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啄木日記バナー
 (題字は「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



明治四十丁未歳日誌

原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第13集
  発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷
なお、筑摩書房版全集と照合し、不突合の場合は調査、不明の場合は筑摩版を採用しました。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題がある文字が多いため、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。


丁未日誌

自明治四十年元旦
於澁民村十一番戸

一月
--澁民
五月--函館
九月--札幌--小樽
極月--小樽


明治四十丁未歳日誌
                                                                        石川啄木

       睦月
--澁民村--

一月一日(四方拝-火曜日)
 早朝雪。好晴。寒威弛む。
 遂に丁未の歳は来りぬ。人一人の父と呼ばるる身となりての初めての新年、我が二十二歳の第一日は乃ち今日なり。
 父一禎、五十八歳。母かつ子、六十一歳。妻せつ子、二十二歳。妹みつ子、二十歳。子京子、生後四日。
 大晦日の夜は、さまざまの思出と、例の独逸語とに時の移るを忘れて、鶏なく頃枕につきしが、夢を見ず、今朝は例になくいと早く目さめたり。元旦ぞと思ふ心映のためなるべし。我が戦ひよ勇ましかれ、我が一家の上に祝福あれ、わけても生れし京子の上に幸多かれ、など、霎時枕の上にて打念じて、心甚だ健やかなるを覚えぬ。
 起き出でて、机辺を浄め、顔を洗ひ、約翰傳をよむ、門松立てず、〆縄飾らざれど、いぶせき我が家にも春は入りぬとおぼし。髯のびし父の顔にも、肉削げし 母の頬にも、松風のどけき白湯の沸る音にも、こもるは一種慰安の色なり、影なり。イ便の配達に届きし賀状新聞など一閲して、年頭の廻礼に出づ。駅内二十一 軒。まだ起き出でざる人もありき、起き出でし許りにて、顔洗はぬ人もありき、しからざるも大方は朝餐の前なりき。神武紀元第二千五百六十七年の元旦、この澁民の村にて先頭第一に迎新の辞をのべし者は、実に我なり。希望多き此年が、我に導かれてこの澁民の天地に入り来りぬ、など思ふも嬉し。帰り来て、楽しく 朝餉の食卓に就く。大根汁に塩鱒一キレ。お雑煮などいふ贅沢は我家に無し。話題は多く生れし子の上にありき。老ひたる母の我を誡めて云はるるやう、父とな りてはそれだけの心得なくて叶はぬものぞ、今迄の様に暢気では済むまじ、と。然るか、然るか、あゝそれ実に然るか!
 今日の予は、唯、まだ見ぬ我が児何ものよりも可愛しと思ふの情切に、又、願くは其児美しかれと念じ、父にや似けむ、母にや似たるべきなど想ひ、自らの胸に溢るる喜悦を移して、若き母の心をも推し測り、父たる者の心得の如何なるものかは、我の未だ知らざる所。--父となりて僅かに四日、未だその児の顔をも見ざるなれば、知り得ん筈もなし。唯、予は、予も亦人におとらぬ善き父たるを得可しと自ら信ずるの理由あり。そは他なし、予は予の妻を愛する事甚だ深く、且つ、まだ見ぬ乍らも我が児を愛する事恁くも強ければ也。
 誘ひに来し児等と打連れて、学校の門松をくぐる。四方拝の式なり。生徒と共に『君が代』の歌をうたふ。何かは知らず崇厳なる声なり、あはれ此朝、日本中の学校にて、恁く幾百萬の「成人の父」共が此唱歌を歌ふなるべし、と思ふに、胸にはかに拡がりて、却りて涙を催す許りの心地しき。聖徳の大なるは、彼蒼の、善きをも悪しきをもおしなべて覆へるに似たり。申すもかしこけれどども、聖上睦仁陛下は誠に実に古今大帝者中の大帝者におはせり。陛下の御名は、常に予をして襟を正さしむ、予は、陛下統臨の御代に生れ、陛下の赤子の一人たるを無上の光栄とす。濱のさざれ石の巖となりて、苔むさむまでも千代に八千代に君が代の永からむことは、我も亦心の底より、涙を伴ふ誠の心を以て祈るところ也。
 然れども、若し人ありて、聖徳の大なる事かの彼蒼の如きを見、また直ちにこの明治文明の一切をあげて讃美し誇揚すべきものとなすあらば、そは洵に大なる誤りなり。その妄、恐らくは魚を以て鳥となすの類に近からむ。人が人として生くるの道唯一つあり、曰く、自由に思想する事之なり。
 后一時頃、帰り来て、金矢信子女史及び其二妹と元旦の昼食を共にす。豆腐と干初茸の汁の物、味噌汁は蕪菁なり。
 十幾年前、予六歳の春、初めてここの郷校に上がりし時、同級二十幾名、女史も亦其中の一人なりき。四年にして尋常科教程を卒へたる後、更に笈を負ふて杜陵の学林に遊べるもの、女史と予と唯二人のみ。爾後、歳時匇々として、逢離幾数度、人生の春早くも傾いて、身は二十二歳の今日と成りぬ。昔、机を列べて初めて知識の光に照されし級友、今多くは既に父となり母となり、或者は軍に召されて征露の役、骨を満州の土に埋め、地を白草原頭に流したるあり、又、村役場の雇書記たるあり、法に触れて獄裡の日を送りし者もあり、人の家に奴僕たるあり、荷馬車を曳いて口を糊するあり、多くは犁鋤を携へて農圃の人となり、干鯡を焼いて破茶碗に酌む村酒の味を知んぬ。昨を思ひ今を思ふに、人々(にんにん)皆多様、見えざる糸のありて、生るるより死ぬるまで、人を其おのがじしの墓門に導くに似たり。茲に至つてか、一陣の風あり、来つて我が心界に吹き捲くを覚ゆ。女史や幸運の人、杜陵に女学校に学び、我が妻と親みよし、後、共に其校を卒へしが、遠く都門に遊んで、音楽と裁縫とを修めぬ。郷に帰りて後、陸軍歩兵中尉福田氏と婚を約し、同棲数月、日露の役の起るありて、中尉は初め樺太に渡り、転じて台湾を守り、今また韓国京城に守備たるの故を以て、女史乃ち南方の一邑に職を予と同じく代用教員に奉ぜり。相逢ふて食を共にし、話題往時に及べば、追懐の情しきりにして転た惆悵、心魂飛んで旧夢を追ふ事甚だ切なり。噫々、往けるはかへらず、来るは捉へ難し、此情古今渝ることなし。
 食後、加留多遊を催す。客多し、夜、再び軍勢をかり集めて、深更に至るまで此優しき遊びに耽りぬ。
 この夜の汽車にて、問安の使として小妹を盛岡なるせつ子が許に遣はしぬ。
 来訪者。――村長駒井氏、郡会議員金矢氏、登記所吏員石井瀧彌氏、同原梅雄氏、金矢信子氏、其他十数名。
 ○篷雨新渡戸仙岳氏より寄せられたる出産の祝句
  梅さくや松ふく風もうたふごと。
 ○秋皎内田直氏より、同。
  羽子毛毬のうたうたふ程もまつるべし。(我に)
  縫ぞめは産衣のことに夜やこめむ。(せつ子に)
 この日初刊の岩手公論紙上に「林中の人」という匿名を用ゐたる我が『鎖門一日』を載せたり。

