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 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



明治四十一年日誌(三)

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第15集
  発行日:昭和36年11月10日 新装第1刷
なお、筑摩書房版全集と照合し、不突合の場合は調査、不明の場合は筑摩版を採用しました。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。
石川啄木は明治41年1月1日から12日まで、「戊申日誌」を書いていますが、12日でやめ、改めて「明治四十一年日誌」(一)、(二)、(三)を書いています。
このページは、「明治四十一年日誌」(三)を紹介しています。
「戊申日誌」、「明治四十一年日誌」(一)、(二)については別ページに掲載しています。

 
明治四十一年日誌
                                        石川啄木
                 其 三

七月廿九日
 眠つたのは二時間位であらう。蚊に攻められて目がさめた。室の中は暗い。濁つた、生温かい空気の中に蚊の声。払つても払つても襲うてくる。螫された跡が痒い。まだ眠いので妙に腹立たしくなつて、切りと両腕を揮廻したが、やがて起きて雨戸を一枚開けた。
 水よりも淡い夏の暁の世界に、そよとの風もない。烏が二度ほど鳴いた。
 程なくして蜩が二疋、遠くで啼き出した。雀の声。隣りの寺の太鼓が鳴り出した時、遠くで五時の鐘。太鼓が止んで雀は一層喧しく囀り出した。窓の下を牛乳配達が先づ通つた。
 朝飯がすんで間もなく、数通の金星会の書状と共に宮崎郁雨君の手紙が来た。久振りなので殊に嬉しかつた。京子はモウ薬をやめ、歩く様になつたと書いてある。すぐ返事をかいた。そして今迄の一ケ月、自分は何もせずに暮してゐたので、君に手紙かくのは苦痛であつたと書いた。
 睡眠不足のため、気抜のした様な、欠伸ばかり出る日であつた。十時頃から金田一君が来て、四時頃までも語つた。
 日暮時、一寸外出して“蚊帳いらず”を買つて来た。帰りに坂下の氷屋に入る。亡き姉を思出させる貧しき女は、チヨイチヨイ自分を盗んでみてゐた。
 怎したといふ事もなく、渋民の説教所にゐた豊嶋の妻君お清さんと言つた人の事を思出した。
 眠気で頭が曇つてるので、蚊帳いらずを燻して枕についた。宮崎君の手紙を思出して、函館が恋しかつた。“君が必ず最も此処を思出すだらう”と友の書いた大森浜! 海水
(※以下、一枚欠。その理由と顛末は、後出「十二日間の記」参照。)

      
葉 月

八月一日
 遂に八月になつた。
 暑い日だ! 試みに床柱に持つて来て掛けて置くと、午后三時、寒暖計が九十二度に上つた。十一時頃から五時頃まで、何方も諸肌を脱いで、金田一君と語つた。
 吉井君から、“先日のことすべて不調に候ひき”といふ、代々木の新宅からの端書。
“春潮”といふ四六倍版二十頁の雑誌の第四号が、盛岡のその社から送つて来た。こんな事をする奴らは死んだ方がよい。
 三時頃であつたらうか、予へは、渋民の栄次郎のハガキと、並木君の函館第二信。金田一君には青森に帰つてゐる瀬川藻外君の手紙が来た。それを二人で読んだ。瀬川君は切りに予をなつかしいと書いてある。昨年は一日快談したつけが、今年は行方さへ知れぬと書いてある。予も急になつかしくなつた。瀬川君許りでなく、あの頃の友が皆なつかしくなつた。岡山君、小林君!
 七時頃煙草代を怎かしようと阿部月城を訪ねたが不在。茗渓の濁れる緩き流れ、向側の電車の影のそれに移るのが面白かつた。電車の中に扇つかふ人も見えた。
 残れる銅銭を集めて、あやめの五匁を一つ買つて来た。
 中央公論の後藤新平論と国木田独歩論を読んで、考へた。秋声の筆つきは気に入つたが、少し拵へすぎてゐる。
 今夜は両国の川びらき、沓かに花火の音がする。

八月二日
 十時頃起きて小田島孤舟のたよりを読む。中に、雑誌“春潮”嘗て予の名を署したる詩を掲げたる旨を記せり。吃、予未だ“春潮”に詩を送れる事なく、その存在すら昨日に至つて初めて知り得たるのみ。其所為憐むべく唾棄すべし。
 昨年の日誌と、北門時代の旧稿を読み、そぞろに函館と札幌を忍ぶ。“その人々”稿を起して書くこと僅かに二枚。札幌二週目の間に逢ひたる人々――久ちやん、向井君、松岡、小国君、伊藤和光子、加地燧洋等を書かむとするなり。
 日暮、金田一君と洗湯にゆく。半月目也。浴後体量を計るに僅かに十二貫三百目。帰り、氷屋に入ること二度。まくは瓜を求め来りて共に味ふ。その味に故園を忍ぶこと深し。
 趣味八月号―“文豪国木田独歩”―を読む。噫多幸なる哉独歩。明治の文人にして、国民的悼歌のうちに葬られたるもの、紅葉独歩の二人のみ。而して、かの紅葉にして猶且天下の同情を贏得たること独歩に及ばざる遠し。独歩また瞑すべし。
 独歩の性行を録するものを読みて、予の特に感ずるは、彼が無邪気なりし事なり。小児の如く笑ひ、小児の如く怒りし事なり。予は何故に怒りえざるや?
 独歩の旧稿に“文学者――予の天職”なる一文あり。中に曰く、
“予は遂に文学者なるものの如し。”
と、更に曰く、“予は文学者の高貴なる所以を知る。然れども予は何ら虚栄の念なくして此業に従はざるべからず、宛然農夫の田を耕す如くに。”と。
 予の独歩を憶ふこと日に深し。然して、予も亦遂に文学者なるが如し。!!
 同じ誌上、新進十八家の小説あり。葉舟の“北村の日記”よし。予は此人の作に接して、今度許り終始同感して読みたることなし。小山内君の作に至つては軽佻浮華、才に勝ちて才に敗れたるもの。
“級友”
の想を構ふ。

八月三日
 昨夜蚊に攻められて遂に一睡もせず。朝、最も涼しき時、寒暖計八十五度。
 新詩社より、相談会及び歌会を来る八日に開く旨ハガキ来る。
“その人々”五枚目まで。
 夜、長谷川氏より、予の“二筋の血”及び“天鵞絨”と共に来書。遂に文芸倶楽部に載するあたはず、太陽も年内に余地を作ること難き故、お気の毒乍ら他に交渉してくれと。
 イヤになつて了つて早々枕につく。煙草はなし、蚊やりはなし、仰向のまま蚊を十何疋殺して二時頃漸く眠る。

八月四日
 夜の明けざるに目さむ。暑気少しくゆるみて、八十九度。
 半日金田一君と語る。例の稚き頃の思出。話してる所へ、与謝野氏より書留、為替五円。外に、明夕あたり御出下され浴衣お着代へ被下度しと晶子申候、と書いてあり。暫く語なく与謝野氏の好情を懐ふ。
 越中に帰省したる藤條君よりハガキあり。
 夕刻、為替をうけとり、原稿紙と蚊やり香と煙草と絵ハガキ数枚と、外に、蕪村の句集、唐詩選、義太夫本、端唄本二冊もとめて来る。
 与謝野氏へ礼状、吉井、北原、長谷川、佐々木信綱、藤條、宮崎、おこうちやんの諸氏へ葉書。
 蚊帳いらずを焚いて安眠するをえたり。

八月五日
 十時起床。義太夫本を読む。傾城阿波鳴戸巡礼歌の段、涙落ちて雨の如し。物の本をよみて泣けること数年振なり。
 午後に驟雨過ること二度。心地少しくよし。筑紫へ手紙かきたる所へ金田一君来て、相語る半日。
 六時頃相携へて初音亭に娘義太夫をきく。初見えの竹本友昇、寺子屋をかたりて熱心愛すべし。十時帰る。
 寺門にて辻占をもとむ。一袋五ケ入一銭なり。金田一君と共に交々披いて笑ふ。予のには六つあり。こは面白しと残る一つを披きしに“日の出だよ”! 吉兆と呼びて笑ふ。
 床につきて蕪村句集を読む。唯々驚くに堪へたり。四時の時計をきいて初めて巻を捨て燈を消せり。
 此日岡山に帰省せる渡邊紫より暑中見舞のハガキ来る。

八月六日
 十二時起床。恰も秋風に似たる風窓前の竹に騒げり。終日やまず。
 金田一君と語りて日を暮す。夜驟雨沛然として至る。

八月七日
 八時半起床。朝餉を了へて家を出づ。風強し。
 昌平橋にて与謝野氏に逢ひ、共に明治書院にゆき、十一時頃千駄ヶ谷に至る。夏草の路、蜥蜴を見て郷を思ふ。
 庭の萩風に折れたり。杉垣の下なる向日葵の花、白と鹿の子の百合の花、風情あり。晶子さんは夏に疲せてベツドの上にあり。
 校正など手伝ひて四時辞す。晶子さんが手縫ひの白地の単衣を贈らる。
 此日の時事新報文芸附録は明星廃刊に関して最も同情ある言をなす事一段余。与謝野氏は南米に一家を移住せむとすと語れり。かなしき事なるかな。
 髪を苅り湯に入る。明星の歌をなほして十二時頃枕につく。
 大暴風雨。
 この日の受信、佐々木信綱、間嶋琴山、北原白秋の諸君よりはがき。

十二日間の記
 八日、千駄ヶ谷歌会の日なり。午前明星の歌をなほし、一時頃ゆく。
 珍らしきは大井蒼梧川上櫻翠二君なりき。先づ明星を百号にてやめる件、についての相談あり。平出君最も弁じ、大井君保守説を持す。夕刻にいたり、廃刊の事与謝野氏の懇望によつて決し、新たに与謝野氏と直接の関係なき雑誌を起すこととなり、平野吉井予の三人編輯に当ることとなれり。予は初め固辞せしも聞かれず、与謝野氏の衷心に対する同情は終に予を屈せしめたり。
 雅子女史亦会す、吉井北原君もあり。夕刻より兼題の歌の運座。
 十時頃より、徹夜五十首と動議成立し、翌九日朝にいたりて大方詠出。互選の結果、読上げ終りて十二時を過ぎたり。平野吉井二君と共に残り、湯に入る。四時頃帰り来る。
    ――――――――――――――――
 室に入れば女中来りて告げて曰く、昨夜植木女来り、無理にこの室に入りて待つこと二時間余、帰る時何か持去りたるものの如しと。
 室内を調ぶるに、この日誌と小説“天鵞絨”の原稿と歌稿一冊と無し。机上に置手紙あり、曰く、ほしくは取りに来れと。
 予は烈火の如く怒れり。蓋し彼女、世の机の抽出の中を改めて数通の手紙を見、またこの日誌の中に彼女に関して罵倒せるあるを見、怒りてこれを持ち去れるものなり!
 小樽なる櫻庭ちか子女史より来信。また母が自ら書きたる手紙を読む。心は益々乱れたり。
 この故に予はこの十二日間日誌を認むる能はず。またそのために時間を空費したる事少なからず。予は実にいふべからざる不快を感じたり。
    ――――――――――――――――
 如何にして盗まれたるものを取返すべきかにつきて、金田一君と毎日の如く凝議したり。一度、予怒りを忍んで彼女を訪ねしもあらざりき。翌日オドシの葉書をやる。無礼なる返事来る。行かず。十九日の夕に至り、彼女自ら持ち来りて予を呼出し、潸然として泣いて此等の品を渡して帰れり。
 ただ此日記中、七月二十九日の終りより三十一日に至るまでの一頁は、裂かれて無し。蓋しその頁に彼女に対する悪口ありたるなり。
 これにて彼女の予に対する関係も最後の頁に至れるものの如し
    ――――――――――――――――
 十四日午後、大久保に茅野君を訪へり。歌会の夜の約なりければなり。信濃の新聞に交渉してくれるとの事。
 同君は十六日に立ちて一旦妻子と共に故郷諏訪に帰れり。九月より京都なる第三高等学校の独語教師となる事となれるなり。
 雅子女史!
    ――――――――――――――――
 十二日の夜なりけんか、千駄ヶ谷に一泊して明星の校正手伝へり。その時の晶子さんの話にて、大井君の恋人が雅子さんなりしことを知れり。過る歌会の夜、大井君その恋人の子を膝の上に眠らせてありき。晶子さん曰く、“あれではモウ小説の最後の頁ですね。”
    ――――――――――――――――
 一度一人にて初音亭に浄瑠璃をきく。友昇に感ず。
    ――――――――――――――――
 小笠原文学士の話にて、大阪新報のために小説“夏草”を書き初む。(十七日夜より)
    ――――――――――――――――
 十七日より今日まで、毎日金田一君碧海君と共に将棋を戦はせり。義太夫は将棋に代れるなり。
    ――――――――――――――――
 十五日なりけんか、家に手紙をかけり。悲しかりき。実に悲しかりき。
 同じ夜、盛岡の村山(春潮社)に対し予の詩を無断掲載したるに就き叱責のハガキを送る。詫状来る。
    ――――――――――――――――
 十八日、吉野君より愈々釧路天寧小学校へ転任のハガキ来る。
 久振にて岩手紫波の小笠原迷宮よりハガキ。また小林花京君より、ハガキと共に一葉の写真来れり。そは君と岡山月下君との写真なり。机の上に飾りてあかず親しむこととしつ。
 また小田嶋孤舟より、ハガキと春潮二号送り来れり。
    ――――――――――――――――
 十八日、午后吉井君久振に来る。日本橋の妓梅香の事に関し、大事件あり。夕刻、共に古本屋数軒を訪ふ。一カツフヒーにて晩食。
 夜、阿部月城君来る。
    ――――――――――――――――
 十九日は将棋に暮す。残暑少しく烈し。空は秋の空なり。
 夕刻にこの日誌等返る。金田一君と共に万歳を唱ふ。

八月廿日
 十時起床。金田一君と将棋を戦はして勝つ。残暑八十七度に上る。
 煙草全く尽く。金田一君も同様なり。二人共何事をもなさず。
 四時頃都新聞の橋本君来り、初めて煙草にありつく。
 夕、金田一君の国史大事典を典じて共に洗湯にゆき、帰路ビールを呷り、氷をのむ。本妙寺境内の暗がりにて盆踊を踊る。秋天廓寥、銀河高し。

八月廿一日
 夜。金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。
 キネオラマなるものを見る。ナイヤガラの大瀑布、水勢鞺鞳として涼気起る。既にして雷雨あり、晴れて夕となり、殷江の雲瀑上に懸る。月出でて河上の層楼窓毎に燈火を点ず。児戯に似て然も猶快を覚ゆ。
 凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり、此処に住むものは皆女なり、若き女なり、家々御神燈を掲げ、行人を見て、頻に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至つては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、“チヨイト”“様子の好い方”“チヨイト、チヨイト、学生さん”“寄つてらつしやいな”
 塔下苑と名づく。蓋しくはこれ地上の仙境なり。
 十時過ぐるまで艶声の間に杖をひきて帰り来る。

