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(題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑) | ||||||||||||||||||||||||||||||
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明治四十二年日誌 ![]() 石川啄木 啄木日記 石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。 発行所:株式会社岩波書店 書 名:啄木全集 全17冊のうち、第15集 発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷 なお、筑摩書房版全集と照合し、不突合の場合は調査、不明の場合は筑摩版を採用しました。 原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。 ![]() ![]() このあと、ローマ字日記に移行します。 ![]() 明治四十二年日誌 当用日誌 一月一日 晴曇 寒 今日から二十四歳。 前夜子の刻すぎて百八の鐘の鳴り出した頃から平野君と本郷の通りを散歩し、トある割烹店で食つて二時頃帰宿、それから室の中をかたづけて、寝たのは四時近くだつたから、目をさましたのは九時過。 空は朗らかに晴れわたつていたが、一杯の酒に雑煮、年始状を見て金田一君の室に行つてゐると、三階をゆすぶつて強い風が起つた。そしてチラチラと三分間許り雪が落ちた。 満都の士女は晴衣を飾つて巷に春を追ふた事であらう。予は一人室に籠つて北海の母に長い手紙を認めた。予は其手紙に、今年が予の一生にとつて最も大事な年――一生の生活の基礎を作るべき年であるとかいた。そして正月の小遣二円だけ封じた。 三時半頃になつて出かけた。空は曇つてゐて、風つよく、寒い。廻礼の人々が電車に溢れた。予は何がなしに浮世の春が自分一人をのけ者にしてるといふ様な感じにうたれた。千駄ヶ谷に与謝野氏を訪ふ。間島長島の二君がゐた。屠蘇、夕飯。与謝野氏はスバルの前途を悲観してゐた。主要なる話はスバルに関した事であつた。六時頃間島君と電車を同うして帰り、予は平出君を訪ねた。話はここでもスバルの事。予は編輯を各月担任者に全責任を負はせる事を説いた。(然し吉井君には任せられない。アノ人は仕事の人ではないから。)と平出君が言つた。与謝野氏は予と同意見なのだ。 町々の店は大方戸を閉ぢて、元日の東京の夜は寂としたもの。八時頃帰宿。金田一君とカルタを一回やつた。(趣味)の小説をよみながら十二時頃就寝。 今日は何もせずに暮した。睡眠不足の為か、何となく閑散な、気のぬけた様な日であつた。(朝日)に森田君の(煤煙)が出初めた。 (発信欄)母へ。スバルを堀合の姉妹と函館の家へ。 (受信欄)賀状十六通。名刺、島村盛助君。 一月二日 土曜 快晴 寒 朝はこの冬無類の寒さ、水道の栓が氷つて水が出なかつた。 九時頃に起きた。平野君が来た。スバルの編輯について少し言つてみた。平野君は少し顔色を悪くした。 僕は各月三人が一人づつ全責任を以てやる様にしようと言ふのだ。(結局権利問題だ)と言つた。そして蒲原君が吉井君をつついた事を告げてしまつた。 平野は哀れな夢想家である。 二時頃上田氏を訪ふた。家々の前には盛装した少女が出ていて、羽子を突いてゐる。東京は予をサツパリ関つてくれぬといふ様な感じがした。上田氏の書斎に通されて、二号の原稿をたのんだ。アンドレエエフの癩病患者をかいた小説の梗概をきいた。かへりに中村星湖の(半生)を買ふ。 上田氏も昴を公開的にすることを説いてゐた。 岩動隆久君が来た。吉井君が来た。三人で飯を食ふ。岩動君かへつてから吉井と本郷二丁目のトアル割烹店へ行つた。吉井は酔つた。そしてスバルの事其恋人の懐妊した事などを語つた。哀れなる男だといふ感じが予をしてそのくだらぬ気焔をも駁せしめなかつた。そこを出て甘酒屋に入り、わかれたのは十時頃。 かへつて金田一君と一寸語つた。 何といふことなく予は心に頼むところが出来た。そして今迄平野を散々罵倒してゐたが今夜、それがあまりに小供染みてると感じた。ツマラヌ。一雑誌スバルの為に左程脳を費すべきではない。予は作家だ! 妹が外国人の家へ行つたハガキ、其の返事をかきスバル一冊封じて何となく心安い。 (摘要欄)金田一君は今日九段で山室軍平の辻説教をきいて泣いて来たといつた。(途中で詩をよんだんですね。)と予は言つた。 (発信欄)妹、伊五澤文五郎、同源太郎、大貫品川、富田砕花へ賀状出す。森川君へハガキ、妹、直太郎、正宗へスバル。 (受信欄)賀状、二十二通。名刺、郷古君。 一月三日 日曜 晴 温 元始祭 ほかほかした日。金田一君と談つた。十二時頃岩動康治君が来た。金田一君と三人でカルタ。岩動君帰つて将棋、さうしてるところへ中村君。さうしてるところへ在原清次郎君。金田一君と中村君は別室へ。 色々と札幌小樽の話をきいた。それから二六社の土岐君が予の事を良くなく言つてるといふ事をきいた。予は、繁劇なる新聞社会に身を投じ、中傷詰詐の渦中に入ることの利害を考へた。ビールをのみ、蜜柑を喰ふ。日くれて共に夕めし。 在原帰つて予は吉井君にハガキを書いた。曰く(第二者第三者にとりては何の価値なき、而し僕自身には重大なる或る事を発見した。僕は昨日までの僕が憐れでならぬ。モウこれから、僕は何人にも軽蔑されない、否、軽蔑する人には軽蔑さしておいて、僕は僕で其らの人を軽蔑してやる積りだ。ハハヽヽヽヽ) 長い事、然り、長いこと何処かへ失つてゐた自信を、予は近頃やうやう取戻した。昴は予にとつて無用なものでなかつた。予はスバルのおかげで、今迄ノケ者にしておいた自分を、人々と直接に比較する機会をえた。 九時に平野が来て一時間許りゐて帰つた。この人には文学はわからぬ。人生もわからぬ。予はモウ此人の大きい呿呻におどかされぬであらう。 在原が来てるときであつた。せつ子から封書の賀状が来た。大晦日に室料を払つて五厘残つたと! そして賀状のかげには予が金をおくらなかつた事に対するうらみが読まれる。予は気まづくなつた。ああ、金は送らねばならなかつた。然し予は送りえたのであつたらうか? 今日は予の賀状がついて、いくらか我がいとしき妻も老いたる母も愁眉をひらいた事と思ふ。 中央公論の小説をよんだ。今日も客の為に時間を喰はれて何も書かぬ! (発信欄)吉井勇君。 (受信欄)賀状十九通 名刺岩動康治君。 一月四日 月曜 雨 晴 温 雨がヒドク降つてゐた。午前は金田一君と語る。午飯がすむと雨がやんで雲がきれた。 伊東に帰つた太田君からハガキ。予の『赤痢』をモ少しシムボライズしたかつたと言つて来た。巳酉第二の封書を認めて送つた。その中に、予は予の現在の心持をかいた。スバルの事、及び平野吉井を蹴つたこと。“荒布橋”の事。太田が絵にする。(小説脚本を)こと。書き了へた時、赤い日が西の山に沈みかけて、晴れあがつた空に紙鳶が一つ浮んでゐた。 京都の瀬川深君から久振の、そして興のない手紙。 太田へ手紙かいてる時、平野は夏目氏を訪はないかと言つて来たが、予は行かなかつた。 日がくれた。今夜は金田一君発起の加留多会。原君、菅野君、小笠原君、下斗米君、に宿の親類といふ大仁うた子、外二三人。十二時頃までやつた。大分元気がよかつた。 (発信欄)太田正雄君へ封書。真々田薫君へ賀状。 (受信欄)賀状二十五通。瀬川深、太田正雄二君より消息。 一月五日 火曜 晴 温 新年宴会 今日はよい日であつた。 臼杵の平山良子から手紙、スバル半ケ年分前金と、“佐保姫”の代金二円三十二銭為替でよこした。畠山亨君からも封書。 モ一通の封書は札幌なる橘智恵子さんからであつた。函館時代こひしく谷地頭なつかしくとかいてある。げになつかしいたよりではあつた。遠山女史樺太にゆき、日向女史出産、高橋すゑ子(嘗て中学生と噂あつてやめたといふ)が森の学校に赴任したことなどを初めて知つた。 金田一君の室で岩動君と将棋、二度やつて引分けたが、予のほうがつよかつた。昼食中中村唯一君も来た。そこへ吉井君が来たので室にかへる。 一昨日やつたハガキは充分に功を奏してゐた。今日は頭から吉井を圧迫した。そしていつしかしめやかな結婚家庭などの話を吉井がし出した。夕方、編輯会議をひらくことについての平出平野にあてたハガキを持つて帰つて行つた。 湯に入つて、金田一君と二人、六時頃出かけて小石川原町に中村君の加留多会へ行つた。サツパリ気がはづまなかつたが、冷たい空気の正月ながら充ち充ちてゐるかの家をみたのはアナガチ無用でなかつた。帰りは十二時、途中、敵国をあるく時のまねをすると言つてイタヅラしながら夜の路をあるいた。 今日渋民の駒井善吉秋濱三郎の二人から賀状が来た。うれしかつた。 齋藤大硯君より函館日々新聞十五週年記念号を送つて来た。 (発信欄)山西薄明、三重野牧雨へ賀状、善吉三郎へエハガキ、平野平出へハガキ。 (受信欄)賀状十三通。 一月六日 水曜 曇 温 風邪の気味で、一日鼻がつまつた。朝は金田一君より先におきた。 平野から(ハガキにて御質問ゆゑハガキにて御返答仕候)云々のハガキ、会議は開かなくともよいではないかと、少し怒つた口調で言つて来た。予はうれしくなつた。わざと一日ハガキも出さず電話もかけぬ。 午前に斬髪し、昨日の為替をうけとり、スバルを三部買つて来て平山、橘、高野の三人へ。平山へ手紙、高野へハガキ。 