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 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



明治四十丁未歳日誌 函館-札幌-小樽

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第14巻
  発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷
なお、筑摩書房版全集と照合し、不突合の場合は調査、不明の場合は筑摩版を採用しました。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。

丁未歳日誌は前半が石川啄木が渋民村で過ごした時代、後半が北海道時代のものです。
函館時代については、「函館の生活」を書きかけ、(5月11日のみ)
後に、9月6日記として「函館の夏」を書いています。          
このページには、函館~札幌~小樽での年末を掲載しています。

 
丁未日誌
しらなみの寄せて騒げる函館の大森浜に思ひしことども
     
函館の生活
           自五月五日午前九時

五月十一日 土曜日
 天が曇つて居る。時々雨が落ちた。
 今日から函館商業会議所に出ることになつた。昨日沢田氏からの話で、当分のうちといふ約束。
 午前八時、松岡君につれられて町会所内の会議所事務所へ行つた。自分にとつての新しい経験が、これから初まる所だと思ふと、面白い様な気もする。商業会議所なんて云ふと、一体自分には別世界の感があるが、這入つて見ると、矢張横目縦鼻の人間が五人許り居た。
 見るから無能らしい面構の吉田といふ洋服男へ行つて挨拶する。アトで聞いたのだが、これは盛岡人なさうだ。どうも同国の人間にはこんな顔をしたのが多いではないだろか、と思つて、一人で可笑くなつた。割りつけられた役目は、税務署へ行つて、同所議員の撰挙名簿を作るために、区内商業者の住所氏名職業及び納税額を台帳から写しとつて来るのだ。吉田無能君につれられて、一人の四十許りな髯面と共に税務署に行く、この男はアトで解つたが面白さうな男で、町会所を預つて、宿直室内に一家皆住んで居る。
 税務所の事務室は天井の高い、随分広い立派な室だ。ハイカラな人間が何十人となく何かコツコツ仕事をして居る。十五六になる顔のよい給仕が一人居て、急がしさうに卓子と卓子の間を往来して居る。向ふの隅で「給-仕イ」と呼ぶと、「ハイ」と答へてそつちへ行く。此方の隅で「給-仕イ」と呼ぶと、矢張「ハイ」と答へて此方へ来る。この「給-仕イ」といふ声が面白い。無い威厳を態と有る様に見せる声だ。殺風景な脳の底から、八字髯の下を通つて、目下の者の耳にぴりりと響をおくる声だ。所謂明治の官人の声だ。この声を絶間なくきゝ乍ら予らも亦殺風景な仕事をなすべく筆をとりあげた。思ひ切つて真面目に敏速に筆を動かす。初めて這麼役所めいた処へ這入つたのだといふ感が、異様に予の心をくすぐる。
 昼飯くはずに二時までやつて三百枚許り書いた。きり上げてかへる。会議所には無能君一人残つて居た。井元黒髯君どうしたものか、非常に好意を示してくれて、三時頃に午餐の御馳走に預つてかへつた。雨が落ちて来た。随分大粒の雨である。急がずにテクテク来ると、松岡君が途中迄傘もつて迎へに来てくれた。ありがたいものである。
 和賀君と将棋をやつて大勝利。妹からと渋民の岩本氏からの手紙が来た。岩本氏の手紙は予をして故山を思はしむる事いと深くあつた。母は米長氏の所へ移り、妻子は盛岡へ行つたといふ。一人どこかへ行つて泣きたい程、渋民が恋しかつた。
 夜、吉野君岩崎君が来た。四人で歌会をやらうといふ事になつて、字を結んで十題をえる。
 すでに二年も休んで居たので、仲々出ぬ。漸々皆揃つて、互撰して、披講して、眠つたのが一時頃。二三首。
こころざし得ぬ人人のあつまりて酒のむ場所が我が家なりしかな 汗おぼゆ。津軽の瀬戸の速潮を山に放たば青嵐せむ。
 朝ゆけば砂山かげの緑叢(リヨクサウ)の中に君居ぬ白き衣して。
 夕浪は寄せぬ人なき砂浜の海草にしも心埋もる日。
 面かげは青の海より紅の帆あげて来なり心の磯に。
 海をみる真白き窓の花蔦の中なる君の病むといふ日よ。
 早川の水瀬の舟の青の簾を(ハダラ)に染めぬ深山の花は。
 何処よりか流れ寄せにし椰子の実の一つと思ひ磯ゆく夕。
 灯篭に灯入れて夜の鳥待つと青梅おつる音かぞへ居ぬ。
 いつはりて君を恋しといひけるといつはりて見ぬ人の泣く日に。


    
函館の夏(九月六日記)
函館苜蓿社のメンバー

 五月五日函館に入り、迎へられて苜蓿社に宿る事となれるは既に記したり、社は青柳町四十五番地なる細き路次の中、両側皆同じ様なる長屋の左側奥より二軒目にて、和賀といふ一小学校教師が宅の二階八畳間一つなり、これ松岡政之助君が大井正枝君といふ面白き青年と共に自炊する所。
 松岡君は控訴院雇にして大井君は測候所の腰弁なりき。松岡君は色白く肥りて背は余り高からず、近眼鏡をかけて何処やら世にいふ色男めいたる風貌也、手はよく書けり、床の間に様々の書籍あ れど一つとしてよく読みたりと見ゆるはなかりき、後に知りたる並木君と共に、この人も亦書を一種の装飾に用うる人なり、さてその物いふ様、本来が相憎よき人にあらねど何処となく世慣れて社の誰よりも浮世臭き語を多く使ふ癖あり、一口にいへば一種のヒネクレ者なり、これ其過去の富裕なる生活経験が作りたる哀しむべき性格ならむ。秋田県横堀の人、十五にして郷関を脱出してより流離転沛、南北にころがり歩いて惨苦具さに嘗めたりといふ、これ其境遇によるといへども、亦要するに共性格によれり、予を旅店広嶋屋に迎へたるは、この友と岩崎正君(白鯨)となりき。
 岩崎君は松岡君より少き事三歳、恰も予と同齢なり、君が十六の時物故したる父君は裁判所判事なりしといふ、八戸の中学にありて父君の死に逢ひ爾後郵便局に入りて今現にこゝの局の二番口に為替の 現業員たり、青くして角なる其顔、奇にして胸の底より出づる其声、一見して其率直なる性格を知る、口に毫も世事を語らず、其歌最も情熱に富み、路上をゆくにも時々会心の歌を口ずさむ癖あり、以上二君何れも初めて逢へる也、社に入りて二三日のうちに相逢ひたる初見の友の中に吉野章三君ありかなしめば高く笑ひき酒をもて悶を解すといふ年上の友若くして数人の父となりし友子なきがごとく酔へばうたひきさりげなき高き笑ひが酒とともに我が腸に沁みにけらしな、宮城の人、年最も長じ廿七歳といふ、快活にして事理に明かに、其歌また一家の風格あり、其妻なる人は仙台の有名なる琴楽人猪狩きね子嬢の令妹なり、一子あり真ちやんとい ふ、大島経男君は予らの最も敬服したる友なり、学深く才広く現に靖和女学校の教師たり、向井永太郎君は私塾を開いて英語を教へつつあり、沢田信太郎君は嘗て新聞記者たりし人、原抱一庵の友にして今函館商業会議所に主任書記たり、以上の三人は共に学識多く同人の心に頼む所、殊に大島君は今迄主として「紅苜蓿」を編輯しつつありしなり、
此外並木武雄(翡翠)君あり、年二十一、郵船会社にあり、一番ハイカラにしてヴァイオリンを好み絵葉書を好む、宮崎君あり(大四郎、郁雨)これ真の男なり、この友とは七月に至りて格別の親愛を得たり
大川の水の面を見るごとに郁雨よ君のなやみを思ふ智恵とその深き慈悲とをもちあぐみ為すこともなく友は遊べり 雑誌紅苜蓿は四十頁の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌なり、嘗て故山にありし時松岡君の手紙をえて遥かに援助を諾し一二回原稿を送れる事ありき、今予来つて此函館に足を留むるや、大島氏の懇請やみ難くして予は遂に其主筆となりぬ。