八月廿二日
 人は時として、否、常に、その生活の平凡単調に倦んで、何かしら刺戟――可成強烈な刺戟を欲する。今日の一日は、その刺戟を欲する心に終始した。そして殆んど一日金田一君とそんな事を語り合つた。
 如何なる刺戟も、遂に人間の無限なる慾望を満足させうるものでないといふ事は解つてゐる。解つてゐて、猶且吾ら日夕の単調に倦んだ者は、何らかの刺戟を需めて止まぬ。
 昨夜歩いた境地――生れて初めて見た境地――の事が、終始胸に往来した。
 結婚といふ事は、女にとつて生活の方法たる意味がある。一人の女が一人の男に身をまかして、そして生活することを結婚といふのだ。世の中ではこれを何とも思はぬ、あたり前な事としてゐる。否、必ずあらねばならぬこととしてゐる。然るに“彼等”に対しては非常な侮蔑と汚辱の念を有つてゐる。
 少し変だ。彼等も亦畢竟同じ事をしてゐるのだ。唯違ふのは普通の女は一人の男を択んでその身をまかせ、彼らは誰と限らず男全体を合手に身をまかせて生活してるだけだ。
 今の社会道徳といふものは、総じて皆這麼不合理な事を信条としてゐる。
 午後宮崎君の父上へ礼状、岩崎宮崎並木三君へ近況を報ずるの書とをかいた。
 この日の朝筑紫の人から長い長い手紙が来た。“遠き兄君啄木様”!!
 夜、また行かうか行くまいかと二人で語り合つたが、遂々行かず了ひ。

八月二十四日
 筑紫へ文認む。七十五度。
 大阪の西村菜葩といふ人から明星に関する問合せ、返事を出した。
 昨日二十三日は吉井君の歌会だつたが電車賃がなくて行かなんだ。そして“静子の悲”少し許り書き進めた。
 下宿屋の障子がスツカリ張代へられて秋といふ感じがある。
 札幌の在原清次郎君から葉書。

八月二十五日
 金田一君と語る。この頃からまた独逸語を初めて、頻りに二年前に憶えた単語を思出しては無理な会話を試みる。
 小田島孤舟から鮫港のたより。
 午後に瀬川深君からなつかしい長い手紙が来た。九月京都に帰る途次、ここに一泊して行くと云つて来た。
“麹町二の十鶴鳴館宮永”といふ手紙が来た。久闊を叙して逢ひたいと言ふ。宮永といふのは、中学の一年の時同じデスクに並んだ男で、その後幼年学校に入つて退校させられ、東京でゴロツキの小さい親分になつてゐたのを、三十五年の十二月、澁谷からの帰りの汽車の中で見た事があつたが、その男からの消息とも思へぬ。今は毎日加賀町の東京タイムス社に出てゐるといふから何れ此方で忘れて了つた新聞時代の友人だらうと思つた。それにしても不思議なので、夕方訪ねてゆくと不在。矢張旧友の佐吉君、中学の入学試験に一番だつた宮永佐吉君だつた。
 昨夜馬追ひが一疋灯に迷つて室に入つた。今夕、電車の中は白地の浴衣が少ない。窓前の竹を騒がす風にも昨日に変つた響きがある。
 金田一君の室へ岩動孝久君が来た。事々に滑稽にして了はうとする。キザだと思はせる事もあり、思はず失笑させる事もある。そして根は気障な冷たい男だ。その笑顔が誰かに似たと思つて遂思出せなかつた。

八月二十六日
 釧路の遠藤隆君から手紙、借金の催促だ。
 櫻木神社のお祭だ。
 独逸語と女の話。夕方散歩。

八月二十七日
 九時半頃、佐々木六太郎君に起された。作文の題を出して呉れろといふ。弱つてる所へ、十一時半、平野君が来た。新詩社宛に来た小樽の藤田高田二君の手紙を持つて来てくれた。
 いろいろ僕自身の事を語り合つた。そして、十一月十五日〆切の、二六新聞の懸賞小説を脱稿するまでは、現状のままで居ようといふ事にきめた。平野君は非常に励まして行つた。それが午后一時。
 函館なる宮崎君の父君から忝けない手紙。
 二時頃に吉井君が来た。ハタで聞いては何の事やら解りかねる様な変挺な会話だ。それが皆女に関した事。
 吉井君の会の時、晶子さんが、
  たはやすく生きんが為に埒もなき男と六年添臥もしぬ
といふ歌を作つたけな!
 夕刻、一緒に千駄ヶ谷に行つた。今日明星が出た(八月号)のだ。主人は“言葉の泉”の方が済んだと言つて大よろこびをしてゐた。吉井君は平野君の歌をよんで大に興奮して“是非作る”と気張る。即刻話が纏つて、明後日の晩茅野の送別をかねて徹夜百首会をやる事になり、通知のハガキを十五枚書いた。
 栗島狭衣といふ文学士が、今度全然俳優になり、自ら妾なる女と共に一座を組織して京阪へ二十五日間一千円で行つたといふ話から、四五年前の我らの芝居の話が出た。あの時、上野の花月で十五日間稽古したのだが、払ひは其日其日にしたので、毎日晶子さんの衣服が無くなつたといふ。そして最後に残つた一すぢの帯を、例の貞子の芸妓が着なけやならぬから貸せと言つたのを、それでは芝居も見にゆけぬからと晶子さんが断つたので、鉄幹大将怒つたげな。晶子さんは反対だつたのだ。
 又、芝居をやめろと晶子さんが言ふと、寛氏は、芝居も歌も下手な事は同じだから、芝居をやめる位なら歌もやめると駄々をこねたと言ふ。雅子さんも何か不興を蒙つたげな。
 因に、忘れてはならぬから書いておくが、あの芝居は三十八年四月十五日江東伊セ平楼でやつたので、岩田郷一郎君高村砕雨君を初め、社中では与謝野、伊上凡骨、僕、平出君それから石井柏亭君山本鼎君(共に画家)博文館の竹貫某君、生田葵山君、美術学校の彫塑科を出た佐々木某君(名取、)女は香山とか云ふ美術学校のモデルだといふ狂気染みた女と植木貞子。
    ――――――――――――――――
 十時頃辞して帰ると、留守中に福場幸一といふ人が訪ねて来たとの事。これは三十八年の春牛込砂土原町の下宿(井上芳太郎方)で知合になつた男で、名刺によると、今は広島県私立日彰館中学と高等女学校の教師。暑中休暇で上京したのだらう。

八月二十八日
 手紙も来なければ人も来ない。明星を読んだり、歌を作つたり、金田一君と話したりして二時頃寝た。暑い日だつたが夕方雨。雨が白い。
 金田一君は明朝早々の汽車で一寸帰国する。
 茨嶋の秋草の話虫の話で、泣きたい位動悸がした。
 金沢博士、(金田一君と特別の関係ある)の奥様は美人で、所謂良妻の模範で、そして、若い時盛岡にゐた事があるといふ。小説家たる予はその奥様が無意識に金田一君を恋してるといふ事を肯定せずには居られぬ。

八月二十九日
 暑い日。十二時に湯に入つて顔を剃つて来た。並木君からなつかしい手紙が来た。吉野君は去る十七日に函館を去つて遂に釧路へ行つたげな。
 昨日の新聞に広告された、読売社の三面記者五名募集へ、心ならずも履歴書をかいて、釧路新聞へ書いたのと共に送つた。希望俸給四十五円か五十円と書いた。俺にこんな巨額の金をくれる奴はない。それは確だ。不本意で応ずるのだから、態とこんな詰らぬ事に不平を洩したのさ。
 夕方千駄ヶ谷にゆく。茅野夫妻が来てゐた。吉井平野北原諸君も来た。山城君は肥つて達磨の様である。渡邊君は函館の岩崎君に肖た所がある。大貫君は盛岡の岡山月下君に肖た。与謝野氏夫妻を併せて、十数人。
 百首作らうと云ふので字を結んだ。床の間の枕時計が八時をうつを合図に始める。僕は興があつた。
(三十日)
 午前八時になつて〆切つた。僕は一番早く、六時頃には作つてしまつた。
 正午までに清書、一時から選み初めたが、何しろ千三百首もあるのだから、古今集一冊よむよりも骨だ。夕方から読上げて、済んだのは午后八時、スツカリ一昼夜かかつた。僕のは大分評判がよかつた。
 九時過ぎまで話して帰る。頭がぼんやりして、何だか身体もふらふらする。好い気持だ。
 宿につくと、夕方に宮永が洋服をきて来たが、また来ると云つて帰つたといふ。すぐ枕について、すぐ眠つた。

八月三十一日
 朝、八時に目をさまして、郁雨君のなつかしい手紙を読んだ。恰度十時間寝たのだ。
 窓の前の竹が秋風に騒いでゐる。頭がまだ疲れてゐて、底の方に静かな風が吹いてる様だ。病後の快さと云つた様な気がする。
 一日何にもしない。茅野が今日京都へ立つのだが送らぬ。電車賃のない為だ。歌を帳面に写した。
 日が暮れると枕について、届いた“心の花”をよむ。重田春子!
 眠つたのは十時頃だらう。

     
長 月

九月一日
 二百十日
 到頭九月が来た。宿の空いていた室も大方また塞がつた。噫、到頭九月が来た。二十三の年も秋になつた。毎年同じ嘆きが、この日に繰返される。
 読売新聞から僕の送つた新聞の切抜を返してきた。駄目だというのだらう。
 秋だ。一時間許り枕の上で物思ひに耽つて、九時に起きた。寝巻の綿入に莫大小のシヤツを着て、寒くも暑くもない。寒暖計七十四度。
 顔を洗ふと間もなく福場幸一君が訪ねて来た。髯を生やしてゐる。洋服を着てゐる。妻君はまだ無いさうな。一別以来の挨拶が済んで、互に胡座をかいた。
 日彰館といふ私立学校の、高等女学部の教頭をしてゐて、中学部にも出るといふ。色々と其故郷のことを語つた。是非遊びに来いといふ。秋は栗と松茸が出来るといふ。
 一緒に昼食をした。雨が降り出した。秋は友がなつかしい。不遇の秋は殊にさうだ。一時頃帰つて行つた。
 夜寝てから興を覚えた。久振に、数年振に興を覚えた。二時頃までに“青き家”その他十篇ばかりも詩の稿を起した。
 泣菫の詩人的生活は終つた。有明も亦既に既に歌ふことの出来ない人になつた。与謝野氏はこゑのまだ尽きぬうちに、胸の中が虚になつた。今、唯一の詩人は北原君だ。北原の詩で、官能の交錯を盛んに応用した、例の硝子のにほひの詩は、要するにキネオラマに過ぎぬが、此頃毎号心の花に出してゐる“断章”の短かい叙情詩に至つては、真の詩だ、真の真の詩だ。心にくき許り気持のよい詩だ。今の詩壇の唯一人は北原だ!
 然し北原には恋がない!
 予はこれから、盛んに叙情詩をやらうと思ふ。若々しい恋を歌はうと思ふ。

九月二日
 盛岡の村山某から春潮五号とハガキが来た。原稿をくれといふ。
 十時半頃に小野清一郎君が来た。病気はもうすつかり癒つたと見えて、肥つて日にやけてゐる。此人は盛岡中学空前の秀才なさうで、今度一番で一高の独法に入つたのだ。
 二時半頃、与謝野氏と平野君と突然やつて来た。平賀源内の話などが出た。一時間許りして、三人で千駄木の森先生を訪うた。話はそれからこれと面白かつた。茉莉子さんは新しいピヤノで君が代を弾いたり、父君の膝に凭れたりしてゐた。母堂も出て来て、大原の別荘の話などされる。晩餐の御馳走になつて、辞したのは九時少し前。
 帰りは与謝野氏と暗い路を並んで歩いたが、自分のやらうと思ふ叙情詩を北原がやり出したので閉口だと云つてゐた。
 久振で歩いたので、つかれてゐた。すぐ枕についた。

九月三日
 金田一君が帰つて来た。盛岡で小林君に逢つた話。
 筑紫から長い手紙。歌。
  思ひ寝てゆめに見たまへ筑紫なるくろ髪長き磯の少女を
 歌を作つた。
 夜、小笠原文学士が金田一君の室に来て、大阪新報では小説を真山青果から買つて了つたとの事。僕の“静子の悲”はこれでもう世の中に生れることが出来なくなつた。それかあらぬか、予は怎してかこれに気が進まなかつた。
 その代り、同社で二十五六円の三面記者を欲しいといふ話。明日履歴書を書かうと金田一君に話したが、君は余り賛成しなかつた。無論反対もしなかつた。噫、生きる事の心配! 僕もそれをしたくない。友もさせたがらぬ。然し!!

九月四日
 枕の上で釧路の遠藤から金の催促のハガキを読んだ。暗い暗い心を以て読んだ。
 予には才があり過ぎる。予は何事にも適合する人間だ。だから、何事にも適合しない人間なんだ!
 朝からの大雨。昨日もさうだつたが、実にしめつた日だ。昨午前、寒暖計は七十度まで下つてゐたが、今日は然し七十三度。秋の雨だ!
 雨は終に終日降りやまなんだ。云ひ知れぬ秋の冷たさに心が濡れて、薄暗いところに唯一人寝てる様な気持だ。夜に金田一君と語つた。その外には何にもしなんだ。
 京子がどんなに大きくなつたらうと考へると、無性に逢つて見たくなつた。そして、自ら此考へを捨てた。五厘銅貨が唯四枚!
 どうなる事だらう。といふ様な事を考へるにも余り張合がない。

九月五日
 今日も七十度だ。袷は質に入れてあるので、袖口のきれた綿入を着てうそ寒い。為すこともなくうつらうつらと煙草の粉を吸つてると、二時頃に吉井君がやつて来た。死んだ時の黒枠の広告文を考へるといふ話。兼題を二人で作つて五時に千駄木の森先生の歌会へ行つた。
 佐々木君が来てゐた。余程経つて主人と加古医学博士と与謝野氏と、香の会からの帰り打伴れて来られた。やがて伊藤左千夫君も来た。平野が来ないので吉井と二人迎ひに行くと、来てるのは女客らしかつた。
 皆比較的大人しい歌許り。
 散会したのは十一時だつた。主人は俳句の会も起したいが、山縣公の常磐会があるので、とても今の所ヒマがないと言つて居られた。
 松屋の角で皆に別れて、帰つて寝たが、寝られぬので独歩の事をかいた古い趣味を読む。二時まで。
 それのためか神経が鋭くなつて寝られぬ。暁方に少し眠つた様だつたが、目がさめてから、また色々な事が考へられた。
“所詮”といふ消極的な考へが頭の中で時々頭を擡げる!
 金星会へ三十銭の為替が来た。

