×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

啄木日記バナー
 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



明治四十四年当用日記 

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第16集
  発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷
筑摩書房版全集とも照合し、不突合の場合は、主として筑摩書房版を採用しています。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。

明治四十四年当用日記

一月三日 晴 寒
 平出君と与謝野氏のところへ年始に廻つて、それから社に行つた。平出君の処で無政府主義者の特別裁判に関する内容を聞いた。若し自分が裁判長だつたら、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の四人を死刑に、幸徳大石の二人を無期に、内山愚童を不敬罪で五年位に、そしてあとは無罪にすると平出君が言つた。またこの事件に関する自分の感想録を書いておくと言つた。幸徳が獄中から弁護士に送つた陳情書なるものを借りて来た。与謝野氏の家庭の空気は矢張予を悦しましめなかつた。社では鈴木文治君と無政府主義に関する議論をした。
 留守中に金田一君が年始に来て、甚だキマリ悪さうにして帰つたさうである。
 夜、丸谷並木二君が来て、十二時過までビールを抜いて語つた。
[発信欄]賀状三通。
[受信欄]賀状二十通。

一月四日 晴温
 またもとの轍にはまつて来た。さういふ感じのする日であつた。常の如く出社して常の如く帰つた。
 夜、幸徳の陳弁書を写す。
[受信欄]賀状十五通。

一月五日 雨 温
 休み。
 幸徳の陳弁書を写し了る。火のない室で指先が凍つて、三度筆を取落したと書いてある。無政府主義に対する誤解の弁駁と検事の調べの不法とが陳べてある。この陳弁書に現れたところによれば、幸徳は決して自ら今度のやうな無謀を敢てする男でない。さうしてそれは平出君から聞いた法廷での事実と符合してゐる。幸徳と西郷! こんなことが思はれた。
 夜、かねて約束のあつた谷静湖がわざわざ予を訪問する為に埼玉の田舎から出て来た。十二時過ぎまで話をした。才気の勝つた背の高い青年である。
[発信欄]賀状一通。
[受信欄]賀状八通。

一月六日 晴 寒
 起きて二通の封書を手にした。名古屋の妹は、自分は家を持たぬ癖に一生「楽しい家」の歌を歌つて歩いた老楽師のことを書いてよこした。妹は天国があると信じてゐる、悲しくもさう信じてゐる。
 もう一通は橘智恵子からであつた。否北村智恵子からであつた。送つた歌集の礼状である。思ひ当るのがあると書いてあつた。今年の五月とうとうお嫁に来たと書いてあつた。自分のところで作つたバタを送ると書いてあつた。さうして彼の女はその手紙の中に函館を思ひ出してゐた。
 借りて来た書類を郵便で平出君に返した。予の写したのは社で杉村氏に貸した。社では何事もなかつた。寒い風の吹く日であつた。夕飯の時は父と社会主義について語つた。夜は歌壇の歌を選んだ。
[受信欄]賀状三通。名古屋の光子より。北村智恵子より。

一月七日 晴 寒
 年末に夜勤をやめて以来、予の起床は大抵八時頃になつた。そのせゐか頭の加減も悪くない。
 この日は朝に札幌の大島君からの懇ろな賀状を読んだ。いろいろと近状が書いてあつた。その現在の新聞記者生活は、この人の不思議なる且つ畏敬すべき性情に適してゐないらしい。書いてある事は嘗て函館青年の信望を一身に聚めた人の言の如くでない。彼はあまりに自己をさいなみ過ぎた。
 社から帰つてから、大島君へ手紙を書かうと思つたが、書けなかつた。函館日々に寄すべき「大硯君足下」と題するものを二回分だけ書き出した。
[受信欄」賀状四通。

一月八日 曇 温
 休み。午前に入浴した。午後は昨夜の稿をついだ。日が暮れて丸谷君と並木君が来た。二人は朝から遊び廻つてゐたんださうである。急に仮面会を開くことになつて、浅草に行き、ルナパークでピラアスレースに入り木馬に乗つた。それから塔下苑をブラついて、とある馬豚肉で豚をくひ、酒をのんだ。その時三人寄せ書きで岩崎宮崎二君へハガキを出した。それからまた汁粉を食つて遅く帰つた。新年になつてから初めて遊んだわけである。京都にゐる瀬川深君から「一握の砂」に関する長い手紙が来た。予の住所がわからなくて東雲堂に問合したと書いてあつた。うれしいたよりであつた。予はそれを三人と出かける時、下で受取つて歩きながら読んだ。三丁目の停留場で二間余りの巻紙を夜風に吹かせ乍ら巻き納めた。
[受信欄]賀状四通。瀬川深君より手紙。

一月九日 曇 温
 休み。
 今年になつて初めての朝寝をした。午後は瀬川深君へ長い手紙を書いて暮らした。夜は函館日々への原稿二回分と共に大硯君へ手紙を書いた。
 父と共に残つてゐた一本のビイルを抜いた。
[発信欄]瀬川君へ 斉藤大硯君へ
[受信欄]賀状一通。孝子より葉書。

一月十日 霙 寒
 霙が降つた。朝に吉野君から妻君と子供が病気で入院して、上京の企画一頓挫をうけた旨の手紙があつた。社に行くと谷静湖から約束の冊子が届いてゐた。それは昨年九月の頃、在米岩佐作太郎なる人から送つて来たといふ革命叢書第一篇クロポトキン著「青年に訴ふ」の一書である。谷は岩佐を知らない、また知られる筈もない、多分雑誌に投書したのから住所姓名を知つて伝道の為めに送つたものであらう。家に帰つてからそれを読んだ。ク翁の力ある筆は今更のやうに頭にひびいた。
[受信欄]吉野君より 谷静湖より

一月十一日 曇 温
 何の事もなかつた。空は曇つてゐた。朝に少し風邪の気でアンチピリンを飲んだ。米内山が来て、東北の田舎でも酒の売れなくなつた話をした。社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。
 夜、丸谷君を訪ふと並木君も来てゐた。この日市俄高の万国労働者の代表者から社に送つて来た幸徳事件の抗議書――それは社では新聞に出さないといふので予が持つて来た。――を見せた。話はそれからそれと移つた。「平民の中へ行きたい。」といふ事を予は言つた。
 更けてから丸谷君と蕎麦屋へ行つた。丸谷君の出費である。

一月十二日 雨 温
 午前に丸谷君が一寸来た。前夜貸した「青年に訴ふ」を帰しに来たのである。
 木村の爺さんが休んだので夜勤の代理をせねばならぬことになつた。六時頃に一寸帰つてすぐまた社に行つた。雨が篠つくばかり降つてゐた。社に帰ると読売の土岐君から電話がかかつた。逢ひたいといふ事であつた。とうに逢ふべき筈のを今迄逢はずにゐた。その事を両方から電話口で言ひ合つた。二人――同じやうな歌を作る――の最初の会見が顔の見えない電話口だつたのも面白い。一両日中に予のところへやつて来る約束をした。
 家にかへればもう十二時半だつた。

一月十三日 曇 寒
 何の彼のといつてるうちに一月も十三日になつた。そんなことが思はれた。急がしい気持がして社へ行つた。
 電話で話し合つて、帰りに読売社へ寄り、北風の真直に吹く街を初対面の土岐哀果君と帰つて来た。さうして一杯のんでソバを食つた。こなひだ読売に予と土岐君と共に僧家の出で共に新聞記者をしてると書いてあつたが、二人は酒に弱い事も痩せてる事も同じだつた。ただ予の直ぐ感じたのは、土岐君が予よりも慾の少いこと、単純な性格の人なことであつた。一しよに雑誌を出さうといふ相談をした。「樹木と果実」といふ名にして兎も角も諸新聞の紹介に書かせようぢやないかといふ事になつた。土岐君は頭の軽い人である。明るい人である。土岐君の歌は諷刺皮肉かも知れないが、予の歌はさうぢゃない。

一月十四日 曇 寒
 吉野君から「一握の砂」の評を二回載せた釧路新聞を送つて来た。引いた歌のうち「小奴といひし女の――」といふ歌に黒丸をうつてあつた。岩崎君の「一握の砂と其背景」の(一)載つた北海道新聞も来初めた。
 早出をした。夕方に吉野君の弟の喜代志君が来た。
 帰ると宮崎君からハガキが来てゐた。そこで早速手紙をかいた。昨日の相談の雑誌の事をかいてると、丸谷君が貸しておいた幸徳の陳弁書を持つて遊びに来た。丸谷君が帰つてから土岐君への手紙を出して寝た。
 若山牧水君から「創作」の編輯を東雲堂から分離したことについての通知が来た。
[発信欄]土岐君へ。宮崎君へ。
[受信欄]若山牧水君より 宮崎君より

一月十五日 晴 寒
 夜、詩六章を書いて「精神修養」へ送つた。
 社のかへりに読売社へよつて土岐君と二時間許り雑誌のことを相談した。金のことは予が責任を負ふといふことになつた。発行所も予のところにすることにした。

一月十六日 晴 寒
 気持のいい日であつた。朝には白田に起こされた。岩見沢市北村牧場入口の歌碑 石狩の空知郡の牧場の
 空知の智恵子さんから送つてくれたバタがとどいた。
 社で安藤氏に逢つたから、精神修養へ半頁だけ予らの雑誌の広告を出して貰ふことにした。「それは面白い。大にやりたまへ。少し位は寄附してもいい。」と安藤氏が言つた。
 前日の約によつて社からすぐ土岐君を訪ねた。二階建の新しい家に美しい細君と住んでゐた。雑誌の事で色々相談した。我々の雑誌を文学に於ける社会運動といふ性質のものにしようといふ事に二人の意見が合した。十時過ぎに帰つたが風が寒かつた。帰れば釧路の坪仁からかなしい手紙がとどいてゐた。
[発信欄]精神修養社へ原稿送る。
[受信欄]坪仁子より。