一月二日(水曜日)
 好晴。夜に入りて寒気甚だ劇し。
 百戸に満たぬ渋民の古駅、今猶多く陰暦を用ゆれば、学校と村役場の前に門松の立ちたるのみ。都人の来て見なば、山中無歴日の感やすらむ。
 新年の新聞を見るに、皆迎新の辞を載せたり。四十年前を回顧し、この短時代に成しとげたる聖代の文化を誇り、且つ将来の希望を述べ、無窮の皇徳を頌する に於て、皆其軌を一にす。人は常に同じ事を繰返して喜ぶものの如し。万朝報記者、「元日」の徳を謳歌して、人若し常に元日の心を失はざらば、軍備も要無 く、ストライキも起らず、社会主義もなくなり、一切の不祥事其影をひそめて、世はさながらに現想の国となるべしと論じたる、面白し。
 光子帰り来て、せつ子殆んど平日の如く健に、生れし子は大きくして美しく、むさぼる如く新乳を飲めりと語る。芽出たき事のみなる新年なり。
 『明星』未歳一号来る。
 我、物心つきてこの方、新年を迎へて恁程の喜びと慰安とを感じたる事なかりき。あはれ、羊の歳の啄木や如何なるべき!
 三月までには我が独逸語、少しは訳に立つ様になるべきか。
 
一月三日(木曜日)
 曇天。降雪二時間許り。厳寒、恐らくはこの冬第一なるべし。華氏寒暖計十三度に下る。
 正月は睦み遊ぶべき月。役場の岩本氏等を初め、朝より客たえず。将棋を闘はし、加留多を取り、夜は鶏鳴をきいて眠りぬ。
 釜石なる従兄医師工藤大助氏より、出産の祝いの為替と共に
    白梅や香りけだかき床の上。
    命名 (かほる)
 と大奉書紙に認めたるを送りこされぬ。(かほる)もよき名なり、また知人よりつけられたる静子、染子など何れもよし。されどこ度は、かねてよりせつ子と共に撰びおきしなれば「京子」といふに決すべし。「京」の字、みやびにして優しく美しし。我が友花明金田一君は京助という名なり。この友の性と心と、常に我が懐かしむ処なれば、その字一つを採るもいはれ無き事にあらじ。若し生れしが男なりせば、尾崎学堂先生の名を襲ひて「行雄」と名づくべかりしが、我が父としての初めての愛を享くべきは、男にあらずして女なりき。男は戦の撰手にして、女は調和の使者。先づ「調和」を愛せよとは、天果して意ありや無しや。
 この夜、小妹誤って、我が家に唯一つの奢りなりける美しき置洋灯を砕きぬ。予自ら物商ふ店に行きて求め来しは新しく明るき吊洋灯なり。母は云ひぬ、幼き児ある家にては吊洋灯こそ安全なれと。我子にかかはる語ばかり今の身に嬉しきは無し。砕けしは一昨年の六月、我京より盛岡にかへりて間もなく、居を加賀野磧町にトしたる際購へるものなりき。爾後十有九ケ月、夜夜わが机上に載せられて、つぶさに我と共に人生の苦愁に心明滅しつつ夜をふかしぬ。今、我すでに身心の健康旧に復し、第一戦の創痍漸く癒えて、新しき勇気と幸福とは新しき年と共に来れり。今の我は昨の我に非ず。昨の友、或はまた今の共に非ざらむ。噫、此時に当りて、汝苦愁の友、一砕して乃ち我が机辺を辞し去る。天果して意ありや無しや。
 我莞爾として此ペンを、川音遠き夜半の窓、光あかるき新灯影裡に走せぬ。

一月四日(金曜日)
 曇天。雪少しく降る。寒さ烈しけれど、昨日の如くならず。
 世に遊びのたぐひ多かるめれど、歌加留多許り優にやさしき遊びはあらじ。読札百枚取札百枚、しるされたるは、キング、クイン、ジャックなどの階級的表号にはあらずして、美しき三十一文字なり、詩の句也。ともしび明き一室、和気靄々たる中に、うら若き男女入交りて二列に居ならび、身の構へさまざまに皆膝の前にならべられたる札に目を注げり。別に一人の読手あり、声張り上げて誦し出づるは何? あゝこれ実に一千年前の詩人が物にふれ時に応じて心の底よりうたひ出でたる一百首の「くにぶり」にあらずや。時に巧を辞句の末に競ひてうれしき心地せぬ咏口(よみくち)もなきにあらねど、大方は今の世の我々がきいても有がたく思はるる歌なり。いと深き心の声を珠の如き言の葉に述べつらねて、げに不朽の調ぞと思はるるも少なからず。殊には其歌、美しき相聞の歌ぞ其半ばをも超えたり。恋の心は昔も今も変らず。誰が耳にも美しきは恋の歌なるべし。うら若き声に読み上ぐれば、うら若き人の手其札を競ひ取る。古の歌垣の場(には)を羨み思ふ我には、加留多とる室の様ばかりうれしきは無し。この遊び、別に物かけて争うといふ事なく、又勝敗ただ其巧拙にありて特に心を疲らすべき策といふものなし。敗けたる組は男も女も、白き黒き赤き様々の顔に、お白粉塗られて敗戦の(しるし)とするなど、おもしろき戯にあらずや。これを彼の卓上黄白を積んで一攫千金を競ふ西洋の骨牌に比して、其美醜何とか云はむ。
 今夜、十二時を過ぎて加留多会散ず。二時頃、いと長き地震あり。今枕につかむとするに、はや三時にもやなりぬらむ、寒さ骨に沁み、裏の厩(うまや)に若き栗毛の立髪ふるふ音す。明日の寒さの酷しさ思ひやらる。
 ならぶる枕なきさびしさ。夜啼きの稚児に乳房やふくますらむ妻が上切に恋し。

一月五日(土曜日)
 曇天。寒烈し
 この日、京子の出生届を村役場に出す。元日午前六時出生の事に。
 午后、説子幸子二嬢わざわざ迎へに来られて、川崎なる金矢邸に招がる。年始の御馳走なり。鶏の汁の物。蕎麦十六杯を喰ふ。夜は洋絃を弾く。一泊す。
 金矢家の好意は、予をして永く感謝せしめむ。