九月六日
 十一時頃に起きた。枕の上で矒乎考へ事をしてゐたのだ。
 金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ。同君は四年も此下宿にゐて、飽きた、飽きた、陰気で嫌だとは予々言つてゐたが、怎して然う急にと問ふと、詰り、予の宿料について主婦から随分と手酷い談判を享けて、それで憤慨したのだ。もう今朝のうちに方々の下宿を見て来たといふ。
 予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!
 本を売つて宿料全部を払つて引払ふのだといふ。本屋が夕方に来た。暗くなつてから荷造りに着手した。
 それより前、本屋の来るのを待つ間の怠屈を、将棋でまぎらかした。三番やつて予が退けた。其処へ、小樽の櫻庭ちか子さんから美しい字でかいた葉書が来た。
 午後五時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新しい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは坦かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。建つには建つたが借手がないので、留守番が下宿をやつてるのだとのこと。
 三階の北向の室に、二人先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる。
 枕をならべて寝た。色々笑ひ合つて、眠つたのは一時頃であつたらう。

三階生活
九月七日
 三階の第一日の朝、六時に起きた。金田一君は学校へ行つた。予は、昨夜同君から貰つた五円で、袷と羽織の質をうけて来た。綿入を着て引越して来たのだ。女郎花をかつて来て床に活けた。茶やら下駄やら草履やらも買つた。
 移転通知のハガキを十七枚書いた。久振で新渡戸先生へも書いた。
 室の中を片付ける。湯に入つて間もなく友が帰つて来た。日が暮れると郷古潔君が来た。
 予は一人散歩に出た。四丁目で金矢光一君に逢ふ。此人は今度高商へ及第したのだ。伴立つて方々歩いた末、浅草に行つて、“塔下苑”を辿る。此青年の此境に於ける挙動を、かくて充分に観察することが出来た。
 帰りにとある蕎麦屋で喰ふ。銚子も一本。帰ると十二時少し過ぎ。大門が閉つてゐた。
    ――――――――――――――――
 午後だつた。金田一君の本箱から泣菫の“行く春”を見つけ出して、泣かむ許りの嬉しさを以て、遂々読んで了つた。此の詩集の初めて世に出た頃、――不来方城下の白羊会時代がなつかしい。予は此“行く春”を思出すごとに、友藻外を思出さぬことはない!
 この集を買はむがために、予は何回書肆にむだ足を運んだことであらう。考へてもアノ頃のゆめの様な自分が自分ながらに恋しい様な気がする。若しも予が、アノ後の事を思出すことなしに盛岡を考へることが出来るならば、抑かの美しい陸のくの都が、どんなに自分にとつてなつかしい美しいものであつたらう!
“行く春”の巻末にある広告のうち、“小天地”といふ大阪で出た雑誌が載つてゐる。中の目次に、“鳳晶子”の名が“与謝野鉄幹”の名と共に列んでゐる。あはれ、これも一昔前のことだ。八年前の両氏は今四人の小供の父母! そして、そして、自分は!

九月八日
 早起。今朝は寒暖計六十六度に降つてゐた。大きな蚤を捉へて三階の窓から投げる。秋風に弄ばれて、見えなくなつた。肌寒を感ずる。
 九番の室に移る。珍な間取の三畳半、称して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳かに小石川の高台に相対してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、断間なく吐く黒煙が怎やら勇ましい。晴れた日には富士が真向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。
 天に近いから、一碧廓寥として目に広い。虫の音が遙か下から聞えて来て、遮るものがないから、秋風がみだりに室に充ちてゐる。
 金田一君の弟の安蔵君が来た。金澤の学校へ帰る途次。
 たまつてゐた金星会の歌をなほして出した。与謝野氏から手紙、文科大学の二年なる萩原芳次郎といふ人の身元調べを金田一君に頼んでくれといふのだ。何処か知らぬが縁談の為なさうだ。
 二時頃、並木君が来た。我が“穴”に入つた最初の来訪者である。昨日帰京したといふ。
 色々と函館の話をきいた。痛い痛い創痍に触られる様な心持。!!!
 四時過ぎて帰つて行つた。
 夜は電燈の下で久振に手紙を書いた。青森の瀬川深君へ一通、盛岡の小林茂雄君へ写真を送られた礼状。それから小樽の櫻庭ちか子さんへ一通。書き了へた頃は、もう電車の響も聞えず。十三夜の月が傾いて、乱れた雲の間から見られた。秋の思がしみじみと身に心に沁みる。
 源氏を読み乍ら枕についた。

九月九日
 今日も早く起きた。
 久米井宮永両君より来信。
 筑紫へと、小樽なる高田藤田二君へ、長き手紙を書けり。自ら号して曰く、三階の哲学者。
 午后七時半の汽車にて安蔵君の金澤にゆくを、新橋ステーシヨンに送る。途中電車内に喧嘩あり、危うく時間におくれむとしたり。
 帰り来て、金田一君が昨夜薬師の縁日にて黒眼鏡をかけたる女に手を握られたる話をきく。
 今夜より、毎夜枕につきて後源氏物語をよむこととせり。

九月十日
 古今集を読み了へた。悪技巧に囚へられた歌が多くて、呀と思ふ様なのが少い。よいと思ふのは、大てい万葉古今の過渡時代の作だ。
 北原からハガキ、転居の通知旁々やつた予のハガキに対する返事だ。吊橋が匂つたり、硝子が泣いたりするのは、君一人の秘曲だから我々には解らぬと云つてやつたのを、それは“皆三角形の一鋭角の悲嘆より来るものにて、さほど秘曲にても候はず、ただ印象と、官能のすすり泣きをきけばいいでは御座らぬか。………この時僕の脳髄は毒茸色を呈し、螺旋状の旋律にうつる。月琴の音が鑲工の壁となり、胡弓が煤けた万国地図の色となる。”と書いて来た。
 無論これらも、強き刺戟を欲する近代人の特性を、一方面に発揮したものには相違ないが、我々の“詩”に対して有する希望はここにないのだ。謂つて見ようなら、北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてる男だ。詩以外の何事をも、見も聞もしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。それに比すると、今の我らは、詩の全能といふことを認めぬ。過去を考へると、感慨に堪へぬ話だが、何時しかにさうなつて来たのだから仕方がない。人が大人になる、すると、今迄興味を有つて来た事の大半に、興味を失つてくる。そこで更に新しい強い刺戟を欲する。ト共に何か知ら再び小児の時代の単純な、自然な心持に帰つて見たくなる。これら二つの希望のうち、どれが詩的かと云へば、無論小供の時代に帰りたいといふ方が詩的だ。我々は少くとも予自身は、此故に、詩に向つて新らしき強き刺戟を求めようとしない。求めようとしても、詩そのものが、或程度まで怎しても格調の束縛があり、且つ言語の連想に司配さるるといふ歴史的伝習的な点があり、全く新らしい酒を盛るには、古い器なのだ。謂ふ心は、我々の複雑な極めて微妙な心の旋律を歌ふには、叙上の束縛がある為に不自由なのだ。それを、無理に咏み込まうとするから、無理が出来る。この無理はさながら音楽に於ける不調和音の如く我々の心を乱して了ふ。
 予が北原の詩のうちで、所謂邪宗門流のものをとらずして、(極言すれば邪路に迷へるものとして、)却つて同君があまり力を注がぬらしき“心の花”の“断章”などを、現下詩壇の一品とする所以だ。乃ち、我々は我々の情的希望のうち、詩的な方面を詩によつて充たさむとする。道理ぢやなからうか。クラシカルな、又ロマンチカルな趣味が、かくて現在の我々の頭にも存し得る。
 無論、我々は二十世紀に生れた人間であるから、さればと言つて、古人の作に満足はし得ない。同じクラシカルな趣味でもロマンチカルな趣味でも、古人のそれと今人のそれとは、言はずして明かな相違がある。
    ――――――――――――――――
 小説界に起つた自然主義は、詩壇にも同様の現象を誘起した。自ら自然主義詩人と称した手合も、早稲田派の末派などには少くない。此傾向はまた、“口語詩”なるものを作らしめた。
 自然主義詩に予の満足しえない理由、否、寧ろ全然不賛成な理由は、上に書いたことで明かだと思ふ。
 時代の思想、感情、概念は、その時代の言語によつて表はされなければならぬのは、言ふまでもない。が、詩は、詩だけは、その性質として、一番終ひに時代の言語を採用するものぢやなからうか。………………
    ――――――――――――――――
 吉井君からも葉書、“この頃の寒気は如何に候や。実に骨髄に徹して堪えがたく候。何処かに火を求めざるべからず。寒し寒し。”と書いてある。ハハ…………
    ――――――――――――――――
 二時頃に並木君が来た。梨を持つて来たので、金田一君と三人で喰ふ。そこへ金田一君へ面白い手紙が来た。
 夜、頼まれてゐた男の事が少し解つたので千駄ヶ谷にゆく。
 今夜は中秋の明月だ。晶子さんは勝手でお団子を拵へてゐた。やがてそれと里芋と栗と豆の煮たのを持つて来て語つた。程なくして主人が多摩川の鮎漁から帰つて来た。ハンケチに包んだのを解くと、三つ許り石が出た。形が面白いから拾つて来たのだといふ。見れば郷里の方ならいくらでもある様な詰らぬ石だ。予は面白いと思つた。
 薄雲の間にまどかな月が登つた。何処からともなくオルガンの音につれて美しいゆたかな若い女の肉声が聞えてくる。薄月のほのめく木の間から聞えてくる。耳をすまして聞くと、それは月照入水の歌であつた。
 オルガンの音は、渋民にゐた時の、静かな心地を思出させる。あたりに繁き虫の音さへも!
 渡邊紫君も来たが、一人九時頃に辞して帰つた。まもなく金田一君も帰つて来た。天宗といふ天プラやへ行つたのだ…………そこの三人娘の一番下の児が、義太夫をやつたり踊りをやつたりして大いに歓迎したといふ…………

九月十一日
 明日午後二時から徹宵の歌会をやるといふ平野君の葉書。
 並木から電話。実は俺は電話はイヤだつた。イヤと云ふよりは恐ろしかつた。四年前にかけた事があるツ限、だから、何といふ訳もなく、電話に対して親しみがない。今煙草をのんでるので立たれぬからと無理な事を言つて、女中に用を聞かせると、平野から葉書が来たけれど、何にも書いてないと言ふ。仕方なしに立つて電話口に行つたが、何でもなかつた。これからは、いくら電話がかかつて来てもよい。兼題を知らしてやつた。


 四時頃からしとしとと雨。音もなき秋の雨に、遠く物の煙つて見える景色は、しめやかに故郷を思はせた。
  故郷の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る
 夕方、並木、間嶋、藤條、諸君へハガキ出す。

九月十二日――十三日
 終日秋雨。
 午後並木君来り、携へて雨中動坂の平野君の歌会に赴く。晶子さんが、光さんをつれて来てゐる。与謝野氏は家にゐて子守をするのだといふ。大貫君、渡邊君、間嶋君、松原君、長谷君、富田君。藤條君はおくれて来て、並木君は早く帰つた。
 兼題十首済んで徹夜五十首。晶子さんは早く作つて寝た。予は眠いので画報を刊行したり、松原にからかつたりして巫山戯た。了ひには紫君の仮寝したのへ、眼鏡に墨を塗つて、目をさまして大騒ぎ。暁近くなつて一時間許り眠つた。そのため四十首しか作らぬ。
 披露が済んだのは十三日の二時頃、平野が百幾点に僕が九十何点。歌の数にして予が一番成績がよかつた。
    ――――――――――――――――
 四時頃にかへる。松原渡邊の二君が寄る。夕飯。松原だけ先に帰つた。渡邊君は岡山の人、岩崎君に似てるから初めからなつかしかつた。七時頃かへつた。金田一君の室へゆくと、小笠原文学士が来てゐる。金田一君は支那へゆかうかと話した。すぐ帰つて寝た。
 大貫晶川君を好きになつた。

九月十四日
 十四時間前後不覚に睡つて、午前十時起床。
 終日“明星”に送るべき歌を補正しつつ、十数首新たに加ふ。計百三十八首。
 筑紫より紅のハガキ。

九月十五日
 今朝初めて富士山を望む。
 せつ子と母より手紙。起きて秋風に対し、粛然として秋思深し。何とかして今月のうちに金を送らねばならぬ。
 歌稿を与謝野氏に送り、ハガキを筑紫及び盛岡の村山徳次郎、摂津の境田弘吉らに認む。
 広島県なる福場君よりハガキ。
 金星会の歌をなほすこと八通
 夕、西の姿を望む。残照火の如し。

九月十六日
 三四日前から毎日送つてくる岩手日報、今日から全然体裁が変つて、活字も新らしく、気持のよい新聞になつた。此新聞と予との関係も随分長い。
 三十四年の頃、日報社は呉服町の川越といふ酒屋の隣りにあつた。主筆はその時から神川福士政吉氏、その昔報知新聞が初めて懸賞小説を募集した時、村井弦齋が一等で此の人が二等だつたといふ。埋れたる人の一人。武骨な、口下手な、肥つた人であつた。最初の関係は怎してついたか今は思出せない。その頃予は中学の四年。確かその年だと思ふ、“寸舌語”とかいふ題で、天外らの写実小説についての評論を一段半許り書いてやると、翌日の新聞に二号標題で載つてゐた。それは、高山博士の“近世美学”から得た智識の、最初の応用で、そして又最後の応用であつたらしい。写実主義は論理上独立しうる価値のない議論だが、理想主義の弊を僑めた所がその効だ。といふ旨意であつたと思ふ。その後三十七年の秋十一月中旬、新築地の姉の家だつた長屋の二階で、壁に貼られて煤けてゐたのを見付出して、節子と二人で剥がうとして裂いてしまつた事がある。
 矢張その頃と覚えてゐる。蒲原有明君のの“草わかば”(第一詩集)が出た時、二日間に渡つて日報で批評した事がある。
 三十五年の初刷には、白羊会同人の詠草を載せた。その正月の八日(?)に予が発起で、多賀の一料亭で“文庫”誌友会を開いた時、その広告は福士氏に頼んで無代で三日許り載せて貰つた。白羊会の歌は時々出した様だ。
 三十六年の二月病を負うて渋民に帰り、少し研究したり思索したりした結果、五月頃(?)に“ワグネルの思想を論ず”といふ言文一致の論文を毎日一回分づつ書いて送つて、出した。十回許り続いたが、それでも序論が終らずに病のために筆を絶つた。これまでは、予がまだ白蘋と号してゐた時代。
 同じ年の十二月、“渋民より”といふ題で何かしら三四回書いた事を記憶してゐる。
 三十七年の初刷には、予の“詩談一則”が一頁載つた。これは節子から送られて読んだヨネ・ノグチの“From the Eastern sea”の批評兼紹介で二つ三つは訳して出した詩もあつた様だ。冒頭の句は今でも記憶してゐる。曰く“白百合の君より送られて………”
 二月に日露の開戦。無邪気なる愛国の赤子、といふよりは、寧ろ無邪気なる好戦国民の一人であつた僕は、“戦雲余録”といふ題で、何といふことなく戦争に関した事を、二十日許り続けて書いた。
 同じ三十七年の晩秋、予が上京の途次日報社を訪問した時は、内丸の大逵の新聞社屋に移つてゐた。そして、恰もその時、同社で予を入社させることに決めてゐたといふことを主筆と、清岡主幹から話され、ビツクリしたつけ。主幹は頗る残念がつて、餞別を五円くれた。其十二月と思ふ。清岡(等)氏が上京して僕を日本橋の一西洋料理店でオゴツテ、再び盛岡に帰つて入社してくれる様の話だつたが、空想家の予は、中央文壇の生活といふことを二なきものと思つて、応じなかつた。翌る三十八年の二月(?)同社祝融の災にかかつたと聞いて、行かずに可いことをしたと思つたつけ。
 三十八年の六月の初め、盛岡に帰つて見ると、社は県庁裡から大手先へ曲つたところの、モト車屋だつた家に在つた。それはそれは汚い所。予は“閑天地”といふ題で十何日か続いて随筆を書いた。
 九月に出した小天地の広告は、三週間も前から毎日三段抜の大きいのを無料で出して貰つた。三十九年の初刷には、予の何とかいふのを四段許りに、せつ子の“紫泉遺稿をよみて”が二段許り載つた。その時と思ふ、初めて二円稿料を貰つたつけ。
 三十九年三月渋民に住んでからも新聞は毎日貰つてゐた。然し何にも書かなかつた。去年北海道に渡つてからは無論のこと。
 今年五月、上京の通知を新渡戸仙岳先生にやつた所が、氏が今日報に客員として関係してるさうで、予の手紙をそのまま日報に載せたといつて来た。今度の移転の知らせの葉書でソ言つてやつたので、この頃毎日送つて来る。去る十三日、内丸の焼跡の新築へ移つたのだといふ。
   ――――――――――――――――
 萬朝報の懸賞小説に応ずべく、“樹下の屍”といふのを四時間許りで書いてやつた。それをかいてるうちに並木君が来て、書いて了つた時帰つて行つた。帰りに投函してくれると云つて小説を持つて行つたのだ。
 日がくれて雨が降り出した。花明君のために質屋へ行つて来た。