一月十七日 晴 寒
 休み。
 おそく起きた。午後になつて白田が花田百太郎といふ青年をつれて来た。予に会ひたいと言つたのださうである。九州の生れで高橋光威という代議士の書生をしてゐる文学青年である。不格好な顔をしてゐたが何となく真率な点が気に入つた。そして暗くなるまで気焔を吐いた。「明日」! それが話題であつた。
 二人が帰つて行つて飯を食ふと、急に疲労を感じた。さうして九時頃までも行火に寝た。九時頃に起きて歌を作つた。

一月十八日 半晴 温
 今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であつた。午前に前夜の歌を清書して創作の若山君に送り、社に出た。
 今日程予の頭の昂奮してゐた日はなかつた。さうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかつた。二時半過ぎた頃でもあつたらうか。「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「ああ二十四人!」さういふ声が耳に入つた。「判決が下つてから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告したゐた。予はそのまま何も考へなかつた。ただすぐ家へ帰つて寝たいと思つた。それでも定刻に帰つた。帰つて話をしたら母の眼に涙があつた。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考へ乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。
 夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあつた。
[受信欄]牧水君より。

一月十九日 雨 寒
 朝に枕の上で国民新聞を読んでゐたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によつてのみ得られる、さうして日本は代々社会政策を行つている国である。と御用記者は書いてゐた。
 桂、大浦、平田、小松原の四大臣が待罪書を奉呈したといふ通信があつた。内命によつて終日臨時閣議が開かれ、その伏奏の結果特別裁判判決について大権の発動があるだらうといふ通信もあつた。
 前夜丸谷君と話した茶話会の事を電話で土岐君にも通じた。

一月二十日 雪 温
 昨夜大命によつて二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。
 東京は朝から雪がふつていた。午後になつても、夜になつても止まなかつた。仕事のひまひまに絶えず降りしきる雪を窓から眺めて、妙に叙情詩でもうたひたいやうな気分がした。
 前夜書いた「樹木と果実」の広告文を土岐君へ送つた。それと共に、毎月二人の書くものは、何頁づつといふ風に自由な契約にしよう、さうでないと書くといふことが権利でなくて義務のやうな気がすると言つてやつた。
[発信欄]土岐君へ。

一月二十一日 晴 温
 朝に珍らしく太田正雄君から手紙が来た。太田は色々の事を言つてゐる。然し彼は、結局頭の中心に超人といふ守本尊を飾つてゐる男である。「人間が沢山ある、あまりに沢山ある、それが不愉快だ」! 手紙には「一握の砂」の事が書いてあつた。
 夜には丸谷君が来た。今日やらうかと言つた茶話会を延期した事を知らせなかつたからである。妙な事から少年時代の話が出た。さうして何時か予は、珍らしくも、中学でのストライキの話をしてゐた。「ああ面白かつた。」と言つて十一時頃に友人は帰つた。
 雪の後の静かな気持――とでもいふやうな気持で暮した日だつた。
[受信欄]太田君より。

一月二十二日 晴 温
 暮れにこしらへ直した袷を質にやつた。
 夜、平出君へ「樹木と果実」に関する長い手紙をやつた。さうして寝てから歌を作つた。
[発信欄]平出君へ。

一月二十三日 晴 温
 休み。
 幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。
 夜、母が五度も動悸がするといふので心配す。
[受信欄]荻原藤吉といふ人より。

一月二十四日 晴 温
 梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香ひがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
 社へ行つてすぐ、「今朝から死刑をやつてる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何といふ早いことだらう。さう皆が語り合つた。印刷所の者が市川君の紹介で会ひに来た。
 夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。
 薬をのましたせゐか、母は今日は動悸がしなかつたさうである。

一月二十五日 晴 温
 昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた――その事が劇しく心を衝いた。
 昨日十二人共にやられたといふのはウソで、菅野は今朝やられたのだ。
 社でお歌所を根本的に攻撃する事について渋川氏から話があつた。夜その事について与謝野氏を訪ねたが、旅行で不在、奥さんに逢つて九時迄話した。与謝野氏は年内に仏蘭西へ行くことを企ててゐるといふ。かへりに平出君へよつて幸徳、菅野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大に憤慨してゐた。明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行つて見る約束にして帰つた。

一月二十六日 晴 温
 社からかへるとすぐ、前夜の約を履んで平出君宅に行き、特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、一冊の厚さ約二寸乃至三寸づつ。十二時までかかつて漸く初二冊とそれから菅野すがの分だけ方々拾ひよみした。
 頭の中を底から掻き乱されたやうな気持で帰つた。
 印刷所三正舎から見積書が来た。釧路から小奴の絵葉書をよこしたものがあつた。
[受信欄]釧路の斉藤秀三氏より。三正舎より。

一月二十七日 晴 温
 五六日前から腹が張つてしやうがない。飯も食へるし、通じもある。それでゐて腹一帯が堅く張つて坐つたり立つたりする時多少の不自由を感ずる。
 出がけに宮崎君の手紙を受取り電車の中でよんだ。真面目な手紙だつた。雑誌の金を出しても可いと書いてある。社からかへると、珍らしく金田一君が来てゐた。今日朝から細君が産気づいてゐるさうである。
 此間手紙をした荻原といふ人は井泉水であるときいた。さうしてる処へ丸谷、並木二君が来た。金田一君は早く帰つたが、二人は十一時まで話して行つた。明日の晩は此処で茶話会を開く筈である。
[発信欄]茶話会の通知五通。
[受信欄]宮崎君より。

一月二十八日 雨 温
 社では急がしい日であつた。木村さんから一円五十銭借りて帰ると、まだ誰も来てゐなかつた。茶話会の晩である。やがて花田君が来、丸谷君が来、土岐君が来、並木、又木、高田(初対面)が来た。予を合せて七人。話は雑誌の事が主で、土岐君がよく皆を笑はせた。十銭づつ持ち寄りの菓果には、蜜柑、バナナ、パン、南京豆、豆糖、最も量の多かつたのは並木君のカキ餅、十時頃に芝方面の人がかへり、それから婦人問題について予と丸谷君と舌を闘し、十一時頃に皆かへつた。気のおけない楽しい一夜だつた。皆が雨の中を帰つて行くと予は頭痛を感じた。さうして疲れた馬のやうになつて寝た。

一月二十九日 晴 温
 何だか身体の調子[が変]だつた。腹がまた大きくなつたやうで、坐つてゐても多少苦しい。社に電報を打たせて休んだ。
 外国語学校の阿部康蔵君が来た。無政府党のことについて語つて、「学生には同情してる者の方が多いやうだ」と語つてゐた。
 三時頃から夜中までかかつて六本の手紙をかいた。
[発信欄]宮崎君へ(宮崎君、省三君の分同封)。北村智恵子へ。荻原井泉水君へ。弓館芳夫君へ。

一月三十日 曇 温
 今日は出社した。仕事をしてゐると大分苦しかつた。
 帰つて来てすぐ丸谷君に誘はれた。飯をくつてからその下宿へゆくと、並木君、又木君、初対面の矢口君がゐた。愉快に話して十時頃一しよに散歩に出た。
 又木君はその近く始めようといふ製版所を共産的組織にするといふ決心を語つた。この話は予をして喜ばしめた。「我々はもう決心してもいい。」さういう言葉が口に出た。
 途中で焼芋と餅をくつたので腹が一さう張つた。
[受信欄]盛中校友会雑誌、雑誌「田園」

一月三十一日 雨 温
 休み。
 朝九時頃に知らぬ来客のために起された。その人は梁田剛介といふ人であつた。ひる飯も一しよに食つた。夕めしも一しよに食つた。それでもまだ話してゐた。夜十一時になつて帰つた。
 不思議な人であつた。十四時間の話に何の目的もなかつた。ロシヤに三十六年も行つてゐた人なさうである。ロシヤでは警察官になつて犬として虚無党の内部に入つたり、陸軍の官吏にもなつた。モスクワの大学にも四年ゐたといふ。露探の嫌疑もうけたとか。「一生に沢山の事をやつて虻蜂とらずになつた人!」予はその同情を起した。一戸に沢山の財産があるさうである。
[受信欄]矢口達君より。

二月一日 晴 温
 午前に又木君が来て、これから腹を診察して貰ひに行かうといふ。大学の三浦内科へ行つて、正午から一時までの間に青柳医学士から診て貰つた。一目見て「これは大変だ」と言ふ。病名は慢性腹膜炎。一日も早く入院せよとの事だつた。
 さうして帰つたが、まだ何だかホントらしくないやうな気がした。然し医者の話をウソとも思へない。社には又木君に行つて貰つて今日から社を休むことにした。
 医者は少なくとも三ヶ月かかると言つたが、予はそれ程とは信じなかつた。然しそれにしても自分の生活が急に変るといふことだけは確からしかつた。予はすぐに入院の決心をした。そして土岐、丸谷、並木三君へ葉書を出した。
 夜になつて丸谷、並木二君がおどろいて訪ねて来た。

二月二日
 宮崎、吉野二君へ手紙を出した。
 十二時頃になつて社から加藤さんが来てくれた。前借の金を持つて来てくれたが、これは皆佐藤さんが一時立てかへてくれたのだといふことであつた。

二月三日 晴 温
 午前に太田正雄君が久しぶりでやつて来た。診察して貰ふと矢張入院しなければならぬが、胸には異状がないと言つてゐた。そのうちに丸谷君が来、土岐君が来た。
 雑誌のことはすべて予の入院後の経過によつて発行日その他を決することになつた。
 夜、若山牧水君が初めて訪ねて来た。予は一種シニツクな心を以て予の時世観を話した。声のさびたこの歌人は、「今は実際みンなお先真暗でござんすよ。」と癖のある言葉で二度言つた。
[受信欄]盛岡の父より 花田君より 土岐君より

