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 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



渋民日記
明治三十九年日誌
 

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第13集
  発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷

なお、筑摩書房版全集と照合し、不突合の場合は調査、不明の場合は筑摩版を採用しました。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。
 石川啄木の日記「渋民日記」は明治三十九年(1906年)三月四日から同年十二月三十日まで記されています。
 但し、 四月三十日以降八十日間は日記の記述を中断し、後日、まとめてその間のことを「八十日間の記」としてまとめ、その後を書き継いでいます。
「八十日間の記」以降については、別ページとしました。

 MY  OWN  BOOK
FROM
MARCH 4.1906
SHIBUTAMI

明治三十九年日誌
渋民日記
                               西暦 一千九百〇六年
                               明 治 三 十 九 年

○三月四日。
 九ケ月間の杜陵生活は昨日に終わりを告げて、なつかしき故山渋民村に於ける我が新生涯はこの日から始まる。
 渋民は、家並百戸にも満たぬ、極く不便な、共に詩を談ずる友の殆んど無い、自然の風致の優れた外には何一つ取柄の無い野人の巣で、みちのくの広野の中の一寒村である。我が一家の此度の転居は、企てた洋行の、旅券も下付に成らぬうちから、中止せねばならぬ運命に立至つた事や、田舎で徴兵検査を受けたい為や、又生活の苦闘の中に長く家族を忍ばしめる事の堪へられなかつた為や、閑地に隠れて存分筆をとりたかつた為や、種々の原因のある事であるが、新住地として何故に特にこの僻陬を撰んだか。それは一言にして尽きる。曰く、渋民は我が故郷――幾万方里のこの地球の上で最も自分と関係深い故郷であるからだ。「故郷」の一語に含む甘美比ひなき魔力が、今迄、長く、深く、強く、常に自分の心の磁石を司配して居たからだ。愛と詩と煩悶と自負と涙と、及び故郷と、これは実に今迄の、又現在の、自分の内的生活の全部では無いか。或は人は、人間到処青山あり、心ある青年は故郷の天地にのみ恋着すべきでないと云ふかも知れぬが、さり乍ら、詩人たる自分の学ぶべき大学が、塵の都のいかめしい大建築であるとは思へない。故郷は、いはば、神が特別の恩寵を以て自分の為に建てられた自然の大殿堂である。忘れもせぬ一年の前、自分が東都の空にさまよふて居た頃、はからずも両親がこの渋民を見捨てねば成らぬ運命になつてからといふもの、自分は如何に幾度あたたかい涙を以てこれを悲んだか。故郷は実に無限の魔力を以て我が全心をひき付けて居たのである。春は春、秋は秋、年々に変り無き四季のめぐりを迎ふるにつけ、事々に思ひ出しては物狂ほしきまで一家渋民の話に夜の更くるをも忘れたものであつた。…………
 ああ、この世のいとも安けき港! その安けき港に今日から舟がかりする身と成つたのだ。恰も一の姉が鹿角の里で永眠した七日目、在天の姉が魂も必ずやこれからの我が幸を守つてくれる事であらう。
 父は野辺地が浜にあり。妹をば通つて居る学校の女教師の家に下宿さす事にして盛岡に残した。母とせつ子と三人、午前七時四十分盛岡発下り列車に投じて、好摩駅に下車。凍てついて横辷りする雪路を一里。街の東側の、南端から十軒目、齋藤方の表坐敷が乃ち此の我が一家当分の住居なので。
 不取敢机を据ゑたのは六畳間。畳も黒い、障子の紙も黒い、壁は土塗りのままで、云ふ迄もなく幾十年の煤の色。例には洩れぬ農家の特色で、目に毒な程焚火の煙が漲つて居る。この一室は、我が書斎で、又三人の寝室、食堂、応接室、すべてを兼ぬるのである。ああ都人士は知るまい、かかる不満足の中の満足の深い味を。
 取片付けや何やかや、有耶無耶の中に日は暮れた。晩餐には知人数名、祝のしるしの盃も四合瓶一本の古酒で事足りた。
 夜、これでとうとう渋民へ来たのかと思ふと、何かしら変な感じがした。安心した様な、気がぬけた様な……。枕についてから、今朝好摩からの途中、巡礼の六部に逢つて、姉の死んだのを思ひ出し、銅片を喜捨して立ち乍ら祈祷して貰つた時の心地を思ひ出して、何となく穏やかに眠についた。

○三月五日
 朝寝が有名の自分も、これからは早起しやうと思ふ。今朝の起床が七時頃。これで一日三時間づつ時間の経済がとれる割合。
 起きると新聞が配達になる。東京のが読売新聞、毎日新聞、万朝報、それに岩手日報を加へて四種。格別の記事もないが、近頃の新耳目は、天下の名士河野広中氏らの兇徒嘯聚事件についての警視庁の卑劣なる行動の曝露された事である。昨年九月五日、ポーツマス条約の屈辱に義憤を発して、国民大会が河野氏等の主唱の下に日比谷苑頭に催された。警視庁が無謀にもこれを暴力を以て禁止したのが、はからずも幾万愛国の赤子の怒を買つて、東京は忽ちに暴動の府となり、内務大臣官舎が焼かれ、幾多の警察署が破壊され、幾百の交番も焼打の的、あはれ聖代帝闕の下、叫喚の風潮の如く、義憤の猛火全都に漲つた。巡査が抜剣する、戒厳令が布かれる、河野氏等を初め二百幾十名は直ちに兇徒嘯聚罪として検挙されたのであつた。かくて今年その公判が開かれるに及んで、図らざりき、国民の安寧を保護する筈の警視庁が、諸名士を罪に陥れむがために、幾百の黄白を散じ、無腸漢を買収して殊更に神聖なる法廷に偽証を申立てしめむとした事が天下に曝露されたのだ。最後の勝利は正しき者の手に落つるとは云ひ乍ら、警察権の不信今日の如くば、国民は何れのときに安んじて眠ることが出来やう。
 目下政界争論の焦点は鉄道国有案である。国家経営上の利便と社会政策的見地からは可とせられ、事業の前途のためと国益増進の立脚点からは否とせらるる。読売は賛成し、万朝毎日は非国有に傾いて居る。自分の考へでは、どちらでもよいやうなものの、便利だから乗るには乗るが一体が汽車は嫌ひだ。今迄の実見によると鉄道員に一人として面白い人相を持つた男が無い。若し此上彼等にお役人風でも吹かせられた日には、たまつたものでない。
 加藤外相はこの鉄国案を以て国家経済の前途を誤るものとし、内閣諸公と議合はずして、就任以来僅か一月なるに断然冠をかけて野に下つた。世評は、あの決断によつて彼は猶政治的生命を保ちうるといふに一決して居る。惜しむらくは此決断は今少し早く、戦時税継続策の当時に於て既に決せらるべき性質のものであつた。
 最善最美なる政治とは、民族を代表する大人格的天才によつて行はるる政治である。若し不幸にして国民がかかる天才を有せぬ場合には、不止得国民多数の意志を体現したる政党内閣を組織するより外に政治の美果を収むる道が無い。(尤も今日の如く腐敗したる党人の多い時代は、又別途の観察を要するが。)現首相西園寺氏は、兎に角に最も勢力ある政友会の総裁たる人である。この政党主領によつて組織された新内閣は、果して真の政党内閣といふ事が出来やうか。椅子の分配にさへ、民人の怨府となつた前内閣の首相と相談したとか。本年度の予算の如き殆んどその全部を踏襲して居る。言訳はどうにも出来やうが、これで内閣交迭の実が何所にある。戦時税継続案もさうだ、鉄道国有案もさうだ、利に傾く多数の党人を籠蓋して、前内閣と同じ狂暴を逞しうして居る。人は人材内閣といふ。しかも、同じ理想の下に統一を保つてこそ人材もその人材たる光を充分に発揮するもの、各々種々の関係から余儀なくされた結合が何で人材内閣の美名に背かずに居られやう。交迭以来一ケ月有余にして早く有力なる外相の掛冠を見るに至つたのも、恐らく這般の消息を伝ふるものではないか。
 近時世界外交局面の花形役者は、矢張り独逸皇帝である。モロツコ問題活殺の鍵も今は明かに彼が掌中に握られて居る。近くは、南清に暴徒起り北京の巡査も銃器を提げて変にそなへるといふ今、清国撤兵を主張するのも尋常の魂胆ではないらしい。ああ矢張り一代の政治的天才ビスマークを生むだ国は流石に伊藤博文の故国よりは豪いところがある。
 「毎日」には社会主義者木下尚江が第三の小説『新曙光』が載つて居る。「読売」の小栗風葉君作『青春』秋の巻は休載中。
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 午後女教師上野さめ子女史が来た。熱心なクリスト教信者である。自分は、我等が神人クリストに就いて思ふうちで、クリストも亦人間であつたと思ふ程力と慰めを与へる事はない、と語つた。又、黙祷によつて心を安めた実験や、この世の事々物々皆何事かの暗示象徴であると思ふ事なども語つた。それから、移転早々から小遣が無くて困るので三円だけ貸して貰つた。
 晩餐を共にし、夜、せつ子と三人、それに村の児達を伴ふて川崎まで行つて来た。月光洽ねく、岩手の山神々しく、天地闃として音をひそめた寂静の裡、堅雪を踏んで、無邪気な追懐に辿りゆく心地は、とても筆にも語にも尽されない。
 佐々木孤舟から手紙と『紫玉遺稿』とを送つて来た。遺稿には我が序文が載せてある。
 知人への通知を書く。曰く、天下の逸民啄木、今度はグツトおとなしく出て、再び故山渋民村の住人と相成申候。草々。

○三月六日。
 尽日雪ふる。無事。ヰオリンを弾く。
 自分は今迄あまりに繁く刺激を受けた。これからは静かに考へねばならぬ。そして書かねばならぬ。小説を書かねばならぬ。
 客があつた。

○三月七日。
 寒気つよし。
 『明星』三号来る。万里君訳トルストイの「楽人のおとろへ」を面白く読んだ。創作には、短歌の外注目すべきなし。蕭々君の長詩、我はとらず。
 一昨日も昨日も今日も、高等科の児等が遊びに来た。恐らくこれから毎日来ることであらう。一体自分はよく小児らに親まれる性と見える。そして自分も小児らと遊ぶのが非常に楽しい。自分がヰオリンをひいて、小児らが歌ふ。無論極めて無邪気な小学唱歌だ。何か譚をしてきかせるとおとなしく真面目に聞いて行く。ああ若し我にして多少なりとも善良なる感化を彼等に与へうべくば、彼等の為めに毎日二時間や三時間を費しても、些の惜む所はない。今の世に自然のままの飾気ない心情を持つた者を尋ぬれば、無学な農園の野人と小児の外には無いのだ。
 沼田丑太郎君を始め、村の人々、毎日来ては茶をのむで話をして行く。ここ暫くのうち、まだ筆をとる程の時間もないらしい。