九月十七日
 吉野君から“死ぬ思をしてる”といふハガキ、遠藤隆君から詳しく近状を報ずる手紙。共に釧路から。
 日報の福士氏へハガキを出した。
 洛陽一布衣といふ署名で、日報へ毎日送らうと思ふ“空中書”を今日第一信をかいた。
 二時頃、吉井君が来た。“君といふ字のついた歌は皆恋歌だらう”と父君にいはれて閉口したと話す。古恋人の姉君から来たといふ手紙を見せた。四方からの縁談、殊にもこの度横浜の知人からの申込があつて、一二日中に確たる返事をしなければならぬが、本人は今一度おんもと様の心を伺つてからといふから、来てくれといふ意味だ。怎するかと聞くと、
“僕は貧乏だ。また、親が許さぬかも知れぬ。それでも結婚してくれるか。と言つて、それでよいと言ふなら約束をきめて来る。一緒になるのは来年の夏あたりにしようと思ふ…………これが家へ秘密だから面白いぢやないか。”
 かくて彼は夕方になつて三田の某所なる女の住家へ行つた。長く逗子鎌倉にゐたのだが、秋来都門に帰つて来てゐるのだ、と云ふ。いつか写真を見せられた女なのだ。
 歌集は来春金尾から出すことに決つたといふ。中へ、僕ら十人許りの肖顔を荒木君に書いて貰つて入れるといふ。そのうちへ、例の古恋人(ト吉井君がいふ)のも一つ、名をかかずに入れては怎だらうといふ相談。よからう、面白いと答へた。
    ――――――――――――――――
 夜、今日来た金星会のうたをなほし、少し頭が重い様なので、源氏を読みながら寝た。源氏は近頃毎晩寝てから読む。

九月十八日
 一昨日あたりから、又少し暑くなつた。
 午前中に“空中書”第二、かく。清岡氏へ病気見舞の手紙。
 午後、盛岡を思出した。小倉服を着て、春に驚き、秋に驚き、寝ても起きても心のままに過した中学時代。自ら天下の策士を以て任じた日もあれば、体操の時間に小隊長となつて得意がつた時もある。四年五年は知識慾に渇して、手あたり次第に本をよみ乍ら、独り高く恃してゐたもの。初恋の経験もその頃の事。あはれ、その時代の自分に何の悩みがあつたか、何の暗い影があつたか。月々一円三十銭か五十銭、月謝を払ひ校友会費を払つて、それでも怎にか暮せたものだ!
 筑紫から長い手紙、秋風の如きしめやかなたよりである。
 境田天畔から金星会の歌。予のなほし方が酷なので、もう今度限り歌はやめると云つて来た。
 夜は金田一君と、中学の数学の教師であつた駒嶺先生の事を語つた。誠に面白い、そして不運な人ではあつた。今はモウ世にない!

九月十九日
 小田嶋孤舟君から消息と共に金星会の歌。岩手の秋は深くも漆の葉を染めたさうな。
 一寸外出して為替二枚受取り、斬髪して帰る。
 十一時頃堀合由巳君来訪。共に昼食をとり、欠伸を忍ぶ。
 読売新聞で、野口雨情君が札幌で客死した旨を報じた。口語詩人としての君の作物の価値は、僕は知らぬ。然し予は昨年九月札幌で初めて知つて以来、共に小樽日報に入り、或る計画を共にした。今年上京の際は、相携へて津軽海峡を渡る筈だつたが、予は一人海路から上京したのだ。最後の
会合は今年四月十四日午後小樽開運町なる同君の窮居に於てであつた。予は半日この薄命なる人の上を思出して、黯然として黄昏に及んだ。細雨時々来る陰気な日、辺土の秋に斃れた友を思ふことは、何かは知らず胸痛き事だ。故人の事共を書かうと思つたが、頭が重いのでやめて、故人の友なる人見東明といふ人へ追悼の手紙を送つた。
 日がくれた。頭が益々重い。遂に一人出掛けて初音亭に義太夫をきく。不思議にも堀合君と出合つた。義太夫は些とも自分を慰めなかつた。大切の東猿が寺小屋、漸く半ばにして帰つて来た。頭は益々重くて、底で痛む。天気の所為であらう。すぐ枕について源氏をよみながら寝た。末摘花の巻。

九月二十日
 “空中書”第三に支那問題を論じて投函させた。午頃平野君が来て千駄ヶ谷に行かぬかと誘つたが、行かなかつた。雑誌“昴”の広告文をかいてやつた。
 吉井君から、“わが運命遂に定る。人生は荘厳なり。とは云ふものの馬鹿気たものだ。”といふ葉書。蓋し“古恋人”との結婚約束が秘密に成立したのだ!
 人見君から、野口君の事について来書。寝耳に水で、まだ疑はれる点もあり、北海道へ問合中との事。“察するに病死にはあらざるが如く候”と書いてある。そして若し真なりとすれば、“新天地”一号へ附録とし追悼録を載せるから、二十二日までに是非書いてくれと言つて来た。追悼会も催したい云々。
 野口君の事は、思出せば思出すほどかなしい人であつた。予自身の北海に於ける閲歴と密接な関係のある人だけに、殊更悲しい。
 日がくれると間島琴山君が来た。一時間許り話して、一緒に白山神社の夜宮へ出掛けた。参詣して、神楽を見て、帰つたのは十時過。間島君は何処までもまだ子供らしい人だ。いつでも黒い毛糸のシヤツ(僕の女難よけの黒シヤツと命名した)を着てる人だが、今日は脱いで来た。
 源氏紅葉賀の巻。

九月二十一日
 今日は月曜日。起きて万朝報を見ると、先日やつた懸賞小説芽出度落選!
 盛岡の岡山君から金色堂の絵葉書。植木貞子からの、悲しい転居の知らせのハガキ、赤心館から廻送して来た。嘘か実か知らねども、遠からず女中に出るといふ!
 盛岡師範の千葉翠嵐君からも久し振のたより。星山月秋といふ人が肺を病んで死んだと。これも秋の信だ!
 函館なる母へ久振に思切つて手紙書いた。小田嶋孤舟君へも返事。
 国民新聞の徳富氏へ履歴書を書いて送つてやつた。無論駄目とは思ふけれど。
 午後になつて並木君が来た。続いて藤條静暁君が翁飴をもつてやつて来た。快談。夕方に並木君は帰つて、日暮から藤條君と二人、白山神社へ出かけた。神楽を見、活動写真を見、また神楽を見て、帰つて来たのは十一時少し前。
 金田一君の室で、中学の一年生が書いたといふ小説をよんで大笑ひした。
 人見君へハガキ出して、野口君の追憶二枚許り書き初めた。
    ――――――――――――――――
 今日から宿の三階持は、縮毛の、眼の悪いお新ちやん。これは年増で口マメなお常さんと共に、仙台弁の国訛が抜けない。外にお竹さんといふは外歯の江戸児で、お秀さんといふは、一番のハイカラ、朝から晩まで笑つて愛相を言つてる房州産、但し生れは石見だといふ。誰にも気受のよい女で、予に男へやる手紙の封筒を書かした奴だ。モ一人、お末ちやんは十一といふ齢には大きくて、そして綺麗な江戸ツ児弁の可愛い児だ。
 源氏紅葉賀の巻。

九月二十二日
 何かは知らず心安からぬ日であつた、何すともなく心はフラフラと落つかぬ。二時までに野口君の追悼文“悲しき思出”と題して九枚許り書くと、人見君から葉書――“やうやく今朝にいたり返電まゐり候。氏(野口)は先日室蘭(?)新聞社に転任致し、健在の由、察する所何かの誤聞かと存候”云々。
 ペンを投じて、うなつた。野口君は生きてゐるのだ。誤伝も事によりけりで、これは奇抜も通り越した話だ。それにしても先づ先づ安心。夜人見君へ手紙出した。今日の読売には“新天地”一号に野口君の追悼録が出るとさへ“よみうり抄”に出てゐた。
 昨日も今日も日報が来ない。
 筑紫から、葉書と、歌の載つた臼杵新聞と、臼杵港水泳会の写真とを送つて来た。
 晩餐は金田一君と共に。すゑちやんの無邪気で大笑ひ。
 夜、読源氏。“花宴”の巻の美しさ。“葵”の巻。

九月二十三日
 秋晴。秋季皇霊祭。日報また来た。
 藤條君から葉書。
 せつ子から長い手紙。家族会議の結果、先づ一人京子をつれて上京しようかと思つたが、郁雨君にとめられたといふ。冷汗が流れた。三畳半に来られてどうなるものか。噫。大谷女学校に教師の口、当分出ようかといふ。現在の自分の境遇と、一家の事情と、そして妻の悲しくも健気なる決心を思ふては、胸が塞つた。
 詳しく此方の事情をかいた返事を出した。
 村山龍鳳から葉書、この前雑誌“春潮”に関して直言してやつたのを感謝して来た。返事と外に別封に短歌“高秋百首”送る。
 千葉翠嵐へ文芸の事何くれとなく誡めた長い手紙認めて出す。吉井君へと、筑紫の芳子へと矢張葉書。
 鎌倉なる後藤宙外氏へ、“病院の窓”稿料に関する嘆願状思切つて出してやつた!
    ――――――――――――――――
 読売紙連載の青果氏の“死態”、回一回驚くべき筆だ。無論独歩の病牀で思ついたのであらうが、聞くところによると、この小説中で肺病患者を十七人殺すのだといふ。そして最後には無論主人公も死ぬだらうが、これをきいただけでも、此小説が如何に作者が深い頭脳を以て書いてるかが解る。
 同じ紙上に、一層優遇されてゐる天外の“長者星”、トント気乗がしない。予は思ふ。天外の真は皮相だ。故に社会から喜ばれる。青果の真は皮相ではない。何物か底にあるものに触れてゐる。故に深い。故に読者に喜ばれぬ。
 日本文壇近き将来の第一人は、それ真山青果か!
    ――――――――――――――――
 源氏“葵”の巻――“賢木”の巻

九月二十四日
 かきくらしたる大空に工廠の煙のなびけるもおどろしく、日もすがら降りくだつ雨に秋こそは冷やかなれ。訪らひ来る人もなく、文さへも無ければ、しめやかにうらはかなき心地のみして、日を一日ぐゑん氏なぞ読みなづみつ。
“花散里”――“須磨”――“明石”――“澪標”
    ――――――――――――――――
 夜、突然にも文学士浪岡茂輝君来り、花明君と三人鼎坐。放談十一時半に到る。

九月二十五日
 読源氏。“蓬生”――“関屋”――“絵合”――“松風”――“薄雲”――“槿”――“乙女”

九月二十六日
 白楽天詩集をよむ。白氏は蓋し外邦の文人にして最も早く且つ深く邦人に親炙したるの人。長恨歌、琵琶行、を初め、意に会するものを抜いて私帖に写す。詩風の雄高李杜に及ばざる遠しと雖ども、亦才人なるかな。

九月二十七日
 日曜日。午後並木君久米井君を伴ひて来る。
 白詩に親む。共に琵琶行を吟じて花明君の眼底涙あるを見、憮然として我の既に泣くこと能はざるを悲む。
 暮天秋雲逈。惆悵故園心。幼時母に強請して字を書かしめたることを思出でて、客思泣かむと欲す。涙流れず!
 一身為軽舟。悲秋常無銭。自称不孝児。苦思強苦笑!!!