一月六日(日曜日)
 午前曇。午後少雨。寒ゆるむ。
 十一時頃金矢家を辞し、光一君と共に帰る。友は今杜陵にありて中学の五年なり。一日談を交へて其人為(ひととなり)凡にあらざるを知る。或はこの人、他日世を助くる事あらむ乎。
 予は一時頃となりて光一君と共にひとつ衾を被きぬ。点滴の響たえずして、冬と覚えぬあたたかき夜なり。予は思ひ出でぬ。三年の昔、ここの寶徳寺裡の静けき一室、詩作にふけし春の夜の雨の音を。
 友の眠りし後、昨日一少年より借りし押川春浪君の『新日本嶋』を読みて暁にいたりぬ。これ彼の所謂英雄小説の一なり。記する処もとより荒誕、粗雑なる空想を縦ひままにして、五大洲を舞台とせる所謂「破天荒の痛快事」を描く。現代の紳士、恐らくは之を以て児戯のみとせむ。ただ少年者流の心に投ずる無益の書とせむ。然りこれ著者が日本少年のために作れる少年小説に過ぎず。
 春浪君、年は正に壮、かの明治の傑物押川方義氏の息たり。予嘗て三十七年の十二月、京駿河台の長谷川天渓君の宅に於て、彼と会する事前後二回。彼や長身痩躯にして眉目人に秀で、よく飲みよく談ず。其談ずるや音吐朗々として意気頗る凛たり。性豁達にして朴直、父氏の面影ありと云はる。また快男子なり。
 彼思へらく、帝國の生命は「武侠」の精神なりと。日本民族は実に此精神ありて萬邦に冠絶し、此精神によりて宇内を統一せざるべからず。これ彼の理想なり。此精神を遺憾なく代表する者、大西郷乃ち之れなり。
 彼は這の信念を鼓吹せむとして所謂「英雄小説」なるものを編み出せり。
 支那海の南隅に新日本嶋あり、印度洋中に朝日嶋あり。亜弗利加東岸に海光國あり。空中飛行艇あり、海底戦闘機あり、幾百隻の大戦艦あり。英雄美人雲の如く集まる。智海の如きあり、力山を抜くあり、世界一の発明家あり、獅子に跨がりて世界を横行する蛮勇侠客あり。而して大西郷は猶死せずして西伯利亜の一怪塔に幽せらる。此老英雄の救ひ出さるるの時は乃ちこれら無数の英雄が一時に立って世界を粉韲し了るの時なり。・・・・・・・・かくの如きは実に彼が英雄小説の描くところにして、其人物皆東洋流の快男子、宛然として之れ新式の水滸伝なり。
 其思想の浅薄、其空想の粗雑、其構想の無稽にして人生の面目と何の関はるなき、予も亦充分之を知る。然しこれを一読して胸中おのづから清風を起し白雲を浮べ、微笑して身みづからまた「東洋団結」中の一人たるが如き感を抱かしむるは何ぞや。
 曰く、これ一切の無価値を具備しつつ、猶且つ男性的(◎◎◎)なれば也。雄偉壮大の気を知らざる女性的の明治の日本に於て著はされたる殆んど唯一の男性的の作物なれば也。予は欲す、少年者のために書かれたるこの書を、寧ろ賢明なる紳士と博学なる思想家、着実なる作家等の机上に呈せむことを。
 予も亦、他日一ケの英雄小説をものせむと願ふ事久し。然れども其描かるる人物は老西郷にあらじ、桜木大佐にもあらじ、段原剣東次にもあらじ。彼等は世界の現状を破壊して武侠の日本が世界を統一せむことを計画しつつあり。然れども我が主人公の欲する処は乃ち然らず。彼は人生の現状を破壊して男性と美との新世界を造らむがために思想し計画し健闘するならむ。予の描かむとするものは「人間」なり、「生ける人間」なり、「思想するが故に生ける人間」なり。彼は勇ましき人生の戦士なり。

一月七日(月曜日)
 好晴。空気大に弛み、寒暖計日中五十度に達す。夜にいれども軒の玉滴音たえず。地に尺の雪さへなくば、野径に若草の匂ひたづねまほしき程の心地也。
 年末歳始の休業終りて、今日より学校は第三学期に入る。始業式なり。
 予の代用教員生活は恐らく数月にして終らむ。予は其間に出来うるだけの尽力を故山のためにせざるべからず。新春第一に先づ予の遂行せむとする計画二あり。生徒間に自治的精神を涵養せむとする其一也。兎角田園にまぬがれ難き男女間の悪風潮を一掃して、新しき思想を些少なりとも呼吸せしむとする其二也。
 このためには、先づ「生徒間の制裁」を起さしむる必要あり。又愛(いと)しき子弟の数人を犠牲とせざるべからず。予は今日よりこれに着手したり。

一月八日(火曜日)
 好晴。寒気ゆるし。
 産褥にあるせつ子より葉書来ぬ。
 今日は第三学期の授業始めなり。
 嗚呼、予は涙を以て天に謝す。今日予をして覚えず涙を流すにいたらしめたる衷心の喜悦は、これ実に天の賜へるところのものなり。予は今日初めて、「誠」の心のみ独り最も尊貴なる珠玉なるを知んぬ。今日予は初めて予の一言一行の完たく子弟の心を根底より司配しつつあるを証明する事実に遭遇したり。
 予は今日第三時間目―歴史の時間に、高等科六十名の男女を容れたる、かの薄暗き教室に立ちて、近来漸やく勢を加へたる男女両生間の或る悪風潮を根底より一掃せむとするを告げ、今直ちに各生の行為を指摘して譴責するをうれども、猶数時間の間反省の時を与ふるが故に、若し自己の行為を内心より侮悟するものあらば、今日中に来りて予に其一切を自白すべき由を命じたり。
 昨日既に上級の数人をよびて種々の訊問をなしたりしなれば、今日は朝より彼等の予を見る、恰も電光閃々たる天空を仰ぎて落雷今か今かと恐るる如くなりき。予の彼等に告ぐる処あるや、満場寂として声なく、既にして唏嘘の声あり。愛憐の情は油然として予が心頭に湧きぬ。『我も爾の罪を定めず、往きて再び罪を犯す勿れ。』!!! 然れども予は思へり。たとへ愛しき子弟の数人を、よしや、其犠牲とするとも、予は断じて此悪風を一掃し了らざるべからずと。これ実に唯一校の面目にのみ関するものにあらずして、其成敗は深く永く社会の推移を司配すべき問題なればなり。
 目に涙充ち、声おのづから顫へる美しき愛しき自白者は続々として予の面前に立ちぬ。彼等は皆、殆んど噴飯すべき程の些細事に至るまで、自ら悪しと思へることは総て懺悔しぬ。而して極めて敬虔なる湿める眸をあげて、説に予のゆるしを乞へり。あゝ予は何の心を以てかよく彼等の雪よりも潔き心を罪に定めん!
 一人あり、善吉と呼ぶ。年歯僅かに十二歳、学科の成績平常の素行極めて優等にして今、高一年の級長たり。彼偶々一女友のあやまる所となりて、近時較々幼年求学者の道を迷ふ。彼は今日一日、殆んど一語を発するなく、病める人の如く打沈みて、予の顔を見上ぐる事さへ能はざりき。夕刻となりて予は学校より帰り来れり。彼は直ちに駛け来つて予を訪へり。予の顔を見るや、彼が尽日の辛き悔悟は、忽ちに発して瀧の如き涙となりぬ。さて力ある言葉に懺悔すらく、
『先生、私は悪うございました。』・・・・・・・・・・・・
 彼は甚だ詳らかに自白したり、その体度は実に献身者の体度なりき。予の目は曇れり。温かき雨ありて双頬をうつを覚えたり。
 懺悔未だ終らず、一団の訪問者ありて入り来れり。談会々催眠術の事に及ぶや、一人あり、慶三と呼ぶ、またこれ最も予の愛する学童なり、みづから其術を施されむことを望む。睨視三分時許りにして彼は眠りぬ。これ予が初めての催眠術の試験也。
 予は静かに眠れる児を起して曰く、「慶三起きよ。」と。この語未だ畢らざるに、彼突如として唏嘘の声を発し、涙下りて瀧の如く、やがて声を放って泣けり。予初め其故を知らず、百方慰撫の語を尽しぬ。彼の口走る所、断続意を成さざる所多かりしも、漸やくに予は其啼泣の何故なるかを知るをえたり。噫、「予は何事をもなさざりしに!」彼は実に何の悪事をもなさざる善良の少年なり。しかも今日学校に於ける予の告白は如何にか其心を刺戟しけむ。彼は他の友人と共に同罪に坐せしめられむ事を深くも心に憂ひとなし居たりし也。さればこそ予の彼が名を呼べる一語は、彼をして畏怖せしぬ、さては声を放って泣かしめたり。
 予は感極まって、何の実験をも施すことなくして直ちに彼を覚醒せしめたり。
 ああ、予は今日ばかり、予の一言一句の如何に深く子弟の心を司配するかを知りうべき事実に遭遇したる事なかりき。「誠」のみぞげに此上なく尊とき財宝なりけれ。予の心はただ敬虔の情に満ちたりき。
 九時頃になりて大方帰りゆきぬ。残れるはただ四名、その一人は実に善吉なりき。彼は終始うつむきて物思へるさまなり。十時を過ぎて其友は皆帰らむと云ひ出でぬ。彼は猶立ちなやむ様なりしが、予は、彼が夕飯をも喰はざるを知るが故に、あまり遅くならぬうちに帰り給へと勧めぬ。彼は止むなくして遂に立ちぬ、立ちて入口に至るや、乃ちふりかへりて予の前に低頭し、再び犯すまじければこの度の罪を許せよと云ひて、声涙共に下れり。噫、いかに愛しき弟ぞよ、彼は実にかく云ひて予の許しを得ずばと思ひて、家にかへらず夕飯さへ求めず、かくは夜ふくるまで其機会を待てるなりき。予は彼の頭を撫して、一語をも発する能はず、漸くにして唯「心を安めよ」とのみ云ひえしのみなりき。
 枕につきて後、涙流れてとどまらず。嬉しさ、有難さ、思ふほどに思ふほどに胸にあまりて、法恵の雨、今しとどにわが魂を洗ふかとぞ覚えし。あゝ、神は人々の心に宿れり。かくしてもこの世にいと大いなる力なしといふをうべきや、黙祷多時にして漸く眠りに入るをえたり。