二月四日 晴 温
 今日以後、病院生活の日記を赤いインキで書いておく。
 どうせ入院するなら一日も早い方がいい。さう思つた。早朝妻が俥で又木、太田二君を訪ねたが要領を得なかつた。更に予自身病院に青柳学士、太田君を訪ねたが、何方も不在。午後に再び青柳学士を訪ねてその好意を得た。
 早速入院することにして、一旦家へかへり、手廻りの物をあつめて二時半にこの大学病院青山内科十八号室の人となつた。同室の人二人。夕方有馬学士の診察。夕食は普通の飯。
 病院の第一夜は淋しいものだつた。何だかもう世の中から遠く離れて了つたやうで、今迄うるさかつたあの床屋の二階の生活が急に恋しいものになつた。長い廊下に足音が起つては消えた。本をよむには電燈が暗すぎた。そのうちにいつしか寝入った。
 入院のしらせの葉書を十枚出した。

二月五日 快晴 暖
 早く目がさめた。今朝から飯は粥になつた。糞便も容器に取ることになつた。薬は散剤と水薬の二種、他に含漱用一瓶。
 窓に日があたつて、窓ぎはまで桜の枝が来てゐる。この花の咲くまでには出たいものだと思つてみた。午前に丸谷君が来て、昨日初めて議会へ傍聴に行つた話をして行つた。
 午後に妻が子供をつれて見舞に来た。缶詰や菓子を買はせる。新聞は毎日妻が持つてくることにした。
 おだやかな日であつた。気分も殆ど普通。同室の二人の若い人達と話をした。夜は若い方と将棊をさした。武藤、福田――この二人共開業医の誤診の結果病気を悪くした人達だといふのを面白くきいた。隣室に十七八の不思議な少年がゐる。
       ――――――――――――――
 昨夜かいた高田藤田二君への手紙と外に入院のしらせ十枚出した。
[受信欄]又木君のハガキ、赳夫さんの葉書。

二月六日 晴 温
 朝体量を計る。十一貫六百二十四匁余。
 此処へ来てから早く眼がさめる。腰が痛い。体温をとつて、起きて顔を洗つて飯を食ふ。さうすると腰が直る。それから薬を二度と牛乳をそれぞれ時間によつてのむのだが、そのうちにすぐ十二時になつて了ふ。体温は普通だ。
 午後に妻と京子来る。樹木と果実への投稿が来た。やがて佐藤さんが見舞に来て下すつた。夕方近くなつて並木君が丸谷君と一しよに来た。元気に話した。
 どうも病院へ来てから暢気になりすぎていけない。本をよんでもすぐ飽きるし、歌もつくれない。佐藤さんは物を言はないと腹がふくれるといふから、うんと書いたらふくれたのが直るだらうと言つてゐた。
[発信欄]大島経男君へ。

二月七日 晴 温
 朝飯をくつてストオヴにあたつてると渋川さんから見舞の手紙が来た。十一時頃に太田君が来て、時代の統一したる哲学が必要だ、今の世の中はあまりに思想、考察を軽んじてゐると言つてゐた。
 妻の持つて来た郵便のうちに、雑誌の前金入のが二通、投書数通、あつた。子供が看護婦と遊んでゐるうちにやがて回診の時間となり、手術をうけた。下腹に穴をあけて水をとるのである。護謨の管を伝つて落つるウヰスキイ色の液体が一升五合許りになつた時、予は一時に非常な空腹に襲はれたやうに感じて、冗談をいひながら気を遠くした。手術はそれで中止、すぐ仰向に寝せられてまた苦しい冗談をいひながら赤酒を一口のんだ。あとはいい気持だつたが、腹にはまるで力がなかつた。
[発信欄]佐藤氏へ手術の知らせ。
[受信欄]渋川氏、又木君、北村智恵子、若山君、其他投書

二月八日 晴 暖
 昨日の手術の結果大さうラクになつたが、その代り何となく力がなくなつた。午前に青山博士の回診があつた。
 来訪者、妻、京子、森田草平君、丸谷君。森田君は去年痔をやんで痛かつた話をした。「一握の砂」一冊だけ手許にあつたのを進呈した。丸谷君は昨夜「樹木と果実発行所」の札を予の家で書いた話をして行つた。「German course」を持つて来てくれた。
 吉野君からの手紙は、その児が更に肺炎を起したことを報じて来た。三品老人の見舞状には病床で禅を味へとあつた。名古屋の妹からは神様おし売の手紙が来た。
[発信欄]東雲堂、若山君へハガキ。妹へ手紙。
[受信欄]光子。吉野君、三品老人。東雲堂。花田君。

二月九日 晴
 身体の加減のいい日であつた。
 室内はストウヴを焚いてゐるので、いつでも暖かであるが、外は寒い北風が晴れた空から吹いてゐた。窓のところに立つてゐると、寒い風の中をいろいろの人が元気よく大股にあるいて行つた。
 何処からも手紙が来なかつた。何処へも出さなかつた。家から雑誌の投書を数通持つて来ただけであつた。
 この日から「ジヤアマンコウス」に取りかかつた。

二月十日 晴
 昨日のやうに思はれるのにもう今日で入院してから一週間目である。気分は平生と変らないが、昨日と今日、午後に少し熱が出た。水もまた少したまつたらしい。
 家からは新聞、郵便物を持つて今日は妻だけ一人来た。そこへ社の寺崎老人が見舞旁々加藤さんの手紙をもつて来てくれた。手紙には頼んであつた金の払ひ残りが三円某入つてゐた。恰度寺崎老人の帰つたあと、隣の寝台の男が、煙草の煙で咳が出ると看護婦に言ひ出した。予はかくて室内に於て禁煙せねばならなかつた。夕方にはこらへきれなくなつて廊下に出て一本のんだ。丸谷君が並木君の歌と矢口君の前金とを持つてやつて来た。函館の新聞には無政府党の死刑囚の一人が死刑前に巻煙草を三本のんで、「これでいい」と言つたことが何からか転載されてあつた。煙草!
 夜に左の目へツベルクリンを注入された。
[発信欄]三品、加藤二氏へハガキ
[受信欄]加藤氏より。「秀才文壇」

二月十一日 晴 暖
 珍らしいほど暖かでさうして心地よい天気であつた。外はさぞ賑やかであらうと思はれた。
 どうも此処へ来てから非常ななまけ者になつた。一つは薬や牛乳の時間に追はれるためでもあるが、よんでも書いてもすぐ止めたくなつてくる。さうして初めは無暗と恋しかつた浮世の事が、どうやら日一日と自分から離れ去つてゆくやうに感ずる。
 何度となく廊下に出て煙草をのんだ。
 今日も家からはせつ子だけ来た。日のくれ方に江南文三君が来て七時頃まで話して行つた。江南は逢はずにゐると馬鹿気た男であるが、逢つてみると可愛い所のある男である。一家の見を持つてゐると思つてる処が殊に。
[発信欄]米内山へはがき 弓館君へはがき
[受信欄]平出君よりパンの会の葉書、瀬川深君より手紙。

二月十二日 晴 温
 また腹がふくれた。作つた歌を文章世界と早稲田文学とへ送つた。
 今日はせつ子は京をつれて来た。
 窓に首をつき出しては煙草をのんだ。午後に並木君が来てくれた。それを廊下へつれ出して話した。並木君が帰つて夕めしをくつてゐると米内山が来た。お見舞を持つて。昨日万朝に出した記事でもうその日のうちに注文があつたと喜んでゐた。
 退屈な夜だつた。
[発信欄]相馬御風君へ。

二月十三日 曇 暖
 体重十一貫六百五十匁八分(内三百五匁九分は衣服、以後皆同じ)一週間前に比し百瓦(二十六匁六)の増加。看護婦から門内散歩を許された。午前に床屋をよんで髯を剃つた。
 来訪者、せつ子、土岐君、土岐君は「創作」にあつた若山の我々の歌の模倣者に対するイヤミに就いて次の日曜附録に何か書くと言つてゐた。投書が二十通許り来たさうである。雑誌は一ヶ月のばすことにした。広告ハガキの費用として三円だけ渡した。
 退屈な夜だつた。廊下を一周して来てやや疲れを覚えた。予はそろそろ病院生活に飽きて来た。静安な一日! それは可い。然しあまりといへばあまりに刺戟がない。予はもう此処でみるすべての顔に飽きて了つた。
[受信欄]清水茂八より、

二月十四日
 家からの外に誰も来なかつた。散歩用の草履を持つて来た。朝には晴れてゐたのが午後から曇つた。入浴したせゐか少し許り熱が出て、午後は不愉快だつた。日がくれてから初めての散歩をしようと思つて運動場のまん中あたりまで出てゆくと、ポツリポツリと雨が落ちて来た。急いで帰つてくると、散歩は昼のあたたかい時だけにしろと看護婦に叱られた。そのうちに雨が沢山ふつて来た。窓から顔を出して煙草をのみながら雨の音をきくと、久しぶりでしんみりとした可い気持になつた。看護婦は「続怪談揃」といふ本をもつて来て貸してくれた。
[発信欄]小田島孤舟君へ。新渡戸先生へ。岡山儀七君へ。
[受信欄]堀合赳夫より

二月十五日 晴 暖
 気持のいい日であつた。朝に小樽の高田から長い手紙が来た。松本清一君が去年死んだと書いてあつた。並木からは独歩の語を引いてのハガキ、すぐ返事を書いた――独歩は霊魂を信じてゐたが予は確固たる唯物論者であると。
 午前に丸谷君が来て、雑誌に羅馬字の頁を設けてくれと言つた。昨日学校の会で議論をしたが、案外旧い考へを持つた者が多いと憤慨してゐた。雑誌の原稿の草稿をみせた。
 青山博士の廻診があつて、余病がないといふことがわかつた。そして新室の方へ移されることになつた。今迄のところは結核室なのである。昼飯のすんだところへせつ子と京子と下のおばさんと見舞に来た。その時この第五号室に移つた。広い室に十二人の患者がゐる。明るくて奇麗ではあるが、今までのやうな静けさ――病室らしい静けさはない。夜に二度今までの室へ遊びに行つて十時まで莫迦話をした。
[発信欄]佐藤氏、丸谷、並木二君へ室の変つた通知。歌壇原稿五回分
[受信欄]並木君より。高田紅果君より手紙。