九月二十八日
 十時に起きると、すぐ吉井君が来た。十一時半から十二時までの間に、契れる人と飯田町の停車場に落合つて、中野の方へゆく約束だと云つて、今日も新しいカラーを買つて来て此室でつけ代へた。女中が早目に昼食の膳をもつてくると、アタフタ出かけて行つた。
 三時頃に金田一君が帰つて来て学校の方やめる事について、理事長(校主)から故障をいはれたと言つてる所へ、また吉井君が来た。中野から目白、それから汽車で上野まで来て、今別れた所だといふ。その話によれば、女はもうすつかり心を吉井君によせて、今日の会見も女の方からの申込だとか。そして、結婚は一ケ年半の後を約し、吉井君がスツカリ家の事情などを打明けると、却つて勇んで、これから裁縫、英語、国語などを習ふといつたげな。
 今日許り吉井君と粛やかに語つた事はない。君は(いとしい)といふことを今日初めて知つたと言つた。一緒に晩餐をしたためて、それから広市場へ娘義太夫をききに行つた。両側の電気花やかな街を並んであるき乍ら、色々と親しく静かな物語をした。寄席では、美光の品のよいのが第一。名だたる三味の昇菊は成程珍しい美人で、評判の朝重が“お夏清十郎港町”を幾多の人物語り分けた喉流石に豪いと思つた。十時に済んで、吉井君と松住町で別れて電車で帰つた。
 枕についた時、秋といふ感じが頭一杯になつてゐた。

九月二十九日
 早く起きた。森先生から歌会の案内のハガキ。その返事と吉井君とへ葉書を出した。
 杜甫を少し読む。字々皆躍つてる様で言々皆深い味がある。無論楽天などと同日に論ずべきものではない。これに比べると、白は第三流だ。
 小説をかき初めようと思つたがかけなかつた。
 夜、碧海君が来て詩談。
 明日は晦日だと思ふと、心は何かしら安からぬ。此日は一日雨。

九月三十日
 昨夜は稀なる大雨。夜おそくまで耳について寝られなかつた。
 晴れた、暖かい日である。ペンを取つても何もかけず。過日宙外氏へ手紙出しておいた稿料の件で春陽堂へ行つて来ようにも電車賃がない。源氏を読んだ。
“乙女”――“玉鬘”――“初音”――“胡蝶”――“蛍”。
 千葉春松から葉書。
 吉井君から夕方手紙。此下宿へ来ることは談判行悩で月の半頃まで延期と云つてきた。マアテルリンクの“内部”を読んで感心したといふ。
 夜、金田一君と麦酒をのみ、蕎麦をくひ乍ら、宋元明詩選を読んだ。淘然として酔うて室に帰つたのは十時半頃、それから、ハウプトマンの Hannele を少し読んで寝た。

    
神無月

十月一日
 此日、モウ十月になつたのかと驚いた人は、無論沢山あることであらう。その沢山の人のうちで、最も驚いた人は最も不幸な人に違ひない。予は何故恁う月日の経つことの早いのを人一倍驚かねばならぬだらう?
 朝には早く起きたが、一日何も為なかつたと言つて可い。Hannele を少しと、ゴルキイの The Cutcastsを少し。それから源氏は今日下帙に移つて“常夏”に“篝火”の二巻を読んだ。
 其色と、其才とを以て、天が下の光の君と讃えられた源氏も、二十が二十五になり、二十五が三十になり、三十が三十五になつた。浅間しい。人は生れて、おのづからにして年を老る。そして遂に死ぬ。年を老らずに死ぬものなら、世の中は如何に花やかな、そして楽むべきものだらう。老ゆるに増す浅間しさ悲しさが、またとあらうか。
 創作の興が少し動いて来た様な気がして、古く書いたものなど――“雲は天才である。”の未定稿など取出してみた。いざ書かうと思ふと、ペンがダメになつてゐる。原稿紙も少い。これで折角の思立も、心が索然となつて水の泡。財布には五厘銅貨が二枚と電車の切符が一枚。
 窓から見下してると、蜻蛉が飛んでゐた。盛岡が恋しかつた。与謝野氏からハガキ。

十月二日
 目をさますと節子と妹からの手紙。老いたる母上は二十九日の晩に函館を去つて、一人、岩見沢の姉が許へ行つたといふ。それを見送つて帰つたのは夜の一時であつたさうな。残つたのは妻に妹に京子。ああ、その夜の二人の心! そして又北海の秋の夜汽車の老いたる母が心! 妻は是非東京で奮闘してくれと言つて、人数も少くなつた事なれば、アト一月や二月、郁雨君の厄介になるにも少しは心の荷が軽くなつたと言つて来た。予は泣きたかつた。然し涙が出なかつた!
 起きたがペンが無い。平野を訪ねたが留守。一枚あつた電車切符を利用して早稲田に藤條君を訪ね、歓待された。“血笑記”と一円と借りて二時過ぎに帰つた。原稿紙とインキとペンと買つて来た。
 筑紫から手紙と写真。目のつり上つた口の大きめな、美しくはない人だ。
 空が晴れ渡つて、日が落ちた。刻々に変る西空の夕影と、屋根の上から歩一歩空を這ふ夜の色! 八日の月が砲兵工廠の煙の上に光つてゐた。窓の前の狭い露台に仰臥して、空のたたずまひを見、市の轟きを聞くともなしに聞いてゐると、色々な事が切々に心に浮んでくる。読みかけてゐる血笑記の事、その恐ろしい光景、故郷、の事、――遂に家の事、汽車の中での母の心を考へ出すと、いつしか涙が湧いた。暮れわたる空は高い、高い。限りも涯もない悲哀が予の心を捉へた。金田一君が帰つて来た。予は驚いて立つて、そしてアンドレーエフの入神の筆について語り、且つ読んだ。“日露戦争の結果は、露西亜――大なる露西亜に於て此 Red laugh となつたが、小なる日本には何も残さぬ!”
 血笑記を読んで了つて、色々と物思ひに耽つてるうちに夜が更けた。源氏の“野分”の巻を読み乍ら寝た。

十月三日
 陰暦九月九日重陽の節句。
 俄かに思立つて千駄ヶ谷に行つた。主人は留守、印刷所に校正に行つたと言ふことで、晶子さんと栗を喰べ乍ら源氏の話などをした。十二時に帰つた。
 藤條から葉書、“対手を見付けなくちやならぬ”と書いてある。老を知るといふことにます悲しみがあらうか。若いといふ事は何よりの幸福だ。――返事を出した。
 吉井君が来た。筑紫の人の事で大笑ひ。さまざま羨ましがらせる事を聞かされて、四時、共に森氏の歌会へ行つた。途中から平野君も一緒。
 博士、佐々木君、伊藤君、平野君、吉井君、北原君、与謝野氏に予。外に太田正雄君(初めて逢つた)服部躬治君(同)伊藤左千夫君の弟子古泉千樫君。加古博士も八時頃から来られた。空前の盛会で、加古博士も此次から作るといふのと、信綱君が余程吾々に近い歌を作つたのは珍らしかつた。散会は十一時。
    ――――――――――――――――
 今朝出懸けに、四丁目の文明堂といふ本屋の店先で、野村長一君に逢つた。昔とは見違へる程肥つてゐたが、別に老けてはゐなかつた。

十月四日
 日曜日。
 明星百号に載せる写真を撮りに行かうといふので、昼飯がすむと、金田一君と二人で出かけた。九段の坂の佐藤といふ処で撮る。金田一君は腰かけて、予は立つて。
[写真メモ]写真番号九〇八八九段坂佐藤(番町三四一)
 それから、日比谷へ行つて、初めて公園の中を散歩した。人工の美も流石に悪くない。松本楼でビールを飲み乍ら晩餐をとつて、また散歩して、夕間暮、電車旅行をやらうぢやないかと築地浅草行といふのへ乗つた。四十分許り見知らぬ街を駛つて、浅草に着く。塔下苑を逍遥ふこと三十分。大勝館に活動写真を見て、また電車。大分疲れて餒じくなつてゐた。四丁目の藪でまたビールを飲んで蕎麦。例の天プラ屋の娘が淫売だと女中が話したので、金田一君少し顔色が悪かつた。帰つて来て寝たのは十一時。
 今日初めて、東京の日曜らしい日曜を経験した。

十月五日
 午後三時頃まで机に向つて、遂に想がまとまらず。
 吉井君が来た。日がくれてから、平野君を誘つて鈴本亭に義太夫をきく。かほるといふのが案外巧かつた。大切は朝重に昇菊、の酒屋。美人の顔を黙つて見てると、実に気持が可い。這麼時予の心は三様に働く。一つの心は、義太夫を聴いて味つてゐる。一つの心は、美しい顔を眺めて喜んでゐる。そして一つの心は、取留もない空想に耽つてゐる。

十月六日
“今日は六日ですね”と女中が言つたのでヒヤリとした。
“青地君”と云ふ題だけ書いて、十枚も紙をしくじつた。金田一君へ来た中央公論を持つて来て読む。小説五篇のうち、岡本霊華ののを除いて皆読んだ。風葉、秋声、青果、白鳥、皆うまい。皆うまいが、何れも左程傑出したものでもない。風葉の“世間師”が就中読ませる。近頃の作のうちで最も気に入つたものだ。
 夜になつて、明星が来た。巻頭に雑誌“昴”の予告、この広告文は予が書いてやつたのだ。巻頭吉井君の歌二百五十、案外に楽屋落、出鱈目が多い。平野のは流石に巧い。巧いが、余り辞の面白味といふことを重んじ過ぎてる歌がある。予のは百首許り、“虚白集”。
 春陽堂の後藤宙外氏から葉書、稿料暫時待つてくれと書いて来た!
 夜は明星を読んだ。

十月七日
 目をさまして小田島孤舟からの手紙を読む。十時に起きた為、今日は二食。
“青地君”を書き出した。寝るまでに七枚。曇つて、頭の重い日だが案外に筆が進んだ。
 一時頃、吉井君が太田正雄君をつれて来た。今年医科大学を卒業するのだつたが、試験におくれて一年のびたといふ。話は面白い人だ。学殖も浅くはないし、観察も一見識がある。並木君も来た。四時半、相ついで帰つて行つた。
 夜になつて雨が降り出した。

十月八日
“青地君”を十七枚目まで書いた。寝たのは三時頃。

十月九日
 新聞の海外電報は、欧州外交界の活気を伝へてゐる。墺国のボスニア、ヘルゼゴビイナ合併、勃牙利の独立宣言、クリート島の希臘合併宣言………列国会議が開かれねばならぬ事となつた。世界の視聴は今巴爾幹半島に注がれた。そして、そして、此活劇の脚色家は、独帝にあらずして誰だらう!
 吉野君から手紙、久振の長い手紙だ。天寧の林の中をわけもなく歩いて帰つて、酒をのみながら書くといふ。予はよく其寂寥を想像することが出来る。そして、枕の上で色々と此友の上を考へてみた。
 友は僕を羨ましいと書いた。予は予を羨んでる人もあるのかと思つて驚いた。ああ、一人は辺土に、一人は都に、何れも家族と別れてゐる! 幸か、不幸か、それは要するに人の考次第だ。悲しい朝であつた。
 渋民の伊五澤源太郎から問安のハガキ、与謝野氏からは写真催促のハガキ。
“青地君”二十一枚目まで書いた時、午後三時半、与謝野氏と平野君がやつて来た。明晩徹夜会開くことに話がきまる。与謝野氏は、今月の明星で予の歌が一番よいと言つて、五時頃に帰つた。予は平野君と共に鈴本亭に義太夫をきいた。今夜位真面目に聞いた事はない。小土佐は流石に巧かつた。朝重の鳴門、繊かな談振、情の機微を捉へて、人を泣かせる。美人の昇菊の存在も忘れて一心に聴いたものだ。明日の電車賃五十銭平野君からかりた。

十月十日
 十一時頃まで緩りと寝た。頭が矒乎としてゐる。せつ子から宝小学校へ入つてもよいかと言つて来た。京子は光子に看させて置いて代用教員になり、米炭の料を得んとするのだ。噫! 同意の旨を返事した。
 遠藤隆君から詳しい手紙、これは金を二十二日までに送れといふのだ。
 写真が来てから返事を出さないでゐるので、筑紫へ簡単な手紙を出した。
 夕刻千駄ヶ谷についた。平野、吉井、渡邊、間島の四君がモウ来てゐた。おくれて松原君も来た。予が戯れに書いて行つた、義太夫に擬した番付で大笑ひ。――それは、真打が与謝野氏、三味線茅野、晶子さんは小土佐の格で弾語り、吉井に江南、平野に栗山の三味、などだ。
 五十首といふことにして作り初める。

十一日
 眠くて眠くて、仕方がない。到頭暁近くなつて予は松原と共に少し寝た。朝になつて、漸々三十五首だけ。〆切つて清書して選、大分よい歌があつた。外の人は皆五十首づつ。皆済んだのは四時頃であつた。晶子氏から二円の小為替券貰つた。
 帰つて来るとき、電車が満員で五台許り見送つた。吉井が是非昇菊の顔を見なけりやならぬと云ふ。平野の処で夕飯をくつて、八時少し前、三人で鈴本亭に行つた。小土佐がやつてゐた。太田正雄君も来てゐた。小京の風邪声、イヤで、イヤで、そして眠い。朝重は、お俊伝兵衛、猿廻しの段、昇菊に京歌のつれ引、眠くて、眠くて、見台を叩く音にびつくりする、昇菊が素的に美しく見えた。見てゐると、段々遠くなつてゆく様に見える。ト、ドタンと見台を打つ音、びつくりして又昇菊の顔をみる。こんな事が何回か続いて、十時二十分にハネた。帰りは月がよかつた。
 写真が出来て来てゐた。予は立つて、金田一君が腰かけて。
 小樽の櫻庭ちか子さんから絵葉書。
    ――――――――――――――――
 今日新詩社へ毎日新聞にゐる栗原古城君(文学士)が来て、二週間後から毎日に掲げる小説(一回一円)の話、五六回分を二三日中に同君へ届ける約束が出来た。八分通りまでは成功しさうだといふ。そして、回数には制限がない。

十月十二日
 秋晴の日だ。八時半に起きた。モウ徹夜の疲れが癒つてゐる。与謝野氏へ写真を送つた。
 一寸出て、昨日の小為替を受取つて、Maupassant の短編集第六と兵子帯と、封筒などを買つて来た。今迄の兵子帯は、昨年の八月函館で買つたので、モウ目もあてられぬ程裂けてゐたのだ。
 何もせぬうちに昼飯になつた。斬髪し、入浴して来て、心地がよい。
    ――――――――――――――――
 札幌の田舎にゐる加地燧洋といふ男から、野口君死亡の誤報に関する問合せのハガキが新詩社あてに来てゐた。この人は、予が北門にゐた頃、師範の生徒であつたが、若い不平で退学して北門の校正になつた(予のアト)。何処か斯う横柄な、そのくせ余り賢くもない男だつたが、宿がないといふので、予のゐた田中へ世話しておいて来た。その後小国君から聞くと、社でも人に愛せられぬと聞いたが、北門が休刊になつて、遂々白石村の代用教員になつたといふ。一度釧路へ手紙よこしたことがあつたつけ。アト一年学校に辛抱して居ればよかつたのに! と思ふと、予は予自身の事についての友人の思惑などが思浮べられて可笑しい気もする。
 加地君は埋れるであらう。然し僕自身は埋れてはならぬ。!!!
    ――――――――――――――――
 徹夜したあと、の気持といふものは面白いものだ。何だかかう頭の中に、不断と別な何物かが入つてゐる様で、ボンヤリした、ウツトリした、可い気持もある。そして平生よりももつと瞭乎と物の見えることもあり、かと思ふと、四辺の物が総て平生より遠く見え、一切の見聞が、自分と一向関係のない処での出来事の様に思へる。眠くなると、たまらなく眠くなるが、何かの拍子にふつと其眠さが忘れられる。かと思ふと又眠くなる………そして、一旦寝たら、最後、殆んど昏睡の様な深い眠りに落る。翌日は、妙に口の中がスツキリしない。唇の皮が荒れてゐる。そして、腹が悪い。時々便気を催すが、少しか出ない。此日に限つて、何の故か知らぬが、自分の顔が美しく見える。――――書きおとしたが、まだ眠らぬうちには、時として、少し歩くと耳が内から塞いだ様になつて、自分の話も人の声の様に聞えたり、人の言葉が、遠くで言つてる様に聞えたりすることがある。
    ――――――――――――――――
 昨日午後三時頃、三十くらいの、肥つた、うす髯の生えた男が訪ねて来たといふ。多分小泉君かと思ふ。
    ――――――――――――――――
 和歌! 今のところ、この二三月来の活動のため、一寸行きづまりの形になつて来た。吉井君は思想の皆無な人だ。だから其象徴的なうたは一向つまらぬ。且つ何日でも同じ語許り使ふので、モウ予は面白いと思ふのが少くなつた。但し、時としては、此人でなけや歌へぬといふ天才的の詠口をする。平野君は巧い。実にうまい。予は此人の歌には羨ましいと思ふのがある。晶子さんに至つては全くの歌人だ。