 五月十一日より予は澤田君に促がされて商業会議所に入れり、予は一同僚と共に会議所議員選挙有権者台帳を作る事を分担し毎日税務署に至りて営業税納入者の調をなせり
 これ予にとつては誠に別世界の経験なりき。商業会議所既に然り、税務署の広き事む所に至りては事々物々皆予の好奇心を動かさざるはなかりき、予はこの奇なる興味のために幸にして煩鎖なる事務をすら厭はざりき、予が日給は日に六十銭なりき、
 五月卅一日予は会議所を罷めたりこれより数日予は健康を害し、枕上にありて友と詩を談じ歌を作れり、六月十一日予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生れて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち十二円なりき、職員室には十五名の職員あり校長は大竹敬造氏なりき、児童は千百名を超えたり
 職員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五名のうち七名は男にして八名は女教員なりき、予は具さに所謂女教員生活を観察したり、予はすべての学年に教へて見たり
 七月七日節子と京子は玄海丸にのりて来れり、此日青柳町十八番地石館借家のラノ四号に新居を構へ、友人八名の助力によりて兎も角も家らしく取片づけたり、予は復一家の主人となれり、七月中旬より予は健康の不良と或る不平とのために学校を休めり、休みても別に届を出さざりき、にも不拘校長は予に対して始終寛大の体度をとれり、この月の雑誌第六号には予の小説「漂泊」の初め一少部分をのせたり
函館苜蓿社のメンバーと

 七月は多事なりき、六月のうちに向井君札幌に去りしが、この月となりて十六日松岡君帰省し、廿六日大島氏校を辞し漂然として日高下下方なる牧場に入り、廿七日、毎日来て居たりし宮崎君一年志願兵の二年目の事とて教育召集のため三ケ月間にて旭川にむかへり
 八月二日の夜予は玄海丸一等船室にありき、そは老母を呼びよせむがため野辺地なる父の許まで迎へにゆくためなりき、
 三日青森に上陸、直ちに乗車、(安並みなゑ女史と汽車中に逢ふ、学校をやめて八戸にかへる所。さびしくもやめる人なりき)小湊に旧友にして岡山高等学校を卒業し来り九月より京都大学医科に入らむとする友瀬川深君を訪ひ、四年振りの会談にビールの味甚だ美なりき、夕刻野辺地にゆき老父母及び伯父なる老僧の君に逢ひ一泊、
わがあとを追ひ来て知れる人もなき 翌早朝、老母と共に野辺地を立ち青森より石狩丸にのりて午后四時無事帰函したり。これより先き、ラノ四号に居る事一週にして同番地なるむノ八号に移りき、これこの室の窓の東に向ひて甚だ明るく且つ家賃三円九十銭にして甚だ安かりしによる、これより我が函館に於ける新家庭は漸やく賑かになれり、京ちやんは日増に生長したり、越て数日小樽なりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人
 家庭は賑はしくなりたけれどもそのため予は殆んど何事をも成す能はざりき、六畳二間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり、只此夏予は生れて初めて水泳を習ひたり、大森浜の海水浴は誠に愉快なりき、

 八月十八日より予は函館日々新聞社の編輯局に入れり、予は直ちに月曜文壇を起し日々歌壇を起せり、編輯局に於ける予の地位は遊軍なりき、汚なき室も初めての経験なれば物珍らしくて面白かりき、第一回の月曜文壇は入社の日編輯したり、予は辻講釈たる題を設けて評論を初めたり
 廿五日は日曜なりし事とて予は午前中に月文(、、)の編輯を終り辻講釈の(二)にはイプセンが事をかけり、午后町会所に開かれたる中央大学菊池武夫(法博)一行の演説会に臨み六時頃帰りしが、何となく身体疲労を覚えて例になく九時頃寝に就けり

(大火)八月二十五日
 此夜十時半東川町に火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり、学校も新聞社も皆やけぬ、友並木君の家もまた焼けぬ、予が家も危かりしが漸くにしてまぬかれたり、吉野、岩崎二君またのがれぬ。

八月二十七日 曇
 市中は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、黄煙全市の天を掩ふて天日を仰ぐ能はず。人の死骸あり。犬の死骸あり、猫の死骸あり、皆黒くして南瓜の焼けたると相伍せり、焼失戸数一万五千に上る、(四十九ケ町の内三十三ケ町、戸数一万二千三百九十戸)
 狂へる雲、狂へる風、狂へる火、狂へる人、狂へる巡査……狂へる雲の上には、狂へる神が狂へる下界の物音に浮き立ちて狂へる舞踏をやなしにけむ、大火の夜の光景は余りに我が頭に明かにして、予は遂に何の語を以て之を記すべきかを知らず、火は大洪水の如く街々を流れ、火の子は夕立の雨の如く、数億万の赤き糸を束ねたるが如く降れりき、全市は火なりき、否狂へる一の物音なりき、高きより之を見たる時、予は手を打ちて快哉を叫べりき、予の見たるは幾万人の家をやく残忍の火にあらずして、悲壮極まる革命の旗を翻へし、長さ一里の火の壁の上より函館を掩へる真黒の手なりき、
 かの夜、予は実に愉快なりき、愉快といふも言葉当らず、予は凡てを忘れてかの偉大なる火の前に叩頭せむとしたり、一家の危安毫も予が心にあらざりき、幾万円を投じたる大厦高楼の見る間に倒るるを見て予は寸毫も愛惜の情を起すなくして心の声のあらむ限りに快哉を絶呼したりき、かくて途上弱き人々を助け、手をひきて安全の地に移しなどして午前三時家にかへれりき、家は女共のみなれば、隣家皆避難の準備を了したるを見て狼狽する事限りなし、予は乃ち盆踊を踊れり、渋民の盆踊を踊れり、かくて皆笑へる時予は乃ち公園の後なる松林に避難する事に決し、殆んど残す所なく家具を運べりき、然れどもこれ徒労なりき、暁光仄かに来る時、予が家ある青柳町の上半部は既に安全なりき、
 大火は函館にとりて根本的の革命なりき、函館は千百の過去の罪業と共に焼尽して今や新しき建設を要する新時代となりぬ、予は寧ろこれを以て函館のために祝盃をあげむとす、
 函館毎日新聞社にやり置きし予の最初の小説「面影」と紅苜蓿第八冊原稿全部とは烏有に帰したり、雑誌は函館と共に死せる也、こゝ数年のうちこの地にありては再興の見込なし、
 此日札幌より向井君来り、議一決、同人は漸次札幌に移るべく、而して更に同所にありて一旗を翻さんとす、
 夕四時松岡君故郷より来れり、

八月二十八日
 予が日々新聞に入れる時、学校の方は九月に入りて辞するつもりにて、折柄の休暇を幸ひ、別に辞表を呈出し置かざりき、これ今となりてはせめてもの幸福なり、社の方は見込なくなりたれど、代用教員たる予は猶些少ながら給料をうる事を得るなり
 火事の夜の疲れにて体痛む、

八月三十日
 明日札幌にかへるべき向井君に履歴書をかいて依頼せり、小樽なる兄が許より白米一俵味噌一箱来る
 この日より大竹校長宅なる弥生尋常小学校仮事む所に出務する事となれり、学校の諸帳簿殆んど灰となり書籍亦不用なるもの少し許り残りたるのみ

八月三十一日
 仮事む所に職員協議会をひらく、十五名のうち罹災十名なり、


          九月(函館――札幌)――小樽

九月一日 日
 学校にては学籍簿を焼き出席簿を焼けり、故に先づ第一に生徒の名簿を調製し併て其罹災の状況を調査せざるべからず。乃ち市中各所に公告を貼付して来る四日生徒を公園に集むべしと議決しぬ。かくて予等職員一同は此日午后各区域を定めて貼紙に出掛けたり。
 予の区域は二十間坂以西山背泊町帆影町に至る西部一円なりき。同行したるは森山けん高橋すゑの二君なり。小使山県は破鐘の如き声して淫らなる話をし、淫らなる唄など歌ひ乍ら其処の板壁、此処の土蔵の壁に公告を貼りゆけり。予等は時に之を督するのみにて打語りつつ其後に従へり。焼跡の細雨一種異様の臭を交へて顔を打ち、帆影町に入りては腐れたる魚の臭に鼻を掩ひつ。人の心は猶鎮まらず、到る所火事の話をきき、到る処焼け出されたる人を見る。焼け出されて家を失へる一理髪師が、帆影町のとある海辺にて、大道に椅子を置いて客のために髪を刈れるなど、常には見るべからざる面白き光景なりき。さて予等はいと疲れたり。疲れたれども若き女は優しきものなりき。これ大いなる秘密なり、然れども亦美しき秘密なり、若き女の優きは。
 夜吉野君の宅に岩崎並木二君と共に会せり。家にかへれるは一時半なりき。皆共に恋を語れる事常の如し。同じ事同じ様に語りて然も常に同じ様に目を輝かすは面白からずや。