二月十六日 晴 温
 今日はよほどこの新室の空気になれた。予の右の人が退院してその隣りから胃病やみの電車の運転士が移つた、左には心臓の悪い田舎の爺さんがゐる。
 午前に「函日」へ載せるべき「郁雨に与ふ」を一回分かいた。寺崎さんが中島からの見舞の敷島をもつて来た。家からは二度来た。最初来た時は伊東圭一郎君を伴れて来た。三年あはぬ間に口鬚を立てて洋服をきてゐた。後の時は茶碗と箸を買はせた。それから丸谷君が「婦人問題」を持つて来た。やがて夕方に並木君が雑誌とゴリキイの小説とをもつて来て二時間許り話して行つた。大島君から手紙と原稿が送つて来た。原稿は中々面白い。手紙には向井君も我党の人だとかいてあつた。
 今までの有馬学士に代つてサカ井学士が予の担任になつた。夜にまた一寸先の室へ遊びに行つて大竹さんを笑はせて帰つた。佐藤民三郎君に逢つた。
[発信欄]郁雨へ原稿。北村夫人、中島氏へ手紙。大島、高田二君へハガキ。
[受信欄]大島氏より。

二月十七日 曇
 朝に霙がふつたさうである。何となく不愉快な天候であつた。
 せつ子が郁雨の手紙を持つて来た。簡単にかいてあつた。さうして雑誌がほんたうに出るのかと書いてあつた。手紙をよんでから更に新聞をよんで予は急に気分の悪くなるを感じた。南北朝事件で昨日質問演説をする筈だつた藤沢元造といふ代議士が、突然辞表を出し、不得要領な告別演説をして行方不明になつた。新聞の記事は政府の憎むべき迫害の殆ど何処まで及ぶかを想像するに難からしめた。
 予の精神は不愉快に昂奮した。そのためか少し発熱した。社の加藤さんが見舞に来てくれた。
 上杉氏の「婦人問題」を半分よんだ。夜はまた十八号室へ遊びに行つた。
[発信欄]郁雨へ第二信。
[受信欄]関より見舞のハガキ。郁雨。

二月十八日 曇
 あまり気分のいい日ではなかつた。
 午前は「郁雨に与ふ」の続稿をかいた。
 午後来訪者、せつ子、関清治。関と話をするほど不愉快なことがない。帰つてくれといはうと思つたが、折角見舞に来てくれたんだと思つて我慢してゐた。その代り生返事ばかりしてやつた。
 夕方に若山君の紹介で平賀春郊といふ人が「創作」の原稿貰ひに来た。おとなしい人であつた。
 今日医者が診察して、もう手術はしなくても可からうといふことになつた。そして変に黄色な脂薬を腹に朝夕塗りつけることになつた。塗つて五分間もこするのである。夜にまた一寸十八号へ遊びに行つた。
[発信欄]郁雨へ第三信。
[受信欄]吉野君、山本千三郎よりハガキ。

二月十九日 晴
 窓ガラスが夕方までガタガタ鳴つてゐた。
 朝に社から小包が来た。開いてみると谷静湖から来た手紙とその歌集を廻してくれたのだ。歌集「嘲笑」には予の序文がある。
 小田島孤舟から雑誌の件大賛成だといふ手紙が来た。
 午前に「創作」へ送るために十六首の歌を作つた。午後にせつ子が来た。外に誰も来なかつた。
 午後は何にもしないで過した。もう病院にあきたやうな気持であつた。今度の酒井さんといふ医者はニコニコして色々の事を話してくれる。「此処では歌も作れないでせう」と言つてゐた。
[発信欄]谷静湖へ。山本へ。郁雨へ第四信。若山君へ歌稿。
[受信欄]山本の姉、谷静湖、小田島孤舟、花田百太郎諸君より。

二月二十日 晴
 気分のいい日であつた。午前には手紙をかいた。そのために時間がなくなつて郁雨への通信は一日休んだ。
 白田が昨日花田からきいたといつて、目を丸くして見舞に来た。花田から頼まれたといつて「コスモス」を持つて来た。
 今日は家から父上と妻と京子と三人来てくれた。父と母との事が気にかかつた。
 小樽の高田から五人分の前金六円を為替で送つて来た。佐々木繁君からは病気のことを故郷の新聞でみて驚いた見舞状が来た。夜には同室の人々と社会主義について語つた。
 今日は十八号に行かなかつた。
[発信欄]安藤氏、岩本氏、佐々木君、大阪の渡辺君、
[受信欄]安藤氏、岩本武登、佐々木繁君、高田(書留)北条健次郎諸氏より手紙

二月二十一日 晴
 今日は少し熱があつた。
 せつ子が来てゐるところへ江南が一寸来た。スバルへまた広告を出すことを頼んでやつた。外に誰も来なかつた。
 研究室へ行つて耳から血をとられた。
[発信欄]高田へ受取の手紙 郁雨へ第五信及び手紙

二月二十二日 晴
 今日は青山博士の廻診の日なので午前はそれとなく急がしかつた。隣りの臥床の爺さんが退院した。
 今朝深呼吸をすると少し右肺の底にいたみがあつた。ちつとばかり肋膜炎を起したかも知れないが心配はないと医者が言つた。また腹のふくれて以来忘れてゐた腿のしびれが少し起つて来た。
 家からの外は誰も来なかつた。何もしなかつた。
 午後四時頃になつて一人の不思議な患者が入院した。年は十六位で顔にも手にも紫の斑が出てゐる。夕飯すぎに予の隣りの臥床に移つた。日本には珍しい紫斑病といふさうである。
[受信欄]佐々木繁君より手紙 日向吉衛よりハガキ

二月二十三日 晴
 朝に大島君から手紙が来た。
 午前のうちに土岐君が来て十二時頃まで話して行つた。クロポトキンの自伝を持つて来てかしてくれた。父と京子も一寸来た。
 午後にはせつ子が来た。羊羹を持つて来た。
 医者は今日はバンドマスで測つてみて、腹が少し小さくなつたと言つた。
[発信欄]花田君へハガキ。大島、小田島孤舟二君へ封書。
[受信欄]大島氏より為替。渡辺虹衣より見舞のハガキ、社より歌の投稿。

二月二十四日 曇 雨 温
 腹がだんだん邪魔にならなくなつた。
 小樽の藤田君から不真面目なやうな真面目な手紙が来た。痳病にかかつて睾丸炎を起したんださうである。さうして一度直つてから酒をのんでまた悪くなつたさうである。――彼の歩いた路もまた不真面目なやうな真面目なものであつた。
 せつ子が来たつきり。
 クロポトキンを読み始めた。
 新聞には昨日の議院で、国民党の大逆事件及び教科書事件問責案が秘密会として葬りさられてことを書いてあつた。
[発信欄]谷静湖へハガキと歌稿。小田島孤舟へ原稿。
[受信欄]藤田武治君封書。谷よりハガキ。

二月二十五日
 丸谷と婦人問題について語る。
 夜発熱終夜ほとんど眠らず。

二月二十六日 雨
 熱四十度、終日四十度を降らず
 新聞をよむことまで禁ぜらる
 昼ごろ土岐ハガキ百枚持ち来る
 せつ子夜まで残る
 飯をくはず
 いやな天気なりき
 夜氷嚢のお蔭にて眠る

二月二十七日 晴
 三十九――三十八
 どうも気分わるし 寝たまま動かず
 並木来て驚けるにハガキを託してやる
 隣りの塗田由吉退院の噂あり いやがる

二月二十八日
 三十九――三十八
 昨日も今日もせつ子毎日来てゐる、とまらぬだけ、
 総廻診、風邪だといつてやる
 塗田退院、朝に手配の滑稽、十一時に言渡――一時去る

三月一日
 熱下らず、せつ子社にゆき金うけとりてくる
 午後西川光次郎君来り、宗教的情調といふことについて語る。花田来り、ひとりでえらさうな顔をしてかへる。
 夜は氷嚢をあててわづかに眠るを例とす
[発信欄]丸谷君

三月二日
 丸谷君午前に来てくれぬ。郁雨に与ふの最後の一章代書して貰ふ
 その時胃の悪き労働者(一昨夕入院、予はその為によく夜中夢をやぶられたり)死したり、十時頃であつたらう、醜い顔の細君の泣くのが聞えた。

三月三日
 いいお天気、お節句だといふに予の熱はまだ下らない、せつ子が朝から夜の九時までゐてかへる。右の肋膜に水がたまつたといふことだ。
 午後に佐藤さんが来て下すつた。そして鶯の話をして行つた。
 今夜はじめて氷嚢なしにて眠る
 
三月四日
 朝には少し気分がよかつたが夕方からまた悪くてとうとう夕飯をよした
 つくづく病気がイヤになつた、
 いろいろの雑誌が枕辺に積んであるけれども、手を出して読むと寒気がするのでよまれもせぬ。雑誌の事がしきりに気にかかつた。

三月五日
 日曜ではあり、患者のうちにも遊びに出た人があつて静かな日であつた。予はなほ熱が下らずに寝てゐた。
 つくづく病気がいやになつて、窓をこはして逃げ出さうかとまで思つた。
[発信欄]小田島孤舟 宮崎郁雨