十月十三日
 旧稿、“静子の悲”を取出してみたが、我ながら面白くない。誇張してゐる。幼稚である。全体の趣向もずつと変へ、複雑にし、深くして、そして稿を改めることにした。サ、さうすると、適当な題がない。昨夜一晩で、“鳥の骸”としておいたが、それも面白くない。色々悩んだ末に、“鳥影”とすることにした。
 それで一日は了つた。夜になつてから筆をとつて、二時頃までに(一)の一と二、二回分脱稿した。

十月十四日
 眠いところを九時に起きて、栗原君を訪ねると、途中で逢つた。それで、持つて行つた昨夜書いた分だけを渡して来た。何だかよささうな口吻であつた。
 終日“鳥影”について想をめぐらした。
 夜、久振で金矢光一君が来た。実は少しハツとした。それは外ではない。今書てゐる“鳥影”は、この金矢君の家をモデルにしてあるからだ。最も、人物その儘とつたのではなく、事件も空想だが………七郎君と、光一君の母だけは、然し大分その儘書かれる。
 色々と故郷の事を故郷の言葉で話して、案外に嬉しかつた。そして、自分のまだ小供だと思つてる村の娘子などが、モウ十七八の可加減な年頃になつたと聞いて、帰思湧くが如くに起つた。ああ、故郷も日に日に変つてゆくのだ。
 平野君が一寸来て帰つた。義太夫に誘ひに来たのだが。
 金矢君と十一時まで話した。そして此間までこの男の泊つてゐた坂牛家の娘さんの話をきいた。
 一時頃までに“鳥影”(一)の三をかいた。

十月十五日
 午後に十二番の室にゐる医科卒業生増田といふに刺を通じて、二時間許りも赤痢病に関して訊ねた。これは“鳥影”に書くための準備だ。
 この日、夜の十二時までに、(一)の三から五迄((一)終)書いて、明朝出させることにして、栗原君宛に封じて寝た。

十月十六日
 朝、釧路の鈴木から金の催促の手紙、イマイマしくなつて起きた。その為か、終日考へて煙草を喫んで許り暮した。ただ、貸本屋が来たので風葉の“恋ざめ”をかりて読了した。文章の美しいことは、殆んど比べるものもない絢爛な筆だが、中年の恋(所謂)をかいたものとしては、何となく不満足なところがないでもない。然しうまいものだ。実にうまいものだ。今の所か程の文章家はあるまい。

十月十七日
(二)の一から二の半迄書いた。
 昨日栗原君から、“鳥影”多分頂戴する様になるだらうといふ葉書。
 午後三時頃、フト思立つて千駄ヶ谷に行つた。栗山君が来てゐた。昨夜金尾文淵堂が来て、“昴”を引受けることに定つたといふ。そして、僕のかいた広告文が気に入つたからと言つてゐたと晶子さんが話した。バイブルを借りて五時帰る。
 と、藤岡玉骨(長和)といふ、新詩社の社友で今大学の政治科にゐる男が初めて訊ねて来た。大和の雑誌“敷嶌”へ正月号の原稿くれることに約束した。
 イヤな顔な男だつた。それで九時頃に帰つてからも興が乗らずにしまつた。
 神嘗祭だつた為か、電車には美人が乗つてゐた。
 外出してみると、矢張時々外出しなくちやいけないと思ふ、が、家にゐると、外出するのが憶劫だ、憶劫といふも少し過ぎるが、出ようと思はぬ。

十月十八日
 日曜日。昼餐は金田一君と共に。
 今日米国の廻航艦隊が横浜に入港するのだ。これからの一週間は、東京も賑かだらう! 然しそれが自分と何の関係がある………何かしら侘しい様な感じがする。
 午少し過ぎ、間島琴山君が来て一時間半許りゐて帰つた。
 ズツト前に送つておいた“空中書”昨日までに日報に載つた。
 貸本屋が来たので、“独歩集第二”をかりて読む。うまい!
 夜、(二)の一と二を持つて栗原君を訪問、二三日中に島田社長に逢つて確定するといふ。九時半まで話して、ダヌンチオの The Victim を借りて帰つた。

十月十九日
 十時頃起きると並木君が来た。昨日のボートレースに敗けたといつて残念がつてゐた。一緒に昼飯を喰つて、文部省の美術展覧会を見に上野へ行つた。櫻の葉が少し散つてゐる。日本画の方はソコソコに済して、竹の台の洋画の方へ行つた。出品百余点。二三氏のものを除いてはまだまだ日本の画会も幼稚なもの。石川寅治氏のもの三点、みなすがすがしい光線をかいてる技巧上の手腕には感服した。“金魚”といふのが美しかつた。三宅氏などのは、画として欠点はないかもしれぬが、千遍一律で平板だ。最後の室にゆくと、鹿子木孟郎氏の大作“ノルマンデーの浜辺”、よく海岸の淋しさが表はれてゐた。満谷国四郎氏の“車夫の家族”、これは布局から色彩から光線の具合から、無論殆んど非難のない、所謂画家の見ての名画であらうが、何故か予などは些ともアトラクトされない。さて大評判の和田三造氏の“煒燻”、何といはうかこの猛烈な色、見てゐると、何か知ら崇厳な生活の圧迫が頭を圧する………
 この画の前を去りかねてゐると、僕らの背後に一人の二十才少し上の、稍背の高い、肉置のゆたかな女が立つてゐた。これは入場した時から僕らと前後して歩いてゐたのだ。マガレツトに幅広の白いリボンを結んで、衣服は何とやらいふお召の羽織に黒い縫紋。女中を一人つれてゐたが、画の見方で怎うやら素人でなかつた。
 所へ一人の中背の、やせた、余り風采の揚らぬ、鼠の中折を被つた三十二三の人が来て、此女と挨拶した。そして女が、
“随分思切つた色をおつかひでござンしたねえ!”
“駄目です。”とその人が強く言つた。“思切つて書いたつもりでしたけれど、此処へ持つて来てみると、まるで駄目です。”
“そんな事はございません。私なんかモウ此処から離れたくない様で………”
“自分の画の前に立つてゐると、何だか変ですね。”と言つて軽く笑つたその様子には、妙に恁う小供らしい表情があつた。誰あらう、これがこの天才和田氏でなくて?
 と、その女は、
“鹿子木さんも大分大きいものをお出しでござんしたねえ。”
と、パタパタ唇をたたいてゐたプログラムで、横の方にある“ノルマンデーの海辺”を指して言ふ。
“え。パンを食つて書いたのは違ひます。”
 この語は、異様に強い響きがあつた。予は妙に憧がれる様な気持で、この人を見た。蓋し鹿子木氏は洋行して来たが、和田氏はまだ行かぬのだ!
 和田氏の姿はやがて見えなくなつた。女は室から室と、繰返して見てあるいてゐた。そのうちに僕らが出て了つた。後からその女も出て来て、日本画の方へ行つた。その後姿を茶店のベンチの上から見送つて、屹度女画家であらうと僕は思つた。
 彫刻の方では、特別室は見かねたが、荻原守衛氏の“文覚”には目を睜つた。この豪壮な筋肉の中には、文覚以上の力と血が充満してゐさうだ。
    ――――――――――――――――
 竹の台のあちこち、通訳をつれた米艦水兵が、三々五々、遊んでゐた。
 四時頃、並木君と別れて来て、大学の構内で原達君に逢つた。
    ――――――――――――――――
 交友の少いといふこと、実社会と接触しないといふこと、甚だ不利益だとは自分で知つてゐる。それで何故予はこの三畳半から出ないのだらう?

十月二十日
 明星へやらうと思つて、長篇“夜”のその一節“塵の悲み”を書いてると与謝野氏から原稿催促のはがき、明朝までには間に合はないので、旧作長詩“わが少女は”“八月のなやみ”の二つへ、“おどろき”一篇を新たに書き足して夕方に投函さした。
 朝に小樽の高田紅果から手紙が来た。境遇上志す処に進みえぬ可哀相な、そして有望な青年だ。
 貸本屋が来たので、秋声の“凋落”と独歩の“濤声”を借りた。そして夜三時までに“濤声”をよんで了ひ、深く独歩の思想を味つた。“凋落”半分よんで眠つた。壱時頃侵入者があつた。

十月二十一日
 秋声の“凋落”を読み了へた。印象は灰色の重き圧迫! この作者は非常に苦心してゐる。が、技巧にはまだまだ足らぬ所がある。世評はこの人の苦心に酬ゐてゐない!
 夜また独歩の“濤声”をくり返して、涙が出た。そして金田一君の室へ行つて二時間許り語つた。――今の予には何かは知らぬが力がある。希望がある。そして金田一君も國學院大學の講師になつた。

十月二十二日
 朝枕の上に清岡等氏からの懇篤なる手紙を見た。
 昨日は一日曇つた、雨の時々降る日であつたが、今朝もまだ降つてゐた。それが午後になるとカラリと晴れ渡つて、袷には暖か過ぎる程の西日がまともに射した。
 貸本屋から風葉の“天才”を借りて読み了へた。前篇だけではあるが、うまい。これは、前の“恋ざめ”がその文章に絢爛を極めたに比して、別人の作と見ゆるまでツヤを消した文章だ。そして作者自身は第二の処女作といつてゐる。
 突出しに仰向になつて夕空を見てると平野君が来た。そこへ金田一君も帰つて来て、八時半まで三人で言葉の話をした。それから義太夫の話。
 平野君が帰つてから、金田一君と二人で散歩に出かけて、生れて初めて花電車を見た。その時駆足をして四丁目へ行つたのだ。それから、恰度薬師の縁日だつたので、活動写真を見(一寸法師がゐた。)藪でそばを喰つて帰つた。そばを喰ひ乍ら尺八と胡弓の追分をきいた。

十月二十三日
 よく晴れた日。今日米艦隊の提督スペリーが公式に退京するさうな。
 枕の上で菅原芳子の歌信と、新渡戸仙岳氏の中尊寺の印をおした葉書――これは天長節の日報へ原稿を依頼して来たのだ。
 筑紫へすぐ返事を認めた。そして写真と共に出す。
 朝、堀合君へ電話かけたが留守、平出君も留守。十一時少し前千駄ヶ谷の晶子さんから電話、吉井が来てゐて歌をつくるから来いといふのですぐ出懸けて行つた。再昨夜出した筈の原稿がまだ着かぬといふ。
 夕方までに三十五首作つた。平野君もその頃来た。一人六時頃に辞して帰りを平出君に寄つたが留守。
 帰つて来て平出君に手紙出した。十時まで金田一君と語つた。十一時頃に一寸出ておでんを喰つて来た。

十月二十四日
 午前中に明星へ改めて原稿をかいて送つた。先に書いたつた詩三篇と歌六十首。
 此朝にせつ子から葉書。宝小学校の方十六日付で辞令が下つて、十九日から出勤してゐると。三給上俸といふと、予が弥生にゐた時と同じ十二円だ。せつ子に恁麼事をさせる! それはそれとして、予はホツと一息ついた。家族は先づ以て来春まではあまり郁雨君の補助も仰がずに喰つてゆける。
 そして光子も来月から何とか云ふ外国人の家庭教師になることに話がきまつたので、京子を守するために月末までに岩見沢へ行つてゐる母を呼ぶと。
 貸本屋が来たので、天外の“コブシ”前篇とトルストイ短篇集を置いてやつて、夜の八時までに読了した。
 夕刻平出君を訪ねたが、不在だつた。そして駄目だと思つて帰つて来た。

十月二十五日
 日曜日。岩手日報へ“日曜通信”の第一を書いて送つた。それを出し乍ら堀合由巳君を訪ねて見た。不得要領な顔をして不得要領な話をしてゐる。面白くない話も、客観的に観察し乍らしてると面白い。色情的犯罪論といふ本をかりて来て読んで了つた。随分ひどい本であるが、益をえた事も少くない。その参考になることを抄録した。
 暑い暑い日であつた。

十月二十六日
 今日はよい日であつた。午前に栗原君から葉書。“鳥影”を島田社長と合議の上貰ふことに確定したと言つて来た。
 それから午後に思がけない絵ハガキが来た。それはしやも虎小奴の写真――そして差出人は坪仁乃ち写真の主。――“その後の御様子お知らせ下され度願上候”とだけ! 赤心館になつて来たのが廻送されたのだ。何処から聞いたらう?
 清岡、新渡戸、櫻庭及び郁雨正二君とせつ子とへ葉書――毎日社の小説きまつた事を知らしてやつた。
 栗原から借りて来た Victim を興深く読んでると、久振に吉井君が来た。そして新詩社内宛に来た八重樫勇吉君――盛岡中学にゐた人、今は韓国木浦にゐる――からの厚い手紙を持つて来てくれた。なつかしかつた。
 モウ日がくれてゐた。散歩しようと二人で出かけて、浅草へ行つた。ロンドン大火のキネオラマは面白かつた。それから例の提灯の小路を歩いたが、吉井君のお蔭で知らなかつた辺まで見た。中店で汁粉を喰つて帰つた。九時半
 吉井君は観音堂へ旧幕時代の吉原帰りが雨に逢つて駆け上る一幕物を作りたいと言つてゐた。
    ――――――――――――――――
 今日貸本屋――“コブシ”の中と後と二篇、午前四時までかかつて床の中で読んで了つた。天外はうまい。何がうまいかといふに新聞物がうまい。人生を書くのでなく芝居をかく事がうまい。そして之は遂に新聞小説である!
 そして予の今度ののも、また新聞小説である! 仕方がない!
    ――――――――――――――――
 栗原君へハガキ出しておいた。

十月二十七日
 夕方に来てくれと栗原君からハガキ。
 起きたのは十一時半、“鳥影”の二の三を書くと日がくれた。そして栗原君を訪ねて八時に帰つた。稿料は一円に決定、そして昨日言つてやつた前借は駄目であつた。イーツやメレヂスの話。
 金田一君と語つた。――無思想にして、空想の人、そして空想を語る人、誇張――よくない事を特に――して吹聴する人と、予は吉井君を評した。そして、人間は自己にある欠点を他に認めて、そして自己にあることを自認した時。その欠点をヒドク憎むものだとつけ加へた。
 それから劇の事を語つた。――

十月二十八日
 まだ中学にゐた頃らしい。夏の休みで家――渋民の寺――にかへると、南向の椽側にゐた母が、裏の林檎の一番上に林檎が二つ赤くなつてるから、取つて喰べろと言つた。すると妹が先に立つて駆け出した。予は小倉服――上は黒、下は白――を着てゐて、竿を見付け出して駆け出さうとすると………女中が障子を明けたので目をさました。それから二時間も枕の上で渋民の事、主にアノ寺にゐた時の事を考へて、十一時近くに起きた。
 栗原君から、予告文(鳥影)をかいてくれといふハガキ。吉野君から北海の秋既に老ふといふハガキ、遠藤から催促のハガキ。
 一時頃主婦を呼んで下宿料を待つて貰ふ談判、うまく成功。
 並木君が来て四時頃まで語つた。別に珍しい話もない。
 貸本屋が来て、“沈鐘”をおいて行つた。