一月九日(水曜日)
 曇天。寒さ昨日に異ならず。
 昨夜、人々と共に来て、然も遂に辞を出すべき機会なくして帰れる一女子絹子、今朝早く我を訪ねて心より罪を詫び、且再び犯さざるべきを誓ひぬ。女の心は涙の淵、予は殆んど慰撫の言葉なきに苦しみぬ。
 『雪よりも潔き、神の幼児の如き心を以て其罪を懺悔する者は、一生に何の悪事をもなさざる人よりも却りて幸ひなる人なり。予は昨日、はしなくも基督の心を思ひ浮べて泣きぬ。「誠」に優る寶この世になかるべきを思ひて泣きぬ。卿等よ、予は実に昨夜枕につきて後、卿等の清き心を思ひて、流るる涙をとめもあへざりき。心を安んじ給へ、予の前に懺悔したる人々よ、予は初めたとへ幾何かの犠牲を要するとも断乎として卿等に厳重なる譴責を与へむと期せりき。然れども卿等は既に涙の懺悔によりて、昨日よりも却りて浄き人となれり。何人も卿等を罪しうるの人ありあたはじ。卿等は今教へられつつある人なり。然れども其尊き浄き心は以て百萬人に教ふべし。卿等愛しき兄弟よ、心を安んじて、再び、自ら悪しと思ふ事をなす勿れ。・・・・・・・・・』
 これ予が今日高等科の教壇に立ちて告白したる所なり。予は、胸ふさがりて辞甚だ渋るを覚えき、予は危くも声をあげて泣かむとしたり。予の一言一句は、心よはき教子の美しき涙によりて迎へられぬ。然り、曇れる予の眼も、そこここにすすりなく児等のありしをば朧ろげ乍ら認めえたりき。
 何なれば斯くも―喰ひつきたき程可愛きにやと予は心に思へりき。
 ああ、蒼天願くは我が感謝を享けよ。これをしも至福といはずして、世に天の祝福といふもの又とあるべしや。
 予の代用教員生活は、数月を出でずして終らむ。然れども予は心深くも願へり。他日猶一層の修養を積みて後、予の再び郷校に代用教員たりえむ事を。

一月十日(木曜日)
 曇天。午後少雪。
 この日より毎日五分間か十分間宛、尋常二年及び高等科に、簡単なる英語会話を教ふることとしたり。
 奥山絹子=柴内陸七郎。この二人の名は、常に予をして一葉女史の『たけくらべ』中の美登利と信如とを連想せしむ。陸七郎は高等三年の級長として、全校中、其成績其素行、肩を並ぶるものなし、年歯十六。文に長け、又和歌をよくす。絹子は昨秋九月北海道旭川の学校より転校し来たるものにして、今十有四歳、高等二年にありて殆んど男生をして後へに瞠若たらしむ。その名の美しきと共に其眉目亦甚だ秀。たゞ其父は鍛冶職にして幾多無頼の職工と共に北海道開発地の都邑をそこここと廻りあるきしなれば、其性較々侠、時に男生を凌ぐの行なきに非ず。昨夏其父母樺太に渡りてより、絹子は其伯父なる此処の医師が許に来りて、業を我が校にうくるに至りぬ。
 女子にして、其成績の優等なる、其挙止の活発なる、彼女の如きは、我が校に於て実に初めての事なりき。されば彼女は其入学第一の日よりして衆生の注目する所となりぬ。或る意味に於て彼女の入学は我校未曾有の新現象なりき。常にイクヂなきもの、卑しき者、よき嘲弄の目的と見なされし女生の一団は、彼女を得て初めて、漸く其頭角を擡げ来らむとせり。予は静かに其気運を観察してひとり微笑し、且戒心したり。
 極めて不衛生的にして白昼猶黄昏の如き我が校の高等科の教室は、一年より三年までの男女合して六十幾名を収む。内、女子僅かに八名。一年生は多く十一歳十二歳にして、三年に至れば十六歳に達するものまた二三名を算す。聡明なるあり、魯鈍なるあり、剛気なるあり、臆病なるあり。而して此等、一群の少年少女は、然れども亦、明らかに一個独立の一小社会をなせり。世上一切の現象は皆その狭小なる影図を此小社会に有す。『女権拡張』の新運動やまたそれに外ならず。
 絹子登校後未だ一ケ月ならずして、男生女生の間、頻々として日毎に幾多の小事件起り来りぬ。これ乃ち、田村の学校にまぬがれ難き一種頑迷なる男尊主義と、漸く其屈辱の境遇を脱出せむとする彼女の率ゐる一団の女生との間の、止みがたき小ぜりあひなりき。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この新年に遙々賀状を寄せられたる諸氏左の如し。
《東京》與謝野寛氏。帝国大学講師文学士上田敏氏。蒲原有明氏。前田林外氏。岩野泡鳴氏。綱島梁川氏。小栗風葉氏。澁澤倉庫取締川上櫻翠氏。画家岩田郷一郎氏。弁護士平出修氏。茅野蕭々氏。正宗白鳥氏。金田一京助氏。田子一民氏。堀合由巳氏。東京毎日新聞主筆石川半山氏。植木千子氏。金子定一氏。伊東圭一郎氏。小林玉代氏。
《京都》高安月郊氏。薄田淳介氏。《岩代》後藤宙外氏。《金澤》江南白雪氏。豊巻剛氏。《岡山》瀬川深氏。《横濱》小島烏水氏。《仙台》小林花京氏。《北海道》山本千三郎氏。苜蓿社松岡政之助氏。西堀藤吉氏。《秋田》田村叶氏。《群馬》佐藤良助氏。《懸下》工藤大助氏。米内謙太郎氏。小笠原迷宮氏。高野桃村氏。佐々木孤舟氏。村山龍凰氏。県会議員稲村大次郎氏。秋濱正氏。浅利操氏。畠山亨氏。日向吉衛氏。
《盛岡》内田秋皎氏。下村石楠氏。岩手日報主筆福士神川氏。大信田落花氏。前市長電気会社長清岡等氏。小田嶋慶太郎氏。加藤正五郎氏。高等女学校長新渡戸仙岳氏。岡山月下氏。下長根澄氏。東北公論社長阿部泥牛氏。師範学校長小林鼎氏。上野さめ子氏。山本健次郎氏。赤松虎人氏。千葉春松氏。等。
 この外、差出人の名なき賀状数葉あり。又京子出生を祝して態々送られたる祝文祝歌祝句の数、合せて十数通あり。
 平出弁護士が「謹賀新春、闔家勇猛、維法維文、永祷親交」と記しこしたる、そのコツコツたる所宛然其人を見るが如く、上田敏氏の「その後御起居如何、新年と共に多幸あらむことを祈る」と附記したる、何の事はなけれど、その人の圭角をあらはさぬ応接ぶり忍ばれて面白く。綱島梁川氏が「その後久しく御消息に接せず、御変りあらせられず哉、小生もその後の経過割合によろしく、御喜び下され度候」と書き越されし、眞人のことばの昔に変らぬ温かさ、思へば涙も流れぬ。十年病臥の人にもうれしき春ぞと、我もいや更にうれしかりき。高安月郊、小栗風葉、岩田郷一郎三氏の絵葉書、いと心地よかりき。
 岡山なる瀬川藻外君よりは、いと長きたより届きぬ。京子のために深き祝意を表され、又我が旧臘の明星誌に載せたる『葬列』を読みての限りなき感慨を叙 し、人生と自然とを刻々破壊しゆく文明の勢力を呪ふて、来るべき夏には兄と共に不来方城頭に追懐の涙をそそがむと云ひぬ。落漠たる人の世、どこまでも嬉しきは心会へる友なりけり。
 茅野君は『"葬列"のあとは無きにや』と云ひ、未見の友小島烏水氏は『"葬列"の一篇は多大の敬服を以て拝読、あとが待たれ候。二月号に是非願ひたく候』の言を寄せられたり。
 然れども、与謝野氏は告げて曰く、『"葬列"も随分タシカナル人々の間に批難多し。批難をも反省の料とするは美徳と存候。此春は詩作を御見せ被下度候』 と。噫々、批難の声はもとより期する処なり。予には、現在の予の作品を以て直ちに未成品と公言するの勇気あり。然れども予は常に願へり、批難よし、唯、自由に自己の作物を公にしうべき予一人の天地を有せむことを。批難の矢は決して予の生命をたつことあらじ。然れども予は「束縛」てふ牢獄の中にありて却つて 窒息せむとするなり。
 