○三月八日。
 故郷の空気の清浄を保つには、日に増る外来の異分子共を撲滅するより外に策がない。清い泉の真清水も泥汁に交つて汚水に成る。自然の平和と清浄と美風とは、文明の侵入者の為に刻々荒されて、滅されて行く。髯の生へた官人が来た、鉄道が布かれた、商店が出来た、そして無智と文明の中間にぶらつく所謂田舎三百なるものが生れた。ああ、蘇国に鉄道の布かれた時、ライダルの詩人が反対の絶叫をあげた心も忍ばるる。文明の暴力はその発明したる利器を利用して駸々として自然を圧倒して行くのだ。かくて純朴なる村人は、便利といふ怠惰の母を売りつけて懐を肥す悧巧な人を見、煩瑣な法規の機械になり、良民の汗を絞つて安楽に威張つて暮らして行く官人を見、神から与へられた義務を尽さずにも生きる事の出来る幾多の例証を見た。かくて美しい心は死ぬ、清浄は腐れる、美風は荒される、遂に故郷は滅びる。賢明なる学者はこれを社会の進歩だ、世界が日一日文明の域に近づくのだと云ふ。何といふ立派な進歩であらう。いかめしい教会が到る処に立てられて宗教の真の信仰が段々死んだではないか。法律が完成して罪悪が益々巧妙になつたではないか。外界の進歩は常に内心の退歩だ。世界の初めの日には精神ばかり存在して居た、世界の終りの日には形骸ばかり残るであらう。文明は矢張り人の作るもので、神のあづかり知らぬ所であらう。抑々人が生れる、小児の時代から段々成人して一人前になる。成人するとは、持つて生れた自然の心のままで大きい小児に成るといふだけの事だ。しかるに今の世に於て、人が一人前になるといふ事は、持つて生れた小児の心をスツカリ殺し了せるといふ事である。自然といふ永劫真美の存在から、刻々離れ離れて遂に悖戻の境界に独立するといふ事である。山には太古のままの大木もあるが、人の国には薬にしたくも大きい小児は居なくなつた。ああ、大きい小児を作る事! これが自分の天職だ。イヤ、詩人そのものの天職だ。詩人は実に人類の教育者である。
 今日、小児らと共に寺の小僧が来た。無論他郷者である。自分は今迄これ位厭な卑俗な人相を見た事がない。年は十八だとか。その又音声の厭な事。これも悪むべき侵入者の一人である。よしや彼が一の悪事をも成さなんだにしても、純朴な郷人の心には、彼のこの卑俗な人相を一見しただけでも恐るべき悪寒化が刻まれるのだ。自分は何とかして、世の中の斯ういふ人相の悪い者共を一括して何処かに推し込める工夫はあるまいかと思つた。そしてこの村の寺といへば、自分が十幾年の間育つた所ではないか。その寺が今こんな奴の蹂躙に委せられてあるのかと思ふと、実に何とも云はれぬ厭な心持がした。
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 芸術の人は汎く一般人類の教育者である。然し乍ら、詩乃至一汎芸術が教育の奴隷ではない。寧ろ教育なるものは、芸術のうちの一含蓄に過ぎぬ。人間教化の要求が、芸術の内容と分離して、実際的になり直接的になつて初めて普通の所謂実際的教育なるものが起つた。
 芸術の内容、乃ち生命、と分離したものであるから、教育それ自身は本来空虚である。死物である。残骸である。ただ、芸術の内容の代りに、教ふる人の人格と結びついて、初めて充実し、生命を得、効果ある真の教育と成る。
 芸術は人間最高の声である。直ちに宇宙の内在に肉薄した刹那の声である。されば、教育が本来人間と密接であるに反して、芸術はむしろ神に近い。さればその教化的勢力は、較?間接的である。一旦美の浄苑に人の心を誘ひ出して、それから神秘の窓をひらひて宇宙の大道を示すのだ。例へて見れば、実際的教育は直接に人の家におとづれて物を与へる様なもので、芸術は先づ自分の家に人を招いて饗応して、それから帰る時にお土産を与へてやる様なもの。
 教育は芸術の司配者ではなく、寧ろ芸術の中の一含蓄である。古来の大芸術品には、作者の意識と無意識に論なく、必ず何らかの深大久遠なる教訓が含まれて居る。之に反して教育も、その結合したる人格によつて神に近づくに従ひ、何らかの芸術的形式を備へる様になる。千古の大教育者クリストの一生は渾然たる大詩篇を成して居るではないか。教育と芸術との関係は斯くの如くであるから、若し芸術を教育の目的に用ゐ、未だ完たく美の溶炉の中に陶溶せられざる思想を芸術に表はさむとする事があるなら、それは恐るべき芸術の敵である、堕落である。
 尚一言すべき事がある。善悪は相対的評価で、真と美とは絶対的存在であることだ。そして実際的教育の教ふる所は善であるが、芸術の教ふる所は、善――道徳以上に、真と美とである。
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 夜、加留多会へ行つた。田舎でこの村の位加留多の盛んな所は滅多にない。これは再昨年自分がやり出してから一村の子女皆この優しい遊戯に興味を持つ様になつた結果だ。感化といふものは恐るべき勢力を持つて居るものだ。
 云ふまでもなく自分が一番うまい。

○三月九日。
 上天気である。今日は旧暦二月十五日、一村業を休む涅槃会だ。梅も咲かぬ、桃も咲かぬ、あたりは皆雪だが、何となく空も霞む温かな春日和、穏やかに明けて穏かに暮れた。
 新紙に一記事あり、曰く、東京感化院では、春情発動後の少年はどうしても感化し了せる事が難しいから、それらの者は入院を拒絶して居る、と。一寸見ると何でも無い事であるが、社会教化の上から考へれば、誠に重大なる注意を払ふべき問題である。成程、春情発動期前の無邪気な、天真なものは、比較的簡単な方法でも感化し服従させる事が出来やうが、多少自家の経験と智識とを有して居る者は、さう易く我を捨てるものではない。然しこれは “Uncle Tom's Cabin”を読んだ人には、直ちに解釈される。曰く、ただ神の如き誠意あるのみ。
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 夜、小学校へ遊びに行つた。
 世の中で頭脳の貧しい人だけが、幸福に暮らして居る。彼等は真の楽しみといふものも知るまいが、又、大なる不幸といふ事を感ずる事がない。進むには足を動かさねばならぬ。足を動かせばそれだけ労れる。彼等は立つて居る、同じ所に立つて居る。誠に平気なものだ。
 その代り、朝生暮死の虫けらと同じく、彼等の生活には詩がない。詩のない幸福! ああ、若し自分が一瞬たりとも彼等の平安を羨ましいと思ふ事があるなら、それは自分に取つて最大の侮辱である。何といふ事であらう、自分が今度この故郷の住人に成つたのは、果して彼等と同じ平安、彼等と同じ幸福を得んがためであつたらうか。否、否、否、たとへ如何に平和な境遇に居ても、自分は心の富のために不断に戦ひ、苦しみ、泣かねばならぬ運命を荷つて居る。さうだ、矢張り自分の霊魂はただ戦闘と不幸の空気の中にのみ生活する事が出来るのだ。日が東の山に落つる事があつても、一度覚めた心の初日の眠る時は無い。ああ永久の不幸! 生ける詩の生活! 絶痛なる生命の音楽をきく思ひがする。真の幸福は不幸なる者にのみ与へられる。イヤ、真の幸福とは清浄なる不幸それ自身の一異名である。
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 月下、ヰオリンを弾き乍ら帰つて来て、穏かに枕についた。新生涯も明日で一週間に成るが、自分はまだ何事をもしない。ただし以前と変つたのは心の非常に穏かになつた事である。神は事業の前に休息を与へたのであらう。何も急ぐ事はない。
 京なる渡部虹衣と杜陵なる岡山月下より来信あり。昨日妹から来た手紙には今日返事を出した。この二三日に借金の催促状来る事二通。

○三月十日。
 無事。夜、室内の壁に壁紙を貼る。
 虹衣君へ発信す。

○三月十一日
 尽日降雪。夜客来る。
 与謝野氏へ詳しき消息を認む。『今迄生活の苦闘の冬枯の中にいぢけ候ふ私、これよりは心の枝に立ちかへる春を楽しまばやと思ひ候。……心は遠くかけり去なむの欲念にひねもす羽搏ち悩み乍ら、身は痩せて麻の如く弱く、あまつさへ人知らぬ逆運の鎖につながれて動きも成らぬ私、暫らくは我慢の櫂を折り、妄念の帆綱たち截りて、一夜なりとも安けき眠りを求めでは、所詮この世の荒海にまめまめしく永らふる事叶ふまじくと覚え候。死も時に親しき友の如く相見え候へども、様々の事共考へ合せ候へば、矢張り私はまだまだこの世に永らへねばならぬ身に候。さらむからに、かかる私がこの全身心を投げ出して打ち委せつべきもの、二十とせの恋人なる故郷を除いては、幾十万方里の世界の中、いづこにか求め候ふべき。げに、幼児の如き愛着と、尽くる事なき追憶に充ち満ちたるこのなつかしきふるさとの清浄なる空気を除いては、今の私を癒すべき霊薬、いづれの所にも見あたるまじくと覚え候。……私が一度温かきこの自然の殿堂の懐に抱かれ候時は、乃ち私が一切の浮世の苦しみと怒と不平とより脱して、清浄なる涙とたとしへなき心の楽しさに迎へられつつ、法恵の雨しとどなる詩神の国に行く時に候。十歳の春よりこの方、他郷にのみさすらひ候ふ私、人に立ち超えて、冷たき涙の味はひと、泣くよりつらき笑とを屡々甞め候ふだけ、故郷の一語に含まるる様々の勢力を、最もよく領解いたし居候。現在の私は年歯こそ新潮の気を負ふ人生の春の初めにはあれ、実は一ケ蒼白なる生活場裡の敗亡者に候。否、否、戦は一生の事、既に戦に臨むだけの意気を消し去りたりとには無之、いはば、年若くして分外の重圧を負ひ、老ひて髪白き双親とうら若き妻とを持ちて、はからずも人生の渦乱の中に投ぜられ候ふ事なれば、我とわが感情に敗れたるものに候。ああ傷負へる若鷹は、今又遂にもとの古巣にかへり候。……外界に対する私の第一期の活動は、見ん事ここに失敗を以て終りを告げ申候。今迄は私、あまりに繁多なる刺激に心疲れて、静かに物を考ふる暇をだに有せず候ひき。これからの私は、先づ第一に大に考へねばならず候。来るべき私の新生涯は、実に私の精神上に於ける革命と建設の時代ならざるべからず候。宇宙の大霊の極めて森厳に極めて温かに我を圧し我を抱く事、今や殆んど一瞬も忘るべからざる私自身の経験也、希望也、要求也、智識也。点々として脈絡なく散離せる一切の事物は、今や何ものかの一の力によつて、渾然たる一個の生命体たらむとするものの如く見え候。申す迄もなく私は今猶やるせなき愁ひに骨けづらるる寂寥の児に候。ただこの間一抹の春温を洩らす見えざる隙間あり、隠現浮沈定かならざる乍らに、猶遂に完たく之を否定し去る能はざるあるを覚え候。……私はこの度の田苑生活のうちに、専念詩筆をみがくの覚悟は申すまでもなき事乍ら、猶外に数篇の小説と、或る別種の著述二三とを脱稿いたしたき心願に御座候。……又、来る四月より当村小学校に教鞭をとる筈に相成居候。月給八円の代用教員! 天下にこれ程名誉な事もあるまじく候が、これは私自身より望んでの事に御座候。但し、自己流の教授法をやる事と、イヤになれば何時でもやめる事とは、郡視学も承知の上にて承諾せしのに候へば、私の姓名の上に、渋民尋常高等小学校代用教員(月給八円支給)といふ肩書のつく間が、数ケ月なるか、数ケ年なるか、私にもわからず候へども、とにかく私はこの機会を以て、天真なる児童の道徳、美、乃至宗教に対する心理を、ある目的のために出来るだけ仔細に研究して見るつもりに御座候。私もこの故郷の狭き天地にありては、案外の信用もあり勢力もあり、たとへ俸給と席次が末席でも一村の教育に就いては、思ふままになる次第、あまり自慢にも成らぬ話に候へども、私に教へらるる児童は幸福なることと信じ申候。小児と遊ぶが大好きの私、何はともあれ、教壇に立つの日を少なからぬ興味を以て鶴首いたし居候。……平野君訳トルストイの「楽人のおとろへ」読み候ふ節は何かは知らず極めて痛切に感ぜらるる節ありて、枕につきてよりひとり涙を流し申候。……』