九月二日 月
 夜岩崎君宅に会す。神について語り、松岡君が一ケ厭うべき虚偽の人なるを確かめぬ。岩崎君と吉野君と予とは各々己が故郷を語れり。ああかの山かの水、予等が心は涙を催ほす許り喜べり。追憶語りする許り悲しくて嬉しきはなし。岩崎君は千町の青田を負へる弘前の物語しぬ。吉野君はまた嘗て職を奉じたりし十勝の自然を説けり。予はかの盛岡の学堂にありし頃、友瀬川藻外と共に浅岸の山奥に秋山角弥といへる一教師を訪ひしことを思出でて語りぬ。時は秋なりき、枝豆、キミ、栗、それらの味は中津川の彼方の山に出でし月と共に忘られず。
 サテ話題いつしかまた恋に入りぬ。友は皆真を語れり、一人、松岡君は虚偽を語れり。

九月三日 火
 この日夕、松岡君は小樽に向へり。

九月四日 
あはれかの眼鏡の縁をさびしげに光らせてゐし女教師よ 例の如く学校の仮事務所にゆく。大竹校長は何故か大切なる仕事は大体予に任せるなり。晩年には何処か田舎の学校の校長になりて死ぬべき小西君の眼は兎に似たり。思ひ切つて色褪せたる洋服着たる遠藤君は、三十五六の年輩にて今猶親と仲悪く、怪しき妻君と共に別居する男なり。加茂清治は憚る事を知らぬ面白き男なり、米屋の若旦那にて同僚中一番よき衣着るはこの人なり、代用なる伊富貴斎宮は名前からして気のきかぬ男、強姦でもやりさうな人相したり。
 女教師連も亦面白し。遠山いし君は背高き奥様にて煙草をのみ、日向操君は三十近くしての独身者、悲しくも色青く痩せたり。女子大学卒業したりといふ疋田君は豚の如く肥り熊の如き目を有し、一番快活にして一番「女学生」といふ馬鹿臭い経験に慣れたり。森山けん君は黒ン坊にして、渡部きくゑ君は肉体の一塊なり。世の中にこれ程厭な女は滅多にあらざるべし。高橋すゑ君は春愁の女にして、橘智恵君は真直に立てる鹿ノ子百合なるべし。

九月五日
 夢はなつかし。夢みてありし時代を思えば涙流る。然れども人生は明らかなる事実なり。八月の日に遮りもなく照らされたる無限の海なり。
 予は今夢を見ず。予が見る夢は覚めたる夢なり。
 予は客観す。予自身をすらも時々客観する事あり。かくて予のために最も「興味ある事実」は人間(○○)なり。生存なり。
 人間は皆活けるなり。彼等皆恋す。その恋或は破る。破れたる恋も成りたる恋も等しく恋なり、人間の恋なり。恋に破れたる者は軈て第二の恋を得るなり。外目に恋を得たる人も時に恋を失へる人たる事あり。
潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや 予は此日より夕方必ず海にゆく事とせり。

九月六日
 かはたれ時、砂浜に立ちて波を見る。磯に砕くるは波にあらず、仄白き声なり。仄白くして力ある、寂しくして偉いなる、海の声は絶間もなく打寄せて我が足下に砕け又砕けたり。我は我を忘れぬ。

九月七日
 この日の夜、吉野岩崎並木三君を会して徹夜す。三君は歌を作れり、予は横になりて「明らかなる事実」を思ひぬ。歌唯一首。
  わがひける心の弓の弦緒きれ逆反りしたり君を忘るる。
おそらくは生涯妻をむかへじとわらひし友よ今もめとらず いと忘れ難き夜なりき。予戯れに作りて岩崎君戯れに朗読したるもの次の如し。
  「歌作り、歌の一束枕とし、
  ひとり臥せりて、悲しみの極みに酔はむ、
  あはれその甘きふるひよ。又ひとり
  猛にもえなむ、伊太利亜のエトナの山の
  燃ゆる如。」かくいふ人はさながらに
  達磨の如く打黙し、いとも明るき
  灯火をまともに浴びて、面沈む。
  又足長く横はる反逆の児は
  太股を蚤に喰はれて、がりがりと
  逞し爪にかきはだけ、さて歌ふらく、
   「空のもの、あらず近くに君あれど
      たゞ手つかねてせむ術もえず。」
  かく歌ひ、あはれ其昔、山寺の
  娘、――蔭野にうつむけるよろよろの百合――
  恋ひにけむ日を思出て、からからと
  ほ手ふち笑ふ。又一人、恋なし男、
  江戸生れ気早の性の若人は
  しきりに歌を生まむとて汗をこそかけ。――
  世に何処唯一人にて子を孕む
  女あるべき。恋なくて歌やは生る。
  この理屈知らぬさまなるもどかしさ。――
  かくて、ひと時咳もせず過ぎにけらしな。
  この時に反逆の児はつと立ちて
  便所にゆきぬ。壁による達磨人猶
  物いはず。恋なし男呿呻(あくび)しぬ。
  かくて又ひと時すぎぬ。やがて又
  二時過ぎむ。夜はふけて夜廻りが曳く
  金棒の響きさびしく、燈火は
  ジ々と音に鳴き、眠たげに白くこそ照れ。
   こゝにまた一人の男、この様を
   そしらぬ様に寝そべりて、()に面そむけ、
   百人の恋の数々、また昨日
   新らしく得し半熟の恋を楽しみ、
   空寝入、狸つかひて、腹の中
    くすぐる思ひ、ほと息し、涎流しぬ。
  天井の鼠この時ちち(・・)とこそ
  笑ひにけりな。あはれげに此世の中は
  どこまでもあるが儘にて
  面白き世の中なれや。

 この戯作成りて後、並木君は其いと淡くして趣きある小説の如き恋を語りぬ。名も知り顔も知れど、相語りたる事なき十八の少女ありき。火事のために家を失はれて母と妹と三人、船して横浜にゆきぬ。並木君は郵船会社員なり。乃ちひそかに小樽丸にゆき、事務長に頼みてこの三人を一等客としぬ。女はこの好意を永しへに知らざるべし。かくて小蒸汽にのりて帰りくる時わが心いふ許りなく満足を覚えき、と。蓋し東廻の汽船には何れも一二等なく三等のみなるなり。

九月八日
 この日札幌なる向井君より北門新報校正係に口ありとのたより来る。

九月九日
 予は数日にして函館を去らむとす。百二十有余日、此の地の生活長からずといへども、又多趣なりき。一人も知る人なき地に来て多くの友を得ぬ。多くの友を後にして、我今函館を去らむとするなり
 この日暴風吹き、焼跡の仮小屋倒れたるもの多し、午后四時桟橋に牧野文部大臣を迎へにゆけり
 夜、吉野君宅にて岩崎君と三人して大に飲みぬ。飲みて酔ひぬ。酔ひて語りぬ。予は衷心よりこの二友を得たるを皇天に謝す。例の如く神を語り恋――わが恋を語れり。
 この夜、我ら互ひに胸中に秘したりし松岡君に対する感情を残りなく剔抉して、盛んに彼を罵れり。あゝ我等赤裸々の児は遂に彼が如き虚偽の徒と並び立つを得ざるなり。彼は不幸の子なり、愍むべし、然れども彼は遂に一厘毛の価値だになき腐敗漢なり、とは此夜我等の下したる結論なりき。

九月十日
 四時頃より快男子大塚信吾君来り、並木君来り、吉野君来り、岩崎君来り、松坂君来り、札幌なる向井君よりハヤクコイといふ電報来れり。予は二三日中に愈々札幌に向はむとす。此夜大いに飲めり。麦酒十本。
 酒なるかな。酔ふては世に何の遺憾かあらむ。我ら皆大に酔ひて大に語り、大に笑ひ、大に歌へり。吉野君の所謂天下太平也。並木君のヴアヰオリンに合せて我らは子供の如く稚なき唱歌をうたへり、岩崎君は詩を朗読したり、吉野君の謡こそ最も面白けれ、曰く、「なつたなつたなつた大人(オトナ)になつた独身(ヒトリミ)で居らりよかブーラブーラ」
 十一時会散ず。並木君泊る
 この日札幌に流れ入りし松岡君より、帰函の希望を述べ又予の札幌に入るをとゞむる手紙来れり。人々相顧みて苦笑しぬ