正午から智恵子さんへ手紙をかき出した。夕方並木君来た。一緒に飯。笑はせクラをしてさわいでると伊東圭一郎君。 相不変痔がよくないさうな。この人は気取らないといふことを気取つてる人だ。しかしなつかしかつた。岩動君宅のカルタ会には金田一君に先に行つて貰つて、一時間許り話した。それから一緒に出て、電車の中で高々と盛岡弁で語りながら江戸川終点で下車。わかれて予は一人岩動君宅に行つた。立派な家だ。 カルタはつまらなかつた。金子といふ日詰の人にあつた。 十一時辞して関口の天プラヤの二階で金田一君と共に江戸川の水音をきき、かへつて来たのは十二時半。それから智恵子さんへ手紙を書了へた。 今日、日景君から賀状と共に釧路新聞の新年号を送つて来た。ハガキ一枚で仲直りなんか面白い! 山城正忠が名刺をおいて行つた。 九日の歌会にの招待状森先生お家から。 [摘要欄]小日向台の下、水道町に救世軍の女三人(一人はハタ)男一人ゐた。…いまわが心は雪より白く……… ト見ると大館光! [発信欄]平山良子橘智恵子へ封書。高野桃村へハガキ。 [受信欄]森林太郎、平野萬里、よりハガキ。賀状十四通。 一月七日 木曜 曇 温 おそく起きて朝飯をくはぬ。 風邪が昨夜電車での寒さで強くなつたやうだ。頭脳が一所に集中しない。 久振で菅原芳子に手紙かいた。吉井には昨日の平野のハガキを写して出す。 新年の諸雑誌をあさつた。正宗真山二氏のはドノ号のもうまい。描写の技倆に於ては、青果氏は当代一、そして正宗氏のに至つては、更に何者か人生のかくれたる消息を伝へてゐる。“早文”に出た(地獄)も全く感服した。 夜九時頃であつたらう。昨夜も名刺をおいて行つた山城正忠君が来た。酒を七合のんで来たと言つて、大分酔つてゐた。独歩集を几の上からはなしたことがないと言ふ。嘗て予によこしておいた(路傍の人)はその閲歴だといふ。予はそれについて、赤裸々に所見を言つて、返した。 哀れなる感情家! いろいろなことをさも情にたへぬといつた様に語つて、十二時に帰つて行つた。 この日伊東なる太田君から絵をかいたハガキ。(――こないだもね、当地の茶屋でもつて荒布橋をやつたが、少し手傷を負つた。だが何しろ故郷はやはらかいところだな。おまけに温泉までがある。併し海だ。あんなに大きく恐ろしいもののくせに、その漣のひびきのやさしいつたらないからな。――八日にかへる。) 日高の大島君からも賀状。 [摘要欄]風邪。 [発信欄]菅原芳子へ封書、吉井君へハガキ。 [受信欄]賀状九通。太田正雄君ハガキ。 一月八日 金曜 曇 寒 おそく起きた。咽が痛い。しきりに咳が出る。頭が半分いたい。 (塵の悲哀)をかかうとして半日考へたが、どうも思慮が集中しない。(水声)を書かうとして結構漸く出来た午後四時頃、平出から昴の会議をやるとの電話。 すぐ行つた。平野吉井平出、アトから川上君、与謝野氏、栗山君、都合七人で九時ごろまでやつた。意見はすべて予の言ふことが通つた。平野は大分予が物をいふ度に不快な顔をしてゐた。 予は勝つた。編輯担任者はその号に全権をもつことにした。そして平野がやると言つてゐた短歌の添刪までもとりかへした。平野の言ふことは皆やぶれた。 かへり、三丁目で電車をおりてから、平野と方々の雑誌屋の店に立つた。そして予はそのときも勝つてゐた。二人は、否平野の方から、いろいろつまらぬ雑誌の売行の話などをした。 そばをくつてかへる。少し熱が出た様だ。留守中に太田正雄君が来たとかで名刺があつた。今日帰京してすぐ来てくれのであらう。 吉井は昨日から尾久村の別荘の方へ行つてるげな。 浅草公園第五区九九、分吉野やつや子なる女から毎日社内宛で年始状が来た。予の小説の名と住所をしらしてくれと――分吉野やは植木の妹すみ子のゐる所ときいた。これは屹度彼女が予の住所を知らむとする策略だらう。 立花直太郎君は(赤痢)のお由婆の性格がよく描かれたと言つて来た。お由はまだ生きてると見える。 玉子湯をのんで寝た。 [摘要欄]風邪、昴の相談会。 [発信欄]金星会規則二通。返稿一。 [受信欄]賀状四通。立花直太郎君ハガキ。つや子よりハガキ。 一月九日 土曜 曇 夜雪 寒 十一時ごろに起きた。頭がいたく、のどが痛い。風邪がすこしも直らぬ。 太田君から電話。 昨日持つて来たスバルの投書のうたを少し直した。 一時頃に太田君が赤い顔をして元気よく入つて来た。旅中に沢山材料をえたと言つてよろこんでゐた。予は予の編輯する号は君と北原には蹂躙にまかせると言つた。三時まで話した。二号には(南蛮寺門前)といふ脚本を貰ふ約束。 森先生の会だ。四時少しすぎに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての齋藤茂吉君、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君――今日パンの会もあつたのだ。 題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他―― 十時散会、雪が六七分薄く積つて、しきりに降つてゐた。予は伊藤君の傘に入つて色々小説の話をしながら森川町まで来た。傘につもる雪がサラサラと音がする。軒々の火が曇つて見える。予は何となく北の方の国が恋しくなつた。そして何となく東京を歩いてるのでないやうな気がした。映世神社のヒバ垣から雪をとつて喰つた。 お常の好意、玉子酒をのんで寝た。風邪をなほす為である。 金田一君は今夜原君の宅の加留多会へ行つた。女中には(大臣の家へよばれた)と言つて行つたさうな。予は少し愍然な気がした。大臣の家! 予の新しい気持。――少しもヒケをとらぬ此頃の気持は、よほど周囲の関係を変化させた。予はこの友――恩ある友を憐むの心日に日に強くなることを悲む。 [摘要欄]森先生宅の観潮楼歌会。 [発信欄]つや子へ。 [受信欄](ハガキ)山城正忠君、小笠原迷宮君、迷宮君より歌稿。 一月十日 日曜 曇 温 十時頃に起きた。前夜の玉子酒が利いたと見えて、頭がズツト軽くなつた。夜中には少し汗も出たらしい。鼻の中はまだ変だが、気持は大分なほつた。 妹からハガキ、専心伝道のためにつくす考だから、安心してくれと言つて来た。(昨日先生のお許しを得て栄町のわが家を訪ひましたところが、老いたまへる母上がひとり淋しげに台所に働いてをられました。――) 石井柏亭君から松に雪のハガキ。渋民で生徒であつた一戸完七郎から賀状。 今日は誰も来なかつた。半日想をかまへてかの六日の日のことを書かうとした。十枚も最初の一枚を書き損じて、題を(束縛)とあらためた。そして予は十一時すぐるまでにやつと一枚半かいた。 束縛! 情誼の束縛! 予は今迄なぜ真に書くことが出来なかつたか?! かくて予は決心した。この束縛を破らねばならぬ! 現在の予にとつて最も情誼のあつい人は三人ある。宮崎君、与謝野氏夫妻、さうして金田一君。――どれをどれとも言ひがたいが、同じ宿にゐるだけに金田一君のことは最も書きにくい。予は決心した。予は先づ情誼の束縛を捨てて紙に向はねばならぬ。予は其第一着手として、予の一生の小説の序として、最も破りがたきものを破らねばならぬ。かくて予は(束縛)に金田一と予との関係を、最も冷やかに、最も鋭利に書かうとした。 そして、予は、今夜初めて真の作家の苦痛――真実を告白することの苦痛を知つた。その苦痛は意外に、然り意外につよかつた。終日客のあつた金田一君は十一時頃に一寸来た。予はその書かむと思ふことを語つた。予は彼の顔に言ひがたき不快と不安を見た。 ああ、之をなし能はずんば、予は遂に作家たることが出来ぬ! とさうまで思つた。予は胸をしぼらるる程の苦痛を感じた。真面目といふものは実に苦しいものである。惨ましいものである。予は歯ぎしりした。頭をむしりたく思つた。ああ情誼の束縛! 遂に予は惨酷な決心と深い悲痛を抱いて、暁の三時半までにやつと二枚半許りかいた。 予は勝たねばならぬ。 [摘要欄](束縛)――作家としての最初の一夜――忘るべからざる一夜。 [欄外]この日起きると、雪が五寸許り――初雪だ。見る限りの一白、窓から斜の西片町の木立から、風なきに雪がおちる。予は渋民の寺の正月を痛切に思出した。 [発信欄]北原君へ原稿依頼のハガキ [受信欄]妹、石井柏亭君(ハガキ)賀状三通、(海沼、佐田、一戸完七郎) 一月十一日 月曜 晴 温 目をさますと、雪消の軒の雫――木々の枝々にはないが、家々の屋根にはまだ一面の雪の景色――。十一時近くまで寝てゐた。午までに(束縛)をまた四五枚かき直した。そして昨夜よりは少し気が落付いてゐて、急にこの想を、モツト大きいもの――予が上京以来のことをすべてかくものにしようと決心して、心が初めて明るくなつた。そして昼飯――実は朝飯の膳に向つた。少しづつ書いてスバルに載せよう。 出かけようと思つてると、並木君が来た、三十分許で、一しよに出て、四丁目から予一人電車。 乗合の人々を見まはして、予は心をどるをおぼえた。ああ、この一人一人が立派な小説を一つ宛持つてるのだ。 平出のところで十円包んで、風寒き夕方、麻布霞町に和田英作氏を訪ねた。スバルの表紙の御礼を出し、裏絵のことをたのんだ。画家は愛相のよい人であつた。帰つてくると日がくれた。風寒い夕べであつた。 間もなく太田君が、来て、九時まで語つた。太田君はしきりに雷同論を称へた。その雷同は、言つてみれば戦場の握手――予は賛成した。そして予は、この友に親しむ気が一日一日に深くなるを感じた。筆を持つた思想家――年をとつたか若いかわからぬ男だ、気持のよい男だ。 