○三月十二日。
 天下太平。日本無事。六畳の一室に三人も雑居しては、何もかく気に成れない。妹から金の請求状が来た。客のない日とては無いが、ツマラヌ話ばツかり。こんな風では頭が貧乏になるではないか。イヤイヤ、今月中だけはこれで仕方がない。小児らが毎日来るのは一番愉快だ。
 今日から綿入を脱いだ。みちのくの三月、雪が一尺もある国で、袷に襦袢で平気なのは、自分と凶荒に苦しむ窮民のみであらう。そのためでもあるまいが、この夜、政府が窮民に売る一食一銭六厘の軍用パンを小児らに買はして喰つて見た。

○三月十三日。
   春月は高士臥すなる大林の若芽する夜にさしそひにける。
 何となく不愉快な朝。ふと、この歌が出来た。今朝の自分は。全たく、ひとりで斯ういふ所へ行きたかつた。秋水三尺の日本刀を、抜身のままで床の間に飾つて置いたら、気持がよいだらうと思つた。誰かと思ふ存分喧嘩して見たいと思つた。何か魔術でも覚えて、天下の人を存分愚弄して見たいとも思つた。
 こんな考への浮ぶのは、以前は珍らしくもなかつたが、渋民へ来てから今日が初めて。一体自分は、性質として、総て、然らずんば虚無、この二つのいづれかを要求する。南極か、然らずんば北極、寒帯か、然らずんば熱帯、……、数学的な打算的な人間は大嫌ひだ。
 今日自分はどうかしてるのではあるまいか。
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 うら若き一婦人あり、他郷の客と成つて居た。その心中の寂寥察すべしである。ここに一男子あり、妻子あるを秘して巧みに彼女の心を迎へた。彼女は渾身の純潔なる愛情を濺いだ。無理はない。遂に懐妊した。結婚せむとして成らず。泣く泣く故家にかへつて、玉の如き孩提をあげた。然るに一家の人々彼女の行為を悪み、一室に監禁して、親も兄弟もその孩提を見ることをさへ拒む、と。これは昨日きいた話の一つである。
 あらゆる人間は皆自然の性情に背いて居る。川が逆流すれば、すべての陸が海になる道理、さうだ、神の与へた清い心情は、今皆背自然の海の底に埋れてしまつた。社会は何故かくも残酷なものになつたらう。
 実に残酷な話ではないか。純潔な処女の心身を弄んだ男にこそ罪はあれ、彼女が恋に何の罪があらう。否、彼女に罪のないばかりでなく、人生第一の不幸に会した彼女こそ当然深い同情を寄せらるべき資格があるではないか。更に況んや、かの孩提に至つては、彼女の美しい初恋と終世の不幸との化身である。人生の霊酒に酔へる、彼女が不用意の間に与へられた天の賜物である。すべての神の児等とひとしく、天の清浄と愛とを備へたものである。さるを何故に、社会は之を見ることをだに拒むのであらう。私生児? 何の事だ。人の定めたる法律によつて結婚せざる者の生んだ児をば私生児として擯斥するのか。災なるかな。結婚について神の定められた法律はただ一ケ条ある。曰く、愛! されば、すべての孩提は皆ひとしく神より出でたる愛の分身である。若し茲に、一人の有夫の婦があつて、不倫の色慾のために偶然にも児をえた場合があるとする。斯かる時に於ても、その母こそ永遠に責めらるべきであるが、孩提に至つては矢張り小羊の如く罪無きものである。されば神の前に於ては世に私生児といふ擯斥さるべきものは一人も無い。若し有るとすれば、すべての人は皆私生児ではないか。彼女の恋は、対手こそ不幸にして破倫の悪漢であつたれ、矢張り自然の性情の美しい発露なる清い初恋である。社会が彼女を悪むさへ既に誤つて居る。況んやその孩提をやだ。
 然も悲しいかな、今の進歩したる文明の社会に於ては、かかる残酷の行為が寧ろ謹厳なる一の教訓の如く思惟されて居るではないか。罪なき孩提が己が母の外に世に人ありとも知らで、その涙の手に抱かれて、この世に生れおちた日から人生第一の不幸を味はつて居る間に、社会は狂呼して日進月歩の文明を謳歌して行く、教会が建てられる、倫理学者が増える、紳士はフロツクコートを着て街をあるく、貴女は金剛石を買ひに宝玉屋の店を訪ねる……。ああ自然の性情は益々逆流して居る。来るべきものは、ただノアの洪水のみだ。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 午後学校へ行つて唱歌帳をかりて来た。新たにこしらへた「黄鐘譜」へ写さんため。

○三月十四日。
 渡部虹衣から五月鯉第二巻二号と絵葉書が来た。梅花すでに都門に落尽したと。
 今日は一日ヰオリンの日、
 夕刻から今年初めての雨。近所に嫁取りがあつて、コゲ茶色の角巻を着、草鞋をはいた花嫁が、頭からシツポリ濡れて、通つた。何とおもしろい図ではないか。
 この村に奇習がある。花嫁の来るのを待ち設けて、村の少年幾人となく群を成し、雪を投げるやら叫ぶやら。時には怪我をするものもある。倒れて折角の晴着を泥にするものもある。泣くものもある。ヒドイ時には箪笥長持を壊すことさへある。それでその言葉が面白い、曰く、祝つてやるのだ、と。かくて翌日になると、名祝と云つて、打揃ふて、花嫁のお酌で飲みに推しかける。
 寂しい、静かな、平和な、田舎の夜の雨の風情ほど、云ひつくし難い趣は少ないものだ。百戸のこの村、中程の郵便局に軒燈がつくだけで、さらでも眠つた様な一筋街、天暗く、地は夢の様な雪のうす明り、しとどの雨の音のみ涼しげに響いて、人足絶えた頃を、ふと門に立つと、平和、円寂、楽しさ、淋しさ、静けさ、満足、幸福……どれをどれとも解らぬ一種のうれしい感じが、冷やかな風と共に一陣胸の底までも吹いて入る。追分節をうなり乍ら、蛇の目傘が一人通つて行く。どこかで若々しい女の笑声がきこえる。やがて又、菅笠きた馬喰を先立てて、背にゴザを掛けた黒い逞ましい南部馬の一列が、嘶ぎもせずに盛岡を指して通る。自分はただ無性に満足を感じて、何か斯う、感謝して見たい様な心地に成るのだ。

○三月十五日。
 興をえて腹案中、長火鉢の灰神楽、払ひ浄めた机の上に、ヰオリンに、我が眉に、一面の灰の白雪。癪にさはつて、ペンを投じた。
 楽譜を写して日を暮らす、

○三月十六日。
 岡山なる瀬川藻外に長信を認む。
 今日も雪。この日も町内に嫁取りあり。

○三月十七日。
 日本上下五千万人、一の真骨頂を有する政治家なし。新紙報じて曰く、鉄道国有案大多数を以て衆議院を通過すと。馬鹿気た事ツた。
 来信二三。渡辺虹衣より、詩集「銀箭」の序を求め来る。
 学校に行つてオルガンをひいた。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~
「帝国文学」三号来る。雑報欄に一記者、「高華雄渾の趣味」と題する一時文を掲げて居る。曰く、『吾人が久しく要望し、而も現代文学に一の模表をだも発見しえざる高華雄渾の趣味は、畢竟自我充実の大才、超邁博雅の人物を俟つて初めて顕彰せらるべく、感情的神経質の詩人文士に向つては所詮無用の談義也。』『現代感情主義の文芸は、概して小規模、小観想、作家と読者と共に猫額大の小池沼に出没浮沈して、或は喜び、或は泣く一種のコメデーを演じつつある也。』かくて其理由として曰く、『今の作家は二重の意味に於て修業を欠く、一は学殖、一は人格。』吾人の美を感ずる、必ずしも壮大の境のみに限らずとすれば、理に於て正に、文芸の分野幾条の流河あるをさまたぐる筈はない。されば、高華雄渾の趣味が欠除して居るからと云つて、現代の文芸を一切一種のコメデーに過ぎぬといふ事は出来ぬ。然し乍ら現代の詩人文士に偉大なる人格を有する者なく、従つて高遠雄渾の作物を出さぬの事実は、不幸にして吾人も亦日夕悲しまざるをえぬ現在の事実なのである。この点に於て、新着眼ではないが、時文子に双手をあげて賛成する。
 但し、記者が、この現象を箇人主義の結果に帰して、『輓近五六年間我が思想界を震盪したる個人主義は、その科学的迷信を破り、歴史的拘束を釈き、心霊の威厳を高調強弁?して、時代の自覚を促したる効果に就いては、真に紀念を値すべき美蹟を示したれども、その使命は単に破壊的なりき。そは歴史の関門に向つて斧鉞を揮ひたるのみ、科学の暴進に対して反噬を試みたりしのみ、而してその戦闘的熱情の過度に高騰したるが故に、その態度は頗る感激的なりき、感激は佳し、然れども真の革命は如何なる場合に於ても、汪然たる耐久的精神を要す。此精神を欠きて単に感激の情を燃し、破壊の斧を揮ふ。其結果は自ら疲れて彊れ終るのみ、個人主義が現代人心の霊龕に、何等高貴の神火を点ずる能はずして、単に浅薄なる主我的感情主義と変形し』云々と説くに至つては、その観察の浅薄を極むる、驚くべしである。高山樗牛が垂死の病床から叫び出して、やがて一代の人心を根底から震盪した個人主義の大思想が、僅々五六年の間に、既に主我的感情主義などと云ふ一小区劃に化石してその声を収めてしまつたであらうか。否、否、否。今迄は成程個人主義の破壊の時代であつた、しかし既に建設の時代に近いて居る。感激が静まつて、真面目なる思索が起つた。来るべきものは、偉大なる形式によつて発表されるべき時期である。若しそれ今の神秘主義、感情主義の如きは個人主義の一余波に過ぎぬ。物質と形式の夜の中から、大なる声によつて呼びさまされた人々が、半眼半醒の境に於て盲目的に捉へた個人主義の影法師である。苟くも一代の大思想を批評するにこんな浅薄な見識を以てする様では、この記者も亦赤門流三把ひとからげの批評家の好模範と云はねばならぬ。更に『然れども憤慨に因はれたる現代の人は、超脱一番、奮つて小我の自縛を釈き、大雅優遊の乾坤に快活の春を楽しまむと欲せずんばあらず』云々の語を成すに至つては、誠に笑止の至りである。超脱とは何の事か、大雅優遊の乾坤とは何の事か、記者は恐らくは知るまい。又、高華雄渾の趣味を起す方法(○○)のうちに、社会的活動若しくは大旅行等の風習を起せといつて居るが、人格無き今の詩人文士にどんな社会的活動が出来ると思ふか、又今の様な貧乏ものにどんな大旅行が出来るであらう。
 所詮は日星河岳の雄大なる作物の現るる、一に天才に俟たねばならぬ。記者は、天才出現の翹望を以て、今の世に於ては一ケの哀れむべき空望に過ぎぬ、として居るが、何故空望であるか、万人の翹望そのものが、既に天才出現の有力なる前兆ではないか。天の配剤にしてこの後も誤るなくんば、今は漸く天才出現の時期に近いて居る、と云つてよい。