十月二十九日
 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持つて来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた。

十月三十日
 朝飯を十時頃にすまして、戸塚村に小栗風葉氏を訪ねたが、運悪く不在。俥の上で小澤恒一君のことなど考へた。
 千駄ヶ谷に行つて晶子さんに色々話して二時半頃かへつてくると、与謝野氏に逢つて又戻つた。そして晩餐を御馳走になつた。
 新たに帰朝した上田敏氏を訪ねた。与謝野氏の伝言を伝へて一時間半許りも話した。少し頭の毛がうすくなつてゐる。そして、盛んに日本文学者がプライドを失つてゐると気焔を吐かれた。
 八時頃平野君に途中で逢つて帰り、十時まで語つた。そして昴の一号へ出す小説の題を“泥濘”とした。
 妙に昂奮してゐて、金田一君の室へ行つて気焔を吐いた。

十月三十一日
 早起。終日の雨。寒暖計は五十一度に下つた。綿入を着て猶寒い。
 貸本屋から借りて、二葉亭訳の“浮草”をよんだ。風葉の青春がこれからヒントをえたものであらう。
 約の如く夜雨を犯して千駄ヶ谷にゆき、五円貰つた。帰りに仏語の独修書をかつて来た。
 筑紫からたより。温かい歌が書いてある。寝てから、床の上で釧路の坪仁子へ別れてから初めての手紙かいた。
 この日の東京毎日に、“鳥影”の予告文が載つた。

    霜 月

十一月一日
 予の生活は今日から多少の新しい色を帯びた。それは外でもない。予の小説“鳥影”が東京毎日新聞へ今日から掲載された。朝、女中が新聞を室へ入れて行つた音がすると、予はハツと目がさめた。そして不取敢手にとつて、眠い目をこすり乍ら、自分の書いたのを読んで見た。題は初号活字を使つてあつて、そして、挿画がある。――静子が二人の小妹をつれて、兄の信吾を好摩のステーシヨンへ迎ひに出た所。
 一葉は切抜いて貼つておく事にし、一葉は節子へ、一葉はせつ子の母及び妹共へ送ることにした。
 起きて、また新聞を見乍ら飯を食つた。そして、昨夜与謝野氏から貰つて来た五円を持つて出かけて、足袋や紙やと共に、大型の厚い坐布団を二枚買つて来た。今迄夏物のうすくなつたのを布いてゐたつたのだ!
 貸本屋から白鳥君の“何処へ”。
 夜、なんといふこともなく心がさびしくて、人の多勢ゐる所へ行きたくなつた。そして八時頃にふらりと出かけて。四丁目から電車で浅草に行つた。電車の中に、口と鼻が、節子に似た女がゐた。
 日曜だから非常な人出であつた。予は先づ、富士館といふへ入つて、息苦しい程人いきれのする中で活動写真を見た。そこを出て、見世物小屋の前を池の横へ行くと、十四位の美しい衣服をきた半玉が、四辺を恥かし気に見廻し乍ら、十許りの、見すぼらしい装をした妹(?)に煮た豆を買つてくれてゐた。予は、一葉の或小説を読んだ時の様な、言ひ難い哀愁の楽みを覚えて、其二人の後姿を人なだれの中から見た。それから、小暗い処には、声の枯れた男が、追分をうたひ、尺八を吹いてゐた。その廻りに十人許りの人が立つてゐた。それから、一人の巡査が、若い女の後姿を恍乎眺めて人込の中に立つてゐた。
 足はいつしか塔下苑に進んだ。……… O-mi-tsu-san !………妙な気持であるいてゐると、一人の男が後から来て突当つた。後で気がついたが、此時予は、七十銭を引いて四十銭五厘と実印と入つてゐる財布をすられたのだ。此夜の出来事は、“鳥影”が新聞に出初めたと共に、予にとつて生れて初めての経験であつた。………歩いて帰らねばならぬかと思つた時、予は異様な沈着いた悲みと決心を覚えて、足が軽くなつた。然し田原町へ来て電車を見ると、歩くのが急につまらなくなつて、辻俥に乗つて帰つて、宿に払はした。

十一月二日
 終日ペンを執つて、(二)の三を書改めた。そして遂に満足することが出来なかつた。全篇の順序を詳しく立てて見ようとした。遂に纏まらなかつた。夜の九時頃には、後脳が痛んで来て、頚窩の筋が張つた。
 十時頃になつて金田一が帰つて来た。色々話した。話してるうちに少し頭が軽くなつた。そして、昨夜のことを詳しく話した。一時半に寝た。
 この日、清岡氏から病気全快の報知があつた。
 この日の苦悶は、予をして何故に小説を書くかを疑はしめた!

天長節
 朝に、貸本屋から藤村の“春”を借りた。
 昼頃に少し雨が降つたが、すぐ晴れた。金田一君と二人で上野の文部省展覧会へ行つた。途中で赤心館の主人夫妻の博物館へ行くといふのに逢つて、団子坂の菊の噂をした。ポカンとした主人と、気短な猫みたいな妻君と並んで行く様は面白かつた。
 洋画の方では、予期の如く和田三造氏の“煒燻”と吉田博氏の“雨後の夕”が第二賞を得てゐた。さて、日本画館の中で、晶子さんと其子らに逢つた。薄小豆地の縮緬の羽織がモウ大分古い――予は晶子さんにそれ一枚しかないことを知つてゐた。――そして襟の汚れの見える衣服を着てゐた。満都の子女が装をこらして集つた公苑の、画堂の中の人の中で、この当代一の女詩人を発見した時、予は言ふべからざる感慨にうたれた。
 館を出で来て与謝野氏に逢つた。石段の下で別れて、予らは帰つて来た。
 釧路の遠藤からまた葉書。返事を認めた。
 そして“春”を読んだ――
 小説の上の一切の旧き技巧を捨てて、新意ある描写に努力した作者の熱心は、予を驚かしめた。その努力は不幸にして、この作に於てはまだ効を見せなかつた。――が、一派の人のこの作を全部失敗とするは誤つてゐる。そして、藤村氏の将来を軽蔑するは更に大に間違つてゐる。――予は藤村氏に与ふる手紙を書いた。
 その中で、書中に豆金糖とあるは豆銀糖の誤りであることを書いた。
 二時に寝た。

十一月四日
 終日執筆、(二)の四、五の両回完成。何となき満足をおぼへた。
 午後荒木龍政といふ人が初めて訪ねて来た。死んだ久米井君の友人で、そして新詩社の社友。落合直文氏の先妻が発狂して離縁になつたこと、そして今猶生きてゐることを初めてきいた。そしてその腹から生れた長男が、多少狂的の人だといふ。又、王子の精神病院にゐる宮崎某といふ狂人の話をきいて、多少参考になつた。
 七時頃平野君が来て三十分許りたのしく話して帰つた。昴の三月号を短歌特別号にしようといふ話があつた。
 森氏から歌会の案内。――この葉書はいつでも鴎外氏の母堂がお書きになるさうな。
 夜、金田一君と小説についての話をした。
 与謝野氏も平野君も吉井君も、つい此頃まで、小説は書かうと思はぬと言つてゐた。それが此頃皆書かうと言ひ出して来た。

十一月五日
 十時頃に起きて、今日初めて十一月になつたといふことを痛切に感じた。“鳥影”(二)の三、四、五、送る。
 そこへ吉井君が新しい衣服をきて来た。下には巴里で拵へたとかいふ支那人の服みたいな妙なものを着てゐた。
 吉井君は近頃痔だといふ。その痔よりも悪い病気が一つある。それは心にもない謙遜をすることだ。これは、少しく自分の小さいことを感じて、それを例の誇大して言ふのだらう。下剤を用ゐてゐるとか言つて、昼飯の時は卵だけとつた。二時頃に帰つて行つた。
 盛岡から“春潮”が来た。
 貸本の秋声作“多数者”を読了して、虚子作“鶏頭”をよんでると、六時頃、珍らしくも太田正雄君がやつて来た。九時半まで快談――然り、快談した。予は恐らく此人と親しくなることであらう。
 太田君の性格は、予と全く反対だと言ふことが出来ると思ふ。そして、此、矛盾に満ちた、常に放たれむとして放たれかねてゐる人の、深い煩悶と苦痛と不安とは、予をして深い興味を覚えしめた。――少くとも、今迄の予の友人中に類のなかつた人間だ。
 大きくなくて、偉い人――若しかういふ人間がありうるとすれば、それは太田君の如きも其一人であらう。――少くとも予にとつては最も興味ある人間だ。――病的? 然り。然し乍ら、これは実に深い意味のある病的だ!
 が、自省してみると、予は今夜太田君と語るを喜んだのは、その心の底に、興味ある新問題に答へることを喜ぶ――その作家――人生研究者としての冷静が潜んでゐた。そして話してるうちに、太田君がよく自分の心をも解る人だと感じた。――結局、太田君は凡人ではない。
 太田君が帰るのを玄関に送つて、室に帰つて窓をあけた。十二三日頃の月が天心に冴えてゐて、その光の輝いた家々の屋根の色が、釧路――雪を思出させた。

十一月六日
 今日“明星”終刊号の発送するから、暇なら手助つてくれぬかといふ与謝野氏の葉書があつたので、八時半頃から小川町の明治書院に行つた。程なくして与謝野氏も来た。
 あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして予自身もその戦士の一人として、与謝野氏が社会と戦つた明星は、遂に今日を以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠つてゐる。
 予と、千駄ヶ谷の女中と、書院の小僧と三人で包装を初めた。与謝野氏は俥で各本屋へ雑誌を配りに行つた。十二時を打つと平野君も来た。予は糸をかけるに急いで左の手の小指を擦傷した。平野君は切手を貼る時、誤つて一枚上顎へ喰付けて、口を大きく開いて指を入れた。眼鏡の下で眼が白かつた。
 三時頃になつて済んだ。ハラハラと雨が降り出したので平野君と二人電車で帰つた。与謝野氏は十五日頃に母堂の墓参をかねて京都に旅すると言つてゐた。
 四丁目で降りると、雨、平野君は駆け出したが、予は度胸を据ゑて、そろそろ歩いた。お蔭でスツカリ濡れた。
 この終刊号には予らの写真が載つてゐる。
(欄外に)朝せつ子より手紙。盛岡の新山堂へ手紙久振に出した。

十一月七日
 朝早く起きたが原稿紙が足らないので、九時に平野君へ行つて一円借りた。今起きたと言つて、まだ食事もせずにゐた。そしてパンを食ひ乍ら話した。昨夜口語詩を罵倒する一文を書いたと言つてゐた。
 辞して出ると、肩を叩く人がある。それは原達君であつた。
 増田君の室に行つて、この人が高等学校二年の二月に自殺しようとした話や、溺死人手当の事などきいた。十二時に室へ帰つて、(三)の一を八行書くと吉井君が来た。今日は森先生の歌会なので、誘ひ旁々遊びに来たのだ。
 持つて来たその脚本第一作“午后三時”を読む。死の襲来を象徴的に書いたもので、マアテルリンクの“サイトレス”や其他からヒントを得た所もあり、所々幼稚な空想も交つてゐるが、全体を通じての動作と場面の統一がよく計られてゐる。――予想よりよく出来てゐる。充分苦心してもあり、其の苦心が功を奏してもある。
 それを読んでる所へ間嶋琴山君が、ビスケツトを新聞に包んで来た。そして、四五人分の歌の添刪を頼まれた。
 五時、行かうか行くまいかと言つた末、吉井君と予とは、千駄木に向つた。――これ前に、晶子さんを男でもない女でもない。それかと言つて第三性でもない。第四性位の所だらうといふ話が出た。
 佐々木、与謝野、伊藤、千樫、北原、平野、平出の諸氏が既に集つてゐた。主人博士を合せて十人。
 第一回、第二回の運座、共に予は高点であつた。随分、解き様によつては大胆な歌もあつた。そしてそれは大抵与謝野氏ののであつた。
 伊藤君が、今日の歌には巫山戯たのがあると憤慨した。平野君がそれを駁した。与謝野氏は傍から、伊藤君は初め僕らに無邪気の趣味がないと言つた事があるが、今日では、僕らは伊藤君を学んでそれ以上に巧くなつたのだと揶揄した。
 佐々木君の歌には、大胆に新詩社風(?)なのがあつた。“今夜は佐々木さんの放れ業を拝見した”と与謝野氏だつたか森氏だつたか言ふと、“左様じやありませんが、会の時は矢張可成選ばれる歌を作つた方がようござんすからな”と言つた。皆この告白に笑はされた。
 十時少し前に済んで帰つた。
    ――――――――――――――――
 吉井君が来てゐる時、貸本屋が来たので、何気なしに徳川時代の木版本“こころの竹”三冊をかりた。著者の名は女好庵主人とあるが、春水の別号なさうで、それはそれは驚くべきほど情事を露骨にかいたものであつた。
 Hitachiya. Masako ―――――― Tatsumiya mine. 856. Senzoku-cho 2 chome.