十時頃から三十分金田一君とはなした。君は、予の小説についての話、少くとも昨夜の話のつづきをさけた。予は今夜、昨夜初めて作家の心持になつたと太田に語つた。 今日なつかしい堀田秀子から長い手紙が来た。太田と語りながらよんだ。坪仁子からハガキ。 人見君から新天地二月号へ歌をたのむといふハガキと、同誌新年号を送つて来た。 [摘要欄]初めて和田英作氏に逢ふ。 [発信欄]一戸完七郎へハガキ。 [受信欄]賀状六通(堀田、八重樫、坪、高崎、塚原、高安)米国後藤治一郎、在原君、人見君からハガキ 一月十二日 火曜 曇 寒 十二時すぎておきた。 上田氏を訪ふたが不在。夜になつて又訪ふた。九時半までの清談――氏は自然主義と社会主義との関係、――から、日本に起つて来た、或は起りつつあるデモクラツト的思想についておもしろい観察を下してゐた。そして、今の小説――自然派の小説は、今のままで進めば勢ひ社会、道徳等の問題に触れた、所謂傾向文学となると言つた。 スバルの内幕をスツカリ言つてしまつた。氏は予に、その編輯する号は勝手気儘にやれと言つた。そして、小結社を作る作らぬといふ根本問題のきまらぬうちは、自分等の立場だつて困るぢやありませんか! と言つた。 寒い晩であつた。(古外套)の想をかまへて題をかいて寝る。 十四日は故玉野花子女史の命日、その日駒込正行寺で紀念歌会をひらくといふ招待状が平野君から来た。 北原君のハガキ、校正はまだ初まらず。風邪で寝てるといふ。そして(以下空白) [摘要欄]上田氏を訪ふ。 内務省よりスバル出版届手続省略願許可証来る。 [発信欄]人見君、吉井君へハガキ、柴田成教へ金星会返稿、 [受信欄]賀状一通(島崎氏)、柴田成教からハガキ、平野、北原、ハガキ 一月十三日 水曜 雪 寒 窓外は終日の雪。初めて冬の一日といふ感じがした。寒さが窓硝子をとほして肌にしみる。机のむきを変へ、終日(古外套)を書いた。 今年の年賀状のうち、奥村君、澤田君、札幌の田中、以上三枚附箋がついて戻つて来た。三人が三人――特に田中一家のことは小説のやうだ! 終日かかつて(古外套)八枚ばかりかいた。これの後半にかく夜見世の爺は、いつか森川町の通りで見たのだ。 夜、三時頃までかかつて、スバルの投書の歌をなほした。 [摘要欄](古外套)起稿 [受信欄]遠藤隆よりハガキ 一月十四日 木曜 霙 寒 十時頃におきた。間島君から電話。 平山良子から来たうたを見てるうちに午。やがて間島君が来て二時頃一しよに駒込正行寺に行つた。平野君の故夫人の一週忌だ。太田、与謝野、萬造寺、川上、間島、松原、渡邊に平野。北原からはオバサンが代理。 読経がすんでから歌題十首。 さかづきの少しかけたるところより寂み来る酒の半ばに(琴山) わが心あそぶが如き軽石を伊豆の海辺にひろひてあそぶ(寛) 夜十時半になつて選を了へた。寛一、琴山二、予三、 平野君が筆記した森先生の(ユリウス、バツブの戯曲論)持つてかへる。 [受信欄]平山良子。 一月十五日 金曜 晴 温 矢張おそく起きた。 菅原芳子から手紙、平山良子は良太郎といふ男だと言つて来た。一戸完七郎から、農林学校の図書館に給仕をしてるといふ詳しい消息、佐蔵は中学を、角掛は農学校をやめたといふ。 十一時半頃太田君が来た。(南蛮寺門前)少しよんだ。上田氏を訪ふと留守。 金田一君から五十銭借り、一時頃北原君を訪ふて原稿の約束をした。詩集の校正は半分許りすんださうな。それから大久保余丁町に永井荷風氏を訪ねてみたが留守、四時頃に疲れきつて千駄ヶ谷に行つた。生田長江君、河井酔茗君、太田君が行つてゐた。河井君には初めて逢つた。 晶子さんの脚本二三日中に清書して送るといふ事、四時半頃帰つて来た。疲れきつてゐた。 夜、書かうと思つても興がわかぬ。家へ金をおくらなかつた事が心を責める。別にあるのを送らなかつたのではないが、母の心妻の心を思ふと、たまらなくなる。ああ、予は! スバル投書の歌を清書して十二時半頃寝た。 [摘要欄]初めて河井酔茗君に千駄ヶ谷にて逢ふ。 [受信欄]菅原芳子、一戸完七郎、から封書、阿部次郎君ハガキ 一月十六日 土曜 晴 温 十一時起床。 半日つぶして、(ユリウス、バツブの戯曲論)の筆記を訂正した。そして日がくれた。所々筆記の曖昧なところがあるので、電話をかけると森先生から来いと言つて来た。すぐ出かけて行つて、それを直して、それから九時半まで色々話込んだ。先生は近頃非常に新聞記者をイヤがつてゐた。(この里に来てすみしより漸くに新聞記者も訪ねこぬかな)といふ歌を作つたと言つてをられた。 予は色々と自分の文学上の考へなどをのべた。そして、この先生は、文学を見るに、全く箇々の作品として見るので、それと思想との関係を見ないといふことを感じた。 [摘要欄]森先生訪問。 [受信欄]せつ子、柴田成教から封書。橘智恵子母からハガキ。発行所から原稿。 一月十七日 日曜 晴 寒 昨日来た厨川白村の(中央文壇を警む)はツマラヌ憐むべき漫罵にすぎぬ。のせぬことにする。 吉井君が久振でやつて来た。森先生の会以後、毎日飲んで――一日に二升六合のんだこともあると――ゐたといふ。日本橋の芸者と再燃したの、吉原へ行つて昨日までゐたのと言つた。そして女の懐妊はウソ、今女の母から邪魔が起つてるから、二人で信州の山の中へでも行かうと思つてると言つた。吉井の話はその五分の一だけ事実だ――常に。そしてスバルの原稿、受持の方を一つも集めてなかつた。藤岡玉骨が来て帰つた。 そこへ太田君が来た。(君は短剣を持つてゐる男だ)と吉井。(さうぢやないよ、僕は今なら、出せと言はれたら腹の底までさらけ出してみせる。短剣なんか持つてるもんか)と太田。予曰く、(其所だ。君はイザとなれば腹の底まで見せれるから外の者にや怖ろしいのだ。短剣を有つてる様に見えるのだ!) 吉井の為に質屋にゆく、古い置時計と袷で二円かりてやる。 日がくれた。上田氏へ行つてマアテルリンクの(温室)の訳四篇貰つてくる。 九時頃また出て平野へ行つたが留守、熊谷へ行つたが留守。帰つて来て新年の雑誌の読残りをよんだ。 松原正光からツマラヌ小説の原稿来る。 一月十八日 月曜 雪 温 十一時生田長江君におこされた。窓外は霏々たる雪。終日やまなかつた。 平野君が来て生田君かへる。平野は今月末に横浜の或会社へ就職することになつたと言つた。(それではスバルの方は?)(編輯はとてもやれないね、短歌号はやるけれど。) 二時頃、雪を犯して発行所にゆき、岡村病院に平出君をとひ、スバルについての相談、二号以後、百頁のはづだつたのを百五十頁二十五銭にすることに決定。それから色々話した。予は、文壇と直接する必要をとき、平出をして賛成せしめた。結局スバルは予の雑誌になるのだ。予はそれを面白いとおもふ。しかし迷惑と思ふ。 夕方雪が雨になつた。森川君から二円かりて電車でかへる。雨は終夜やまず。 間島君が来て短冊をかかせられた。 かつて来た雑誌をよむ。正宗氏はえらい。二時頃まで雨滴の音をききながら、例の如く泣かず笑はざる心地で回想にふけつた。終にまとまらなかつた。 (明星は時代に適せなくなつてたをれたのだ。スバルは全く新らしくなければならぬ。)恁う予は今日平出君に言つた。 一月十九日 火曜 曇 温 十時頃太田君に起された。(南蛮寺門前)を脱稿して昨夜、森先生に見て貰つたと言つて持つて来た。美濃紙へ細かく三十一枚、一緒に読んだ。これは太田君が夏の頃、吉井と二人で別々に南蛮寺を描かうと言つて書いたので、吉井の方は例の予告だけで出来なかつた。それを今度――十一日頃一度書換へ、更にまたこの一週間許りで作変へたのだ。 十一時太田君と一緒に出かけて北原君をとひ、昼飯はガス鍋の牛肉で御馳走になつた。二時頃、三人つれ立つて千駄ヶ谷に与謝野氏をたづねた。いくら音なつても人のけはひがせぬ。庭へ廻つて見ると主人ただ一人、昼寝してゐた。話してると晶子さんはお子さん達と湯屋から帰つて来た。 与謝野氏の話は、氏も亦強き刺戟に渇してゐることを表はしてゐた。そして又、氏が十数年来の処世から得た虚偽を語つてゐた。予は一人でイロンナ事を喋つた。(僕は茅野君の論文は、理屈でも理屈でなくても頭からキライです。僕はアノ人が一生――創作家には無論なれぬ人だから――議論するかと思ふと、僕も一生その度毎に顔をしかめなけやならないと思つて、ウンザリしますと言つた。森先生が若い時その妾の姉妹に上野に氷屋を出さしてゐたことをきいた。 七時頃辞した。(晶子さんの脚本損害を貰つて。)初夏の雨もよひの夜の様な風が、くすぐる様に顔にあたつて、誰かにグズリたい様な、甘えたい様な、妙な気持になつた。路は悪かつた。四谷で電車を降りて、とある天プラ屋で三人で飲んだ。この二人と一緒にのんだのは今夜が初めて。北原は酔うと不断よりもモツト坊ちやんになる。別段口をきくでもなく、嬉し相にしてゐる。太田はその恋――片恋のあつたことを仄めかした。予と太田は頻りに創作や思想について語つた。(僕の最も深い弱味を見せようか)と予は言つた。(何だ?)(結婚したつてことよ!) 十時頃に太田と春日町まで来て、予は一人電車をおりた。生温るい風はまだ吹いてゐた。生温い風は予をしてまた電車にのらしめた。そして本郷から上野、浅草行、街路はぬかつてゐた。 [摘要欄]太田北原と四谷に飲む。 [受信欄]Masa齋藤佐蔵より賀状、 一月二十日 水曜 曇雨 温 七時頃二畳の室で目さめた。昨夜の話が朧ろ気に思出されて、異様な感じが起つた。罰金、三度で六円、換刑――つとめにゆく――不幸、荒める生活、放恣、底をはだけた悲哀…… 八時半に帰つた。 