○三月十八日。
 新詩社長詩競争試作課題『花ちる日』今日書き初めた。――南より北へ一筋、まつしぐらに故郷へと通づる古道、時は春の末花ちる日、並木の桜散り布いてみちもせを埋めて居る、昔はこの道を、かかる日に、国がへりする奥大名の行列が赤い槍柄を立て列ね、騎馬の侍共が華やかに跑をふませて練つたであらう。又悲喜おのがじしの足どりに百千の人も過ぎたであらう。そして又自分が幾年の前希望を抱いて故郷を南に去つたのもこの道であつた。今自分はうらぶれて再びこの道をかへつて来た。わが衣の破れをつくらふとてか降る花はしきりもなく散りまた散る。しかし自然の春は再び廻つてくるであらう。人の世のいのちの花一度散つては残るものただ蒼白き追憶の影許り。朧ろにかすむ春の空、今くれかかる北の方から鐘が響く、かすか乍らに、ああ、聞けばアレは黄鐘の調。昔乍らの我故郷の入相の鐘だ。かくて花ほの白き一路の古道たそがれて来た。――といふ梗概。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~
 酒客来る。昨夜も今夜も。酒の興奮剤(○○○)としての効果は、田舎の人に於て尤もよく表はれる。

○三月十九日。
 アルゼシラスに於ける欧洲列国のモロツコ問題会議が、開会既に六旬余、形勢日一日に変化を重ね来つて、今朝の新聞は、談判不調の危険に近づき来れるを報じた。事は独対仏の勢力消長問題、英を初め列国の同情は云ふ迄もなく仏蘭西に傾いて居る。この問題も発端は独逸が平地に波瀾を起したものであるが、形勢の変化一にカイゼルの一挙手一投足に依る所を見ると、彼カイゼルの投機的精力や又端睨すべからずである。
 危険の報の飛来したのは一度二度でない。然し今迄は利に敏き欧洲列国が遽かに戦争を開始することがあらうとは誰しも思はなかつた。然しこの度の危き形勢が、若し、今迄に最も急進的だと称せらるる仏国新内閣組織の結果であるとすれば、重大の注意をすべきものと云はねばならぬ。
 二十世紀は、蓋し、最も重大なる意味に於て世界の革命時代である。欧米中心の所謂基督教的文明は既に動揺し初めて居る。従つて世界列国の勢力均衡が今や漸やく意外の変化に進みつつあるのである。「東洋の復活」は世界史上如何に重大な事であらう。そして今早や欧洲内部の勢力均衡の動揺は、陰に陽に人をして恐るべき革命の恐怖を感ぜしめつつある。モロツコ問題も亦その一現象ではないか。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~
 小坂の義兄田村叶から来信。姉の命日が先月の二十五日であつた事、死因が肺結核であつた事、法名が妙訪禅定女である事、漸やくわかつた。ああ不幸なる姉は遂に不幸の内に幼なき五人の子女を残して死んでしまつたのだ。安心の日無き三十一年の寿命、人の世の盛りとは云ふが、我が姉には百年の思ひがしたであらう。自分は、一生を不運に過した貧しい姉が、終焉の時近き来る病床に横はり、度々の喀血に気力おとろへ、痩せて蒼ざめて見る影もなき顔をあげて、枕辺に泣いて居並ぶ五人の子女を見廻はしたであらうその際の惨憺たる光景を明らかに心に描くに堪えぬ。況してその刹那の姉が心をどうして涙なく想像することが出来やう。息をひき取つたのは午後八時半であつたと、手紙に記されて居る。
 母は昨日この村の巫女の所に行つて、姉が亡魂を招ぎ吊ろふた。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~
 この日早朝、寝てるうちから、「憐れむべき小フオーマ、ゴルヂエフ」が泥酔して来たので起された。小フオーマ、我が従兄弟である。資産ゆたかなる家に生れ、愚かな男でもなかつたが、放漫な若旦那育ちの無意義なる生活と家庭の平和のため、所謂「生命の倦怠疲労」を感じて、酒を呑む、酔ふては乱暴をする、脳髄が散漫になる、心臓が狂ふ、かくて彼は三十一の男盛り、人からは笑ひ物にされて、日夜酒びたり。借財がかさむ、細君が仏頂面、垂死の老婆は泣き通し、一家暗憺として火の消えた様、生き乍らの墓同然。これが又彼をして益々狂はしめるのだ。
 ゴルキイ作中のフオーマの様に、富有なる市民を捉へて「汝等生命の破壊者よ」と熱罵するの気概は無論彼に無い。云はば、フオーマを極度迄小さくし極度まで卑しくしたのが乃ち彼だ。そこで Poor little といふ冠詞がつく。
 フオーマは一ケの天才であつた。さればこそ彼は遂に発狂した、発狂してこの世の矛盾と破綻から救済された。狂は彼に取つては唯一の幸福であつたのだ。小フオーマは、狂の救ひに入るには余りに型が小さい。所詮彼は憐れむべき酔漢である。若し、一点希望なき生活の標本は、と問ふ人あらば、自分は先づ、悲しいかな、彼を挙げねばならぬであらう。自分は彼の酔ふて朧ろなる眼光を見る毎に、同情と哀憐と不快と種々混雑したる一種の感情に襲はれるのが常である。夕方になつてもかへらぬので、自分は逃げて学校に行つてオルガンをひいた。
 夜加留多会をひらく。昨日妹が休暇で盛岡からかへつて来たのだ。