九月十一日
 午前仮事む所に大竹校長を訪ひて退職願を出しぬ。座に橘女史あり、札幌の話をきけり。高橋女史に逢へり
 午后小林茂君来り、大井正枝君来れり。吉野君と夕方谷地頭に散歩し、浮世床という床屋にて斬髪す。
 夜岩崎君宅に招がれて、吉野並木二君も会し、大に飲めり。牛肉と玉葱の味いとうまかりき。予の出立は明後日午后七時の汽車と決しぬ。

九月十二日
 空はれて高く、秋の心何となく樹々の間に流れたり。この日となりて、予は漸やく函館と別るるといふ一種云ひ難き感じしたり。
 朝のうちに学校の方の予が責任ある仕事を済し、ひとり杖を曳いて、いひ難き名残を函館に惜しみぬ。橘女史を訪ふて相語る二時間余。
世の中の明るさのみを吸ふごとき黒き瞳の今も目にあり かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸にのこれど 函館のかの焼跡を去りし夜のこころ残りを今も残しつ 馬鈴薯の花咲く頃となれりけり君もこの花を好きたまふらむ 君に似し姿を街に見る時のこころ躍りをあはれと思へ
「一握の砂」の「忘れがたき人人」の(二)は橘智恵子を偲ぶ歌、22首を集めています。

岩見沢市北村牧場入口の歌碑 石狩の空知郡の 倶知安町旭ヶ丘公園の歌碑 馬鈴薯の花咲く頃と

札幌市豊平区天神山の歌碑
石狩の都の外の君が家林檎の花の散りてやあらむ

札幌市東区橘邸内の「林檎の碑」

橘智恵子
(札幌村郷土記念館蔵)


 我が心は今いと静かにして、然も云ひ難き楽しみを覚ゆ。
 恋するものをして恋せしめよ。怒る者をして怒らしめよ、笑ふ者をして笑はしめよ、悲しくして泣き、楽しくして笑ふ、これ至理なり、止まるべくして止まり、去るべくして去る。この身この心唯自然の力の動くに委して又何の私心なし。この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新しき友を多く得ぬ。我友は予と殆んど骨肉の如く、又或友は余を恋ひせんとす。而して今予はこの記念多き函館の地を去らむとするなり。別離といふ云ひ難き哀感は予が胸の底に泉の如く湧き、今迄さほど心とめざりし事物は俄かに新らしき色彩を帯びて予を留めむとす。然れども予は将に去らむとする也、これ自然の力のみ、予は予自身を客観して一種の楽しみを覚ゆ。
しらなみの寄せて騒げる函館の大森浜に思ひしことども この日、昨日の日附にて依願解職の辞令を得たり、
 午后高橋女史をとひ、一人大森浜に最後の散策を試みたり。

九月十三日
 多事なりし日、
 午前十時。新川町に大塚信吾君を訪ふて牛乳を呑むの約あり、岩崎並木二君と共にゆけり、吉野君は細君の産気づきたる様子故共にゆかれずとの手紙おこせり、
 牛舎の二階なる牧草室の一隅なる大塚君の書斎は誠に心地よかりき、主客礼を知らず、相語るに腹蔵なし、下より牛の唸る声し、あたりには枯草の香充ち満ちたり。紺青色の牛乳の瓶は算を乱して、其上に高窓よりさし入る日光の映じたる。凡ては外国の小説の中にある様なる心地したり。正午辞し去る、
 昼食すまして不取敢心配なれば吉野君の細君の様子見にゆけば、今苦しみの真最中なりといふ、驚きて校長の家の暇乞門口にすまし、馳けかへりて老母に手伝に行つて貰ふこととせり、予は行李の準備などす、
 三時頃母かへり、男児生れ、至極の安産なりといふ。折柄並木君来り、吉野君来る、早速馳せてお祝にゆき、生れたる児を見ればいと安らかに眠れり、鹿子百合の瓶もちゆきて細君の枕頭に置けり。吉野君の第二子なり、浩介、卓爾、春樹の三つの名を撰んで新しき児のために吉野君に捧げぬ。岩崎君も急報に接して来り、祝盃をあげ帰りて並木岩崎大塚三君と晩餐を共にし、停車場に向へり、家族は数日の後小樽迄ゆきて予よりのたよりを待つ筈にて、この家は畳建具そのままに並木君一家にて引受くる事とし十五金をえたり、後の事は諸友に万事托しぬ、出立の一時間前東京なる与謝野氏より出京を促がす手紙来れり
 停車場に送りくれたるは大塚岩崎並木、小林茂、松坂の諸君にして節子も亦妹と友に来りぬ。
 大塚君は一等切符二枚買ひて亀田まで送りくれぬ。
 車中は満員にて窮屈この上なし、函館の燈火漸やく見えずなる時、云ひしらぬ涙を催しぬ、
欠伸噛み夜汽車の窓に別れたる 雨に濡れし夜汽車の窓に映りたる 雨強く降る夜の汽車のたえまなく
倶知安駅前の歌碑 真夜中の倶知安駅に下り

九月十四日  土
 午前四時小樽着、下車して姉が家に入り、十一時半再び車中の人となりて北進せり、銭函にいたる間の海岸いと興多し、銭函をすぎてより汽車漸やく石狩の原野に入り一望郊野立木を交ぜて風色新たなり。時に稲田の穂波を見て興がりぬ。
札幌市中央区北7条西4丁目の胸像 午后一時数分札幌停車場に着、向井松岡二君に迎へられ向井君の宿(北七条西四ノ四田中方)にいたる、既にして小林基君来り初対面の挨拶す、夕刻より酒を初め豚汁をつつく。快談夜にいり十一時松岡君と一中学生との室へ合宿す。予は大に虚偽を罵れり赤裸々を説けり、耳いたかりし筈の人の愚かさよ、予は時々針の如き言を以て其鉄面皮を刺せり、
 今札幌に貸家殆んど一軒もなく下宿屋も満員なりといふ、

九月十五日  日
 午前向井君らと共に小国君を訪へり、又快男児なり岩手宮古の人。
 今日は向井君が組合教会へ入会のため信仰告白をなすべき日なり十時より共にゆく、何となく心地よかりき、
アカシヤのなみきにポプラに秋の風吹くがかなしと日記に残れり 午后は市中を廻り歩きぬ。
 札幌は大なる田舎なり、木立の都なり、秋風の郷なり、しめやかなる恋の多くありさうなる都なり、路幅広く人少なく、木は茂りて蔭をなし人は皆ゆるやかに歩めり。アカシヤの街樾(※木へんに越、並木の意味)を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、朝顔洗ふ水は身に沁みて寒く口に啣めば甘味なし、札幌は秋意漸く深きなり、
 函館の如く市中を見下す所なければ市の広さなど解らず、程遠からぬ手稲山脈も木立に隠れて見えざれば、空を仰ぐに頭を圧する許り天広し、市の中央を流るゝ小川を創成川といふ、うれしき名なり、札幌は詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり静かなる地なり、
 夜は小国君と共に北門新報社長村上祐氏を訪ひ、更にこの後同僚なるべき菅原南二君をとへり、帰宿は十一時を過ぎぬ、
 夜枕につきてより函館の空恋しうて、泣かむとせざるに涙流れぬ、
 予は自分一個の室を持ちて後にあらざれば何事もなし得ざるならむ、出社は毎日午后二時より八時迄、十五円、
 ハガキ二三枚出ス

しんとして幅広き街の秋の夜の玉蜀黍の焼くるにほひよ

九月十六日

 午前、窓外の草生に秋風乱れて、天に白雲高し、友の外出を機とし、函館の諸友へ手紙かけり
 予は此日より北門新報社に出社したり。毎日印刷部数六千、六頁の新聞にして目下有望の地位にありといふ。
 予の仕事は午后二時に初まり八時頃に終る、宿直室にて伊藤和光君と共に校正に従事するなり。和光君は顔色の悪き事世界一、垢だらけなる綿入一枚着て、其眼は死せる鮒の目の如く、声は力なきこと限りなし、これにて女郎買の話するなれば、滑稽とも気の毒とも云はむかたなし、彼は世の中の敗卒なり、戦つて敗れたるにあらずして、戦はざるに先づ敗れたるものか。