一月十三日(日曜日)
 好晴。
 この日、近隣四校の新年祝賀会を我校に開く。会するもの六名。明治以前に生れたる人々の間に予一人髯なき顔を並べたる、宛然、焼野の中に白鳥の下り立てるにも似たりき。
 田苑教育界の活画図は之也。いと平和なりき。実にいと平和なりき。酒といふ興奮剤もその用をなさざりき。
 若し一事の記すべきありとせば、そは、予が彼等に求められて、読本中の韻文教授法に就いて私見を述べしことあるのみ。
 雪ふる夜も風の夜も、訪ひくる児等のために、十時過ぎまでは予自らの時間といふものなし。

一月十四日(月曜日)
 夜、堀田女史を訪ふ。夜ふけて寶徳寺の半鐘の声太鼓の音、一は鋭く一は深く、何か意味ありげにきこえき。年若き女と相対して、隣室より洩れくる垂死の老女の呻吟(うめき)をきくも、一の人生の謎語に面相接する感あり。心霊の世界と相往来したる風の如き人「カンコウ様」の話をききて思ふ所多し。かへりは郵便局の燈火一つ、人ひとりにも逢はざりき。

一月十五日(火曜日)
 好晴。華氏寒暖計四十九度に達す。
 今は海軍一等兵曹たる幼時の一友、学校に訪ね来る。過ぎし戦役に実戦に臨むこと前後五回。功六級金鵄勲章を得し人也。
 予は同氏の談話によりて、日露戦役中、日本が英国より石炭の供給をうけし事、又同国より技師を傭ひ来りて潜航水雷艇(形鮪に似て、長さ五間許。定員六人)五隻を造りし事、露艦も亦多くは沈没の間際まで勇敢に応戦したる事、日本の軍人と雖ども予の推測するが如く人情の弱点を有する事 (?)、海軍青年将校中、心を花柳の巷に走せざるもの、殆んど一人もなき事、耶蘇教信者(?)が全海員中の三分の一位もありといふ事、日本海軍が戦争中の損耗を恢復するには、猶五ケ年を要する事等を知るをえたり。
 又、海軍部内に社会主義者多しとは事実なりや、との予の問に答へて曰く、
   然り、甚だ多し、ただに日常しかく考ふる者多きのみならず、
  坐臥之を口にする者も亦甚だ多し。これ畢竟ずるに、圧制の
  厳なると、平時昇級の希望少なきとに依る。さればまた、這
  般社会主義者にして、一旦得意の境遇に立つに至れば、昨
  を忘るる事恰もよべの夢を忘るるが如し。
 あゝ然るか然るか。これ唯に海軍部内社会主義者の現況にあらずして、或は社会主義その者の性質を最も露骨に表白する者にあらざるか。文明の世界は惟然として太平なるべし!
 此一等兵曹との会談は、予をして、此渋民村の産出したる幾百の人間の現況について想起するの機会を捉へしめき。然れどもこの想起は、満足の一微光をも与 へずして予を去れり。予は予の日夕心をこめて指導しつつある或幾人の少年の、活々したる顔を順々に心に描けりき。予は僅かに心を安んじぬ。
 夜、三名の青年来り、旧正月に青年の新年会を開かむと欲する由を告げ、予に其発起人の一人となり、且つ万事の指導をえむ事を乞ふ。予答へて曰く、諾す、唯一切の事兄等自らせよ、予は兄等自ら其事にあたりて以て経験を積まれむ事を望む、小なる経験も時として大なる利益となる事あり、且つ兄等は、この渋民村の新時代を司配すべき人々にあらずや。

一月十六日(水曜日)
 曇。湿気を含める風ありて、心地悪し。
 昨夜寝に就かむとして、俄かに眩暈を感じ、呼吸くるしく、動悸劇しく、如何になりゆくかと思はるる許りなりしが、老母を呼びて紙障を明け放ち、水にひたせる手拭に額を冷して、漸く眠る事をえたり。見しは恋しき妻と未だ見ぬ稚児の夢なりき。いといと懐かしき其姿、殆んど夜もすがら、我が枕辺にありき。起き出でし今朝、頭重く、身内けだるくして心鬱したる事此上なし。学校は欠勤しぬ。
  冬一日火に親しみて暮れにけり。
  思ふ事なし山住みの炬燵かな。