○三月廿日。
 二三日前から読売新聞に小杉天外作、社会的現代史とか広告したる写実小説『コブシ』が出初めた。天外は早晩ドラマチストとして打つて出る抱負があるとの事、この作も局部局部のドラマチックエフエクトに力を注いだとの事。
 ワグネルの写真を取り出して床の間にかかげた。この人相を見るだけでも教訓がある。
 この頃東京では、近来結社した社会党員の発起で、電車賃引上反対市民大会が二度開かれた。一千有余の群集が、決議文を朗読してから、市役所に推しかけ、街鉄の本社に石を投じ、昨年九月の騒擾を再現しかねまじき勢であつた。新聞紙は筆をそろへて、日本社会党今後の運命は、一に彼等自身の行動如何にある。西園寺氏の新内閣が、前内閣の圧制をやめて、社会主義者に比較的公平穏当の体度を取るに至つた今日、若し党員にして暴民と何の撰ぶところなき行動を敢てする様では、折角生長して来た天下の同情を自ら折つてしまふものと云はねばならぬ、云々と論じて居る。
 余は、社会主義者となるには、余りに個人の権威を重じて居る。さればといつて、専制的な利己主義者となるには余りに同情と涙に富んで居る。所詮余は余一人の特別なる意味に於ける個人主義者である。然しこの二つの矛盾は只余一人の性情ではない。一般人類に共通なる永劫不易の性情である。自己発展と自他融合と、この二つは宇宙の二大根本基礎である。
 宇宙の根本を絶対意志に帰したシヨウペンハウエルの世界観は、実に十九世紀に於ける最大発見の一つであつた。然も彼はその倫理説に入つて、人生の不幸を個人意志発展の結果であるとし、意志消滅を以て真正の福祉に至る唯一の路であると説いた。根本精神の消滅! 若し斯くの如きことがあるとすれば、その決論はただ虚無あるのみである。この論理上の誤謬を引きついで、一層敷衍したのがトルストイ伯の人生観である。彼の予言する新時代は、凡ての人が暴力に服従するを要せざる時代である。乃ち凡ての人が意志を放棄して平等の天蓋の下に集まるの社会である。トルストイ伯と正反対に、フリードリツヒ・ニイチエはまた、其天才的眼光を以て、シヨウペンハウエルの論理上の矛盾を観破し、人生の真諦は意志拡張、自己発展にありとする個人主義を立てた。同一の源泉から出たこの二条の流こそ誠に興味ある対照ではないか。一は同情と弱者の道徳である。一は権威と強者との道徳である。同情と権威、換言すれば、自他融合と自己発展、この二つが人生の二大根本事実であるとすれば、トルストイとニイチエと、の二人は正に人生を両断して各その一を領するものでがなあらう。
 前二者と同じく、ダンチヒの流を汲んだ楽聖リヒヤード、ワグネルが其革命楽詩の中に現はした「意志拡張の愛」の世界観は、この正反対なる二大思想の各一端を捉へ来つて、聖壇の前に握手せしめた者と見られる。意志消滅を必要条件と思惟せられた「愛」は、ワグネルの天地に入つて意志融合の猛烈なる愛と変じた。消極性の愛の陰電気は積極性の意志の陽電気と合して、茲に人生久遠の凱歌をあぐる大雷電を起した。ダンチヒの源を発した二条の流は、ワグネルの胸中に相合して、殆んど別個の趣を以て再び人生の大海に流れ出されて居る。彼が終りに「パルジフアル」を書いて親友ニイチエと絶交するに至つた消息も茲にある。ザラトウストラも基督も、共に彼に取つては極く近い親類筋であつたのだ。我がワグネルの偉大なる点は実に茲にある。往年嘲風博士が、シヨウペンハウエル、ニイチエ、ワグネルの三者を批評的に関連せしめて、同一思想発達の一系統としたのは、実に大なる卓見であつた。
 トルストイ伯の思想は、彼自身も四福音書を以て真の福音と思惟してる通り、完たく基督教的精神に基いて居るが、ニイチエはどこまでも反基督教的精神の権化である。見よ、大聖クリストも彼の思想の世界に於ては、偽善者の最大模範とせられて居るではないか。博愛は偽善で、無価値で、罪悪は弱者の占有物、ただ一人強きもののみが、ニイチエの世界に生存する価値がある。露国の一小説家ドミトリ、メレヂコウスキーは、欧洲三千年の歴史は、基督教的、及び反基督教的二大思想が相交代経緯して進歩し来りたる文明であつて、この二大思想は何れも真理(○○)であるとし、この想念を寓して『基督及び反基督』の三部小説を著はした。彼は其第一部に基督教的精神の勝利を描いて、ジユリアン皇帝を主人公とし、第二部に異教的精神の権威を以て画人レオナルド・ダ・ヴインチを主人公に撰んだ。メレヂコウスキイの此等の作は、いづれも深き研究の結果になつたもので、含蓄あり、技巧あり、よく小説的才能を高度に発揮して居り、『諸神の死』乃ちジユリアン帝の一篇の如きは、古代羅馬の描写に於て、かの有名なるシエンキイウイツチの『クヲー、ワデス』にも優る所があると云はれて居る。然れども、同一価値ある二真理の対峙的存在といふ事は果して有りうる事であらうか。彼が此断定は、少なくとも人類普遍の調和的本能を永遠に両断し去るものと云はねばならぬ。二真理の対峙的存在の肯定は、同時にこの世界永久の分裂を予言するものである。「永久の分裂」は、一切の歴史、進歩、文明を根底から無価値とする恐るべき決論を生ずるのである。この永久の不調和に対する戦慄こそ、彼メレジコウスキイをして、其小説の第三部に、彼得大帝なる一人格を借り来つて、前両精神の調和を描かしめた唯一の原因であらう。
 然し乍ら、彼が、この相反せる両精神の調和に与へたる認定は頗る無力である。薄弱である。彼は単に、前両精神の単独の発現と同等なる認定を与へたではないか。此誤謬は主として、彼が最初の真理追求の体度の誤謬――詳しく云へば、宇宙根本の真理といふよりは寧ろ人生一般を解釈し去るをうる真理を、広汎的に、追求したる最初の体度の誤謬から来る当然の結果である。それは先づ、兎も角も、批評的に観れば、彼の『基督及び反基督』が、前記二部の小説に終らずして、この最後の一篇を附加せられたる事は頗る興味ある問題といはねばならぬ。何となれば、彼は、基督及び反基督が共に真理なりとする思想を以てこの小説を書き乍ら、いつしか其霊魂は絶対随一の真理に対する無意識的の憧憬を感じて居る事を表白して居るからである。両頭の蛇にも尾は一本しか無い。
 メレジコウスキーに於ては単に微弱なる暗示に過ぎぬ精神的大革命は、ワグネルの天地に於て初て一層光あり熱あり、将に天の一方を破つて人界に放下する曙光として表はれて居る。ワグネルの詩楽はすべてこれ、基督教的愛と反基督教的意志とが相抱合して、同一目的の下に一体の大活動をして居る人生の最も壮大なる凱歌である。茲に於て自己発展と自他融合の相反せる二大事実は完たく同一体と成り了つた如く見られる。人生凡百の矛盾は今ワグネルの一燈によつて、少なくとも其一端を照破せられた。
 然し乍らここに冷静なる哲学的思索の斧を入れ、再びシヨウペンハウエルの意志の世界に立かへるに従つて、新しき革命の曙光がまた一道の浮雲に掩はるるの感がする。何ぞや。曰く、意志根本の世界と愛との関係問題乃ちこれ。
 これは然し、ワグネルの罪ではない。詩は性質として朦朧なものである。されば詩の示す所は常に唯その理想に止まる、それ以上の詳しい説明は既に詩の領域以外の問題であるのだ。芸術家としてのワグネルは、意志愛一体の境地に神人融合の理想を標示しただけで、既にその天才の使命を完全に遂げたものと云はねばならぬ。
 ただ茲に、意志の世界と愛(、、、、、、、)との関係は猶依然として哲学上不可解の疑団として残つて居る。この問題の解決は、実に我が人生観最後の解決であらねばならぬ。
 茲に一解あり、意志(、、)といふ言葉の語義を拡張して、愛を、自他融合の意志と解くことである。乃ちシヨウペンハウエルに従つて宇宙の根本を意志とし、この意志に自己発展と自他融合の二面ありと解する事である。
 この一解あつて、自分の二十年間の精神的生活が初めて意義あるものとなつた。この一解が乃ち自分の今迄に於ける最大の事業である。
 この一解あつて、一切の説明は無用である。人生一切の矛盾は皆氷解した。
 かくてワグネルの示した人生の理想は、完全なる基礎に立つて、初めて真に我が最高最後の目的となつたのである。
 我が性情の、――また人類普遍の――二大矛盾、同時に又宇宙根本の二大矛盾は、かくて説明を得、帰着する所をえた。自分が所詮自分一人の意味に於ける個人主義者で、社会主義を初め世上凡百の思想に賛成する能はざるものは、実にこの立脚に立つからである。
    ――――――――――――――――――
 この日午後四時頃、町内の裏屋に火事あり。大騒ぎ。日中なりしと風なかりしため、一軒全焼にて鎮火。
 火は美しいものであると思つた。

○三月二十一日。
 春季皇霊祭。
 紫波煙山村の小笠原迷宮より来信。

○三月二十二日。
 上野女史来て遊んで行く。

○三月二十三日
 川口村明円寺の岩崎徳明より、曹洞宗特赦令の写し、送り来る。早速野辺地へ送る。
 この日小学校の卒業式あり。誘はれて自分も参列した。無邪気な児等のうれしさうな顔、が三百も列んで居て、そして声を合せて「蛍の光」を歌つた時、自分はただもう嬉しいやら昔恋しいやらで、涙も出る許り可愛く思つた。自分が六歳にして初めて智識の光ををがんだのが、実にこの郷校であつたのだもの。
 式後、学校の職員諸氏や村長などと共に、祝盃をあげた。一日雑談。夜は、沼田清民氏が来て自分がこの村に来た事に就いての村人の種々なる意嚮を話して行つた。自分はマサカこの渋民村をどうしやうかうしやうと云ふ程には未だ老ひざるつもりで、今度移住して来たのも暫らく此の閑境に隠れて他日の準備をしようと思ふだけなのに、ああ田舎の天地は矢張り狭いものである。自分の頭脳がも少し貧しかつたら、こんな事もあるまいに。人を猜疑するといふ事は、自分には無い経験である。
 ナニ、この俺をどうする事が出来るものか。又よしや、事が起つたにしても、自分は極めて平気である。
 自分に来られては、村中かきまはされるといふので、絶交状まで飛ばして移転間際に妨害したものもあつたが、自分がす早く手許に切り込んで、突然来てしまつたので、計画画餅、弁解ですましてしまつた。誠に笑止な次第ではないか。今度はまた、自分が学校へ出る様になると、矢張一人でかき廻すからといふので、妨害の相談中だとか。自分は高が二十一才の一青年ではないか、それに孫小児もあるが分別盛りの古老共が、何をそう苦に病むのであらう。自分が代用教員に成るといふのは、無論一生を教育界に投ぜんとするのではない。ただ、この村に居る間、児童の心理も研究して見たし、また旁々故山の師弟に幾分なりと善良なる感化を与へてやりたいからだ。月俸八円が生命に代へても欲しいといふでもなく、陰に一村の政治を動かさうなどの野心も持つてる暇はない。小さい村を左右したところで自分には何になるか、学校に出るなといふなら、出なくとも差支はない。誠に笑止な次第である。その癖自分に逢ふと頭を低くして御機嫌をとるから奇妙ではないか。
 然しまた、静かに観察すると仲々面白いものである。戸数百にも足らぬ小部落であり乍ら、藩閥もある。御用党もある。在野党もある。中立党もある。策士あり、硬骨漢あり、無腸漢あり、盲従漢あり、野心家あり。そして互に策を廻らして蝸牛角上に相争つて居る。先日在野党の主領が来て酒を呑んで行つた。それで今日は村長が学校のかへりに寄つて、自己の地位を弁解して行つた。ところが二時間とも経たぬに再た在野党の主領が来て、局面転変を企てる。所へまた野心家の御用党が飛び込んで、苦肉の策をやる。イヤハヤ、一村の小も一国の大も同じ様な呼吸サ。もしこれで舞台が広かつたら、自分も何とか動く気に成るかも知れぬが、所詮自分の来たのは、彼等に一つ苦の種が植えた丈けの事である。
    ――――――――――――――――
 或者は余を由井正雪と呼んで居る。正雪にならくらべられても恥かしくはないが、彼等自身は恐らく正雪のどれだけ豪かつたかを御存じないであらうから可笑しい。

○三月二十四日。
 朝から、寝るまで、口をとづる暇もなかつた。小児等には、ナポレオン、ビスマークの話。大人には現時世界外交局面の話。催眠術の原理。欧羅巴文明の現状及び今後、等。

○三月二十五日。
 太平無事。
 自分は、かのギりシヤの末期から中世紀へかけて欧羅巴に流行した魔術家、支那中世の所謂方士の徒、乃至は日本の隠士逸民の輩を甚だ愛する。彼等は皆巧みに仮面を被つて世を踏晦した不平の天才であつた。彼等が平坦な社会の裏面を染めた一種暗緑神秘の色彩こそ誠に興味深い意味を語るではないか。
 社会が進歩して、所謂文明の域に近いて、世に彼等の異様なる装束の跡は絶えた、人々が賢こくなつた為めである。ああ然し乍ら、人々が賢こくなつた為に、少しでも吾等の人生が明るくなつたであらうか。
 往年、一僧侶熊嶽なる者あり、市に奇蹟を行つて衆人の病を治し、人の帰依する所となつた。文明の警察権は、彼の所行が公認医師の権利を侵害するとの理由に依つて、乃ち彼を捕へて牢獄に投じ去つた。一熊嶽の存在と否とは、社会の公安の上にどれ丈けの影響があつたらう。罪なきものは恐れずといふが、一貧僧の奇蹟にさへ驚き騒ぐ今の世の文明は讃美すべきかなである。
 若し自分が、長髪を背に垂れ、皮衣を着、麒麟に跨がり、角笛を吹き吹いて東京の街々をねり歩いたら、人は何といふであらうか。未だ一人の白昼提灯をともして市に人を探す者の出て来ないのが不思議である。
    ――――――――――――――――
 岡山の藻外から絵葉書が来た。

○三月二十六日。
 朝、客に起され、夜、鶏なく頃まで客と語つた。隠れては隴畝に民と交はる乎、ああ自分は孔明に学ぶ所なくてはならぬ。
 夜、淋しき町をふれゆく売ト者の声。呼び入れた。眉の迫つた男。愚人でもない人相である。筮竹を捻一捻して、さて曰く、昨年は寧ろ失敗の年であつたが、今年の卦は火風鼎の卦で、至極よろしい。希望の実現される年である。就中、旧暦六七月の頃が最もよい星に当つて居る。但し成功を急ぐべからず。又、旧暦十月末より十一月初めに当つて印書の事に就いて相談あり、若し熟慮せずして行へば、後の不利益となる。云々。
 その昔、雷電は一の恐るべき不可思議であつた。科学の進歩は之を電気の作用であると断定したので、凡ての人は今早や雷電を不可思議と思はなくなつた。然し乍ら自分の考へでは、科学の立証によつて雷電の不可思議なる事は一分一厘も減じない。電気に力あり光あり火あり熱あり声ある事は、依然として人間の不可思議事ではないか。
 されば自分は、よく君にも似合はぬと人からは云はれるが、人生一切の不可思議に対して、抑ゆべからざる強い信仰を持つて居る。世界は大なる謎である。極小なる人間の智を以てして、何の理由あつてかその一鎖をだに否定し去る事が出来やう。自分は今夜この貧しき哀れなる売ト者に対してだに、心中一種の畏敬を以て迎へざるを得なかつた。
 全一なる絶対者の現存をさへ信じえぬ科学的迷信家の徒が、何の権威あつて自分を笑ふ事が出来やう。