九月十七日
 昨夜求め来れる独文読本の一、今日より毎日午前に少しづつやる事とす。北門歌壇と秋風記を書いて編輯局に投ず、
 今日校正は七時前に済めり。和光君は最も哀れなるデカダン的人物なり、彼の語る処によれば、彼に嘗て妻ありしも死したり、外に相慕へる女あり、彼が東京にありて速記を学べる時その女学資を給しき、その後女の家は祝融の禍に逢ひ家計傾けるを以て、和光君は毎月若干の金を送れり、今年七月、彼女は高商出の一青年紳士と結婚せり、あはれ其時の我が心地よとて、彼は其当時の女の手紙を予に示しぬ。女も亦初めは我が和光君を恋ひつつありしものの如し、彼は今生活の目的を有せず、又そを励ますものもなし、彼何故生けるや、我之を知らず。
 夜、日本基督教会にゆきて演説をきく、高橋卯之助氏の「失はれたる者」路可伝の放蕩息子の話の研究にして少しく我が心を動かせりき。
 太陽に独歩の「節操」を読む。彼は退歩しつつあり、

九月十八日  秋雨
 本朝紙面一頁には予が秋風記をのせ、又北門歌壇を載せたり、歌壇は毎日継続すべし。
 函館なる橘智恵子女史外弥生の女教員宛にて手紙かけり、(幸七、日向操、遠山いし、森山けん、疋田梅井、高橋すゑ、相生町三九、)
 夜、校正を和光君に頼み、向井小林諸君と市中を散歩せり、
 せつ子より小樽発のハガキ来る、函館を十六日夕出立せしが、停車場までは岩崎並木大塚の諸君及びお幸ちやん秀ちやん、吉野の潔さん等見送りくれし由、諸友の好意謝するの辞なし、
 神戸なる丸谷喜一君より来状、

九月十九日
 朝窓前の蓬生に雨しとしとと降り濺ぎて心うら寂しく堪え難し。小樽なるせつ子及び山本の兄、京なる与謝野氏、旭川の砲兵聯隊なる宮崎大四郎君へ手紙認めぬ。書して曰く、我が目下の問題は如何にして生活を安固にすべきかなり、又他なし。哀れ飄泊の児、家する知らぬ悲しさは今犇々とこの胸に迫る、と。書し了つて一人身を構へ、瞑目して思ふ事久し。
札幌にかの秋われの持てゆきししかして今も持てるかなしみ あゝ我誤てるかな。予が天職は遂に文学なりき。何をか惑ひ又何をか悩める。喰ふの路さへあらば我は安んじて文芸の事に励むべきのみ、この道を外にして予が生存の意義なし目的なし奮励なし。予は過去に於て余りに生活の為めに心を痛むる事繁くして時に此一大天職を忘れたる事なきにあらざりき、誤れるかな。予はたゞ予の全力を挙げて筆をとるべきのみ、貧しき校正子可なり、米なくして馬鈴薯を喰ふも可なり。予は直ちにこの旨を記して小樽なる妻にかき送りぬ。
 函館なる大竹敬造(弥生校長)より来書あり、今月分の予が俸給日割四円二十七銭為替にて送り越しぬ。書中に曰く、「好運児!」噫我も人より見れば幸運の児なりけるよ。湯銭なく郵税なかりし予はこの為替を得て救はれぬ。大なる手あり世を助けたる也、願くは予をして自重の心を失はしむる勿れ。

九月二十日
 朝起き出れば、入札以来始めての快晴也。程近き湯屋にゆきてふと新聞を手にすれば、綱島梁川氏の永眠を伝ふる記事あり、曰く去る十四日夜十二時遂に長しへの眠りに入れり、享年三十有五、肺を病んで病床にありしもの十二年なりきと、噫、我が畏友梁川氏死せるか。予卅八年の五月、一日新著「あこがれ」を携へて氏を牛込大久保余丁町なる其寓に訪ひ、山吹の花咲き残る庭を眺めつつ其病室に打語れることありき。後数日にして予は飄然帰去来を賦し故山に入りしが故に、爾後唯時折の消息に温かき交はりを続くるのみなりしも、予の如きは蓋し同氏の大いなる人格の同情を尤も深く浴びたるものならむ。思へば函館に於て予が詩を評し「哀調人に迫る」云々とかけるハガキを得しが氏の消息の最後なりき。哀情禁せず、帰り来れば、吉野君よりハガキあり、習志野なる病弟の危篤を報ぜられて今夜出発す、「この度の電報こそ最後なるべければ顔見にゆくにて候ふ」と、予は心に泣けり。
 十一時となりて晴れたる空俄かにかき曇り、遠雷の響さへして雨ふり出でぬ。復吉野君よりハガキあり、習志野行は見合はせたりと。
 午前中岩崎吉野並木諸君へ手紙及び諸方へハガキ十枚かきたり。大塚君その他より手紙来る、岩本氏より社宛にハガキ来れり。小樽なるせつ子より明日一寸ゆくとのたよりあり。
 夜小国善平君より小樽日々への乗替の件秘密相談あり、

九月二十一日
 朝早く梁川氏死去の報知来る、弟建部政治氏外五名連書、坪内博士は友人として名を掲げたり
 八時四十分せつ子来る、京子の愛らしさ、モハヤ這ひ歩くやうになれり。この六畳の室を当分借りる事にし、三四日中に道具など持ちて再び来る事とし、夕六時四十分小樽にかへりゆけり。
 夜小国君来り、向井君の室にて大に論ず。小国の社会主義に関してなり。所謂社会主義は予の常に冷笑する所、然も小国君のいふ所に見識あり、雅量あり、或意味に於て賛同し得ざるにあらず、社会主義は要するに低き問題なり然も必然の要求によつて起れるものなりとは此の夜の議論の相一致せる所なりき、小国君は我党の士なり、此夜はいとも楽しかりき、向井君は要するに生活の苦労のために其精気を失へる人なり、其思想弾力なし、
 宮崎大四郎君に手紙かけり。

九月二十二日
 午前「綱島梁川氏を弔ふ」の一文を草す。並木君(日高なる大島君行方不明の旨記しあり)より手紙来れり、函館の恋しさ、
 中学の英語の教師なる西村君来れり、相逢ふ事これで二度。

九月二十三日
 秋の日ホカホカと障子を染めて、虻の声閑かに、いと心地よき日なり。午前ひき籠りて宮崎君並木君へ手紙かけり。事志と違はゞ十一月我と共に函館に帰れ、飢ゆるも死ぬも諸共といふ宮崎郁雨君は、げに世に稀なる人なり、予彼を呼ぶに京ちやんの叔父さんを以てす。並木君へは五七調の韻文にて二間許り手紙かけり。
 加地燧洋(国平)来る。
 夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。嘗て小国君より話ありたる小樽日報杜に転ずるの件確定。月二十円にて遊軍たることと成れり。函館を去りて僅かに一旬、予は又茲に札幌を去らむとす。凡ては自然の力なり。小樽日報は北海事業家中の麒麟児山県勇三郎氏が新たに起すものにして、初号は十月十五日発行すべく、来る一日に編輯会議を開くべしと。野口君も共にゆくべく、小国も数日の後北門を辞して来り合する約なり。
 小国君は初め向井君より頼まれて予を北門新報社に紹介入社せしめたる人なり、今更に予と共に小樽にゆかむとす。意気投合とは此事なるべし。

九月二十四日(秋季皇霊祭)
 朝小樽なるせつ子へ来札見合すべき電報を打てり。北門新報社に於ける予の後任としては、西堀秋潮君の推薦にかゝる新詩社々友岡田愛緑君と内定したり。
 この日より予が「梁川氏を弔ふ」の文北門に出づ、三回にて了る筈。
 午后小栗君来る。
 夜、向井君の室にて大に宗教を論じ虚無を論じたり。予は予の意志二面観に出立する哲学を以て最高の思想と断定せり。予は他の人々の頭脳の何故明晰ならざるかを怪しまざるをえず。