一月十七日(木曜日)
 曇。温かし。風なし。
 心地常の如くならざれど出勤す。
 京都に新居をトしたりといふ蒲田淳介氏の賀状今日来る。
 山の掘立小屋、軒につみ重ねた焼タテの炭の、寒い寒い風にさらされて、冷えてゆくカリカリといふ音をきき乍ら、そら窓から冬の月を見て寝たなら、いかに心地よかるべきかと思ふ。

一月十八日(金曜日)
 晴。寒暖計五十二度半に上る。

一月二十九日(火曜日)
 この十日の間、予は、要するに健康で平和で、そして忠実なる代用教員であつた。学校に居ても、家に帰つても、子弟のためには実に真面目な兄であり、友人であつた。そして、子弟の間の風儀が日一日と曩日の悪傾向から離れてゆくのを看守して、心中甚だ幸福であつた。堀田女史から二三の本を借りて来て三日許り地文学を研究して見た。三日間の研究とは情けない話であるが、これ以上の研究をするには材料がない。
 枕についても仲々眠られぬ習慣がついた。眠られぬから様々な事を考へる。或はこれは、考へるから眠られぬのかも知れない。問題は主として、いつもの如く 文芸と教育の事であつた。」此頃新詩社乃至其他の派の詩を読んでも、別に面白味も有難味も感じない、これはどうしたものであらうといふのが其一。自分の頭 が荒んで散文的になつたのかとも考へたが、然しこれは、天上から詩が急に地上に落ちた為ではあるまいか。壇上の朗誦から床間もない室の雑談に変化した為めではあるまいか。」小説の事は毎日の様に考へた。自分はどうしても小説を書かねばならぬ。」
 現代教育の恐るべき欠陥についても常に考へた。そして自分の理想の学校の設計までやつて見た。然しこれらは皆、少なくとも今の自分には、実行の出来ぬ事のみであつた。
 授業は今日終つて、明日から十六日間、冬期休業になる。
 今日雪ふる夕方、堀田女史の宿のお婆さんの葬儀があつて、予も亦会葬した。あゝ、あの心をおしつける様な鉢鉦の響き、寂滅の声とは眞にあの響の事だ。世の中に陽気な葬式といふものはない。
          ○
 一月三十日孝明天皇祭の日から二月十四日迄十六日間冬期休業となつた。休業中、独逸文法の暗記の外、予は殆んど何事をもしなかつた。否、する事が出来なかつた。二月三日から村内壮丁及び青年者の為めに夜学を始めた、そして華氏十七八度といふ寒い晩に風吹き通す教場に立つて三時間も声を立てつゞけたので、遂々悪質な流行感冒の襲ふ所となつた。
 感冒は予をして一週間も不愉快な籠城をなさしめた。たゞ此間に永く消息なかった詞友増田永窓の大坂からのたよりを享けたのは誠に嬉しかつた。三十八年の春から五月へかけて、千駄ヶ谷の詩堂にこの友と枕をならべて夜深く物語つた事度々であつた。そして共に郊外に苜蓿の四葉をたづね歩いた事もあつた。
 千駄ヶ谷の鐵幹氏には八峰七瀬(ヤツヲナゝセ)の二女が同時に生れた喜びがあった。
       ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 二月後半期も亦、要するに無事であった。


       彌 生――澁民村――

三月四日
 去年の今日は、我が一家が再び此村に居を定めた日であった。
 噫其後の一ケ年! 寂しい村の寂しい生活、とは云へ、予は今思出す、此一ケ年は矢張り戦ひの一ケ年であつた。さうだ、要するに生活それ自身が戦ひなのだ。特に予自身の性格と境遇とに於て然るのだ。誰と戦つたか? 敵は?――――敵はすべてであつた。予自身さへ、亦予の敵の一人であつた。
 サテ其戦の結果は奈何であつたか? 自分が勝つたのか? 否、恐らくは未だ勝つたのではあるまい。然し、敗けたのでもなかつた。敵と予とは、今、或る中立地帯を隔てゝ対陣して居る。或は這の間に、かの、平和な様で、そして危険な沈黙が含まれて居るのかもしれない。此勢力均等を破る可き或機会が多分遠からずして来るであらうと思はれる。


三月五日
 此一日は、我家の記録の中で極めて重大な一日であつた。朝早く母の呼ぶ声に目をさますと、父上が居なくなつたといふ。予は覚えず声を出して泣いた。父上が居なくなつたのではなくて、貧といふ悪魔が父上を追ひ 出したのであらう。暫くは起き上る気力もなかつたが、父上は法衣やら佛書やら、身のまはりの物を持つて行かれたのだ。母が一番鶏の頃に目をさました時はまだ寝て居たつたのだといふから、多分暁近く家を出られた事であらう。南へ行つたやら北へ行つたやら、アテも知れぬけれど、兎に角野辺地へは早速間合せの 手紙を出すことにした。此朝の予の心地は、とても口にも筆にも尽せない。殆んど一ケ年の間戦つた寶徳寺問題が、最後のきはに至つて致命の打撃を享けた。今の場合、モハヤ其望みの綱がスッカリきれて了つたのだ。それで自分が、全力を子弟の教化に尽して、村から得る処は僅かに八円。一家は正に貧といふ悪魔の翼の下におしつけられて居るのだ。されば父上は、自分一人だけの糊口の方法もと、遂にこの仕末になつたものであらう。予はかく思ふて泣いた。泣いた。
 午后四時、せつ子と京ちやんとは、母者人に伴はれて盛岡から帰つて来た。妻の顔を見ぬこと百余日、京子生れて六十余日。今初めて我児を抱いた此身の心はどうであらうか。二十二歳の春三月五日、父上が家出された其日に、予は生れて初めて、父の心といふものを知った。
 この可愛さつたらない。皆はお父さんに似て居るといふ。美事に肥つた、クリクリシタ其さま。喰ひつきたい程可愛いとは此事であらう。抱いて見ると案外軽い。そして怖れといふものを知らぬげに、よく笑つた。きけば三十三日の前から既に笑ふ様になつたのだと。
 夜、京子はよく笑つた、若いお父さんと若いお母さんに、かたみに抱かれ乍ら。――