終日、集つただけの第二号原稿を整理した。 日くれて平野君が来た。雨がふり出した。かへる時五十銭おいて行つた。明日本をかりて典ずる約束。 金田一君は遠からず三省堂の方をよして、大学国文研究室助手(二十円)になるといふ。二月になつたら此下宿から引こすと言つてゐた。 友をえたなら、決してドン底まで喋つて了つてはいけぬ。互に見えすく様になると、イヤになる。人には決して底を見せるな。若し底を見せて了つたらそれつきり絶交せよ。――ああ、これは出来ぬことだ。 予は弱かつた。さうだ、(かつた)と過去の詞でいふべきだ! 平野かへつてから、また募集の歌などを整理し、予の小説の題を(足跡)ときめて二時就眠。 北原から詩(鶯のうた)とハガキ。 今日も生ぬるい日であつた。 [受信欄]北原君、西村菜葩君よりハガキ。 一月二十一日 木曜 細雨 温 起きると妹光子からハガキ。去る十二日付にて地方伝道会社生徒なる許可あり、月八円づつ貰ふことになつたと。そして三月末に名古屋の伝道学校へゆくとの事。 午後出かけようと思つてるとろへ藤岡長和君、雑誌(敷島)――予の歌あり――を持つて来た。一時間半許り話して共に家を出で、わかる。三丁目の停留場で豊巻剛君にポカリと逢つて神田橋外まで同じ電車。予は三秀舎へ行つて第二号の初め六十四頁分の原稿をおいて来た。それから伊上にゆくと、持病で寝てゐた。表紙の事、裏画((南蛮寺門前――太田君鉛筆画))のこと決定。 それから平出君宅へゆくと、泣菫氏から詩(温室)来てゐた。広告のことなど依頼して帰つたのが六時頃。細雨はれた。 それから平野君をとふた。セツセと海外消息をかいてゐた。餅をくひ、洋画八冊、(ダヌンチオの小説ヰクチム、トライアンフオブデス、とモ一つ、マアテルリンクのダブルガーデン。ツルゲーネフのドリームテールス、メリメの英語短篇集。テニソン詩集。ダンテの神曲。)をかりて菊坂の質屋松坂屋にゆき四円かりた。そして袷と羽織をうけ、ズボン下をかひ、一円二十何銭あまつた。質屋の店で英語を教へたなんか振つてる。 夜太陽をよむ。天渓氏の(超道徳的文学。)正宗氏の(涎。) 今日小奴から釧路新聞と北東新聞を送つて来た。これから毎号おくつてくれるであらう。釧路新聞に小国君の筆で、(啄木子嘗てしやも寅文学を提唱す、実は小奴文学なり云々)なんかとかいてあつて、哄笑。 九時頃栗山茂君、原稿をもつてくる。詩だ。うまい。 (足跡)をかき出したが、プランが立たなくて、暁の五時頃まで沈吟した。 [摘要欄]平野君より本を借りる。スバル第二号原稿三秀舎に廻す。 (足跡)かき初める。 [発信欄]吉井君へハガキ二枚。 [受信欄]函館なる妹よりハガキ。仁子より釧路、北東、二新聞送り来る。 一月二十二日 金曜 晴 温 今朝寝たのを、九時頃に平出から電話でおこされた。間もなく吉井君がフラリとやつて来た。代々木尾久の双方へ昨日出したハガキ見たかといふと、(見ない、浅草にとまつてゐた。)といふ。ソレは然しウソだ。原稿は書けぬといふ、一枚かいた。実は半分かいた! 何をいつてるやら。それから予は、交換広告をかいた。先に二号活字を用うるのをかくと、それを見た吉井は、小説是非明日までにかくといふ! 予は愍れむの情と共に、そのはかなきアンビシヨンを厭ふの情が起つた。並木が来、平野(午後)が来た。やがて太田がその大好きな顔を持つて来た。午後四時頃、太田だけが残つて皆かへつた。やがて太田も帰つた。 平出に行かうと思つてるところへ、豊巻剛君が来た。性格の不変といふこと、藤村のことなどを語つた。多少新らしい事を言つてゐる。然し予は又この男をも何がなしに憐むの情にたへなかつた。 平野が来て豊巻かへる。与謝野氏は詩が出来ないといふ。霰の音がした。 終日客になやまされて、頭がつかれてゐた。(足跡)をかかうと思つたが、一時頃まで原稿の整理をして、寝て了つた。 豊巻来てるとき、吉井から神田局からで、ゲンコウカケヌユルセといふ電報が来た。明日までにかくと言つて、インキや原稿紙を持つて行つたのだ。 [発信欄]スバル一号坪仁へ。 一月二十三日 土曜 晴 寒 十一時起床。朝飯もくはずに俥で三秀舎へゆき、原稿を渡し、伊上へ行つて写真版をたのみ、平出宅へ入つて、それから岡本病院に平出君を訪ねた。そして昴の事相談。 諸方へやる交換広告の原稿をかいて出した。平野が来た。 (足跡)夜十時頃から書きなほして稿をつぎ就眠午前四時。 [摘要欄](足跡)執筆。 一月二十四日 日曜 曇 起きて(足跡)の稿をつぐ。 女中にいひつけて人に逢ふまいとしたが、藤岡君が来、松原正光君が小供をつれてあそびに来た。然し早くかへつて行つた。 夜になつて太田が来た。手紙が来た。そこへ第一回の校正刷が来た。 二人は十時すぎて帰つて行つた。 (足跡)をかいて午前五時、電燈のきえるまで。 [摘要欄](足跡) [受信欄]佐蔵よりハガキ 一月二十五日 月曜 雨 十二時におきて(足跡)の稿をつぐ。 車夫をして原稿を三秀舎に送つた。 平野が来た。校正が来た。平野のもつて来た餅をやいてくふ。湯に入る。 終日終夜筆をとつて、就寝午前五時電燈のきえた時。 堀田秀子さんから手紙が来た。あたかも(足跡)をかいてる時ではあり、なつかしかつた。 [摘要欄](足跡) [受信欄]堀田秀子封書。村山徳次郎ハガキ 一月二十六日 晴 温 櫻庭ちか子さんから、祖母君が今月三日に亡くなつたといふハガキ。 目をさますと校正が来てゐた。平野が来、太田が来た。二人は校正してかへつて行つた。予は二人にかまはず(足跡)をかいた。 午後五時、(足跡)その一(今度の号へ出す分)脱稿。(足跡)は予の長篇――新らしい気持を以てかいた処女作だ。予はこれに出来るだけ事実をかいた。 作家の苦痛。 袷を典じて原稿紙をかつて来た。 足跡をなほして暁まで。 [摘要欄](足跡)その一脱稿。 [受信欄]櫻庭ちか子ハガキ 一月二十七日 水曜 起きて平出にゆき帳簿をしらべる。細君曰く(雑誌は二日頃でなくては出来さうがないといふぢやありませんか?)(誰がそんな馬鹿なことをいひました?)(先刻平野さんが来てね……)(ア、さうですか、平野君といふ人はよくうろたへて心配する人ですよ、) それから伊上へよつて三秀舎にゆき、(足跡)の原稿わたす。平野がゐた。一寸校正して、二時間許で帰つた。そのあとに平野が歌の六号になつてるのを発見して周章して平出のところへとんで行つたのだ。 二時頃またゆくと間島君が来てすけてゐた。二人でやつてるとやがて平野が来た。そして夕方かへりの電車で六号活字問題を持出して、ブリブリしてゐた。予は生アクビを噛みながら返事した。 この晩も暁まで広告をつくつたりなんかして起きてゐた。 一月二十八日 木曜 晴 温 朝に平出によつて広告の原稿やる。 それから三秀舎へ行つて終日、――夜午前二時まで校正。やりながら(一隅より、――正月の小説界)をかいたが、頁がよけいになるので掲げられなかつた。間島君も来た。 平野が、歌を六号にした事について抗議文をかいて来た。馬鹿奴とは思つたが、好戦的にそれを出すことにした。そしてその返事を。予は(消息)中にかいた。その校正が来て予が見てる時だ、平野はソワソワしてしきりに予の心をとる様なことを言つてゐた。予は生返事しながら、それでも少し、一二ケ所烈しい文句だけはけづつてやつた。呵々。 家にかへるとモウ三時頃であつた。金田一君に祖母さんが死んだといふ電報が来て明日発つといふので、行つて起して一寸逢つた。そしてスツカリつかれて寝た。 一月二十九日 金曜 曇 風 寒 十時頃におきると吉井がフラリと来た。今は伯父と喧嘩して家をとび出して弓町の下宿にゐるといふ。一しよに三秀舎に行くと平野の奴また来てゐた。十二時全部校了。予は一人(吉井に切符をくれて)平出の宅へゆくと、やがて与謝野氏が来た。共に平出君を病院にとふ。雑誌が明晩出るといつたらおどろいてゐた。 そして平出君は抗議文と消息をよんで面白がつてゐた。与謝野氏は多少くるしさうであつた。 それから与謝野氏が今度引越す駿河台東紅梅町二の家へ一しよに行つてみて、昌平橋でわかれた。予も早く家をもちたかつた。 数日前のつかれで、帰つたのが三時、すぐ床をしかせて寝ようとしてると太田君が来た。夕方までいろいろおもしろく小説の話をして、一円おいていつてくれた。 それからすぐ寝た。 [受信欄]吉野君札幌よりハガキ 一月三十日 土曜 曇 風 寒 十五時間寝て、午前十時さめた。風のふいて硝子窓のはためくイヤな日だ。人見君に手紙をかき、上田氏へのをかいてると並木君、この数日は来客も大てい謝絶してゐたつたのだ。 それから佐藤衣川が久し振できた。猪狩見龍君が五年振許りで来た。そしてつまらぬことを言つてかへると、小泉君の紹介をもつて、広告取の鈴木慶三郎といふ男が来た。平出君への紹介状をもたして返す。 宮永佐吉のことをきいた。 それから上田氏への手紙に大分自分の現在の心持をかいた。スバルの事もかいた。 電話をかけさせると、伊上から表紙がおくれて、雑誌明日の午後でなければ出来ぬとの事、 夜、下の鳥屋の七面鳥や鵞鳥のこゑがかなしげに聞えた。 一月三十一日 日曜 曇 温 おそくおきた。何となく気分のすぐれぬ日であつた。 午後一時半頃三秀舎にゆくと、雑誌はもう出来あがつて発行所へやつたといふ。行つてみると積んであつた。予が一ケ月の労力はこれ。 芝の方は自分で行つて本屋へおろした。そして電車の中で阿部次郎君に逢つた。 与謝野氏は転宅のため来てくれぬ。平野も来ぬ、来なくてもいい時は来て、来なければならぬ今日は来ぬ。