三月六日
 隣りの紫斑病の少年は、昨日あまり元気がよかつたので風邪をひいたらしく、今日はおとなしく寝てゐた。大島君が外科に移つた。
 午前は気分が悪かつたが午後に急に熱が下つて愉快になつた。其処へ土岐君が来た。入院以来初めて腹で笑ふことが出来た。土岐が帰つて一寸並木が来た。
 それからいよいよ肋膜の水をとることになつたが、トラカルがどうしてもささらなくて非道い目に合つた。医者はだらだら額に汗を流してゐたさうである。水は三一〇しか出なかつた。

三月九日
 午前に太田君
 午後に並木君、丸谷君、夜おそく富田碎花

三月十日
 午前に宮崎君から久しぶりの手紙とかねが二十円来た
 小田島孤舟君からお見舞三円
 午後から突然金田一君が来て長く遊んで行つた

三月十一日
 十一時頃に佐藤さんが、社の皆からの見舞金八十円持つて来て下すつた
 この日初めて朝に三十七度以下に熱が下がつたが、午後にはまた八度近くのぼつた。

三月十二日
 社へ礼状をかいて送つた。
 それから久しく中絶してゐた歌壇の原稿も。
 この日医者が初めて、少し位は物をかいてもいいと言つてくれたが、さて起直つて書いてみると、歌壇の原稿を三日分清書しただけですつかり疲れてしまつた。二週間の熱は予の体内の元気を燃やしつくしたと見える。
 夕方に丸谷君が函館の阿部君といふ人をつれて来て、土岐へやる投書類を持つて行つてくれた。阿部からアンズの缶詰を見舞にもらつた。

三月十三日
 熱は昨日も今日も七度台にゐる。今日から便所へあるいてゆくことにした。廊下から見ると青い芽を出した木がある。桜の蕾もふくらんでゐる。顔にあたる風も何となくもう春だ。
 春だといふ感じは病人の心をいたませた。
 夏目氏の「猫」をよんでひまをつぶした。
 医者に早く退院したいといふと、もう少し我慢したまへと言つた。
[受信欄]安藤氏、江南君、平井武君

三月十四日
 二十日ぶり許りで湯に入つて熱が出た

三月十五日
 午前並木君来る
 午後退院

三月十六日
 天気悪し
 午前は土岐君来てくれて少し元気出しが午後は発熱、不快

三月十七日
 雪雨ふる
 午後発熱不快

三月十八日
 午後に江南君来る
 夜精神修養社より百目木見舞に来る(二円)丸谷君も来る
 やはり三十八度の熱出づ

三月二十二日
 午前に土岐君来る 三十円渡す
 病院に行つて見て貰ふ、肋膜の水殆どなし

三月二十三日
[発信欄]佐藤さんへ手紙

三月二十四日
 発熱予防の心配ばかりしてゐる
[発信欄]酒井学士、荻原、土岐、若山へハガキ 西川氏へ
[受信欄]谷

三月二十五日
 丸谷君から二円五十銭見舞を貰つた。

三月二十六日
 酒井氏から熱の処方を送つて来た。
[受信欄]酒井氏より

三月二十七日
 天気のいい、温かな日であつた。
 午前に丸谷君が発送台帳をこしらへて来てくれた。さうしてゐると土岐君が来た。雑誌の方、東洋印刷が駄目で他のケチな印刷所へ頼んだ所が、組方があまりひどいので喧嘩をして原稿を取上げた、さてその跡仕末がつかぬといつて大にしよげてゐた。そんなら十日発行にしようと予はいつた。さうして発病以来初めての散歩を二君と試みた。三丁目のイロハで牛飯をくつて帰つた。土岐君は豆をかつて来た。

三月二十八日
 退院以来はじめて湯にゆく。
 この夜土岐君の宅にて同人の小集ありたる筈
[受信欄]荻原井泉水君より

三月二十九日
 不愉快なる日なりき。
 夜、眠られぬくせがついた。

三月三十日
 午後に丸谷君が来た。一しよに散歩に出て青木堂でココアを飲んだ。桜はもう殆んど満開だ。夕方に椿の花を買つて帰つた。さうして夕飯をくつてゐると並木君が初めて洋服を着て来た。
 朝日歌壇を少し選んだ。
 夜また眠られなかつた。

四月一日
 妻が社へ行つて金を受取つて来た。
 朝日歌壇五日分送る。

四月二日
 朝には莫迦に寒かつたが、午後には暖かくなつた。新聞には花の噂と飛行機の話が出てゐた。
 午後に並木君が来た。それに気を励まされて、二人俥を列ねて上野へ花見に行つた。花は木といふ木に皆よく咲いてゐたが、何となく寂しい色に見えた。山下で牛鍋をつついてまた待たしてあつた俥で帰つた。
 さうして丸谷君を呼んで、三人で夜八時過ぎまで話した。

四月七日 晴 暖
 午前に土岐君が来て、三正舎もダメだ、今日初めて一頁から八頁までの初校が来た、それで明日の正午までに出すといふ約束だと言つた。「もう雑誌はこの儘出さずに止めようぢやないか?」これが彼の言葉であつた。牛飯をくつて一しよに丸谷君を訪ねた。するとすぐ俥が迎へに来たので帰つてみると、十何年振で釜石の工藤大助さんが来てゐた。ビールをのましてゐると、やがてまた土岐君と丸谷君が来た。夕方三人で出かけて初めて電車にのつて浅草に行き、米久といふ牛屋に入つてひどい目にあつた。予の病後の心はとてもあの雑沓に堪へなかつた。一刻も早く浅草を逃げ出したい! さう言つて早速帰つて来た。丸谷君と茶をのんでやうやく落ちついた。

四月八日
 今日は体温三十六度五分――七度二分だつた。発熱以来最も成績のいい日であつた。しかし昨日一日寝なかつたので何となくからだがだるかつた。
 雑誌をよんだ。

四月九日
 筋向ひの家の桜の花が風に散つて、家の前まで飛んで来た。バルコンに含嗽をしてゐると、妙に風があたたかかつた。
 午後に丸谷君と並木君が来た。並木君の持つて来た土岐君の伝言によると、雑誌は明日中に全部出来ると印刷所で言つてるさうである。並木君が行つて部数三百にへらし、五百部割の単価にまけさせることにしたさうである。「今度出来なければ断然やめる」と土岐君が言つてるさうである。

四月十日
 病院に行つて診察して貰つた。エクス光線でも見られた。腹の塗薬はもういらぬさうである。それから熱の薬もやめてみろと医者が言つた。ラツセルももう聞えない。ただX光線で見たところでは、右肺がまだ暗く、且つ肋膜炎を起した部分の膜がまだ厚いさうである。二週間たつたらまた来いと医者が言つた。
 梅の鉢の青葉を卓上におく。

四月十一日
 曇、雨。
 午後、どうも一人でボンヤリしてゐるのが辛くなつて、丸谷君を訪問した。夕方までゐたが別に大した話もなかつた。五時に一しよに出て丸谷君は土岐に電話をかけに三丁目へ行つたが、駄目だつたと言つて来た。一しよに晩餐を食ふ。
 雑誌の催促と投書がドシドシ来る。
 今日からピラミドンをやめた。

四月十二日
 雑誌のことが気にかかつて何も出来ない。いくら感情をしづめても(初号は土岐一人にやつて貰つたから何も言ふまいと思つてゐた。)やはり不平が起つて来る。午後三時頃になつて土岐からハガキが来た。十五日朝に出来るさうである。印刷所の主人が可哀さうだからやらせることにしたとかいてあつた。さうして部数は三百五十なさうである。

四月十三日
 この頃どうしたものか日が不愉快に過ぎる。午後にブラリと出て丸谷君をたづねたが不在だつた。
 夜に並木君が来た。函館の火事の話などが出た。明日三正舎へ行つてみて若し雑誌が出来ずにゐたら金と原稿を取返して来ると並木君が言つてゐた。「土岐君に任せておいたらどうだ」と予は言つた。「併しその責任と損とが此方へかぶさつて来るんだから、うつちやつてはおけない」と並木君が言つた。それもさうだ。

四月十四日 晴
 午後に散歩に出たついでに、金矢君の居所を問合すべく板垣君の住所を聞かうと思つて水道のうらの芋屋の土蔵に小山君の細君おしげさんを訪ねた。小説を書きたいが書けないといふ話が出た。
 夜に菊坂の本屋の主人が来た。

四月十五日
 丸谷君が来た。

四月十六日
 朝に並木君が来た。昨日金をとりに三正舎へ行つたら、主人が土岐君へ泣きついたと見えて、またやらしてくれと言つてゐた。それで金は受取らずに来たと言つて原稿のアトの方の分だけ持つて来た。まだ三十頁も残つてるさうである。そこで相談の結果契約破棄のハガキを三正舎に出し、同時にそれを土岐君に通知した。
 すると午後になつて土岐君が来た。神経衰弱だとかいふ。新聞半頁型十二頁に縮小することにし発行日を来月一日とすることにきめて一しよに夕めしをくつた。

四月十七日
 朝から疳癪が起つてしやうがない。雑誌をやめてしまはふと思つて夜に丸谷君に来て貰つて話した。理由の第一は雑誌が今やその最初の目的をはなれて全く一個の小さい歌の雑誌にすぎぬことになつたといふ事――

四月十八日
 雑誌をやめようといふ手紙を午後に土岐君に出した。するとその手紙とかけちがひに土岐君が来た。そこで話をして遂にやめることにした。
 話はごく簡単であつた。やめようぢやないかといふと一寸怪訝なかほをしたつけが、やめようかといふ。それでもまだ未練があるらしく何度もまた言ひ出したが、予はやめようやめようともみ消してしまつた。