○三月二十七日。
 昨夜鶏鳴をきいて眠についたので、今朝は十時過ぎに目がさめた。何となく頭が痛い。十一時半頃まで枕の上で半醒半眠の心地。恰も陰暦三月三日、雛の節句である。戸外には嬉々として遊び戯れる小児等の無邪気な声がする。長火鉢に素湯のたぎる音が、さながら心も冴えわたる山の松風。自分は様々な考へにうたれた。
 貧の辛さがヒシヒシと骨に泌む。読むに一部の書も無き今の自分は、さながら重大な罪を犯したかの如く、我と我が心に恥しい。蔵書と云つては、自分の「あこがれ」と、古雑誌が二三十冊と、その外に売り残した二三部の詩集、新約全書位なもの。朝起きる、机の上には硯と紙と古雑誌、許り、之を一瞥した時の自分の眼には、方三尺にも充たぬ破れた一閑張りの机の上が、恰も無辺無人の大荒野の様に思はれる。飯と干大根の味噌汁と、沢庵漬と、これだけでも身躯の糧は足りる。新聞紙と茶呑話が何で精神の糧になり得やう。自分が時々抑へきれぬ不快の謀反心に駆られるのは、つまり、糧を与へられぬ自分の精神が、餓の苦みに堪へかねて暴動を敢てするのであらうか。又、精神の餓えた部分が、今迄に蓄へた養分をも喰つてしまふがために、自分は今詩をも小説をも書く気に成れぬのではあるまいか。
   [欄外]林中日記(十八)ここまで(四十九枚)

 自分は今、希臘の古しへの文明を研究したいと思つて居る。世界第一期の真の文明は疑ひもなくギリシヤの天地に咲いた。そして散つた。我等が希臘を懐古するのは、我等に取つて最も強い明かな理想である。このギリシヤ精神はその後、基督教の精神と合して文芸復興期の曙光となり、大ゲーテが『フアウスト』に至つて世界第二期の文明を完成した。この二期の異なりたる文明の研究は、第三期の文明に進みつつある目下の世界に取つて、又自分の思想上に取つて、最も重要なるものであると信ずる。で、先づ自分は、手初めにギリシヤの文明を研究せむとして、今、日夜、あこがれ、望み、勇み、悶え、苦しんで居る。然も自分は依然として貧の束縛から逃れる道がない。資料なくして出来る研究はない。しかも自分は一部の参考書をも買ふ事が叶はぬのだ。ああ、ギリシヤ研究の資料が、渋民の泥路の中にころがつて居る筈はないのだ。
    ――――――――――――――――
   [欄外]三百冊、机の上の一條のキヅ、自分の足で――
 自分は今、疑ひもなく、一ケの古代追懐者である。静夜、潮満ち、月海峡の上にのぼれるドヴアーの浜辺、月色海を抱くの辺より吹きくる甘き夜の風に吹かれ、永遠悲哀の調べをのせては去来又去来する潮音の諧律に耳傾けて、
  “Sophocles long ago
  Heard it on the Aegaean,and it brought
  Into his mind the turbid ebb and flow
  Of human misery ;we
  Find also in the sound a thought,
  Hearing it by this distant northern sea.

  The sea of faith
  Was once,too,at the full,and round earth's shore
  Lay,like the folds of a bright girdle,furled.
  But now I only hear
  Its melancholy,long,withdrawing roar,
  Retreating to the breath
  Of the night wind,down the vast edges drear,
  And naked shingles of the world.**”
 と、吟懐を傾けて悲歌したマシウ・アーノルドと共に、疑ひもなく一ケの古代追懐者である。そして又彼と共に、事にふれ、物につれて、
  “*** we are here as in a drifting plain.
  Swept with confused alarms of struggle and flight
  When ignorant armies clash by night.”
の、いとやるせなき自覚の涙を乾し去る事が出来ぬのである。
 ああ、清き、高き、大いなる、強き、美くしき、神々しき、……我等のあこがるる一切の理想は嘗て一度この世界に存在して居たのであつた。今は乃ち無し。
 人はよく、過去を追懐するのは男子の事ではない、無気力である、前進の勇気を失つた者である、といふが、退化の世界に生れた吾々が、嘗てこの同じ世界に在つた黄金時代を追懐するのは、やがて吾らの力となり、信念となり、前途の希望となるのではあるまいか。若し今の世に生れて古しへを懐ふ事だに出来なかつたなら、吾らの前にただ絶望と自殺とが来るだけであらう。我等の生命とする理想の確信が一切水の泡の如く消え去るであらう。欧羅巴三千年の歴史を罵つて、退化の記録のみと激語したリヒヤード・ワグネルの心も忍ばるる。下り坂の次には上り坂が来る、イヤ、来ねばならぬ。さればこそ彼は人類再生の理想を確信しえたのではあるまいか。
 清浄不染の歴史を残した幼時の追懐に駆られて、自分は今この故郷に帰つた。しかも故郷の歴史、――乃至は又やがて、世界の歴史、一切の歴史は駸々として退化して来た、否、今猶退化して居る。ああ、思へば涙が流れる。自分はこれ今、衣裂け帽破れ、落日惨として沈む伊太利の海の岸辺、古しへ豪華の砦の跡の青草の中に、孤影悄然杖を止めて、蔦這ひまつはれる冷たき残壁の石の面、誰が涙の文字か、“I gazed,and gazing,wept the bitterness of fate.”の一句に泣いた人と、おなじ心地に袖をしぼつて居る一の哀れなる史上の巡礼者であるのだ。
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 落暉大ナイルの水を血に染むる埃乃の沙原、山を欺く金字塔やスフインクスの作られたのも、ノアの洪水の再来に供へんとて天を摩するバベルの塔の立てられたのも、鉄騎百万世界の大半を蹂躙し去つた匈奴の居たのも、それを防がむとて万里の長城の築かれたのも、不老不死の薬を求めた人の居たのも、暦山大王やセミストクリスの居たのも、ホメロス、プラトー、釈迦、基督、マホメツト等の口から金口の清音の響きわたつたのも、一切皆幾千年前の事実として史上に記されてある所、ただ追懐の鏡によつてのみ我等の見うる所。ただ一度この世にあつた所の事柄である。
 その後、幾千年、世界の文明は長足の進歩を遂げたといふ。
 そうして今の世に於ては、目に見えぬ黴菌の発見や、人に怠惰を教へ、万の趣味を殺し行く諸々の機械の発明等のみが、人生に於ける偉大なる事業と称へられて居る。
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 その昔、神の庭に演ぜられた演劇は、今、紳士と貴婦人の前に演ぜられる。
 その昔、聖霊の住家であつた教会には、今、牧師といふ商人の家族が住んで居る。
 その昔、偉人を作るの道であつた教育は、今、富者の特権となつて居る。
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 古人の教育と今人の教育との相違は、要するにその標準の相違である。古しへは「大」を標準としたが、今は「小」を標準として居る。されば、古人の教育は偉人を生み、今人の教育は、天才を殺して平凡なる人形を作つて居る。
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 催眠術こそ面白いものである。厳密に云へば、無論催眠術とは単に或る方法を以て人を催眠状態に誘ひ入れるといふ丈けの事で、その上に起る種々奇蹟的の現象は、一切人間の精神感応の作用で、催眠術そのものの結果ではない。精神活動の盛んな人で、よく心気交通の呼吸に達したものは、催眠術を施さずして一切の奇跡を行ふ事が出来る理である。大基督を初め古来幾多の予言者等の驚くべき奇蹟も、自分の考へでは決して荒唐不稽の附会説ではなくて、実際あつた事、且つあり得べき事である。そして古来基督程精神活動の盛んであつた人は殆んど無い、真に信仰ある者は、かの山に変じて海と成れといふとも能はざる事なしといへる程の大信仰大心力を持つて居た彼には、死者を再生せしむる位は蓋し朝食前の事であつたに違ひない。
 基督はガラリヤの海で水上を歩いて弟子達の乗つて居る舟に上つたと聖書に記されて居る。水上は愚かな事、自分は或時機までこの術を修練したなら、空中を歩いて岩手山に登る事も必ず出来ると信ずる。ブラウニングの詩にある様に、一管の魔笛を吹き吹いて幾万の鼠や小供を集める事も出来るに違ひない。
 のみならず、自分が今迄二年許りの間に実験し考察し研究した所の決論によると、生霊(イキリヤウ)、幽霊の存在は無論の事、神を見、神の声をきき、夢中に暗示せられ、人を呪ひ殺し、未来を洞察し、千里以外の出来事を知り、人の心を読むなど、乃至一切の迷信とせられる事は、皆確実なる理由を有する合理的の事柄である。若し是等を否定するならば、同時に、吾人の常に実験して居る、人格の感化、危険の予感、遺伝等をも否定せねばならぬ充分の理由があるのだ。但し自分の此研究はまだ完結しないから、広く発表する時期が来ない。
 科学と形式万能の今の世に、この研究を発表したなら、如何に愉快な事であらう。一切の迷信を迷信に非ずとする理由を発見する喜は、真理なりとせられたる事を誤謬とする理由を発見する喜と同じ事であらう。何れも真理の発見であるから。
 精神交通の呼吸に達する唯一の捷径は実に催眠術である。人は自分を以て怪力乱神を語るものと云ふが、怪力乱神なればとて、之を研究するに何の差つかへがあらう。要するに人間の智識渇望の要求は、厳正敬虔の体度を以てすれば、いかなる研究も価値あるものとなるのである。

○三月二十八日~三月三十一日。
 この四日間、予は頭痛のために枕上の生活をした。来信は小笠原迷宮、仙台の小林花京等。発信は父の宝徳寺再往に関して二三。毎日空想に耽ける事と小年等に話をする事だけは休まなんだ。
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 『埋れたる歴史』! なんと面白い題目ではないか。所謂隠れたる歴史ではなくて、この世に現れるべき筈であつたものが、偶然といふ論理の結果で、遂に暗から暗に葬り了られた歴史である。世界発落の跡をたづね来れば、或る、当然発展生育すべき筈の一の『気運』が、それ自身から湧起した理由でなく、真の偶然の出来事のために、この世から遽かに埋れ去つた例が随分少なくない。回教的文明の世界史上に於ける運命の如きも、蓋しその一つである。その初め、風雲をアラビヤの野に起し、聖地を襲ひ、アレキサンドリヤを焼いた時にこそ、彼回教徒の間に何の文化もなかつたが、十字軍の時代に至つては、その文明の程度遙かに欧洲の基督教的文明に優つて居たといふではないか。若し彼等が、西アジヤを従へ、カルセージを取り、進んで西班牙に入り、又一方コンスタンチノープルを望んだ時に、「偶然」といふ未知数が、彼等の手に握られたとしたなら、如何であつたらう。その後の世界史は、恐らく今と頗る異なつた出来事によつて充たされた事であらう。今の基督教的文明が埋もれたる歴史になつて、埋れたる回教的文明が吾らの真の歴史となつて居た筈だ。事実の記録以外に真に文明の理趣を究めむとする真の歴史家は、これらの事柄に対して今の如く冷淡ですまされる筈はない。
 自分は此一事を思ひついただけでも、或る重大なる教訓をえた心地がした。機会あらば、自分は、いつか『埋れたる歴史』の著述に手をつけたいと思ふ。無論これは、一種の小説と称されるであらう。何故ならば、当然の理由に基いた一の想像を書くのであるから。