自分でスツカリかたづけようかとも思つたが、つまらぬと思つて帰つて来た。 今日金田一君の代理で国学院の六円をうけとつておいた。 女中共へ一円五十銭やる。それから森川からかりた二円をかへして来た。 [発信欄]上田敏氏へ封書。 二月一日 月曜 曇 温 (樗牛死後)をかき初める。 午頃太田がきた。そして色々と議論した。予はこの数年来の日本の思想の変遷を或銀行にたとへて論じた。そして結局太田君がまだ実際の社会にふれてゐないといふことを明かにしたに過ぎなかつた。太田は今の作家をののしつた。予は言つた。(今の我々は平面な崖につきあたつて路がつきたのだ、で、如何に行くべきかを研めむがために、先づ、如何にして此処に来れるか、今立つところは何処、如何なるところなるかを研究してるのだ、君が、如何なる方に進むべきかを考へないでゐると評するのは間違だ、今の作家は矢張時代の先頭にたつてるのだよ。) すると太田君は異様な声で言つた。(すると奴等も如何に進むべきかを考へてるのだなア!) (さうさ、最も確かな態度で考へてるのだ。) フイと太田はかへつた。 吉井から、境遇に激変ありしため昴の編輯出来ぬといふハガキ、早速訪ねてみると、下宿の四畳半に気のない顔をしてゐた。そして昔から遊人などに友人があるといふことをミエらしく話してゐた。下宿の娘のふミ子といふ名のかいてある(少女と山水)といふ本を机の上において、それもほこらかに見せてゐた。まださめないのだ。 夕めしをくつて帰つて来た。そして(樗牛死後)をすこしかいた。 [摘要欄](樗牛死後)起稿。 [受信欄]吉井君(弓町二ノ二、中村方)よりハガキ 二月二日 火曜 曇 温 (樗牛死後)の稿をついでゐると、下宿料の催促、午後四時、(鳥影)をもつて北原君をたづね、鈴木鼓村氏に本屋の周旋をたのむことを頼む。明日行つてくれるはず。 それから色々話して御馳走になつて、七時かへる。電車でマツスグに浅草へ。――安成貞雄のこと、(握り)のことをきいたので。 活動写真はおもしろかつた。それから、 そして十一時頃かへつた。 今日平野から、二号の原稿全部発行所へとどけておいてくれとのハガキ。 森先生から六日歌会のハガキ 豊巻がきたといふが不在であはぬ、 [受信欄]森先生ハガキ、平野ハガキ、 二月三日 水曜 雨 温 十二時におきた。坪仁子から手紙、今年中にはまた出京すると、 小雨のふる日、阿部康三君――張椰子君――が来た、ヒゲを立てて、肥つてゐた。三年振だ。小説の話をしてかへる。 平野から第三、四、五号は原稿過剰に付き執筆見合せてくれとのハガキ、失敬な奴だ、然し面白くなつて来たと予は思つた。そして日がくれて雨のはれるのを待つて駿河台の新居に与謝野氏を訪ね、それから平出君をたづね、予はスバルのことを言つた、と、平野のハガキは平出君のしらぬところ、面白く文学談をした、予の意見に賛成だと平出君が言つた。 そしてかへつて、平野に手紙出した。オドシて見るのだ。 札幌なる加地君から手紙と原稿、 今日朝日新聞の佐藤北江氏へ手紙と履歴書とスバル一部おくる。 [摘要欄]平野にオドシの手紙おくる。 [発信欄]平野へオドシの手紙、佐藤北江氏へ手紙 [受信欄]坪仁子封書、加地燧洋君封書及び原稿、平野ハガキ 二月四日 木曜 晴 温 藤岡長和君来る、大に文学論をとく。 北原君より葉書、(鳥影)鈴木鼓村氏世話してくれることを快諾、また新聞小説の口も探してくれる約成ると報じ来る。昨日わざわざ訪ねてくれたのだ。 神経衰弱にかかつた時の様な気持で、何も書く気になれず、いろいろな空想許り浮んだ。 晶子さんの(損害)の原稿二十一枚、藤岡君にくれてやつた。 貸本屋が(復活)を持つて来たので拾ひ読みをした。それから(当世小紋帳)といふものを持つて来た。夜はくだらぬことに時間をつひやして二時電燈がきえたまで。 [受信欄]北原君、よりハガキ 二月五日 金曜 晴 小寒 矢張おそく起きた。鏡をみると、髯が二分許りにのび、髪も耳にかぶさりさうになつて、我ながらやつれてみえる。 平野から返事のハガキ、勝手にやれとかいてあつた。そしてしまひに(男子はすべからく男らしくやりたきものに候)! 予は不思失笑して了つた。ハガキは神田の消印、乃ち渠がウロタヘテ平出君へ行つた心持がわかる。面白いいたづらだ。 北原君へ行かうかと思つてるところへ、太田君が来た、そして個人といふことについて語つた、調和といふことについて語つた。その議論は大分切迫つまつてゐた、そして、太田君を予は今咀嚼しつつある! 吉井君が来た、此の男について太田君の予へ話したところは、要領をえぬ――ウソツキだといふことであつた。そして来たけれども二言許りしか話さなかつた。 三人一緒に出かけて予は一人北原君をとふた、留守、小母さんと世帯じみた話をして一種の愉快をうる。それから晶子さんのこと、その夫婦関係のこと、寛氏が時々ヒドク小供を虐めること――一昨年北原君が千駄ヶ谷にゐた頃の話をきき、ほし柿と餅を御馳走になつて一時間許りでかへる。話では大分鈴木氏の方の模様がよかつたらしい。 久振で湯に入つた。 [発信欄]平出君へハガキ [受信欄]平野よりハガキ、与謝野氏より封書、平山良子より封書とみ光会詠草来る。 二月六日 近頃下宿からの督促が急だ。 十二時起床、出かけようと思つてるところへ北原君が来たが、女中の間違ひで留守だと言つて返してしまつた、アトを追かけさせたが駄目、 それから予一人朝日新聞社に佐藤北江(眞一氏)をとひ、明日の会見を約して<初対面、三十円で夜勤校正に使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してくれるといふ確言をえて>夕方かへる。 吉井へ寄ると、北原は来ないといふ、今日は森先生の歌会だが、予は用があつて行けぬといつて、吉井にことづてを頼んで帰宿、 日くれて一人浅草にあそび(辞典をうつて)活動写真を見、九時頃、いつか吉井とのんだ馬肉屋で十四銭で飯を食ひ、かへつて北原を待つたが来ず、十一時頃寝る。 綱島氏から去年の十二月小樽に出した小包――岩崎君から届いた、故梁川氏の手紙(嘗て貸してやつた)十通とその書簡集上巻一部、 [摘要欄] 森先生の会へ不参 [受信欄]北京なる石川半山氏より小樽アテの賀状来る。綱島氏出しの小包着く、 二月七日 日曜 午前十時頃金田一君盛岡から帰つて来た。 さうかうしてると豊巻君が来、雑誌をかりて帰る、昼飯をくつて出かけて北原君をとひ、天プラを御馳走になる、今日は鈴木氏が不在だからといふので、辞して春陽堂にゆくと日曜で休み、約の如く朝日新聞社に佐藤氏をとひ、初対面、中背の、色の白い、肥つた、ビール色の髯をはやした武骨な人だつた、三分間許りで、三十円で使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してみるといふ確言をえて夕方ニコニコし乍らかへる、此方さへきまれば生活の心配は大分なくなるのだ、 今日は万事好運で、そして何れもきまらぬ日であつた、 かへつて金田一君と話す、盛岡の娘だちが、農林校の支那人に参つてるといふ憤慨談、 それから同君のために共に質屋にゆき、フロツクその他で二十一円、今年初めて天宗へ行つて十二時まで天プラで呑み、大笑ひをしてかへつて寝る。 今日は昨日貰つた(書簡集)を五十銭にうつてあるいたのだ。 [摘要欄]佐藤眞一氏と会見 [受信欄]堀合ふきより絵葉書、 二月八日 月曜 晴 今日は多事な日であつた、十時半起床、すぐ出かけて貸室をみてあるき、十二時頃春陽堂へ行つて編輯の本多といふ人にあひ一時間談判の結果、嘗てやつておいた(病院の窓)稿料二十二円七十五銭(一枚二十五銭に値切られた)を貰ひ、すぐ北原君へゆき、喜んで貰ふ、又すぐ二人で永田町二ノ二十七に鈴木鼓村氏をとひ、初対面、面白い人、(鳥影)のことを頼み、四時間遊び、朝飯も昼飯もくはぬところへソバを御馳走になつて夕方辞す、 それから北原と二人で浅草にゆき、新松緑でのみ、ハズミで或るソバ屋へ 末廣屋といふへ行つて、四人で二時頃までのんだ、実に不思議な晩であつた、そして妹のすみ子(けい)は美人で、気持のよい程キビキビした女、十八、 実に不思議な晩であつた、 二人とも酔つてゐた、そしてとんだ宿屋へとまつてしまつた、 [摘要欄]春陽堂より初めて稿料貰ふ、 北原と共に初めて鼓村氏に逢ふ、 二人にて浅草! 二月九日 火曜 晴 隣りへ泊つた北原君に六時頃おこされ、六時半二人で出てとあるところで朝飯をくつた、腹がへつたといつてシンコを食つた男があつた、それから手拭をかつて湯にゆき、公園で新聞をよむ、吾妻橋から両国まで川蒸気にのる、面白かつた! 二人は時々すみ子をほめた、予の心にはいろいろの感情がゴチヤゴチヤしてゐた。 北原の宅へゆき、休む、六円しか残つてゐなかつた、午後同君から八円受取つて髪を刈つてかへる、並木来る、太田来る、昨夜の話をして大笑ひ、太田からスバル三号の原稿をたのまれたが何れアトで返事することにする、 夕方金田一君かへつて来た、七時頃共に夕めし、(それまで予に飯を出さなかつたのだ)ところへ女中が談判に来た、六円は金田一君へやつたので、残りのうちから五円やつて十三日までのばして貰ふことにする、残り二円と少し、金田一君と昨夜の話、 八時頃に、つかれて寝た、 [受信欄]せつ子よりハガキ、今井亮太郎より手紙、 二月十日 水曜 ボンヤリとして起きた、茅野のハガキ、失敬なことをかいて来た。 