九月二十五日
 午前小国君来る。
 吉野君より、第二子を予の与へたる浩介と名つけたる由のハガキ、小林君より問安のハガキ来る。十二日函館出立の前日出したる日高大島君宛のハガキ「本人出発後行方不明」との附箋をえて帰り来れり。
 小樽及宮崎郁雨君、岩崎吉野諸君、東京与謝野氏、岩本氏等へ小樽日報社へ転任の事を報ず。小林君来る
 夜、野口君を訪ひ、更に小国君をとふ。菅原来り合して大に談じ、一時帰る。

九月二十六日
 夢さむれば雨。心蕭々たり。
 盛岡なる小野清一郎君より来簡あり
 吉野君より令弟遂に死去、明日葬儀執行のため帰国すとのたよりあり。友が上に幸あれかし、少なくともこの後は再び我が友を苦しむる勿れ、予は悲しき思したり

九月二十七日  札幌―小樽
 「綱島梁川氏を弔ふ」の文今日にて了る。多少の反響ありたるものの如し。梁川氏令弟より過日弔辞を送りたるに対し礼状来る。
 午前北門社にゆき、村上社長に逢ひて退社のことを確定し、編輯局に暇乞す。帰途野口君を訪へるに、小樽日報主筆たる岩泉江東に対し大に不満あるものの如し、宿に入れば、西堀君園田君を伴ひ来りて待てり。園田君は五尺八寸の大兵、敦厚の相貌にして、其空知より持ち来れる林檎はいと味よかりき。
 社の方より給料まだ出来ざれど、西堀君に立かへて貰つて小樽に向ふこととせり。朝来の雨遠雷の声を交へていや更に降りつのりて、窓前の秋草蕭条たり。滞札僅かに十四日、別れむとする木立の都の雨は予をして感ぜしむること多し。
 午后四時十分諸友に送られて俥を飛ばし、汽車に乗る。雨中の石狩平野は趣味殊に深し、銭函をすぎて千丈の崖下を走る、海水渺満として一波なく、潮みちなば車をひたさむかと思はる。海を見て札幌を忘れぬ。
 なつかしき友の多き函館の裏浜を思出でて、それこれと過ぎし日を数へゆくうちに中央小樽に着す。向井君の四畳半にて傾けし冷酒の別盃、酔未ださめず、姉が家に入れば母あり妻子あり妹あり、京子の顔を見て、札幌をも函館をも忘れはてて楽しく晩餐を認めたり。
 夜義兄と麦酒をくみ、又札幌なる諸友へ手紙認む。「梁川を弔ふ」の文を故人の令弟建部氏へ送る。
     ――――――――――――――――――――――
 この日朝来れる岩崎君のいと長き文に吉野君の近況を詳細にかきこされたり。習志野に病める令弟危篤の電報に接して帰国せむとして果さず、(国より義兄なる人来しため)死去の電報にて再び帰国せむとし、将に家を発せむとする時、蘇生の電報あり、兎も角も行きて逢はむとその旨打電せしに、大丈夫来るなとの返電、ありしといふ。運命友を弄せるなり、願くは向後の幸福友の上に多からむことを。

九月二十八日小樽日報社跡地(本間内科)
 午前小樽日報社にゆき主筆岩泉江東に逢ふ。社は木の香あらたなる新築の大家屋にして、いと心地よし。一日に編輯会議を開くべしといへり。序を以て小樽新聞社に緑川君を訪ふて帰る。

   十月 ――小樽――

十月一日
 遂に神無月は来れり。
 朝野口雨情君の来り訪るゝあり。相携へて社にゆき、白石社長及び社の金主山県勇三郎氏の令弟中村定三郎氏に逢へり。編輯会議を開く。予最も弁じたり。列席したる者白石社長、岩泉主筆、野口君、佐田君、宮下君(札幌支社)金子君、野田君、西村君と予也。予は野口君と共に三面を受持つ事となれり。
 夜、精養軒にて一同晩餐を共にし、麦酒の盃をあげたり。
 玉山なるせつ子の父より手紙来る。

十月二日
 盛岡中学校の校友会雑誌来る。予が贈りし「一握の砂」を載せたり。
 出社す。夕方五円だけ前借し黄昏時となりて、荷物をばステーションの駅夫に運び貰ひて、花園町十四西沢善太郎方に移転したり。室は二階の六畳と四畳半の二間にて思ひしよりよき室なり。ランプ、火鉢など買物し来れば雨ふり出でぬ、妹をば姉の許に残しおきて母上とせつ子と京と四人なり。襖一重の隣室に売ト者先生あり。されば入口には「姓名判断」と書したる大なる朴の木の看板あり、又この二階の表に向へるにも同様の看板をかけたり。藪医者と名をとりしこの紋付着てあらば、我も亦売ト者先生と見られやすらむと可笑し。雨の音繁きに隣室より変な咳払きこえ、遠く聞ゆる夜廻りの金棒の響は函館のそれより忙しげ也。小樽は忙しき市なり。札幌を都といへる予は小樽を呼ぶに「市」を以てするの尤も妥当なるを覚ふ。小樽水天宮の歌碑 かなしきは小樽の町よ
 岩崎君へ長き手紙認めて、道具雑然たる中に眠る。

十月三日
 泥濘下駄を没せむとす。小樽の如き悪道路は、蓋し天下の珍也。
 社よりの帰途、野口君佐田君西村君を伴ひ来りて豚汁をつつき、さゝやかなる晩餐を共にしたり。西村君は遂に我党の士にあらず、幸に早く帰りたれば、三人鼎坐して十一時迄語りぬ。野口君と予との交情は既に十年の友の如し。遠からず共に一雑誌を経営せむことを相談したり。
 社の校正にせむとて園田君に手紙出せり。

十月四日
 昨日も雨、今日も雨、午后霽間を覗ひて社中の諸友と共に諸官衙同業へ挨拶にゆく。商業会議所の書記長松崎氏は老いほゝけたる猫の如く、区長椿氏は大兵にして白髪頭に、小野助役は快活にして才気溢るゝ紳士なり。税務署の福本署長は温厚にして風采見すぼらしく、警察支庁記事なし、林務派出所の禿頭甚だ横平にして悪むべく、小樽新聞社の松田竹嶼君は故人谷活東君に似て神経質の人相なりき。
[註 欄外] 此日明星来る、綱島氏の令弟建部氏より懇篤なるハガキあり

十月五日
 既に工場の整頓終り原稿の催促頻りなり、此日より編輯に着手す。園田君より八日ゆくとの返電あり
  「明星」十月号来る。綱島氏の令弟建部氏よりは、曩きに送れる新聞の礼状来る。
 帰りは野口君を携へて来り、共に豚汁を啜り、八時半より程近き佐田君を訪ねて小樽に来て初めての蕎麦をおごられ、一時頃再び野口君をつれて来て同じ床の中に雑魚寝す。
 社の岩泉江東氏を目して予等は「局長」と呼べり。社の編輯用文庫に「編輯局長文庫」と記せる故なり。局長は前科三犯なりといふ話出で、話は話を生んで、遂に予等は局長に服する能はずる事を決議せり。予等は早晩彼を追ひて以て社を共和政治の下に置かむ。
 野口君より詳しき身の上話をきゝぬ。嘗て戦役中、五十万金を献じて男爵たらむとして以来、失敗又失敗、一度は樺太に流浪して具さに死生の苦辛を嘗めたりとか。彼は其風采の温順にして何人の前にも頭を低くするに似合はぬ隠謀の子なり。自ら曰く、予は善事をなす能はざれども悪事のためには如何なる計画をも成しうるなりと。時代が生める危険の児なれども、其趣味を同じうし社会に反逆するが故にまた我党の士なり焉。

かの年のかの新聞の初雪の記事を書きしは我なりしかな十月六日
 降りみ降らずみの空合いと怪しき一日なりき。
 向井君よりハガキ来る。松岡君道庁の肥料検査の方に出仕したりと。猫の糞と肥料とは面白き事限りなし。
 今日より編輯局の給仕来る、年は十四の池亀ハル、おとなしければ皆で可愛がつてやる。
 夜、隣室の売ト者先生を訪ひ其著神秘術一巻を貰ひ、初号に当地有志の姓名判断を書いて貰ふ事を頼む。心地少しく優れず、早く寝に就けり。