三月二十日
 学年末の急がしさと云ふものは、格別なものである。特に、今迄一年の間、毎日教へて来た生徒が、新学年と共に、別の先生の組になるといふのだから、何かしら常と変つた気がして、教場内でも教場外でも、そのため強いて自分を急がしくするのだ。真の深い師弟の情といふものは、子を持つた親でなければ、兎ても解るまい。此学年末には職を辞して新方面に活動しようといふのが、自分平生の予定であつたので、そのために猶更、生徒の事が気に懸つて、自分を急がしくするのであつた。
 この日は、此学年最終の授業日であつた。しかし、数日前から計画させて置いた卒業生送別会をやる為めに、授業はしなんだ。常々嫌者にされて居る校長は留守なり。お天気がよいなりで、生徒は喜んで午后一時の開会を待つた。
 この送別会は、一切生徒にやらせたので、接待係、余興係、会場係、会計係、何れも皆生徒、矢張生徒から出した二名の委員長の招待状によつて、定刻になると、この村の紳士淑女十数名臨席せられた。生徒などの招待状で紳士を招ぐといふのは、この村開闢以来の事である。さらにも一つ開闢以来な事は、立花委員長の開会の辞に於て、この村の人は初めて「紳士貴女諸君」と呼ばれた事である。
 生徒の演説独唱、いづれもうまくやつたが、とりわけて、自分の組であつた尋常二年の、九ッ十といふ小児が五人、何れも上級生以上の出来栄であつたのが、予にとつて何よりの喜びであつた。喜び極つて落涙を催す位であつた。
 卒業生演説もすみ、来賓演説となつたが、互に相譲つて仲々出る人がない。突如、会場係長は立つて、「只今金矢さんのお話がありますから、皆さんお静かに」と紹介した。郡参事会員金矢氏の狼狽した顔の面白さ、予は会場係長が、喰つて了ひたい程可愛かつた。これが僅か十三四の少年であるとは、人は思ふまい。金矢氏は遂に立つて、喜色満面に溢れるといふ態で、滑稽交りに一場の訓話をされた。この筆法によつて、更に数人の来賓を立たしめた。
 予が特に、この日の会のために作つて与へた『別れ』の歌、高等科女生徒五人の合唱には、堀田姉のオルガン、予のヴアイオリンの伴奏で、この日最も美しい聴物であつた。茶菓もすみ、数番の楽しい余興もすんで、散会が日の落つる頃、これから決算となると、収入金額七円、残金一円五十幾銭。これで又菓子を買つて、委員慰労会を開かせた。
 満足と喜びとを胸一杯にし乍ら帰ったが、怎も坐つては居られない。役場に行つて見た処が、岩本助役氏は正に寝酒の独酌中であつたが、真面目になつて「今日の生徒の活動には涙が出る程うれしかつた。年を老ると、怎も涙脆くなりますでナ。イヤ、これからは、何事を措いても教育のために尽す考へです。今日は実に非常に感じて来ました。」との話。予は、所期の水泡に期せなんだ事を謝する心に、眼の曇るを覚えた。
 十時頃帰つたが、心がまだ怎しても静まらぬ。乃ち、今日の会の詳しい模様と、それから我が校に関する自分の希望とを細々と書いた手紙を平野郡視学宛に認めて、漸う眠ることが出来た。
 生徒の活動振りの愛らしかつた事! 嗚呼、これも、予が過去一ケ年の生活の決して無意味でなかつた一つの証拠ではなからうか。

三月三十日(日附のみ)


    卯 月――澁民村――

四月一日(月曜日)
 新学期の日なので、新しい入学生が続々来る。来る児も来る児も皆頑是ない顔の児許り。これらを残らずひきうけて人にせねばならぬ教育家の責任は・・・・・・・・・と、予はそぞろに考へるのであつた、
 前夜役場の岩本助役が来られた時、今漸く父兄の注意も学校の事に傾いて来て居るので、発展の時機は目前に迫って居るし、可愛い生徒共とは萬々別れたくないが、既に予定して居た事でもあるから、明日は辞表を出すつもりだと話して置いた。それで今日愈々それを校長の手許まで出した。
 ところへ学務委員の畠山亨君が見えた。岩元助役の旨を含んで来たといふ前置で、予には留任を勧告し、校長には予の辞表を戻すべき事を迫つた。同僚も口をそろへて予をひき止めた。『先刻はアノ通り急がしかつたのでまだ一寸見ただけで、此処に置いたのですが、どうぞこれは撤回して戴きたい。』『いゝえ、私だつて唯戯談に出したのではありませんから。何卒進達の御手続を願ひます。』といつた様な会話が、校長と予との間に数回くりかへされた後、堀田女史が、『それでは当分私がお預り致して置きます。』といつて取つてしまった。
 放課後岩本畠山二氏から、兎も角もここ当分のうちは待つて居て貰ひたいといふことを無理に頼まれた。
 七日には臨時村会がひらかれるといふ。

四月二日
 日は暖かく風和らかに、世は漸く春、福寿草の盛り、野辺の小徑には小菫の花も咲き出たといふ。
 今日は堀田女史と共に、小供らをひきつれて半日野辺の春光に散策した。


     ストライキの記
       
       七日、臨時村会。――十八日、最後の通告。
       ――十九日、平田野の松原。――同午后、職
       員室。――同夜、暗を縫ふ提灯。――二十日、
       校長の転任、金矢氏の来校。――二十二日、
       免職の辞令。――二十三日告別。

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          皐 月――澁民村――

五月一日
 職を免ぜられて茲に十日となれり。遂に五月は来りぬ。この村の一年のうち、最も楽しき五月は来りぬ。
 梅の花盛りなり。山に蕪荑の花も捨てがたき趣きなり。盛岡は新古公苑の櫻咲き揃へりと新聞は報じぬ。噫天下の春、啄木、今浪々の逸民、ひとり痩頬を撫して感多少焉。
 清民、米長二氏と会し、又、夜岩本氏を訪ひ、北遊旅費の件略々決定す。

五月二日
 風寒し。
 予は新運命を北海の岸に開拓せんとす。これ予が予てよりの願なり。畠山、岩本、沼田諸氏の好意による金調策にして予定の如くゆかば、予は明日、小樽の姉がりたよるべき小妹と共に出立せむと思へり。予は函館に足を停め、函樽鉄道をば光子一人やらむ。予の期望にして成ること早からば、予は一旦帰り来りて一家を携へ再び渡道すべく、然らずば予は再びこの思出多き故郷の土を踏まじ。金を送りて老母妻子を巴港に呼び寄せむ。
 数巻の蔵書、詩稿の類等、旅行鞄に蔵めむとして殆んど半日を消したり。思ふ事のみ繁くして。
 夜、清民氏と共に役場に岩本氏を訪ふ。金矢氏泥酔して来り、醜穢の言人をして眉をひそめしむ。田舎紳士の果敢なさよ。清民氏、我が旅費の件につきて潜かに乞へるに、予に明日来れといふ。
 戸外は雨の音、嵐の音、家のうち何処となく鳴り渡りて、物すごしとも凄まじとも云はむかたなく、雹さへ降るらむ様の響きも打交り、寒さ見る見る増るに、人々皆襟かき合せて、火あかあかと勢よく燃えたる炉に近けば、忽ちにして一閃天地を劈くが如き電光あり。又忽ちにして、霹靂一声、恐ろしき雷の音となりぬ。これ丁未の年の初雷也。時ならぬ雷、怪し、いぶかし、今年の作物の景気いかゞあるべきなど話し合ふうちに、閃光、轟声、相続くこと数次に及びぬ。恐るゝ癖ある人は顔の色もかへたり。
 十時頃、いざ雨も穏やかになりぬ。帰らむとて清民氏と門に出づれば、真に咫尺を弁ぜざるの暗なり、忽ち、南より北に、天は白光の斧に劈かれたり。数秒にして百万の軍鼓一時に鳴るが如き音落し来りぬ。予はいと心地よきを覚えたり。三寸の胸俄かに拡ごりぬ。浮世の束縛にくるしむ我が心魂、忽ちにして九天に飛揚せんとするが如きを感じたり。
 家に入りて所思多し。この村この家この室に眠る、これ或は最後ならむかと思ふに、裸々なる人生の面目、忽ち我が胸を圧して涙を誘わむとするを覚えぬ。噫人生は旅なり。げに旅なり。されば我も亦旅より旅に!!!
 枕上、今日つきし「明星」五号を読む、詩も歌も、さして心にとむべきなし、たゞ深井天川の小説『月光』注目すべき作也。
 夢にいれるは三時にやありけむ、時計なければわからず。