平出君にゆくと、平野のハガキ一件は何人も認めないから、従つて対平野の問題と対スバルの問題を混同してくれるなといふ、よしと言つた、 帰つて来て大田君と茅野へ(ヒヤカシタ)ハガキ、 八重樫君から雁一羽おくるといふハガキ、 橘智恵子の母上からハガキ、急性肋膜で入院してゐられるとのこと、少し軽快とのこと、 夜、堀合由巳君来り十二時まで、 [発信欄]茅野へハガキ、太田君へハガキ、 [受信欄]茅野君、朝鮮の八重樫君、橘智恵子さん母上からハガキ 二月十一日 木曜 今日は早くおきた、並木が来た、質屋へ行つてやる、そして天宗で二人でめしを食つて、予一人日比谷に行つた、憲法二十年祭で人出が多かつた、――それはそれは沢山の人、 こんな時は妙に反語をいひたくなるものだ、 夕方つかれて帰つて来て、ポカンとして半夜をすごす、 光子はエバンスといふ人と共に旭川にゆくさうだ、 [受信欄]綱島政治氏ハガキ、妹よりハガキ 二月十二日 金曜 頭脳がいたむといつて寝てすごした。 二月十三日 土曜 水を吸うた海綿の様なあたま、 朝鮮の八重樫君から雁一羽小包で送つてよこした、下宿にくれた、 二月十四日 日曜 吉井が一寸来たのを不興に帰した、猪狩君一寸来る、金田一君の室には男許りのカルタ会、仕方なしに一寸行つて、そして、たまらない程イヤな気持になつて帰つて、日がくれると寝た、枕の上でゴルキイ 二月十五日 月曜 十二時起きて出かけようと思つてるところへ、本店にゐる小原敏麿といふ人来る、頼みもせぬに大学館へ紹介状をくれる、そして夜十一時頃までゐた、イヤなイヤなイヤーな奴だつた、一日つまらぬことを言つてくらした、 夜おそく金田一君の室でグチを言つた、グチではない、その時は実際自分は何の希望もない様な気がしてゐた、 モウ予は金田一君と心臓と心臓が相ふれることが出来なくなつた、 [受信欄]平山良より手紙、 二月十六日 火曜 十二時起床、ブラリと(鳥影)原稿アトの分を持つて北原君を訪ふ、皆不在、玄関においてくる、 それから貸間などをさがしながらトボトボと歩いて神田にゆき、平出君を病院にとふ、つまらぬ、またトボトボと歩いて来て熊谷岩君をとひ、六時半宿にかへる、 ゴルキイをよむ、 [発信欄]太田君へハガキ 二月十七日 水曜 晴 風 さむし 十二時起床、二時頃テクテク歩いて北原君をとふ、三時頃また二人にて本郷に来りて天宗にてのみかつ夕飯をくらひ、七時二人にて帰宿、十時まで語る、野村君よりハガキ 枕についてより眠れずに三時ごろまで寝がへりしてゐた、いろいろの妄想が起つた、金田一君と話した脚本(誤れる人々)のことから―― 智恵子さんのことが頭にはびこつた、それから京子の顔! これははつきりみえた、 夕方金田一君と語つた、(身も心も忘れる様な恋をして見たい)と予は言つた、実際さう思つたのだ、 [受信欄]野村長一君ハガキ 二月十八日 木曜 晴 温 十二時起床、終日呆然として暮す、昨夜のこと忘れたる如し、 女中つね帰り来る、 [受信欄]高田紅果より手紙 二月十九日 金曜 九時頃野村長一君に起さる、数年ぶりの会見、やがて金矢光一君来り、鳥影のモデルのこと、 共に昼飯をとる、雨降りいづ、金矢君は二時頃に帰つたが野村君は四時頃までゐた、一昨年細君を出して了つたとのこと、或女と約束がなりたつてるとのこと、 与謝野氏より(鳥影)云々の手紙、屹度鈴木氏が世話するといふ話をきいてこんなことをしたのだ。 太田から原稿の催促 [受信欄]太田君ハガキ、与謝野氏手紙、 二月二十日 土曜 おきて飯をくつて、豊巻君の来訪に接した、五十銭かりる、一人でかけて北原君を訪ふと、鈴木氏今かへつた所といふ、明日一緒に大学館へゆきたいと言つてゐたさうな、 太田が行つてゐた、三人たのしく語る、三時頃太田と二人馬場孤蝶氏をとふ、話は面白かつた、それから電車でわかれる、 予は一人東紅梅町に与謝野氏をとふた、多田君が来てゐた、(鳥影)の世話をしようといふのは対鈴木問題なるをよんだ、 帰つて来たのは七時頃、金田一君と語り、また中学に入りたくなつた。 二月二十一日 日曜 鈴木氏が来たらかけると言つた北原からの電話が来ぬ、 昼頃までゴルキイをよみ、それから紙に向つて、夜(眠れる女)を二枚ほど書き出した、とうとうそれ切、 これは予にとつての最も新しい気持で考へ出したものだ、予は昨年暮あたりから予の心境の変化について、漸く或解釈がついた、 今の作家の人生に対する態度は、理性――冷やかなる理性と感情とだ、意志が入つてゐない、 意力! これだ、 二月二十二日 月曜 太田に約束した昴の原稿は今日までだ、頭の加減悪くてとうとう出来ず、(眠れる女)を(寝顔)とあらためた、 それから、嘗てかいた(二筋の血)をすつかり書直さうと思つた、これは全く新しいものにして或男が故郷へ帰つて東京にゐる友人へよこす手紙の体にするのだ、 太田君へ詫のハガキを出しておいて<四時頃北原を訪>夜、熊谷君へ行つて二円かりた、 夜橘ちゑ子さんの母君へ長い手紙かいた [摘要欄](寝顔) [発信欄]太田君へハガキ、智恵子さん母君へ [受信欄]飛川眞一封書、西村菜葩ハガキ 二月二十三日 火曜 明治史の文芸史をよむ、泡鳴のかいた新体詩史のうちに予のことも多少かいてある、 二月二十四日 水曜 記憶すべき日、 夜七時頃、おそくなつた夕飯に不平を起しながら晩餐をくつてると朝日の佐藤眞一氏から手紙、とる手おそしと開いてみると二十五円外に夜勤一夜一円づつ、都合三十円以上で東朝の校正に入らぬかとの文面、早速承諾の旨を返事出して、北原へかけつけると、大によろこんでくれて黒ビールのお祝、十時頃陶然として帰つて来た、 これで予の東京生活の基礎が出来た! 暗き十ケ月の後の今夜のビールはうまかつた。 [摘要欄]東京朝日入社のこと決す [受信欄]佐藤氏来信、北原君ハガキ 二月二十五日 木曜 ![]() 午後朝日社に行つて佐藤氏に逢ひ、一日から出社のことに決定、出勤は午後一時頃からで、六時頃までとのこと、 夜、その旨を太田北原二君、与謝野氏、及び函館なる家族へ知らせてやつた、それから岩動君へ手紙、 羽織を質におき、古雑誌を売つて、坪仁子及び堀田秀子へ電報うつた、 [発信欄]母とせつ子、与謝野氏、太田北原へハガキ、岩動へ手紙、 二月二十六日 金曜 午後一時、今ゆくといふ北原の電話、太田から三秀舎へ来てすけてくれといふ電話、やがて北原が来てくれた、そして一緒に三秀舎へ行つたが、太田がをらぬ、何処へ行かうと長いこと小川町に立つた末、新橋のステーションへ行つた、そして一時間許り何の意味もなく待合所に遊んで来た、人々のきれぎれの会話、色々な人相……面白かつた、然し少し寒かつた、 帰つてくると仁子から電報二〇デンカワセ云々、予は感謝する―― 夜また電話、太田が来てくれといふ、金田一君から電車代かりて三秀舎にゆき、十二時まで共に校正した、モウモウ編輯はせぬ――馬鹿は二度編輯しろ――と太田が言つてゐた、 そして帰つてくると二十円の電為替が届いてゐた、 [受信欄]坪電報、 二月二十七日 土曜 九時半頃出かけた、出かける前に母からと郁雨君から久振の手紙、郁君は病気がよいとのこと、そして母からの手紙のことについて書いてあつた、予の心は鉛――冷い鉛でおしつけられた様になつた、ああ母! いとしい妻! 京子! 母は三月になつたら何が何でも一人上京すると言つて来た、 二十円の為替を受取つて三秀舎まで歩いていつた、中西屋でオスカーワイルド論(アート エンド モーラリチー)を三円半に買つた! 何年の間本をかはぬ者の、あはれなる、あはれなる、あはれなる無謀だ! 二時頃一人岩動君をたづねたが駄目、 今日はパンの会なので先に一人ゆく、――両国へついたのは五時半だつた、誰も来てゐない、やがて太田が来、石井柏亭君が来、山本鼎君が来た、そして飲み且つくらひ、且つ語つた、そして九時半にそこを出て小雨の中を電車で浅草に行つたが、活動写真はもうハネてゐた、そして四人奥山の第三やまとでビールをのんだ、 そして帰りに四丁目で太田と二人スシを食つた、今日は太田と二人前はらつたのだ。 十二円五十銭許りしか残つてなかつた、 北原からハガキ、明日九時までに鈴木氏もくるから来いとのこと、 [受信欄]母、郁雨君の手紙、北原ハガキ 二月二十八日 日曜 十時頃起きて北原へゆくと、鈴木氏が来てゐた、途中足駄と傘を買ふ、 鼓村氏と共に大学館にゆき(鳥影)たのむ、十日頃来てくれとのこと、雨がふつてゐた、ソバをおごられ、予一人また北原の宅へゆく、 四時頃帰つて来て、宿へ十円やつた、百十何円へ十円! 然し朝日へ出ることになつたのは多少の信用を作つたらしい! 夜金田一君と語つて、遂に愉快でなかつた、独歩の正直者! 三省堂の齋藤の妻君! 三月一日 月曜 九時少し前起きる、 嚢中四十五銭、これではならぬとアート エンド モーラリチーを一円三十銭に売り、ツボへ感謝の電報を打ち名刺の台紙を購ふ、 昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて瀧山町の朝日新聞社に出社した、 ![]() 社会部の主任渋川玄耳といふ人は、髯のない青い顔に眼鏡をかけてゐた。 五時頃初版の校正がすんで、帰つてもよいといふ、電車で帰つた、そして飯を金田一君と共に食つて、そして湯に入つた、八時頃太田君が島村君をつれて来て、十一時頃まで話して行つた、 [摘要欄]本日より朝日社に出社、 三月二日 火曜 今後朝起を励行することにして、九時前目がさめるとすぐとびおきた。 そして久振に宮崎君へ長い手紙を認めた。 出社、事故なし。 かへりて晩餐を認め、並木君を訪ふて時計をかり、典じて八金を得、天宗にのんで、先に北原と行つた時の借を払ふ。