十月七日
 今日も亦降りみ降らずみの空合なり。遅れて十一時出社す。「初めて見たる小樽」二百行を書けり。
 諸友へ手紙をかゝむと思へども銭なくして果さず。

十月八日
 この日野口君札幌なる細君病気の電報に接して急行せり。局長病気欠勤。予は編輯打合せの為め其宅を訪へり。途家に立寄れば、恰も園田君遙々空知の園中より来れるに会し、当分我が狭き寓に置く事にし、相携へて社に帰る。愛緑君は歌をよむ。新詩社の社友なり。九州熊本の人、数年前北海に入り巡査たる事四年、この度社の校正として十五円にて招げるなり。
 給仕に袴買ふ代として三円会計の方より受取りてやる。嬉しげなる様のいぢらしさ。予も亦十円だけ借る。夜山田町にゆきて卓子形机、一脚購ひ来る、二円なり。形大にして新らしければ心地よし。風強し。予は園田君の土産の赤き林檎を喰ひて共に談ず。君は身長五尺八寸の巨大漢、しかも其人相の示す所にして誤らずんば、因循の人なり無能の人なり、感情の人なり、確たる生活の方針を有せざる人なり、一言にして云へばデカダン的性格の人なり。

十月九日
 社を代表して、小樽商業会議所新築落成式に臨む。羽織と袴は山本の兄より借りたり。土産の酒一本は庶務の久保田君へ、折は札幌より帰り来れる野口君と共に喰へり。何となく面白し。
 並木君より手紙来る。大嶋君のハガキを封じたり。行先不明と思ひし君が、矢張日高の山中にありしは嬉し。
泣くがごと首ふるはせて手の相を見せよといひし易者もありき 夜、兄を訪ねて帰り来れば野口君来る。園田君と三人にて相語る。此日野口君の語る所によれば、白石社長は大に我等に肩を持ち居り、又岩泉局長も予の為めに報ゆる所を多からしめむとすと言明せる由、社に於ける予の位置は好望なり、遠からずして二面に廻るべし。隣室のト者来り、姓命判断の話一時まで。野口君と園田君は枕を並べて雑魚寝したり。

十月十日
 朝起きて見れば吉野君の手紙あり。令弟遂に遂に死去せられ、葬儀のため帰郷して五日帰函せりと。予はこの詳しき友が心のたけを繰返して黯然涙を催せり。
 野口君手相を見る、其云ふ所多く当れり。
 社にて諸新聞より切抜きたる材料により、「浦塩特信」なるものを書けり。新聞記者とは罪な業なるかな。
 夕刻、園田君急に云ひ出して家に帰らむと曰ふ。聞いて見れば、矢張生活の方針を立て得ざる無意志の人なるなり。敢て止めず。午後八時悄然として鞄を下げたるまゝ其長大なる躯幹を暗中に没し去れり。予は云ひ難き憐愍の情にうたれたり、妻も亦しかく云ひぬ。聞けば昨朝台所に宿の人居りしために遠慮して顔も洗はざりし由、何処迄哀れなる悲しき消極の人ぞや。歌よむと云ひ詩かくといふ人には、何故かゝるデカダン的の性格多きにや。予は云ひがたき惻怛の情を催ほせり。

十月十一日
 夜、佐田君と共に出社し、余暇を以て白石社長を訪へり

十月十二日
演習のひまにわざわざ汽車に乗りて訪ひ来し友と飲める酒かな 夜、社にあり、妻迎へに来て帰れば、思ひがけざりき、宮崎君来てあり、再逢の喜び言葉に尽く、ビールを飲みて共に眠る。我が兄弟よ、と予は呼びぬ。誠に幸福なる一夜なりき。

十月十三日
 友は夕方の汽車にて演習中なる隊に帰りゆけり。野口君の移転に行きて手伝ふ。
 野口君の細君の不躾と同君の不見識に一驚を喫し、愍然の情に不堪。

十月十四日
 初号編輯の日の急がしさ。夜午前二時やうやう帰宅せり、職工は多く既に三四日も徹夜なり。
 この日吉野君より手紙来る、岩崎君の方針問題承諾の旨報じらる、

小樽公園の歌碑 こころよく我にはたらく仕事あれ


十月十五日
 一天朗らかに晴れて風なく、心気爽々たり、
 小樽日報初号発刊の日、
 正午の頃に至りて刷上れり、凡て十八頁、楽隊を先立てて市中の配達は景気よく終れり、
 午后五時より社主中村定三郎氏より招待されて一同精養軒に祝宴を張る。七時半、職工一同楽隊と共に提灯行列を初め、精養軒前に来て万歳を連呼す、我等飛び出して共に提灯ふりかざし市中を練り歩けり
 市中の景気大によし、

十月十六日
 此頃予が寓は集会所の如くなり、今日も佐田君西村君金子君来り、野口君来り、隣室の天口堂主人来る。何故か予が家は函館にても常に友人の中心となるなり、(※以下13行抹消)
この日一大事を発見したり、そは予等本日に至る迄岩泉主筆に対して不快の感をなし、これが排斥運動を内密に試みつつありき、然れどもこれ一に野口君の使嘱によれる者、彼「詩人」野口は予等を甘言を以て抱き込み、秘かに予等と主筆とを離間し、己れこの中間に立ちて以て予らを売り、己れ一人うまき餌を貪らむとしたる形跡歴然たるに至りぬ、予と佐田君と西村君と三人は大に憤れり、咄、彼何者ぞ、噫彼の低頭と甘言とは何人をか欺かざらむ、予は彼に欺かれたるを知りて今怒髪天を衝かむとす、彼は其悪詩を持ちて先輩の間に手を擦り、其助けによりて多少の名を贏ち得たる文壇の奸児なりき、而して今や我らを売って一人慾を充たさむとす、「詩人」とは抑々何ぞや、(※ここまで抹消)
 今日より六日間休み。

十月十七日  神嘗祭
 今朝も佐田西村二君に起されぬ、
 渋民の友立花直太郎君突然来訪、喜ぶ事限りなし、社にゆきて共にライスカレーを喰ふ、
 夜八時迄社に居たり、佐田西村、金子野口の四君と談ず、(※以下9字抹消)
野口は愈々悪むべし、(※抹消ここまで)
 天口堂主人より我が姓名の鑑定書を貰ふ、五十五才で死ぬとは情けなし、

十月十八日
 この日早朝事務の窪田、畑山の二君に起さる、出社して終日雑務を執る。
 午后野口君他の諸君に伴はれ来り謝罪したり。其状愍むに堪へたり、許すことにす。
 夜、西村君より野葡萄のよく熟したるもの十房貰ふ、其味に故園の秋を忍ぶ、
 梁川先生の遺弟建部氏より故人の遺稿編成のため、生前の手紙貸与方依頼され、古手紙を整理して封書二通葉書八葉を得、郵送す、

十月二十二日
 三日が間はこれといふ為すこともなく過ぎぬ。社は暗闘のうちにあり、野口君は謹慎の状あらはる。
 この日は第二号編輯の日なり。主筆事務の在原と大喧嘩を初め、職工長速水解雇さる
 夜、恵比須亭の演芸会を見、かへりに大黒座に寄りて坐付作者花岡章吾と語り大に馳走になる。劇場楽屋は生れて以来初めて見たり、田舎廻り俳優は哀れなるもの、彼らが自堕落になるは主としてその境遇による。
小樽日報第3号 明治40年10月24日
十月二十三日
 朝より日の暮るゝ迄材料の来るに従つて三百五十行位かくなり。創業時代の急はしさは読者知らじ、校正当番は翌朝迄徹夜するなり。工場も亦同じ。
 夜九時より寿亭に娘義太夫越寿一座をきく。

十月二十四日
 今日までに来れる書信は左の如し。大島君二通、岩本氏一通、沢田君、宮崎君、吉野君、園田君、斎藤君。
 今日区役所に椿区長を訪ふて教育談をなす。畠中君石原君実相寺君の来訪に接す。
 新聞に対する批評は概ね好評なり。小樽新聞は我が三面を恐ると、さもあるべし。
 夜越寿の義太夫をきく。

十月三十日
 主筆此日予を別室に呼び、俸給二十五円とする事及び、明後日より三面を独立させて予に帳面を持たせる事を云ひ、野口君の件を談れり。
 野口君は悪しきに非ざりき、主筆の権謀のみ。
あらそひていたく憎みて別れたる友をなつかしく思ふ日も来ぬ殴らむといふに殴れとつめよせし昔の我のいとほしきかな
十月三十一日
 野口君遂に退社す。主筆に売られたるなり。