四月十九日
 今日は一日古日記や詩稿をしらべた。色々の忘れてゐることが思出されてうれしくもあればかなしくもあつた。

四月二十日
 夜丸谷君と並木君が来た。三正舎からはまだ金がとれぬさうである。
 丸谷君と無政府主義の事に関して議論をした。

四月二十一日
 夜上田の祖母(妻の)死去の通知来る。
 社の関の奴が来た。今日も一つやつつけてやつた。

四月二十二日
 前夜予の羽織を質入して得たる五金のうちより二円だけお香奠として盛岡加藤家に送る。
 この頃はどうもまた不愉快な気持がつづく。その理由が予自身には解りすぎるほど解つてるのだが、然しなるべくそれを考へたくない。金! 生活の不安がどれだけ残酷なものかは友達は知るまい。
 毎日平民新聞やその後のあの派の出版物をしらべてゐる。

四月二十三日
 田村いねから東京へ来たといふ葉書が来た。明日午前に来いといふ返事を出した。
 今日は少し熱が高い。もう一ヶ月ばかりの間、朝は殆ど平温、昼からだんだん上つて夜は七度六七分といふ平均だつたが今朝は七度二分、午後三時には七度八分、これでは八度になると思つたからキナエンを一服のんだ。

四月二十四日
 午前に早くいねが、同居してる家の神さんと一しよに訪ねて来た。もう二十歳だといふ。北海道にゐた時持つた夫が東京へ来てゐて、今度旅費を送つたから出て来たのだといふ。背が低くて色が黒い。
 甥の耕次郎がもう十八になつてセンバン工になつてゐるといふ。
 今日も熱が昨日と同じ位。
 平民新聞にあつたト翁の日露戦争論を写し出す。

四月二十五日
 今日は割合に熱が低かつたけれども三十七度五分まで上つた。退院以来もう四十日になるのにまだ全快しないとはどうしたことだらう。さうして予の前にはもう饑餓の恐怖が迫りつつある!
 起きてはト翁の論文を写し、寝ては金の事を考へた。もう今度の一日には社からの前借も出来さうにない。
 トルストイが科学を知らなかつた――否、嫌つたといふのは、蓋し彼をして偉大ならしめた第一の原因であらう、と共に、彼の思想の第一の弱点も亦そこにある
 夜に丸谷君が来た。宮崎君が盛岡まで来たことをきいた。予の所へはハガキも寄起さなかつた。

四月二十六日
 夜に、丸谷君から借りた中央公論の藤村の「犠牲」をよんで、しんみりした気持になつた。どの人もどの人も私にはなつかしく思はれる。さうして主人公の嫉妬!
 底の知れない、一生免れることの出来ないやうな悲しみが胸に一杯だつた。

四月二十七日
 昨夜は二時半頃まで眠れなくて弱つた。
 頭の中に大きな問題が一つある。それを考へたくない。何とかしてその昔からの問題、一生つづきさうな問題を忘れたい。――かういふ気分で予はト翁の論文を写したり独逸語をやつたりしてゐる。
 夜にせつ子がチユリツプとフレヂヤの花を買つて来た。
 土岐君へ手紙出した。

四月二十九日
 午前に宮崎君から書留郵便が来た。十五円入つてゐた。思ひがけなかつた。「苦しい」と彼は言つてゐる。「然しこの苦しみを人に知らせたくない、人間といふものは人を進んで圧倒するものでなくて、人が弱味を示した時に皆で其奴をいぢめるものだ」返事をかきかけてやめた。
 英語、独逸語、写字。

四月三十日
 今日は一日宮崎君への手紙をかいたが、とうとう完成せずに夜になつた。

五月一日
 昨日書きかけたのを完成して長い手紙を宮崎君に送つた。予はこの手紙の中に我々の苦しみについて書いた、雑誌をやめるに至つたプロセスを詳しく書いた、予の病気のことを書いた。
 午後に土岐君が来た。土岐君は日本に人物がない、それが心配だとほんとに心配さうな顔をして言つた。二人は隠遁といふことを語つた。「僕は何よりも金がほしい。そしてその金を持つて隠遁したい」さう僕は言つた。雑誌の金をおいて行つた。
 夜には若山君が来て十時近くまで話して行つた。若山君は誰にも愛される目をしてゐる。ミミズの話をきいた。

五月二日
 今朝またヒヨイと書きたくなつて宮崎君へ手紙をかいた。その中に予はトルストイを読むことを彼にすすめた。
 午後に社の山田翁が卵をもつて見舞に来てくれた。今度ゆつくり休んで充分直しなさいと言つてゐた。
 夜に並木君が来て、一晩どまりに三里塚の牧場へ行つた話をした。三正舎の金はまだとれないさうである。
 予は今日トルストイの日露戦争論を写し了つた。これが予の病気になつて以来初めて完成した仕事である。

五月三日
 朝に早く井田廣といふ若い歌人が来た。父が怒つて母を擲つた。私は何年振りに父の怒るのを見た。それはかなしいことであつた。
 午後に妻を社に前借のためやつた。その留守に佐藤さんが態々見舞に来て下すつた。

五月七日
 この間から妙に予の考へは行き詰つてしまつて、十日もその余も苦しんでゐたが、今日ひよいと「理性主義」といふことを考へた。さうして少し頭が軽くなつた。
 それは然し決して新しい途ではなかつた。言論の自由のない日本に於ては、かうした名の下に一の道徳的運動を起したらどうだらうといふに過ぎなかつた。「理性主義(新道徳の基礎)」かういふ本をかくことを空想した。実際我々のすべてはすでに理性主義者なのだから、かういふ名をこしらへたところで別に無理はないのである。
 それから岩手県にかへつて「農民の友」といふ週刊新聞を起すことを想像した。

五月八日
 そろそろ病院に行つてみなければならぬ頃になつたので、雑誌の金を借りて羽織を質屋から出さした。
 土岐君が来た。

五月十日
 今日は今年になつてからの一番暑い日であつた。午後に思ひ切つて病院に行つた。肋膜炎のあとはまだ癒らぬが肺は安全だ、神経衰弱にかかつてゐるといふことであつた。さうして新しい水薬の処方と更に一ヶ月間静養を要すとの診断書をかいてくれた――酒井繁学士が。
 夜に丸谷君が来た。理性主義のことを語つた。

五月十一日
 午前に佐藤さんへ手紙をかいて診断書を送つた。
 丸谷君が来たので、かねてあづかつてある雑誌の前金を返した。
 羽織を四円五十銭に質入さした。

五月十二日
 今日は胸に多少の異状を覚えて一日殆ど寝て暮らした。そのかはりクロポトキンの自伝を、拘引された処から脱獄して英吉利へ行つたところまで読んだ。妙にいろいろのことが考えられた。

五月十三日
 気分がよかつたので午前に湯に行つた。
 何も手につかぬ日であつた。ただ金がほしい。色々の空想に耽つて時間を消した。

五月二十七日
 三正舎より小松なる代人来り例の金半分にまけてくれといふ。十五円にまけ二十九日に持つて来ることにす

五月二十八日
 朝三正舎より前日の旨承諾を言ひこせり

五月二十九日
 三正舎より金来らず、夕方明日まで待つてくれといひ来れり

五月三十日
 三正舎より遂に来らず
 せつ子二三日前より腹いたしとて寝てゐる。盛岡より手紙来る。家を売払つて函館にゆく由

五月三十一日
 荻原君より原稿催促のハガキ、新日本の楠山正雄君よりも原稿たのまる


六月一日
 せつ子を社にやり、月給前借す。(かへりにおしげさんと電車にて一しよになり一寸寄つて来たさうだ。後にてきけばこの時五円かりる約束をして来たといふ)

六月三日
 夜、せつ子が質屋の利子を払ふといつて出て行つてすぐ帰り来り、今出がけにたかより手紙来り帰れといつて来たがいかにすべきかといふ。封入して来た五円紙幣は持つて来たがその手紙はなくしたといふ。
 予はその手紙を疑はざるを得なかつた。帰るなら京をつれずに一人かへれと言つた。

六月四日
 朝にまたせつ子が「私を信じてやつてくれ」といつた。京をつれてゆくといふ、つれてゆくなといふ。遂に予はそんなら京の母たる権利を捨て、一生帰らぬつもりで行けといつた。するとせつ子は、実は昨夜手紙が来たといつたのはウソで、金はおしげさんから借りたのだ、行つて家を売つた金のうちから少し借りて来、さうして引越をしようと思つたのだといつた。
 予は予の妻が予を計略を以て欺かんとした事を許すことが出来なかつた。離縁を申渡した。然し出てゆかなかつた。かくて二人の関係は今や全く互ひの生活の方法たるに過ぎなくなつた。
 五円の金は夜にかへして来させた。

六月五日
 予は予の生活のとつて来たプロセスを考へて、深い穴に一足一足落ちてゆくやうに感じた。しかしそれはもう不安ではなかつた。必致である。必然である。
 北輝次郎の「純正社会主義の哲学」を読んだ。
 夕方にせつ子にたか発の電報が来た「アイタシスグコイヘンマツ」争論がまた二人の間に起つた。予はたか子にあてて手紙をかいた。せつ子には今後直接の文通を禁じもう二人を同等の権利に置くことが出来ないと言ひ渡した。
 たか子に送れる手紙の要旨は、五月二十九日附のたか子よりせつ子あての手紙(以外)に文通の有無、去る二日附のせつ子のたか子宛手紙以後文通の有無、今日の電報の意味、以上三点に答弁を求め、猶二日附せつ子の手紙の返附と今後せつ子に直接文通せざることとの二点を要求したものである。

六月六日
 予はまた今日も不幸に暮らさねばならなかつたことを悲しく思ふ。午前十一時頃にたか子からせつ子宛「○ヤツタスグコイヘンマツ」といふ電報が来、一時間許り経て電報為替五円届いた。予はせつ子に返電を禁じ、その為替は真砂町局へせつ子をやつて直ぐ小為替に組替へさした。それ前郵便局へ行く時、財布を出せといつたら、一寸ここに置いた筈なのが見えぬといふ、それまた「見えぬ」か、それではまた何か隠して置くことがあるかも知れぬから是非探せと言つたら、せつ子は気狂ひになるやうだといつて泣きわめいた。
 予は手紙をかいてそれに小為替五円を封入してたか子に送つた。それに電報の件を問責し、若しそつちで自分の妻に親権を行はうとするならそれは自分の家庭組織の観念と氷炭容れぬものだから離婚するとまで書いた。
 いね子が三時頃から来て夕飯をくつて行つた。