フラフラとして帰つて来て(趣味)を枕の上でよむ。秋江氏の(一人娘)は多分大館のことをかいたのだらう。 堀田秀子さんから手紙、森先生から歌会の案内状、 [発信欄]宮崎君へ長信 [受信欄]堀田秀子封書、森先生ハガキ、光子ハガキ 三月三日 水曜 七時頃おきる。今日から可成煙草を節約すること、往復の電車の中でジヤーマンコースを勉強することを励行する。五十回券を買ふ。名刺たのむ。 宮崎君へ続信。 夜金田一君と語る。興再び来らず! 二時頃まで読書。中央公論の葉舟の(ある女の手紙)をおもしろく、感心して読んだ。 [発信欄]宮崎君へ続信、 三月四日 木曜 九時起床、並木来り一円持つてゆく。 岩手日報に、石亀守人、伊東圭一郎、小澤恒一、田鎖徹郎、阿部修一郎、柴内保次連名の小野弘吉君を弔ふ文が出てゐる。ああ小野君! これらの人数、最も先きに小野君と最も親しかつたのは誰か? 小野君は二月二十二日に死んで二十六日に葬られた、農科の三年だつたのだ。旅中九戸郡江刈村で病気にかかつたのだといふ。 社、無事、鹿目君と知る。 帰つて晩餐をしたため、湯に入つてると豊巻君が来た。かりてゐた五十銭を返した。そして十一時頃まで語つた。――主として女のこと、結婚のこと。最後に(寝顔)の話をした。 三月五日 金曜 曇 七時起床、七銭しかないので、煙草もかはずに北原へゆき、一円かり、昼飯を御馳走になる。詩集は十日過ぎになるとのこと。 社から帰りの電車の中で一美人を見、柳町でおりる。七時頃、久振で吉井が泥酔して来た。予はいひがたき嫌悪といひがたき哀愍の情を以て迎へた、そして今夜泊めてくれといふ! 下宿では飯を出さぬさうだ、芳町自廃芸者みのる(一九)と外に改盛座の幕引と一緒にゐたといふ。二三日たてば神田鍋町の常磐津の師匠の家へうつるといふ。八時頃に寝かした。 それから金田一君のために質屋に行つて質を出してきた。 [摘要欄]吉井とまる 三月六日 土曜 曇 雨 暖 七時前に吉井が起きたので、起きた。そして十時半まで話したため佐藤氏を訪ひかねた。吉井は電車賃も持つてゐなかつた。そして相かはらず不得要領なこと許り言つてゐた。曰く、佐世保の女と結婚するとためにならぬ、然しやつぱり自分を思はせてゐたいと。……そして妙な男共と交り、日夜酒に浸つてゐる。ああ、吉井はモウドン底におちた! もがけ、もがけ、そして上れ! ![]() 智恵子さん母君から葉書、十日許り前からまた熱が高くなつたので、いつ退院するもしれぬとのこと。 今日は森先生の歌会だが、行かれぬので手紙で申訳をかいた。 大分社中の様子に慣れて来た。 十一時まで金田一君と語る。夜に入つてから雨声断続。雨だれの音のわびしいわびしいそして温かな晩だ。 岡山の白虹社から(予の地方雑誌に対する意見)で答を求むるハガキ。(新文林)といふ雑誌三月号送つて来た。それから小田島孤舟からハガキ来る。 一時ごろまでかかつて仁子へやる手紙認めた。 [発信欄]森先生へ。 [受信欄]橘母、白虹社、小田島孤舟よりハガキ。(新文林)三月号 三月七日 日曜 曇 暖 前夜の雨でまた暖かくなつた。今日は入社以来初めての休み、別に休日はきまつてゐないが、申合せて一週に一日の平均で休むのだ。 午前に木浦の八重樫君と智恵子さんへ手紙、それから小林茂雄君へハガキを書き、昨夜の手紙と共に投函。名刺はまだ出来ぬ。久振で与謝野氏へゆくと、晶子さんが三日に産して生れたのは男の児、産後の肥立が悪くて熱が出てるとのこと、与謝野氏は寂しさうにまた不安さうにして、晶子さんの代りの歌の選をしてゐた。予は頭がくらくなつて辞した。 帰つて陰気に夕を迎へ、平出君から来てくれといふので行く途中、電車の中で米内淳次氏に逢つた。平出君はまだ病院にゐる。一人でスバルの事を心配して相談によんだのだ。十時辞してかへる。 今日は万事よくない――さりとて悪くない――日であつた。 [発信欄]坪仁子、橘智恵子、八重樫勇君へ封書。小林君へハガキ。 [受信欄]小林茂雄君、平出君のハガキ、 三月八日 月曜 スバル三号とどいた。森先生の(半日)を読む。予は思つた、大した作では無論ないかも知れぬ。然し恐ろしい作だ――先生がその家庭を、その奥さんをかう書かれたその態度! 新文林編輯局へ手紙、出す。 社では何事もなかつたが、だんだん慣れるにつれて面白くなつた。 帰つてくると電車の中で日澤君にあつた。森先生からハガキが来てゐた。――(御書状拝見とにかくパンの木御発見被遊候由珍重珍重、先月の「足跡」処々の評に不拘好き出来と存候、先日上田敏にも相話候事に候。新聞のシゴトの許す限り著作にご努力所祈に御座候)―― 金田一君と語つた。どうせ世界は人類の生息にたへなくなる――その時のことを語つた。結局人間はつまらぬもの。人工避妊法の進歩は実際十九世紀文明の最大功績で、そして最も皮肉な人類の反逆だ。そして英雄とは人間の或る緊張した心状態の比較的長いもの――天才は注意力の長い人と心理はいふ――英雄天才との差異は、素質の相違でなくてその状態の時間の問題だ―― 予は人生全体に波をつたへるやうなことを発見したい。文学! それも狭い、絶対の価値といふものがないとすれば、人は、ああ! 枕の上で深更までに風葉の(春潮)をよんだ。 今日スバル三号平山良子へおくつた。 [発信欄]新文林社へ、平山へスバル、 [受信欄]森先生ハガキ、 三月九日 火曜 曇 暖 空が曇つて、今にも降り出しさうな生温かい日だ、途はぬかつてゐる。 出社の途中大学館へゆくと、急がしくてみないでゐるからアト五六日たつたら来てくれとの返事。少し早いので新橋のステーションへ一人行つてみた。 社で中村蓊といふ人と話した。生田森田辻村君らの友人で文学士、予は忘れてゐたが以前二三度逢つたことのある人だ。案外知らぬところに知つた人がゐるものだ。 夜在原君を訪ねたが不在、豊巻君も不在、帰つて来て人を殺したい様にイライラした気持でゐると金田一君が来た。中嶋孤島君の話。 黙つてゐると、何かかう手当り次第に破壊して了ひたい様な気持になる。そのくせ何もしたくない。生そのものに対する倦怠厭悪とはこれか! 何も考へたくなかつた、そして何も考へなかつた。頭が熱してゐる様で、ボーウとしてゐる。 価値! 価値! ああ、何が価値のある事なのか? 十時頃に寝て了つた。 [受信欄]平山良子ハガキ、岸本與十郎手紙、 三月十日 水曜 雨 暖 七時頃に起きた。雨。今朝の新聞は面白かつた。昨日の議会の三税廃止案の舌戦も愉快だ。多数党の横暴! それが却つて反語的に面白い。監獄から出た許りの或る男が八銭の飲食代に困つて小刀をふり廻し、ランプをたたきおとして火を放ち、そこからノコノコ出てトある橋の上で十二になる女の児が子供を負つて子守唄を唄ひ乍らくると、エエ面倒臭いといつてそれを河の中につきおとしたといふ。一方には大学生で行方不明になつたのがある、又一方では奉天会戦の時一軍医が繃帯まきのいそがしさに発狂して、何をいひつけてもニヤニヤ笑つたといふ話がある。また実子をしめ殺した話がある。……生きた世の中の面白さ。ああ、然しそれと予との間に何の関係がある。予は戦ひたくなつた。 今日も大学館によつてみたが、昨日と同じ返事。下宿屋へ今日までの約束だつたので、仕方なく佐藤氏に前借のことをたのむと面倒だからと言つて、自分で二十五円かしてくれた。 終日の雨、帰つて来て二十円下宿屋へ払ひ、(平出より電話)九時頃出かけて、ああ、浅草に行つた。雨の浅草! つかれて腹がへつたので、馬肉屋でめしをくつて車でかへる、十二時半。 三月十一日 木曜 晴 暖 晴れた。今年になつての一番あたたかい日。 九時半菓子折をかつて麻布霞町に佐藤氏を訪ねて礼を言つた。かへりに鈴木氏をとふと不在、蒲原氏を訪ふて三十分許り雑談。 今日初めて渋川、西村の二氏と話した。 かへりに平出へよる。四号は吉井がやるさうだ。予は近頃実に吉井がイヤになつた。 九時在原君をとふ。十時帰る。夏蜜柑まだ味酸し。 電車であるいてゐると、方々の邸の梅の花がさいてゐた、佐藤氏の宅で鶯の音をきいた。春! 三月十二日 金曜 曇 雨 せつ子から手紙。 貸本屋から葉舟の(響)をかりる。 ![]() わびしいわびしい雨の音、雨滴の音……それを聞いてゐると、目を瞑ってきいてゐると、渋民の寺にゐた頃の、静かな、わびしい、そして心安かつた夜の雨がしみじみと思出された。窓をあけて見ると、雨の中に無数の燈がみえる。ぬれた、さびし気な光だ、その間に電車停留場の青い火、赤い火がみえる、それは泣いてるやうだ。 ああ、自分は東京に来てゐるのだ、といふ感じが、しみじみと味はれた。そして妻や母のことが思ひ出された。かの渋民の、軒燈一つしかない暗い町を、蛇目をさして心に何のわづらひもなくたどつた頃のことが思出された。大きい都会、その中に住んでゐる人は皆生命がけに働いてゐる。……その中に自分もまぎれこんでゐる。……ああ、自分は働けるだらうか、働き通せるだらうか! 雨の音がわびしい、そのわびしさを心ゆくまで味はつて、そして、出来ることなら自分の身についてのすべてのことを泣いてみたい様な気がした。 そして寝てから、女中を呼んで雨戸をあけさした、戸をあけると、雨の音が一層強く聞える。しめやかな音だ……ポチヨリポチヨリ、と雨滴が亜鉛の樋におつるのが、恰度、かの渋民の寺できいた、屋根もりをうける盥におつる音に似てゐる……いひがたきさびしみの喜びに眠つた。 [受信欄]せつ子手紙。 三月十三日 土曜 風 風が烈しく吹いた。 朝に与謝野さんから電話。午前をジヤーマンコースで送つて、昼飯がすむや否や古本屋から(生)をかりて与謝野氏へ行つた。