      
卯月文

○四月一日。――五日。
 平地の雪は大方消えた。照る日も温かい。月ある夜の風の心地よさ。世は漸やく春めいて来たのである。その為でもないが、自分は日記の筆をも怠つた。
 山には鶯も啼いてるとやら、福寿草の花と、蕾みそめた山蘭との鉢が机上にならんだ。いづれも小供らが、自分のために山から掘つて来てくれたもの。
 隣近所の女共は、路上に藁蓆を布いて、小児に乳房ふくませ乍ら、温かい春の日を塵だらけの髪にうけて裁縫に余念もない。甲高な談笑の声、少女の唱歌、み空にはさも長閑な紙鳶のうなり。
 一日には盛岡から債鬼のお見舞に接した。
 佐々木孤舟からは二戸浄法寺の学校に赴任した知らせ。巴港の姉、小林花京、迷宮、その他からも来信。群馬の佐藤石門からは、雑誌『野の花』一号と手紙、『野の花』巻頭には、我が短詩『野の花』が載つて居る。
 岡山の瀬川藻外から、おもしろき楽譜数種とスミレ、連翹、青百合などの花などを添えた長い手紙。やさしくも哀しみの節多き筆の運びに、一封文字にこそ限りはあれ、叙しては泣き泣きては叙した温かい友情と溢るる許りなる追憶の真心に限りはない。交遊茲に六歳、自分はこの日限りなき慰めに心を鎮めた。
 京なる与謝野氏からもたよりがあつた。『君の詩の次第にまどかに発展し行くは嬉しく候。御自重願上候。小生二月一日より病みつづけて今は大学病院の内科にあり、いつ癒ゆべきにや、今月中は退院も覚束なし、されど世縁未だ尽きずこの度は死なずと思し、御安堵被下度候、去年の今頃は芝居の稽古に余念なかりしに本年は高村君遠く遊び君は東京に在らず、小生は病む、回想して君と高村君を思ふこと切なり。艸々』
 ああ四月四日は何たる楽しき日であつたらう。これらのなつかしきたよりをえ、又『明星桜花号』も来た。数日悩まされて居た空想を脱して平生の心にかへつたのは実にこの日である。
 『明星』には、我が『花ちる日』が載つて居る。与謝野氏の作九篇、これは氏が信仰の大海から汲み来つた黄金の雫である。
 「花ちる日」の競作で、自分の作が一番よい。
 五日に『白百合』陽春号も来た。我が旧作『夏は来ぬ』の一篇の載つてるには驚いた。前田林外の詩は益々堕落して来た。その他よむに足るものが一つもない。
 金澤の豊巻剛君からも来信あり。

○四月六日。
 妹盛岡へかへつた。

○四月七日。
 好天気。十一時頃ひとり家を出て、蘭を掘るべく鳶沢へ遊びに行つた。此村へ来てから初めての散歩である。
 四方の山々、樹は皆冬枯のまま乍ら、踏み行く路に草の若芽もかぞへられる。日の温かな事。目にふれるものの数、皆旧知のままである。口笛をふいた。隠沼に水鏡して見た。そして小供の様に喜んだ。
 かへつて来ると、大学病院に居る与謝野氏から、大に快くなつたが、起床は公然ゆるされぬ、とのたより。
 村役場から来いといふので行つて見ると、学校へ出るのが愈々決定するから履歴書を出せとの事。
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 自分は時として、殆んど有りうべからざる様な空想に耽る事がある。そしてそれが、二日も三日も、或は一週間も続く。或時は大宰相と成つて一国の運命を司配してる事もあり、或時は人知らぬ洋中の孤嶋を発見して、世界の局面を一変する様な大計画をやつてる事もあり、又或時は、一挙に百万の財を得て、この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事なき活動をし、この渋民を理想郷に改善して、世界の偉人天才を皆自分の家に集める事もある。これらの空想に寝食を忘れて居る時は、自分は完たくこれ完全全能の一大天才で、世間一切の苦痛は皆別の世界の事になつてしまう。実に面白いのである。しかし乍ら、これら一切の喜びも、一度、自分は詩人であると自省した時の喜びに比べては、完たく空虚に等しい。これは、前の喜びが空想の喜びであるからではなくて、所詮自分が「詩人」であるからである。たとへ自分が真に空想の通りの境遇に居たにしても、自分が詩人であるといふ一自省に牴触する様の事があれば、直ちにその境遇を土塊の如く捨てさる事が出来るであらう。
 ああ、自分は詩人として生れて来たのであつたな、と思ふた時、予はただ涙も出る許りに心から嬉しく思ふのである。

○四月八日。
 春風膚に適して心地すがすがしき日。
 今日もひとり杖を曳いて、むかしの住居であつた寺のほとりをさまよふた。
 満々と春水を湛へて、漣白雲の影を砕く用水沼の堤、草を布いて陽炎の中に腰を下せば、我と我が今の身を忘れた様な心地がする。ああこの堤、この堤に自分は嘗て幾十回腰を下して物思ひに耽つたであらう。幼時嬉遊の昔を除いても、五年前友から借りたヲルズヲルスを最も面白く繙いたのもこの堤の上であつた。その翌年京地から病骨を齎らし帰つた時、先づ第一に訪れたのもこの堤であつた。そしてキイツの伝を読んでは、七つの丘の古き都に血を吐いてこの世を去つた若き天才の上を我身に思ひ合せて、あつき青春の涙をのみ、過ぎにし秋、京は小石川の、目白の森をのぞむとある高台の芝生に横つて、ゴルキイが短篇集をよんで泣いた日を思出して同じ人の『フオーマ、ゴルヂエフ』をひもとき、又、メレジコウスキイが『神々の死』を読んでは、ジユリアンがプラトンの昔を偲び乍ら朝露を踏んで蟋蟀の声をきいたといふ雅典の古堤を想ひ『メリサンダ』や、『盲人』やメーテルリンクの諸作に驚嘆禁ぜざりしなど、皆この堤の上であつた。自分がここの草に横はる時、日は特別の光を以て自分の胸に様々の教訓を注ぎかけるのであつた。そして今日も亦、自分は昔のままの心で、神の手になつた一切の景色を見渡し乍ら、この堤の上に立つのである。
 町の端れから、武道の坂を指して北へ一筋、若松並木の街道が見える。とぎれとぎれにその並木の蔭を、犬の様な小さい人が往来する。自分が、ここの寺に居た頃、盛岡の空に居る恋人のたよりを待ちわびては、日の照る日も雨の降る日も、午后の三時といふ配達時刻には、いつも門の糸柳の下に立つて、脚夫の来るを楽しみにかの並木の一列を見守るものであつた。そして待ちわびた一封の吾が手に渡された時、自分はいかに真心より神の恩寵に謝する心を以て南の空をなつかしみ仰いだであらう。そしてその喜びのおとづれをこの堤の上に来て封切つた事幾度か。
 そここことさまよふうちに、不図、紫の色も匂ひも仄かな初菫の花を、栗の落葉の中から見出した。丁寧に摘み取つて、吸ふて見た。嗅いで見た。そして我知らず泣いた。ああ、落魄の境に処して不平やるせもなき我に、自然の愛だけはいつも昔の如く温かい。丈二寸にも足らぬ一茎の小菫、嗚呼汝の心を知るものは、我が心をも知り、又この全宇宙の深い心をも知るものであると自分は嘗て歌ふた。今、この我が心の中を知つて慰めてくれるものは、実にただ汝の外には無い様な心地がする。万の草のまだ芽も吹かぬ春浅き世界に、朝夕の寒さも怖れず咲き出でた小菫、それはただ日中の温かき日光に心の限り浴したいからであらう。栗の落葉の中に朽ちむとて咲いたのか、それとも又自分の手に摘み取られむがために咲いたのか、それは解らぬ、恐らく花自身の心にも解らぬであらう。ただ自分は、花の願ひが何れであつたにしても、又そのために花のいのちが縮められたにしても、おのが心を知るものの手に摘まれて熱い涙をそそがれたのが、この花のいと大いなる幸福ではないかと思ふた。そして又泣いた。
 捨つるに忍びず、持ち帰つて、清い水を披璃の盃に盛つてそれに浮べた。心が何となく安らけくなつたやう。
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 青春の時代は、たとへば、波しづかなる春の浦回の真砂の上に立てられた楼閣の様なものである。生活の濁海の、怒り立つ濤に寄せられては、刻々に砕け砕けて、跡かたもなき黒潮の中に葬られて行く。

○四月九日。
 霙ふる不快の日。一日寝て暮した。
 世間一切の事皆空である。あらゆる人のいのちなる希望も遂に空である。と斯う考へて来て、終りにただ一つ自分の存在だけは空でない。自己が空でなくなつた時、一切の世界はまた空でない充実の世界になる。自分の今の思想は、寄せてはかへる波の如く、同じ人生の懐疑の磯の上に、同じ思ひも幾度となく繰り返して居るのだ。
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 現実の世界は遂に詩の世界ではない。そして美の神はミケランゼロの昔から矢張り妬みの神である。されば、詩人が同時に普通の人間たる事は、殆んど不可能の事である。
 普通の人間は人間と共に居り、詩人は神と共に居る。
 詩人は一ケの狂人である。狂人に対して普通の人間扱ひをするのが世人の抑々の誤謬であるのだ。人は何故自分を狂人として取扱はぬのか、これが自分をして常に不快の児たらしむる唯一の原因ではないか。
 人は人の世界に居れ、詩人は詩人の世界、乃ち孤独の世界――美の世界、神の世界、――に居らねばならぬのだ。
 火と水を同じ器に入れやうとしたのが、世人の抑々の誤りで、又自分自身の誤りであつた。馴鹿は矢張り北極光の光りの照る国でなくては育たぬ。

○四月十日。
 朝早く、野辺地が浦の父から、今日帰るといふ通知が来たので、自分は二階の室へ机を移した。
 午後父が帰つて来た。
 『馴鹿』をかき初める。
 小林花京、佐々木孤舟、小笠原迷宮、豊巻剛、佐藤石門、巴港の兄等へ夜発信。
       ○
  静林に春の雲きゆる日なりけり。