七月一日
 創作に「はてしなき議論の後」(詩)新日本、層雲、文章世界に歌載る。

七月三日
 土岐君来る、夜富田砕花君来る。
 富田君曰く、「握りしめたる拳に卓をたたくものここにあり」十一時まで語る

七月四日
 発熱三十八度五分、近所の医師有賀を呼ぶ 代診下平来る

七月十一日
 夜森田草平君来り、幸徳のことを語り十一時半に至る

七月十二日
 発熱四十度三分
 下平来る
  この日以後約一週間全く氷嚢のお蔭にていのちをつなぐ。食欲全くなし
  宮崎君に打電

七月十三日
 宮崎君より十五円電為替来る

七月十四日
 せつ子も健康を害し咳す、血色悪し
 下平の診察にて気管及び胃腸悪しといふことになり、服薬す

七月十七日
 工藤大助より電為替十円見舞来る

七月十八日
 名古屋の妹光子朝に来り、正午北海道に向つて去る

七月二十七日
 せつ子容体漸く悪し、本日大学病院外来にて見てもらひ左の肺少し悪しとの診察をうけ来る(三浦内科)
 宮崎君に手紙かく
 予は今も猶寝てゐる也

七月二十八日
 せつ子青山内科の有馬学士の診察をうけ肺尖加答児と診察さる、処方は三浦内科のと同じ、伝染の危険ありと認めらる。


八月一日
 せつ子病をおして社にゆき、前借し、協信会の方をやめることにし借金全部掛金とひきかへに払ひ来る。

八月二日
 宮崎君より電為替四十円来る
 この頃せつ子は寝たり起きたり故炊事万端老母の役目なり老体にて二階の上り下り気の毒なり

八月五日
 せつ子小石川へ行きて家をみつけて来る
 益の助来る
[欄外記載]晴れなれど曇りの如き天日なり

八月六日
 下の新井の世話にて山幡文次郎より二十円借る。期限十二月限り、利子年三割。
 新井にては明日引越に付先月分及今月分の家賃をまけてくれる事になりたり
 我が寝てゐる間に荷物大方出来たり。

八月七日
 本日本郷弓町二ノ十八新井方より小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す。予は午前中荷物だらけの室の隅の畳に寝てゐ、十一時俥にて新居に入りすぐまた横になりたり。いねにすけらる。
 門構へ、玄関の三畳、八畳、六畳、外に勝手。庭あり、附近に木多し。夜は立木の上にまともに月出でたり

八月九日
 豪雨あり。

八月十日
 市内出水の号外出づ。
 夕方、先月旭川に行きたる光子来る。

八月十一日
 夜、森田草平君来り、夏目夫人鏡子氏及び君の名にて見舞七円。

八月十二日
 宮崎君より手紙、返事書く。
 谷静湖より手紙、返事書く。
 夜せつ子の咳の薬を買ひに初めて電車通りに出で、椅子を三十五銭に買ひ来る。
 この日より光子炊事一切の任に当る。せつ子容体少し悪し。

八月十六日
 今夜より電燈つく。

八月十七日
 夜並木君来る。この家の店受けの保証人になりて貰ふ。

八月二十日
 日曜なれば妹は教会に行けり。
 予の病状やうやくよし。発熱三十七度五分以上にのぼらず。

八月二十一日
 歌十七首を作つて夜「詩歌」の前田夕暮に送る。
 朝に秋が来たかと思ふ程涼しかりき。
    何がなしに
    肺の小さくなれる如く思ひて起きぬ
     秋近き朝
 妻の容態も漸くよし

九月二日
 夕方隣りの小峯の細君目の色を変へて来る。京のいたづらの尻を持ち来れるなり。
 京を叱り、晩餐は皆の喫し了るまで待てと命ず。父故なくして之を遮らんとす。予怒り、飯茶碗を投じて立つ。
 八時頃一人外出して蕎麦を食ひ麦酒をのみて来る。

九月三日
 妹は教会にゆき、妻も母も寝てゐた。十時頃土岐君が来て十二時少し前に帰つた。その時父はもうゐなかつた。待つても待つても帰らなかつた。調べると単衣二枚袷二枚の外に帽子、煙草入、光子の金一円五十銭、家計の方の金五十銭だけ不足してゐた。その外にいくらか持つていたかも知れない。
 父は今迄にも何度もその素振りのあつた家出をとうとう決行した。何処へといふあてのあらう筈はないが、多分小坂の田村へ行つたものかと家の者は想像した。
 眠られない夜であつた。体温三十七度八分。

十月二十一日
 終日寒い雨。

十月二十八日 (※この日から十月三十一日までローマ字で記述)
 『女に読ませる週刊新聞を出したい!』これがわたしのこのごろの空想の題目である。

十月二十九日 (※ローマ字)
 朝に光子から手紙が来た。着物を送らなかつたのは悪い、しかし仕方がなかつたのだ。不愉快な気持で返事を書いた。
 午後、丸谷が来て二時間ばかりもいろいろの世間話をした。久し振りの来客だつた。ふたりの心は、一層近づきべきような機会からかえつて離れた。あたらずさわらずの話の中から、「女というものは度し難いものだ」という言葉がわたしの心に残つた。
 光子の教師、鳥羽ふき子という人から、なにか見舞の品を送つたという丁寧な手紙が来た。

十月三十日 (※ローマ字)
 あさつてが大掃除だというので、今日午前のうちに畳を縁側に持ち出して、埃をたたいた。疲れて身体の方々が痛み、午後になつたら三十七度、八五の熱が出た。
 机の位置を障子の前から西側の小窓のところへ移した。何となく、部屋が新しく、広くなつたようで、気持がよい。大掃除! 大掃除! こんなことを思つた。わたしもわたし自身の大掃除をやらなければならないのだが……
 日が暮れて間もなく、高等師範の提灯行列を見るといつて節子が母と京子を連れて出て行つたが、雨が降つて来たので傘をもつて迎いに行つた。

十月三十一日 (※ローマ字)
 こないだ中、胸の痛かつたのはなおつてしまつたが、咳だけはやつぱり出る。もつとも胸にひびくことはさほどでなくなつた。
 さびしい晦日! 節子は病院にいつた帰りに、傘を質屋において五十銭借りて来た。わたしは今日は何となく不愉快であつた。
 節子も胸が悪い(それがこの二、三日よかつた)といつて寝ていた。夜、まだ九時になつたか、ならぬかのころにもう寝てしまつた。


十一月一日
 午後せつ子が社に行つて来た。前借二十七円。今月は佐藤氏へ返金するのをのばして貰つた。それでも足らないのでいろいろの払ひも十五日まで延期。
 光子の着物をやうやう質屋から出して小包にして出す。

十一月三日
 せつ子は病院に行つて来た。
 今日は天気も可かつたし、朝から気分がよい積りで、椽へ出て、恰度予の家の庭の隅に設けることになつた共同水道の工事などを見てゐたが、午後になつて、綿入に羽織まで着た背が寒気がし出した。三十八度まで発熱。日のくれるまでぢつと寝てゐた。
 大阪の清水君から松茸をどつさり送つて来た。近所へも分けてやつた。
 夜、岩手毎日の社説「平民のための文明」をよんで急に岡山君にあてた公開的の手紙がかきたくなり、行火にあたりながら書きかけた。
 内海信之より詩集送り来る

十一月四日
 この八日には与謝野氏がいよいよ渡欧するといふので、今日見送りの出来ない詫の手紙をやつた。
 大阪の清水にも礼状。
 夜また三十八度までの発熱。

十一月五日
 朝から気分がすぐれなかつたが、午後になつてとうとう三十八度七分までの発熱。寝てくらした。
 夜には少し下つたので、岡山君への手紙を改めて書き出してみた。

十一月六日
 名古屋の鳥羽ふき子氏から小包。京子への西洋人形と林檎飴。
 土岐君が耳の後のおできを切つたのだと言つて頭に包帯して来た。久しぶりだつた。一しよに昼飯をくつて話した、が大した話もなかつた。歌集は東雲堂が失敬な事を言つたので出せさうがないといふ事だつた。さうして帰る頃になつて、実は今朝女房と喧嘩して、女房が子供をつれて出て行つたからおれも出て来たのだと話した。

十一月九日
 この数日妻がまた少し悪い。予も。

十一月十日
 この頃予は毎日岡山君へやるべき手紙「平信」を書いてゐる。しかしそれが、実に情けなくなる位書けない。これ位根気がなくなつたかと思ふ。夜眠つてゐる時は唸つてゐるさうだ。
 午後にミス・サンダーといふ四十位の女と、これ前来た田部とかいふバイブルウーマンとが来た。房州の病院へ行かないかといふことを勧めるためだつた。さうしてミスサンダーはこなれない日本語で熱心にクリスト教の事を説いた。面白くもあつたし、可笑しくもあつた。
      ――――――――――――――
 夕方、三月振りで並木が来た。支那の騒ぎで直接間接大分損をしたと話してゐた。予は支那分割論をといた。満州だけを満朝にくれてアトは共和国にさせようといふのだ。