五月三日
 朝早く起きたり。八時頃金矢家を訪はむとて家を出づ。遠近の山々の蕪荑、云はむ方なく春の日に仄めき匂へり。春の山、春の水、春の野、麦青く風暖かにして、我が追憶の国は春の日の照らす下に、いと静かに、いと美しく横はれり。北上川の川岸の柳、目もさむる許りに浅緑の衣つけて、清けき水に春の影を投げたり。
 サテ浮世は頼みがたきものなりき。金矢家も亦浮世の中の一家族なりき。餞別として五十銭貰ひぬ。予は予自らを憐れむと共に、かの卑しき細君、その細君に頣使せらるゝ美髯紳士を憐まざるをえざりき。昨日我を歓待すること、かの如くして、我何事の悪事をなさざるに、今日はかくの如し。勝てば官軍敗くれば賊、……否々、予は唯予の心の味方を失はずば、乃ち足るのみ。
 岩本、沼田清民、秋濱善右ヱ門諸氏より一円宛餞別として送らる。
 予は今日遂に出発するをえざりき。
 夜ひとり堀田女史を訪ふ。雨時々落し来ぬ。程近き田に蛙の声いと繁し。あはれ、この室にしてこの人と相対し、恁く相語ること、恐らくはこれ最後ならむと思へば、何となく胸ふさがりて、所思多く、予は多く語るを得ざりき。友も亦多く語らざりき。誠に、逢ふは別るゝの初めならむ。しかれども、別るゝは必ずしも逢ふの初めならざらむ。予は切に運命を思へり。
 胸を拱ぎて蛙の声をきく。この声は、予をして幼き時を思出さしめき。又、行方の測りがたさを想ひ廻さしめき。さながらこれ一種生命の音楽也。
 人、心のそよげる時、楽しき事を思ひ、心の動かず鎮まれる時、必ず哀しき事を思ふ。喜びを思ふて心厳かなるはなく、哀しきを思ふて心浮き立つことはなし。悲哀は常に厳粛也。噫、涙は決して安価なるものにあらざりき。
 思出長かるべき夜、家にかへりてよりも予は猶さまざまの思に駆られたり。

五月四日 ――澁民――青森――
 日は暖かく、風少しく袂を払ふ日なりき。
 朝起きて見れど、米田君よりも畠山君よりも消息なし。我妻は、山路二里、畠山君を訪へり。予は妻の心を思ふて思はず感謝の涙を落しぬ。
 十二時頃、我が夜の物を質に入れて五金をえつ。懐中九円七十銭なり。家には一厘もなし。これ予と妹との旅費也。乏しき旅費也。米田君より出づべきものを以て、予が立てるあと当分の間の老母が命をつながむと決せる也。あゝ危いかな。
 予立たば、母は武道の米田氏方に一室を借りて移るべく、妻子は盛岡に行くべし。父は野辺地にあり。小妹は予と共に北海に入り、小樽の姉が許に身を寄せむとす。
 一家離散とはこれなるべし。昔は、これ唯小説のうちにのみあるべき事と思ひしものを……。
 午后一時、予は桐下駄の音軽らかに、遂に家を出でつ。あゝ遂に家を出でつ。これ予が正に一ケ年ニケ月の間起臥したる家なり。予遂にこの家を出でつ。下駄 の音は軽くとも、予が心また軽かるべきや。或はこれこの美しき故郷と永久の別れにはあらじかとの念は、犇々と予が心を捲いて、静けく長閑けき駅の春、日は暖かけれど、予は骨の底のいと寒きを覚えたり。
 啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地(十番戸)に留まること一ヶ年二ヶ月なりき、と後の史家は書くならむ。
 役場に至りて、人々と別れつ。人々は皆、二週の後予必ず一旦帰り来べきものと思へり。然れども、この事恐らくはあらじ。予は悲しかりき。工藤千代治、立花勘次郎の二君五十銭の餞別を賜はりたり。
 妹は先に老爺元吉と共に好摩に至りてあり。二時四十分頃二人は下り列車に乗りつ。刻一刻に予と故郷とは相遠かれり。
 車窓の眺めはいと美しかりき。渋民の桜は漸やく少しく綻びしのみなりしを、北にゆくに従ひて全開なるが多し。三戸のステーションに着ける時、構内数株の桜樹、既に半ば散落して、落葩地に白きを見ぬ。渋民ほど世にかくれたる処はなしなど思ひぬ。車窓より手の届くばかりの所に、山吹の花いと沢に咲けるもあり き。
 夜九時半頃、青森に着き、直ちに陸奥丸に乗り込みぬ。浮流水雷の津軽海峡に流るゝありて、夜間の航海禁ぜられたれば、翌午前三時にあらでは出港せずといふ。
 夜は深く、青森市の電燈のみ眠た気に花めきて、海は黒し。舷を洗ふ波の音は、何か底しれぬ海の思ひを告げむとするにやあらむ。空は月無く、夜雲むらがり て、見えつ隠れつする星二つ三つ淋しげに、千里の外より吹き来る海風は、絶間もなく我が袂を払つて、また忽ち千里の暗に吹き去れり。予は一人甲板に立ちつ くしつ。陸も眠り海も眠り、船中の人も皆寝静まれるに、覚めたるは劫風と我とのみ。雲に閉ぢたる故郷の空を瞻望して、千古一色の夜気を胸深く吸へば、噫、我が感慨は実に無量なりき。この無量の感慨、これを披歴するとも、解するもの恐らくは天が下に一人も無けん。
 予は跪きつ。浩蕩たる夜天に火よりも熱き祷を捧げたり。とぢたる目に浮ぶは、浅緑の日暖かき五月の渋民なり。我涙は急雨の如く下れり。
 あゝ、故里許り恋しきはなし。我は妻を思ひつ、老ひたる母を思ひつ、をさなき京子を思ひつ。我が渋民の小さき天地はいと鮮やかに限にうかびき。さてまた、かの夜半の蛙の歌の繁かりしなつかしき友が室を忍びつ。我はいと悲しかりき。三等船室の棚に、さながら荷物の如く眠れるは午前一時半頃にやありけむ。
 
五月五日 ――青森――(陸奥丸)――函館――

 五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。風寒く雨さへ時々降り来れり。船に酔ひてやさしくなれる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思へば
 海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔ひつ。光 子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕ふらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。
 予は少しも常に変るところなかりき。舷頭に佇立して海を見る。
 偉いなるかな海! 世界開発の初めより、絶間なき万畳の波浪をあげる海原よ、抑々奈何の思ひをか天に向つて訴へむとすらむ。檣をかすむる白鴎の悲鳴は絹を裂く如し。身をめぐるは、荘厳極まりなき白浪の咆哮也、眼界を埋むるは、唯水、唯波。我が頭はおのづから低れたり。
 山は動かざれども、海は常に動けり。動かざるは眠の如く、死の如し。しかも海は動けり、常に動けり。これ不断の覚醒なり。不朽の自由なり。
 海を見よ、一切の人間よ、皆来つて此海を見よ。我は世界に家なき浪々の逸民なり。今来つて此海を見たり。海の心はこれ、宇宙の寿命を貫く永劫の大威力なり。
 噫、誰れか、海を見て、人間の小なるを切実に感ぜざるものあらむや。
 我が魂の真の恋人は、唯海のみ、と、我は心に叫びつ。

  ※「明治四十丁未歳日誌」は「明治40 函館~小樽」のページに続きます。

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石川啄木 啄木日記