○四月十一日。――十六日。
 この間の来信、佐々木孤舟、高野桃村等。
 十一日に大学病院に熱を病む与謝野氏へ、十五日に盛岡の舅父へ、長信を発す。
 十三日に村役場へ出頭、十一日附の、「渋民尋常高等小学校尋常科代用教員を命ず、但し月給八円支給」といふ辞令を受け、翌十四日(土)から尋常科第二学年の教壇に立つことに成つた。我が自伝が、この日、また新しい色彩に染められた。
 自分は今迄無論教員といふ事について何の経験も持つて居ない。然し教育の事に一種の興味を以て居たのは、一年二年の短かい間ではない。再昨年のあたりから、一切を放擲して全たく自分の教育上の理想の為めにこの一身を委せやうかと思つた事も一度や二度の事ではなかつた。しかも年若き自分は、他の希望と自負とのために遮られて、遂今迄その感想をただ一時的のものとして居た。自分が此度、再度故山の静林に暫しの隠家を求むるに当つて、先づ第一に自分の心頭に起つたこの企てや、実は簡単ではないのである。で、転居の当坐から頼んで置いたのが愈々此度発令になつた。無論自分はこれで一生を教壇の人となるといふのではない。或期間自分の時間をこの興味ある教育のために費して見たいといふだけである。されば自分は初めから俸給などの点に就いては何の考へもなかつた。村の予算が八円しかないので、八円に決定したのだが、実は少々滑稽にも感ずる。しかし静かに考へて見れば、前の高橋訓導といふ有資格者を追ひ出して、無資格なる自分を入れて貰ひ、そして自分の理想的生活の一なる教化事業にたづさはるをえたのだけで、自分には誠にうれしい訳なのである。俸給の如きは第二の問題に属する。又、八円といふのが至極おもしろい。教育を職業として居る人であつたならば、これは或は恥かしい額であるかも知れぬが、自分はもともと詩人であるのだ。
 ただ一つ遺憾に思ふのは、自分は可成高等科を受持ちたかつたのだが、それが当分出来ぬ事である。これは自分が教壇の人と成るのが、単に読本や算術や体操を教へたいのではなくて、出来るだけ、自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたい為めであるのだ。それには高等科あたりが最も適当である。十二三才から十五六才までが、人の世の花の蕾の最もふくよかに育つ時代で、一朝開華の日の色も香も、――乃至は、その一生に通づる特色といふもの、――多く此間に形作られる。尋常科の二年といへば、まだホンの頑是ない孩提に過ぎぬので、自分の心の呼吸を吹き込むなどといふ事は、夢にも出来うる所でない。
 しかし、彼等の前に立つた時の自分の心は、怪しくも抑へがたなき一種の感激に充たされるのであつた。神の如く無垢なる五十幾名の少年少女の心は、これから全たく我が一上一下する鞭に繋がれるのだなと思ふと、自分はさながら聖いものの前に出た時の敬虔なる顫動を、全身の脈管に波打たした。不整頓なる教員室、塵埃にみちみちたる教場、顔も洗はぬ垢だらけの生徒、ああこれらも自分の目には一種よろこばしき感覚を与へるのだ。学校は実に平和と喜悦と教化の大王城である。イヤ、是非さうせねばならぬ。
 剰さへこの学校は自分が稚くて尋常科四ケ年の課程を学んだ紀念の学校であるのだ。
 現在の職員は、師範出の、朝鮮風な八字髯を生やした、先づノンセンスな人相の標本といつた様な校長と、この村の人で、三十年も同じ職に勤めて居る検定試験上りの訓導と、師範女子部出の我が友、上野女史と、そして自分と四人である。
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 世には、『智識にあらず、運命こそ人間の万事を支配するものなれ。』といふ極めて劣弱な考へを以て居る人間が多い。『然らば、正義、公平、謹厳、謙譲等のもの、人間の万事を支配するにあらざるにや。』とは、これらの人間に対して、古へのプルタークが提供した絶叫であつた。そして彼は、かの有名なる英雄伝を鉄筆を振つて書き出したのである。
 然し乍ら、人生一切の出来事を解決するに於て、以上の二論は、その愚蓋し互に匹敵して居るものではあるまいか。我々は、プルタークの英雄伝を読むに当つても、人間の智識乃至正義、公平……等の諸徳の如何ともし難き高俊なる運命の蹂躙を歴々として視る事が出来る。又、人間の智恵乃至諸徳が往々にして、当然の運命を改善し――少なくとも別途に導くの事実も亦、我々の常に遭遇し、見聞する所である。
 人間と神との連絡を是認し、運命を以て他界の勢力とせず、我々内在の根本性格の発動とするのが、此際に於ける唯一の解答である。
 運命は人間の根本性格である。そこで一切の「偶然の出来事」は皆「必然の運命」である。人は到底運命の手から脱する事は出来ない。運命は実に断てども断たれぬ永遠の鉄鎖である。然し乍ら、既に運命が他界の隔岸的な勢力でない以上は、我等はただ将に自己の運命を双肩に荷つて、一意奮闘すべきであるのだ。プルタークが鉄筆に上つた英雄も実に皆斯くの如き奮闘の人ではなかつたか。
 自分は悲観詩人厭世詩人ではないが。人類が今迄、絶対の「喜」の現存せざる涙の谷のみを辿つて来たといふ大事実は、承認せざるをえない。我々の世界にあつては、ただ「喜」に対する希望のみが、「喜」と称されてあるだけである。所詮人生の奮闘とは、血と涙とを以て「理想」の光明城を攻め取らむとする努力の意義。運命の壷には常に涙が溢れて居る。
 自分は今、月給八円の代用教員になつた。これも亦運命である。運命だから、仔細に考へ来れば、涙も恨みもあるのだ。噫。

○四月十七日。晴天。
 村社愛宕神社の祭礼で学校は休業。

○四月十八日~二十日。
 朝は七時に起きて、毎日教壇に立つて居る。児童幾十名の性質など略ゝ解つて来た、放課後はテニス。
 十九日の夕べ、ソネツト『春月』の一篇をえた。
 二十日の朝、鉄幹氏が大学病院を退院する報知。薄田泣菫氏が上京中との事。岡山の瀬川藻外から、北村季晴作の叙事唱歌「須磨の曲」「露営の夢」「離れ小嶋」の正本を送つて来た。夜、小曲、『友藻外に』『山杜鵑』の二篇をえ、『春月』と共に鉄幹氏へ手紙を添えて送つた。

○四月二十一日。晴。土。
 待ちに待つたる徴兵検査が愈々この日になつた。学校をば欠勤。午前三時半に起床、好摩から六時に乗車して沼宮内町に下車、検査場なる沼福寺に着いたのが七時半頃。検査が午后一時頃になつて、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱(○○○○)で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。
 自分を初め、徴集免除になつたものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運の動いてゐるのは、此辺にも現はれて居る。
 四里の夜路を徒歩で帰つた。家に着いたのが、十時頃。二階への梯子を這ふて上る程つかれて、足は痛くて動かなかつた。途すがら初鶯、初蛙をきいた。
 一家安心。

○四月二十二日。日。
 痛い足をひきずつて、隣村巻堀村小学校に開かれた郡教育会部会の月次会へ出席した。
 頭脳の貧しい人間が集つて、何が出来るかは、自分の初めから知つて居た所である。
 足が痛かつた。

○四月二十三日。
 一昨日、年は三十九歳の、村でも有力家の一人であつた男が突然自殺した。
 竹田竹松! 噫、彼に対して自分は久しく或る敬意と好意を持つて居た。彼は無論農家の生れ。学問も浅かつた。財産も少なかつた。然し彼は驚くべき度量と才とを持つて居た。そして又非常に自負心の強い、そのくせ能く人に馴れ易い、仲々の大力家で、大酒家で、大食家であつた。彼の才能は先づ村中の第一位であつた。しかも彼の住んだ天地は、彼を容れるには余りに小さかつた。彼の学力は浅かつた、にも不拘、彼の世事万般に渡る智識は優に又村中を圧して居た。彼は幾多の企てをした。そして皆失敗した。五升の酒は遂に一升樽に入れる事が出来なかつたのである。用ゐるに所なき才は、却つて自分の身心を喰むの虫となる。かくて彼はその恐るべき身内の虫に攻められて、或時は酒に隠れ、或時の如きは全たく狂人の真似もした。世人は、多く彼を狂人の扱ひをした。自分はその当時から彼の心中に無限の同情を寄せて居た。そして決して彼が真の狂へる人でない事を信じて居た。彼は痛切に人生の苦痛と無価値と倦怠とを感じて居たのである。
 忽然として自殺の報は伝はつた。ああ、無学なる彼は、遂にその甚深なる煩悶から解脱するの路を見出し得なかつた。
 世人は精神錯乱の結果だといふ。しかも彼の死様は、古への武人も難んずる程立派であつたのだ。腹を一文字にかき割く事一尺余。割く事半ばに刀の刃が欠けた、乃ち第二の刀を取つて遂に目的を達した。割腹後四時間。最後の一分まで平然と秩序正しく人々に遺言して、遂に不帰の客と成つたさうな。若しこれが狂人の仕業であるなら、世界に狂人でない人が無くなつてしまふ。
 人生を解脱するの道只二つあり。そして彼はその一を撰んだのだ。自分は彼に対する世評を耳にする毎に実に忿怒に堪えぬのである。

○四月二十四日~二十八日。
 自分は、一切の不平、憂思、不快から超脱した一新境地を発見した。何の地ぞや、曰く、神聖なる教壇、乃ちこれである。
 繰り返して記すまでもない。自分は極めて幸福なのだ。ただ一つの心配は、自分は果して予定の如く一年位でこの教壇を捨て去る事が出来うるであらうか。といふ事である。
 自分は、涙を以て自分の幸福を絶叫する。
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 余は一大発見をした。今迄人は自分を破壊的な男といふた、余は今に至つてその世評を是認せざるをえない。そして余の建設しうるものはただ精神上の建築のみであると知つた。ああこれが一大発見でなからうか。
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 二十五日に学校で誤つて怪我をして右の足が自由に立てられなくなつた。医師の言によれば一週間位で全快するとの事。出来ぬのを無理にチンバを引いて、一日も休まずに出勤した。生徒が可愛いためである。ああこの心は自分が神様から貰つた宝である。余は天を仰いで感謝した。
 二十六日から高等科生徒の希望者へ放課後課外に英語教授を開始した。二時間乃至三時間位つづけ様にやつて、生徒は少しも倦んだ風を見せぬ。二日間で中学校で二週間もかかつてやる位教へた。始めの日は二十一名、翌日は二十四名、昨日は二十七名、生徒は日一日とふへる。
 英語の時間は、自分の最も愉快な時間である。生徒は皆多少自分の言葉を解しうるからだ。自分の呼吸を彼等の胸深く吹き込むの喜びは、頭の貧しい人の到底しりうる所でない。
 余は余の在職中になすべき事業の多いのを喜ぶものである。余は余の理想の教育者である。余は日本一の代用教員である。これ位うれしい事はない。又これ位うらめしい事もない。
 余は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。
 児童は皆余のいふ通りになる。就中たのしいのは、今迄精神に異状ありとまで見えた一悪童が、今や日一日に自分のいふ通りになつて来たことである。教授上に於ては、先ず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る。文部省の規定した教授細目は「教育の仮面」にすぎぬのだ。
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 迷宮桃村、すま子等より来信。

○四月二十九日。 日曜日。
 盛岡から債鬼に来られて一寸閉口。
 岡山なる藻外へ発信。

(この後、八十日間中絶)

※八十日後、「八十日間の記」を書き、その後を続けます。
 「八十日間の記」以降は、別ページに掲載しています。



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石川啄木 啄木日記