十一月十一日
 佐藤さんから葉書が来た。二葉亭全集は今度から西本波太といふ人にやらせる事になつたから、その人が行つたら預つてゐる原稿を渡してくれと。

十一月十二日
 午後に丸谷君が来た。一しよに夕めしをくつて三時間の余も話した。彼は今では、社会主義は到底実行されないと信ずると言つた。二人は議論した。笑つた。さうして二人の何となくこの三四ヶ月間よりも近づいた事を感じた。予は彼が国家社会主義者たるに止まつた事を、彼としては当然の事と思ふ。
 彼はまた言つた。「どうだ、それでは一つ君の所信を確かめるために根本的な研究をしては」と。予は答へた。「僕は資本なしに出来る事なら今でもやつてゐる。しかし本を買ふ資本がない。」

十一月十三日
 十五日までと言つて延しておいた払ひの事が気になつた。今日は何だか加減がよくないので多く寝ていた。
 夜には著作をしたいといふ心が強かつた。

十一月十五日
 払ひはまた延期。

十一月十六日
 今日は妻が病院に行つて、大分いいやうだと言はれたと言つて帰つて来た。眼にツベルクリンの注射をして来たが何の反応もなかつた。
 妻の注射は新聞にあつた最新無蛋白質ツベルクリンかと思つてゐたが、ロウゼンバッハのツベルクリンと言つて別なものな事が解つた。

十一月十七日
 綿入を着てゐては汗が出る程あたたかな日であつたが、からだが何だかだるくて午後には七度八分まで発熱した。
 先月からかかつて写してゐたクロポトキンの「ロシヤの恐怖」を写してしまつたので、製本した。
 何度も何度もそれを手にとつて眺めながら、予は悲しかつた。こんな事をして暇つぶしをせねばならぬ現在の状態を考へて。

十一月十八日
 今日もあたたかかつた。
 何といふつまらない生活だらう。岡山君に与ふる書も書きかけたまま(五六回分)になつてゐる。何もする事がない。何もする事が出来ない。随つて何もしないで日を送つてゐる――

十一月十九日
 急に寒くなつたので、朝から行火をしてあたつた。気分が悪かつた。時々時雨のやうな雨の降る音がした。夜は頭がいたかつた。

十一月二十一日
 三十七度八分まで発熱。
 寝てくらす。

十一月二十二日
 朝に佐藤さんより葉書。二葉亭全集の事だつた。それによつて池辺氏へ手紙書く。
 三十八度三分まで発熱。
 午後は死んだやうにぢつと寝てゐた。

十一月二十三日
 昨日かいた池辺氏への手紙と共に佐藤氏へ葉書。
 今日も三十七度八分まで発熱。寝る。

十一月二十四日
 古本やを呼んで古雑誌をうる。五十銭
 三十七度八分 寝てくらす

十一月二十五日
 三十七度六分。
 小村前外相病篤しとの号外。予と同じ病気なりしならむ。
 気分わるし。

十一月二十六日
 気分わるし。三十七度八分。
 風の音騒し。
 この頃は毎日ただ金持になつた時の夢を見てくらす。寝てゐてからだのあまる事此上なし。
 小村遂に死すとの号外。帝国遂に支那へ出兵す。

十一月二十七日
 朝、丸谷君に手紙をやつたところが、夜に来て十円貸してくれた。

十二月一日
 妻が社に行つて二十七円前借して来た。
 その留守に西本波太氏が二葉亭全集の原稿受取に来た。恰度行火をしてあたつてゐたつた所だつたので、それを次の間へやつて逢つたが、その時風邪をひいたとみえて、夜になると喉がいたみ、咳が出て弱つた。

十二月二日
 払ひは滅茶苦茶、家賃ものばしたが、それでも丸谷君へ返すのが足らなくなつて、五円だけ手紙に封じて送つた。
 隣家の児嶋さんで赤ん坊が生れた。朝から人の出入が多いので、妻としてさうぢやないだらうかと話してゐたところが、ギヤアギヤアといふ赤児の泣声がきこえた。女ださうだ。

十二月三日
 咳が出、喉がいたみ、さうして気分が悪くて寝てゐた。

十二月四日
 児嶋さんへ卵子を産見舞。
 小樽の佐田庸則から集金郵便で旧債六円の取立が来た。手紙をかいた。三月まで延期。

十二月二十六日
 賞与二十円、前借二十七円、せつ子行つて受取つて来る。

十二月三十一日
 残金一円十三銭五厘
 今日は面倒なかけとりは私が出て申訳をした。
 夕方が八度二分
 百八の鐘をきいて寝る。


東京市外代々木一三三   田山録弥
本郷、駒込動坂町三五四  後藤寅之助
牛込、若宮町一〇、    弓館芳夫
牛込、新小川町二ノ二   西村真次
市外西大久保二〇一    前田夕暮
京橋新富町七ノ九鈴木方 京、一二四四  北原白秋
小石川、白山御殿町一〇九、斉藤方    太田正雄
淀橋町字角筈七二五    吉井勇
麹町、中六番町十、    与謝野寛
本郷、千駄木町二一、   森林太郎
小石川指ケ谷町七八、   姉崎正治
品川、北品川東海寺跡   尾崎行雄
本郷千駄木林町二〇〇   西川光次郎
遠野土崎村        佐々木繁
牛込、矢来町十二、    山辺英太郎
深川、伊澤町一、     川上賢三
青山原宿二〇四      阿部直道
牛込、赤城元町三六    中島茂一
神田、中猿楽町二〇    藤田四郎
千駄ヶ谷五七九、青戸方  荒木龍政
本郷、真砂町二五、    市川七作
(小石川久堅町百〇八 博文館印刷所)
神田、小川町一      佐々木信綱
神田、北神保町二 本、四二六四 平出修
小石川、高田豊川町二八  相馬御風
牛込、矢来六二、     森田草平
牛込、大久保余丁町    永井壮吉
麹町、有楽町報知社    安村省三
牛込、薬王寺前町七一、  島村抱月
京橋、南伝馬町三ノ十、京、一六三九 西村辰五郎
浅草、新片町一、     島崎春樹
本郷、弥生町三      栗原元吉
赤坂、青山南町六ノ三〇  徳富猪一郎
豊多摩、中野町字中野桐ケ谷、石森邸内  蒲浦隼雄
浅草、橋場町一〇三、   安藤嶺丸
牛込、砂土原町二ノ六、  内田貢
下谷池之端七軒町三    中村唯一
本郷、森川町、新坂三五七、 金田一京助
豊多摩郡巣鴨町二ノ三五  並木武雄
本郷駒込動坂町一二二浅野方  丸谷喜市
             川久保安太郎
芝、浜松町一ノ十五    土岐善麿
本郷、西片町十、にの二号  又木亨三
日本橋、大伝馬町二ノ二九  高田良助
麹町、下六番町十七    阿部康蔵
芝公園五ノ十三、高橋光威方  花田百太郎
麻布、新堀町三      荻原藤吉(井泉水)
牛込区若松町五九淺川信方方  矢口達
淀橋柏木九四土屋方    若山繁
牛込横寺町三六      佐藤緑葉
下渋谷          富田砕花
             楠山正雄
ハリ磨、揖保郡揖西村   内海信之
盛岡川原町四       大信田落花
大阪西区花園橋西詰 紀伊国屋ゴフク店内 清水茂八
見前村清水寺       千葉翠嵐
柏木一一八        井田廣
             秋濱融三
             若山繁
             新井弁治
             酒井繁
             有馬英二


             西川繁治
赤坂青山南町五ノ五    松崎市郎(天民)
             佐藤真一
             弓削田精一
             松山忠二郎
             米田實
             池辺吉太郎
             西岡雄証
             田中猶太郎
             加藤四郎
             渋川柳次郎
             杉村広太郎
             山口善助
             上野精一
             安藤正純
             谷口徳次郎
早稲田南町七       夏目金之助


札幌区、北一、西十三ノ一  大島経男
石狩、空知郡北村第二区、北村農牧場事務所  北村智恵
札幌区北七、西四ノ一    坂牛祐直
小樽区、真栄町三九、白鳥方 桜庭ちか
釧路町天寧         吉野章三
函館区、青柳町三六     岩崎正
小樽、港町小樽新聞社内   本田龍(荊南)
小樽区、花園町十三、    澤田信太郎
小樽区、南浜町六ノ一 旭川歩兵二十六レンタイ第二中隊第五班 高田治作
小樽区南浜町、濱名方    藤田武治
小樽区花園町十四、     佐田庸則
函館区東浜町三二      斉藤哲郎
札幌区北八、西五ノ一    向井永太郎
小樽区稲穂町畑十四、    上田重良
室蘭町札幌通山中事む所   岩本實
              坪仁


岩手県二戸郡浄法寺村    小田島孤舟
岩手郡玉山村        岩本武登
同  渋民村        斉藤佐蔵
同  同          立花良吉
同  同          伊五沢丑松
同  同          金矢光春
同  平笠村        秋濱市郎
同  大更村        工藤寛得
同  巻堀村好摩      高橋兵庫
二戸郡姉帯村        千葉翠嵐
九戸郡葛巻尋常高等小学校  佐藤熊太郎
二戸郡浄法寺村       高野俊治
下閉伊、鍬ケ崎町      道又金吾
              畠山享
盛岡市餌差小路二〇     清岡等
同  加賀野        大矢馬太郎
同  新小路        福士政吉
同  内加賀野       岡山儀七
同  馬町         新渡戸仙岳
宮古            小国善平
盛岡六日町三七、小原方   吉川滴泉


横浜市西戸部町山王山    小島久太
大坂中の島朝日社      倉光昇三
栃木、上都賀、足尾町本山役宅第三号  山崎廉平
大阪、東区下味原町九十八  渡邊源三
郡馬、郡馬郡佐野村下中居  佐藤良助
静岡市、寺町二ノ三〇 民友新聞社  伊東圭一郎
京城旭町一ノ二百十一    酒井才二郎
遠江浜松町元城九二     加藤孫平
埼玉、児玉郡長幡村薄木戸  谷静湖
              瀬川深


(※明治四十四年当用日記 終り)
千九百十二年日記に続きます。


ページトップ

石川啄木 啄木日記