も病気。 明治44 当用日記
明治45年 1912 26歳 3月、母死去。4月13日、啄木永眠。 明治45 1912年日記


日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、日記部分の第13集~16集
  発行日:昭和36年10月10日(第15集)新装第1刷
筑摩書房版全集とも照合し、不突合の場合は、主として筑摩書房版を採用しています。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題がある文字が多いため、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。 啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。
なお、標記の不統一(云ふ、云う、いふ、いう)は極力原文どおりとしていますが、あるいは、見落としがあるかもしれません。ご容赦の上、お気づきの点はご指摘いただければ幸いです。
  
石川啄木 啄木日記