晶子さんは少しいいさうだ。与謝野氏は創作の事について真面目になつてゐる。朝日へかくのを(第一歩)と題するといふ。ああ、与謝野氏は、小説のために真面目になつてるのではない! 生活の為に! 今日は帰りに西村酔夢君と電車で同じに乗つて話した。(動物界消息)を受持つてると。 夜、近所の徳田秋声氏を訪ふたが不在、ミルクをのんで帰つて、(響)をよみながら寝た。十一時頃強い地震があつた。 三月十四日 日曜 晴 暖 午前は独逸語でおくる。 うららかに晴れた、春らしい天気だ、午後金田一君と、久振りに興に乗つて文学のこと社会問題などを論じた。予は岩野君を激賞した。 そして四時頃から二人で散歩に出かけ、浅草に行つて活動写真を見、それから塔下苑をどこといふこともなくあるいた。三軒許り入つて茶をのんで出た。友はしきりに或る昂奮の状態を示してゐた。帰つたのはモウ十二時過ぎ、広小路の牛めし屋でいくたの自由思想家の酒をのんでるところで飯をくつて来た。 日曜らしい日曜だつた。 三月十五日 月曜 晴 一寸与謝野氏へ寄つてゆく。大学館へ約の如く行くと、まだ読まないから読み次第当方から通知するといふ。予は怒つた、然し何ともすることが出来なかつた! 夜は独逸語で十二時まで、 三月十六日 火曜 曇 空は曇つてゐて、少し寒い日であつた。九時半頃に並木君におこされた。予は何故か愉快でなかつた。並木君帰つて藤岡長和君が来た。藤岡君帰つて昼飯。 イヤな気持に捉へられて起ちたくないのを無理に出社した。五十回券の残りがあるからよいやうなものの、一昨夜スツカリつかつて了つて財布には鐚一文ない。 三月十八日 木曜 午前久振に太田来り脚本(夜)の話、 三月十九日 金曜 平出へよつて一円かりる。 かへりに坂で矢野真直君に逢つてつれこみ、十一時まで語る。 朝に久振に吉井来る。 三月二十日 土曜 雨 (春)をよむ。 かへり雨にふられ、車でかへる。 雨の夜。(春)をよむ。 三月二十一日 日曜 晴 暖 日曜に春季皇霊祭で休み、夜来の雨晴れて温かし、 おそく起きた、一時頃与謝野氏を訪ふ。平出君も来た、晶子さんはモウ起きてゐる。三時半頃主人帰り来る。 やがて上田敏氏が来た(足跡)の女教師が面白いと言つた、平野が来た、アノ後初めて逢つた。 めしを食つて辞し浅草新片町待合のならんだ町に島崎藤村氏を訪ふ。九時半迄話した、おとなしい人だ、しつかりした人だ、話は面白かつた。 [摘要欄]初めて藤村氏に逢ふ。 三月二十二日 月曜 夜花明兄と駿河台に中島孤島君を初めて訪ふ。髯のない、眼鏡をかけた、どこか声の鼻がかつてゐる、左程快活でない男で、起るべき文芸革新会の事で話が持切つた。革新会といふのは詰り文壇の不平連だと孤島君も言つた。明日宣言書を発表するといふ。 [摘要欄]中島孤島君に初めて逢ふ。 三月二十三日 火曜 雨 吉井君来る、 夜、雨声をきいて、「島田君の書簡」を考へた。 三月二十四日 水曜 晴 暖 ハガキ四五枚出した、 今日は今年中になつてからの一番温かい日であつた、あるいてると汗が流れた。春! 春! 夜スバルの為に「島田君の書簡」をかく、興奮して興奮して三時までに漸く十一枚、 [摘要欄]「島田君の書簡」 [受信欄]菅原芳子手紙 三月二十五日 木曜 晴 暖 今日は社の月給日、二十五円受取つて、そして一日見ただけで佐藤氏に返して了つた、前に借りてゐたつたので、 イヤな日だつた。(書簡)到々間にあはなかつたので朝に吉井へ詫のハガキ、 夜、生田長江君が留守中に来たといふので、湯にはいつてから訪ねると不在、豊巻君も不在、 三月二十六日 金曜 折悪しく電車賃もなし、「最近文壇の変調」といふ論文――積極的自然主義=新理想主義の標榜――を書かうと思つて社を休む。 そして二三枚書いたつきり 三月二十七日 土曜 六時半頃湯に入つてると、生田長江君が生田春月といふ十八になるといふ無口な、そして何処か自信のありさうな少年をつれて来た、そして十時半まで喋つて行つた。新しい結社! 少数でも自惚の強い奴許り集つて呼号する結社、それを起さうではないかといふ話。予は種々な消極的な理由が主で、大賛成した。ピストルと校正は引受ける、と予は言つた。森田草平君阿部次郎君鈴木三重吉君などが吾らの指に折られた。 それを金田一君に話すと、飼つてゐる馬か何ぞが、埒を破つて野に奔馳してゆく様で危険を感ずると言つた。ああ 出社の途中大学館に行つた。 三月二十八日 日曜 昴の相談会を与謝野氏宅で開くといふハガキが来てゐたので、十時頃にゆくと、会場は平出君宅だといふ。行つてみると誰も来てゐない、十二時過ぎて太田が来た、悄気てゐる。やがて吉井が来たときには予は出社せねばならなかつた。 晶子さんは肥つた、年増女らしくなつた。そして段々作家を職業とする女の風になつた! 夜、太田が何処かへ行かないかと言つて来たのを捉まへて、喋くつた。太田は鼻が悪いので頭がよくないと言つて弱つてゐる。そしてこれ以上居るとボロを出しさうだから帰ると言つて八時頃に帰つて行つた。 三月二十九日 月曜 出社の途中大学館に寄つた。中村武羅夫といふ人が原稿を返されて帰つて行つた。 三月三十日 火曜 約の如く今日こそはと大学館へ行つた。二時間も待たされてゐるうちに出社の時間はパツスした。そして「島影」の原稿を返された! 面当に死んでくれようか! そんな自暴な考を起して出ると、すぐ前で電車線に人だかりがしてゐる。犬が轢かれて生々しい血! 血まぶれの頭! ああ助かつた! と予は思つてイヤーな気になつた。 その儘帰つて来て休んで了つた。 夜、吉井の手紙――昴がおくれて困るから校正に来て助けてくれとの――を見て三秀舎にゆくと、モウ吉井は帰つてゐた。少しやつて帰つてくる時、京子の事母や妻の事が烈しく思出された。ああ三月も末だ、そしてアテにしてゐた大学館がはづれて、一文なしの月末! 三月三十一日 水曜 午前吉井が来た。困つてゐる、スバル四号は二日でなくては出来ぬ。吉井は病気をしたいと言つてゐる。病気! ああこれは今迄予の幾度考へた事であつたらう! 責任解除! 予は吉井を侮つてゐた。然し予と吉井と幾何の差ぞ。 今日も休まうかと思つて届書をかいたが、腹に力を入れて、そして破つて了つた。そして出かけた。帰りに三秀舎によつてみると、今夜は工場休み。 豊巻君を訪ねた。帰つて来て金田一君の室で十二時をきいた。 四月一日 木曜 到頭四月が来た。午前に源氏物語をうつて七十金をえ、髪を五分刈にしてくる。京都大学のテニスの選手が隣室に泊つたので大騒ぎ。 社から帰ると吉井から今夜こそ助けてくれのハガキ。イヤだと予は思つた。そしてフラリと八時頃に出かけて中島孤島君を訪ふた。得る所とても多かつた。そして金田一君が生田君と予との結社の話を中島君にした事を知つた。ああ、予は束縛をのがれたい、戦ひたい、皆を殺してやりたい。 十時頃帰つて来て寝て了つた。藤條静暁からハガキ。 [受信欄]藤條君吉井君ハガキ 四月三日 土曜 (※4月3日から6日まではローマ字で書かれています。日本語翻字で表示します。) 北原君のおばさんが来た、そして彼の新詩集“邪宗門”を一冊もらつた。 電車賃がないので社を休む 夜二時迄“邪宗門”を読んだ。美しいそして特色のある本だ。北原は幸福な人だ。 僕も何だか詩を書きたいやうな心持になつて寝た。 四月四日 日曜 (※ローマ字) 晴れた春らしい日だつた。午後、久しぶりに白山御殿に太田君を訪ねた。そして一円借りた。二三日前のこと、七八人の画家や詩人がとあるところで飲んだ時倉田白羊といふ画家はとうとうシクシク泣き出したさうだ――四時頃から浅草へ行つて、活動写真を見、帰りに上野へ寄つたが、桜はうす紅く蕾がふくらんでいた。 夜、山城政忠が来た。少し酔つぱらつていたやうだつた。僕は今夜初めて鉄のような心を以て人に対してみた。山城君は失望したやうな顔をして帰つて行つた。 [受信欄]節子から 四月五日 月曜(※ローマ字) “スバル”第四号が来た。森先生のはじめての現代劇“仮面”を読んだ。 夜、久し振りで阿部月城君が訪ねて来た。支那へ行つて来たのだと言つていた。相変らずホラをふいてる面白い男だ。 ……豆もやし……真棉――(八郎潟――沃土――棉――ソーダ――カルス――東京布団屋組合から年三百万貫(一貫十七銭)の約束。権利六万円。――ネジ抜き。―― アベ氏住所 青山原宿、二一四。 四月六日 火曜 曇、雨。暖 (※ローマ字) 朝九時頃、お竹が来て、ちょっと下へ来てくれと言ふ。朝つぱらから何のことだ! 下宿の主人からの談判だ。今日中に返事すると言つた。 北原君を訪ねようかと思つたが、その中に十二時近くなつたので、ごぶさたのお詫びを兼ねて、“邪宗門”についての手紙をやつた。――“邪宗門”には全く新らしい二つの特徴がある。その一つは“邪宗門”と言ふ言葉の有する連想と言ったようなもんで、モ一つはこの詩集に溢れている新らしい感覚と情緒だ。そして前者は詩人白秋を解するに最も必要な特色で、後者は今後の新らしい詩の基礎となるべきものだ…… 降つたり晴れたりする日であつた。社で今月の給料のうちから十八円だけ前借した。そして帰りに浅草へ行つて活動写真を見、塔下苑を犬の如くうろつき廻つた。馬鹿な! 十二時帰つた。そして十円だけ下宿へやつた。 [発信欄]北原君へ 【※明治四十二年日誌は4月7日以降、「ローマ字日記」として書き継がれます。】 ページトップ |
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石川啄木 啄木日記 |