十一月一日
 此日より三面を主宰す。

十一月六日
 花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る。

     十二月 ――小樽――

 十一日札幌に行き、小国君の宿にとまる。翌日山崎周信君と初めて会見す。中西代議士の起さむとする新聞に就て熟議したり。
 十二日夕刻の汽車にて帰り、社に立寄る。小林寅吉と争論し、腕力を揮はる。退社を決し、沢田君を訪ふて語る。
 十三日より出社せず。社長に辞表を送る事前後二通、社中の者交々来りて留むれど応ぜず。
 十五日小国露堂君札幌より来り、滞樽一週間。
 二十日に至り、社長より手紙あり、辞意を入れらる。
 二十一日の新聞には退社の公告を出し、二十二日の新聞は澤田君の予に別るるの辞を載せたり。
 大硯斎藤哲郎君、小国君澤田君等、予の将来に関して尽力せらるゝ所あり。予は我儘を通すを得て大に天下太平を叫ぶ。
 予の日報に書きたるもののうち当時を紀念すべきものを抜萃して「小樽のかたみ」を作る。

十二月二十一日
 朝新聞を見る。(※以下16字抹消)澤田君が予と別るるの辞を載せたり。(※抹消ここまで)
 午後斎藤大硯君来り露堂君来る。談論風発す。
 夜露堂子と携へて澤田君を訪ふ、逢はず。大硯君を其僑居に訪ふて深更に及ぶ。大硯君の談偶々其経歴に及ぶ。年少気鋭、嘗て日本新聞社に在り、後総督府官吏として台湾に赴く。性もと放淡、飄然辞し去って、郷里青森に帰り、郷党に号令して成すあらむとす。これ実に快男子大硯君が生涯を誤れる第一歩なりき。所謂故山は人を殺すこと多し。後、函館に渡りて日々新聞に主筆たる事殆んど十年、予が同社に入れる時亦君主筆たりき。今や乃ち精気大に鈍り、漸く老ひ去らむとす。また小説中の主人公なり。予のために北海タイムス社に交渉せむとすと云ふ。

二十二日
 夜、藤田武治来り切に人生を解するの途を訴ふ、大に個人主義を説く。

十二月二十三日
 多事に困しむは無為に困しむの意義なきに優る。
 午後大硯君来る。夕刻天口堂主人海老名又一郎君来る。一富豪のために其運をトして数十金を得たりとて新調の衣服を纏ひ、意気稍々快復せるものの如し。主人亦零落の人、赭顔漫ろに人生の惨苦を忍ばしむるものあり。
 夜、佐田君来り、奥村寒雨君また会す。佐田君由来庸俗の徒、語るに足らず、談偶々戦役の事に及び、はしなくも主戦非戦の説起り、寒雨君切に非国家主義を唱へて予の個人開放論に和す。好漢大に語るべし。佐田君遂に此間の思想に触れず。哀れむべきは斯くの如き無思想の徒なるかな。
 世界の歴史は中世を以て区画せらる。中世以後の時勢は一切のものを開放して原人時代の個人自由の境界を再現せむとす。我らの理想は個人解放の時代なり、我等の天職は個人解放のために戦ふにあり。

十二月二十四日
 与謝野氏へ久し振にて手紙認む。

十二月二十五日
 中世史を読む。
 予は予の個人解放の時代に至つて世界の発達は其第一期の完整を終るといふ観念によりて、史上一切の事物を評論したる世界史を著はさゞるべからず。
 夜、澤田君来り快談数刻、談中、デゲセウ先生及び暴風雨の夜に酒をのむ中村君の話を小説中の人物と思へり。
 君、白石社長の意を伝へて、予を釧路新聞に入れむとす。予は社長にして予の条件を容れなば諾せむと答へたり。

十二月二十六日
 朝澤田君に手紙を送り、釧路新聞を如何に経営すべきかに関する予の意見を述べたり
 夜、奥村君を呼び、若し白石社長にして予の意見を容れなば共に釧路に入らむことを約したり。釧路の地、繁栄未だし、然るが故に若し此際大に為すあらば、多少吾人が会心の事業の緒に就くをえむ。予は予自身の性格乃至天職が果して何等か物質上の事業に身を容るるを許すや否やを知らず、然れども何等らかの地に於て幾何なりとも「自由」を得んとするの希望は遂に虚偽ならざるを知る
 予は予の書かむとする世界史、個人自由の消長を語る一の文明史につきて語り、亦、郷校にありし頃の事共を語りぬ。

十二月二十七日
 大硯君来り談ず、君も浪人なり、予も浪人なり、共に之天が下に墳墓の地を見出さざる不遇の浪人なり、二人よく世を罵る、大に罵りて哄笑屋を揺がさむとす、「歌はざる小樽人」とは此日大硯君が下したる小樽人の頌辞なり、淵明は酒に隠れき、我等は哄笑に隠れむとするか、世を罵るは軈て自らを罵るものならざらむや。
 読淵明集。感多少。嗚呼淵明所飲酒。其味遂苦焉。酔酒酔苦味也。酔余開口哄笑。哄然与号泣、不識孰是真惨。
 噫、剣を与へよ、然らば予は勇しく戦ふ事を得べし。然らずば孤独を与へよ
 人は生きんが為に生活す、然ども生活は人をして老いしめ、且つ死せしむるなり。予に剣を与へよ、然らずんば孤独を与へよ。

十二月二十八日
 夜、大硯君来り、西川光次郎等社会主義者の演説会に誘ふ。行かず。
 正宗白鳥君の短編小説集「紅塵」を読み深更にいたる。感慨深し、我が心泣かむとす。予は何の日に到らば心静かに筆を執るを得む。天抑々予を殺さむとするか。然らば何故に予に筆を与へたる乎。

十二月二十九日
 今日は京子が誕生日なり。新鮭を焼きまた煮て一家四人晩餐を共にす。
 人の子にして、人の夫にして、また人の親たる予は、噫、未だ有せざるなり、天が下にこの五尺の身を容るべき家を、劫遠心を安んずべき心の巣を。寒さに凍ゆる雀だに温かき巣をば持ちたるに。
 一切より、遂に、放たるる能はず。然らば遂に奈何。

十二月三十日
 日報社は未だ予にこの月の給料を支払はざりき。この日終日待てども来らず、夜自ら社を訪へり。俸給日割二十日分十六円六十銭慰労金十円、内前借金十六円を引いて剰す所僅かに十円六十銭。帰途ハガキ百十枚を買ひ煙草を買ふ。巻煙草は今日より二銭宛高くなれり刻みも亦値上げとなれり。嚢中剰す所僅かに八円余。噫これだけで年を越せといふのかと云ひて予は哄笑せり。
 老母の顔を見るに忍びず、出でゝ北門床に笹川君を訪ふ。要領を得ず。
 夜年賀状を書いて深更枕に就く。衾襟垢に染みて異様の冷たさを覚ゆ。
 この日函館なる岩崎君より手紙ありき。

大晦日
 来らずともよかるべき大晦日は遂に来れり。多事を極めたる丁未の年は玆に尽きむとす。然も惨憺たる苦心のうちに尽きむとす。此処北海の浜、雪深く風寒し。何が故に此処迄はさすらひ来し。
 多事なりし一歳は今日を以て終る。この一歳に贏ち得たる処何かある。噫、歳暮の感。千古同じ。
 朝澤田君に手紙を送る。要領を得ず。外出して俳優堀江を訪ふ、逢はず。帰途大硯君に会す、
「大晦日は寒い喃。」「形勢刻々に非なりだ。」行く人行く人皆大晦日の表情あり。
 笹川君に妻を使す。要領を得ず。若し出来たら午后十時迄に人を遣らむと。
 予は英語の復習を初めたり。掛取勝手に来り、勝手に後刻を約して勝手に去る。
 夜となれり、遂に大晦日の夜となれり。妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と予の衣二三点を以て三円を借る。之を少しづつ頒ちて掛取を帰すなり。さながら犬の子を集めてパンをやるに似たり。
 かくて十一時過ぎて漸く債鬼の足を絶つ。遠く夜鷹そばの売声をきく。多事を極めたる明治四十年は「そばえそば」の売声と共に尽きて、明治四十一年は刻一刻に迫り来れり。

  丁未日誌終
     明治41年戊申日誌に続きます。

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