十一月八日
 日曜日。並木君に起された。話をしながら(三)の一を書いて送つた。並木君は“心の竹”をよんで、大分そそられてゐた。
 並木君は四時半に帰つた。金田一君から、質をうけるの五円頼まれた。
 七時頃に並木君と二人、活動写真を見てゐた。そこから出て散歩(?)した。一人帰つたのは十二時過る五分。
 並木君は、“I dont like to make the second page”と言つた。予は然し信じなかつた。

十一月九日
(三)の二書いて送る。
 午后二時頃神楽町に北原君を訪ふと留守、牛込見附から靖国社のわき、駿河台下まで歩いた。十七位の女が始終並んであるいた。――電車で返つて金田一君の質をうけ、予の羽織の利上げをして帰つた。
 昨夜のことを時々思出した。
 夕刻栗原君を訪ふと留守。帰つて間もなく同君が訪ねて来た。一円紙代借りた。明日また四円の約。
 結婚といふことについて話した。栗原君は親切な人である。予の“鳥影”脱稿の後は、出版する書肆を見つけようと言つてゐた。
 朝に新聞を見るのが、楽しみである。今日はもう第九回である。

十一月十日
 昼頃太田君が来て一時間許り話した。不可思議国の話――この人の意見では、人は何らかの不可思議国がなくては満足されぬ。中古の人は悔といふことに非常なチヤームを見出して基督教が全盛を極めた。――ゲーテは伊太利を不可思議国とした。――そして現代人が平凡な日常事の文学で満足する様になつたのは、今の社会があまり複雑で広くて、とても全体が見渡されぬ。だから、現代人には現代の社会その物が不可思議国なのだ――といふ。
(三)の三を書送る。
 夕方栗原君を訪ねると、留守だつたが手紙に入れて四円貸してくれた。これは毎日社から月末にとれるのから差引くのだ。肌着を九十銭に買つてきた。
 八時半頃に遂々出かけた。寒さに肌が粟立つ夜であつた。浅草にも遊び人が少なかつた。苑中は不景気、従つて随分乱暴に袖をひく。
 Kiyoko は金の入歯をした、笑くぼのある女であつた。Masako は風邪気味だと言つて、即効紙を額にはつてゐた。――
 妙に肌寒い心地で十二時に帰つた。
 モウ行かぬ。

十一月十一日
 十二時半に小泉君が来た。久振であつた。今度二六に入つたといふ。
 麦酒をのまして談つた。佐藤と梅川は案の如く一緒になつてゐるさうな。その事について詳しくきいた。――一昨日佐藤は母を送つて郷里へ帰つたといふ。予は彼は再び梅川と一緒にならぬであらうと直覚した。
 梅川を訪問して見ようかと思つたが、思返してやめた。(四)の一を書いて送つた。

十一月十二日
 荒木龍政君から橿原神苑の絵ハガキ。
(四)の二、三を書いて送つた。
 夕方一寸吉井君。来年の四月は屹度死ぬ様な気がして仕様がない。此頃は人の病気、新聞の死亡広告など許り目につくなどと言ふ。無論それは詐りである。皆偽りである。些とも内心にそんな事を考へてもゐないで、口先で考へる。――這麼事が嘗て予自身にも多少あつた。悪い事だ、イヤな事だ。そして憐れな事だ。
 夜、“哄笑”といふのを書かうと思つて、太田は警鐘、吉井は風船、北原は色硝子、平野は埋火といふ綽号をつけた。

十一月十三日
“哄笑”を三枚許り書いた所へ、太田君から電話、平野君を誘つて白山御殿の寓を訪ねた。吉井君も来た。
 何の事はなく、予は近頃吉井が憐れでならぬ。それは吉井現在の欠点――何の思想も確信もなく、漫然たる自惚と空想とだけあつて、そして時々現実暴露の痛手が疼く――それを自分自身に偽らうとして、所謂口先の思想を出鱈目に言つて快をとる――それが嘗て自分にもあつたからであるかも知れぬ。又、比較的自分が話して快い太田君などを得たからかも知れぬ。兎に角吉井君の心境がイヤだ、可哀相だ。
“不可思議国は近づけり、悔改めよ。”と予が笑ひ乍ら言つた。
“然うだ!”と太田君が手を打つた。その顔は真面目であつた。そして、
“無解決に限るよ。”と言つた。アノ隼の様な眼が光つた。
“然うだ。限る!”と今度は予が答へた。
 その時平野君は微笑んでゐた。吉井は消極的な驕り方の笑ひを顔に浮べて、莨をのんでゐた。
 テンプラで夕飯をくつて、九時頃に帰つて来た。
    ――――――――――――――――
 本屋の店に新刊の“梁川書簡集”があつた。見ると予に与へられたのも四通か出てゐた。それは故人の令弟建部氏から言つて来て、小樽から送つたもの!
    ――――――――――――――――
 遠藤から手紙が来てゐた。
 頭が亢奮してゐた。金田一君の室で暫く話した。

十一月十四日
(四)の四、書き送る。
 仙台にゐる小林茂雄君からハガキ二枚。藤條から絵ハガキ。
 夕方藤岡玉骨が来た。今日は大学の運動会。夕飯をくつて九時頃まで話した。“あこがれ”を一冊見つけて来てくれた。“鳥影”を一冊にした時送る約束をした。
 天理教の話が興をひいた。天理教には、多少、共産的な傾向がある。もしこれに社会の新理想を結付けることが出来たら面白からう。
“解剖図”外一つ(天理教)の想をえた。

十一月十五日
 豊後臼杵なる平山良子といふ女――芳子の友――から手紙、御光会の詠草を直してくれと言つて送つて来た。二十四になる独身の女だと。
 風邪の気味。(四)の五、歌留多会のところ。
 夜、凩の様な風が吹いて、侘しい淋しい! 金田一君の室で暫く語つた。
 夜ふけて、御光会の詠草をなほし、はがきと共に帰した。

十一月十六日
 盛岡なるふきさんから手紙。
“連想”と題する短篇七枚許りかいた。並木君が来た。金の相談をしたが駄目であつた。四時帰る。
 予は近頃、今までは平気で話してゐた人達と、日一日に間隔が出来てくることを感ずる。それは別に何の理由もない。これらの人達の心が見えすいて、そのために憐む様な気持になるのだ。多少苦痛を感ずる。
 貸本屋が来たので、“おぼろ月”を返した。
 夜、(四)の六。それから歌二十五首心の花の佐々木氏へ送つた。
 平野栗山二君が来た。十時頃帰つた。
 寝ぐるしかつた。少し熱があるのと鼻のつまつたので。枕の上で二時をきいた。

十一月十七日
 十時頃起床、世光社の人見東明君から手紙、“新天地”へ歌をくれろといふのだ。其承諾の返事と、晶子さん吉井君へ葉書。
 昼飯を食ふと人見君がやつて来た。初対面。背は高い方、色は黒い方、鼻下に髯を蓄へた、其人相、其言語、共に多角的な人なるを証明してゐる。野口君の事などを語つて一時間許りたつと帰つた。
 間もなく吉井君が来た。風邪の気味のところで、余り快くなかつた。話してる所へ太田君。金田一君も来合せて話は盛へた。
 近き過去に於て清国宮廷に行われた惨鼻なる悲劇――西太后死し、光緒帝毒殺された――について、太田君は全く無感覚であつた。
 予は太田君と語るを好む。この日太田君が初蜜柑を買つて来た。一緒に晩餐を終つて間もなく、藤條君が久振に来た。太田君は帰つた。吉井と三人で十時近くまで女の話をした。吉井君は其恋人について饒舌を弄した。一人になつてから花明兄に告白した。
 頭が疲れてゐて、熱があつた。遂にこの日は何も書かずに、咳をし乍ら枕についた。

十一月十八日
 朝、竹柏会の佐々木氏から原稿の礼状。午前のうちに(四)の七を書き送つた。
 半日を費して、“かくれ蓑”といふ小供のよむ探偵小説を読んだ。無邪気である。
 夕方、吉井から葉書。内海信之といふ人から懇切なる手紙と“昴”への詩“蜩”一篇送つて来た。
 金田一君が来て、或変人の話をきいた。故梁川氏の令弟建部政治氏へ手紙かいた。

十一月十九日
 十時起床、風邪はよほど好い。すぐ(四)の八に筆をとつた。間嶋君から電話で、予ての歌を直してくれと言つて来た。
 昼飯をすごして、一時頃平野君から電話、吉井君が来てるから来ないかといふ。一時間後にゆく約束をして、小説をかいて了つて二時半出かけた。上田氏の宅に行つてゐるといふ。行くと平野吉井に栗山の三君がゐた。上田氏は仏蘭西の話をされた。面白かつた。二十三日に立つて京都にゆくといふ。アナトール・フランスの小説の梗概二つ三つきいた。
 黄昏に帰つた。毎日社から電話。
 急に思ついて、俥で北原君を訪うた。留守。弟君が時計を質に入れて二円五十銭かしてくれた。九時辞して、帰途額と画五枚と原稿紙をかつた。紙屋の店にアノ女――夏に吉井君と二人で人形をかつた時の女に似た女!

十一月二十日
 今日は少し温かだ。小春日和。
(四)の九。
 歌十首作つて人見君へ送る。
 栗原君から毎日社退社のハガキ。小田島君からゑハガキ、橋浦泡人から手紙、金星会の歌にそへて六十銭、それを受取つて来た。
 故梁川氏の令弟綱嶋政治氏から返事、書簡集と予への手紙数通、先日小樽へむけ発送したと。帰つて来次第よこすさうだ。
 夜、太田君と平野君が来て、快談時の経つを忘れた。実に面白かつた。平野君が、近頃夜寝てゐて、何もかも――何のために活動するのかも――解らなくなると語つた。太田君は、予が告白するに最も邪魔になるのは家族だと言つたのを、それはホンノ少しだと言つた。これは太田君がまだ実際といふものに触れてないためだ。同君の煩悶は心内の戦ひで、まだ実生活と深く関係してない!
 十一時半になつたので驚いて帰つて行つた。実に愉快な夜であつた。

十一月二十一日
 今日は大掃除、そこそこに(四)の十を書いて了つて、午后久振に千駄ヶ谷に行つた。主人はまだ旅より帰らず、晶子さんが、小供らに取まかれてゐた。聞けば、今月の初め二日間許り、右の半身が半分不随になつたさうな。医者は脳の過労のためだと言つたさうな。予は悲しかつた。
 明星の百号千部のうち二百部売残つたため、女史が今かいてゐる小説“不覚”五十回分だけ万朝報社に持つて行つて金を貰ひ、印刷の方など払つたといふ。予は悲しくなつた。
 三時半に帰つて来た。
 明日三省堂の日本百科大辞典の披露園遊会が大隈伯邸に催される。行かぬかと金田一君がいふ。
 それで平野君へ行つて同行を約し、追分日本館に藤岡玉骨君を訪ね、三円借りた。京都の舞姫から貰つたといふ、金地に井菱の舞扇を貰つて九時辞した。それから俥で四丁目、電車で塔下の苑…………
 十二時、四丁目から苦学生の俥、二十銭くれた。
 この日、久振に函館の岩崎君から手紙。ノロケてよこした。悲しくも。

十一月二十二日
 日曜日。
 大急ぎで(五)の一鳥影のところをかいてると、平野君が約の如く来た。金田一君の羽織袴をかりて出かけた。初めて大隈伯邸に入つて二千余人の来賓と共に広い庭園に立つた時は、予は少し圧迫される様な感がした。間もなく金田一君、岩動君小笠原君らに逢ひ、園中の模擬店を廻つた。菊はすがれたが紅葉の盛り。
 上田敏氏も来てゐられた。花の如き半玉共の皆美しく見えた。一人、平野君がテンプラを攻撃してるうちに、ブラブラ歩いてるうちに、皆にはぐれて了つて池を廻り、山に登つた。何処も彼処も人、その数知れぬ人の間に誰も知つた人は居なかつた。予は実際心細かつた。漸く上田氏を見つけて初めて安心した。
 上田氏は、二十日に夏目氏に逢つたが、独歩の作が拵らへた拵へぬといふ議論で、拵へたといふ夏目氏の方は理屈があるらしいと言つた。
 ビール、を飲んだ。立食場は広くて立派なもの。テーブルスピーチは聞えなかつた。日本人は園遊会に適しない。少くとも予自身は適しない。
 六時頃に済んだ。何のために、何の関係なき予らまで来て御馳走になつたらうと、平野君と語り合つて笑つた。芝居をやつた大広間の金の唐紙に電気が映えて妙に華やかな落ついた色に輝いてゐた。それを紅葉の間から見た刹那の感じはよかつた。
 門――今迄くぐつた事のない立派な門を出るとき、此処から一歩ふみ出せば、モウ一生再び入ることがあるまいと言つて笑つた。実際――恐らくは実際さうであらう。
 帰りに四丁目の縁日を見、シヤツや刻煙草をかつて来た。湯に入つた。大分つかれてゐた。
“昴”に出すべき“赤痢”を書き出した。金田一君はおそく帰つて来て、新ちやんの持つて来てくれた柿に舌鼓をうつた。二次会で神楽坂の助六といふ芸者が、是非アトに残つてくれと言つてきかなかつたさうな。そして、半玉三人に簪をかつてくれたさうな。段々世の中がおもしろくなつて来た。
 栗原君と獅子吼書房へ手紙。

 二十三日に晶子さんの為に中学世界の歌を清書して送つた。
 毎日、“鳥影”の稿をつぎ、且“赤痢”に苦心した。
 吉井が一度来た。二十二日に太田北原と三人荒布橋の居酒屋で大晩餐、太田君は郵便局の爺さんの膝に眠つたさうな。爺さんは太田君の頬を敲いたと。吉井君のために質屋にオペラグラスを入れた。
 北原から、外数本の来信。

十一月二十八日
 せつ子から手紙。栗原から手紙。
 北原君から言つて来た若山牧水氏の“新文学”へ““乱れ髪”の思出”十四枚かいて送つた。

十一月二十九日
 実に不幸なる日であつた。何といふことなく気が焦立つたり沈んだり、殆んど一日金田一君の室ですごした。堀合君が来た。夕方太田君が来た。煙草三つ。青木堂へ行つてチヨコレートをおごられる。
 夜一時から、漸く気が落ちついた。金田一君と堀田のことを語つたため。午前三時までかかつて“鳥影”の今日送るべき筈であつた分をかいた。
 苦しい苦しい日であつた。

十一月三十日
 おそく起きた。
 平山良子から写真と手紙。驚いた。仲々の美人だ!
 スラスラと鳥影(七)の二をかき、それを以て俥で午後三時毎日社へ行つた。そして三十円――最初の原稿料、上京以来初めての収入――を受取り、編輯長に逢ひ、また俥で牛込に北原君をとひ、かりた二円五十銭のうち一円五十銭払ひ、快談して帰つた。宿へ二十円、女中共へ二円。日がくれた。栗原君の新居を訪ふと病床にありと。Victim を返してかへる。
 異様な感じにうたれた。
 九時頃から金田一君と共に四丁目の天宗へ行つてテンプラで飲んだ。大に喋つた。十二時酔うてかへつて寝た。

    
極 月

十二月一日
 遂に今年も十二月となつた。
 一昨日原稿がおそかつたので、今朝は新聞の小説休載。
“赤痢”また稿を改めて書き出した。それで一日は短かく暮れた。
 六時半頃のことだ。女中が来て、日本橋から使が来たといふ。誰かと思つて行つて見ると、俥夫が門口に立つてゐる。誰からと聞くと、一寸外へ出てくれといふ。
“釧路から来たものだと言つてくれ。”
といふ女声が聞えた。ツイと出ると、驚いた、驚いた、実に驚いた。黒綾のコートを着た小奴が立つてるではないか!
“ヤア!”
と言つたきり、暫くは二の句をつげなかつた。俥を返して入つた。
 或る客につれられて来たので日本橋二丁目の蓬莱屋に泊つてるといふ。予は唯意外の事にサツパリ解らなかつた。
 釧路の変動をきいた。小奴は、予が立つて以来、ウント暴れたといふ。日景が予の悪口をいひ、毎日の様に小奴のことを新聞に出したといふ。市子は鹿島屋を出て、家から通つてるといふ。市子と親しくしてるといふ。
 予に嘗てエハガキを寄こした時は、福本といふ人に頼んで住所を探つて貰つたのだといふ。
 散歩しようと言つて二人出た。本郷の通りで予が莨を買つてる間に一寸見えなくなつた。“狐だ!”と予は実際思つた。二十間許り彼方に待つてゐた。
 それから三丁目から上野まで、不忍池の畔を手をとつて歩いた。ステーシヨン前から電車、浅草に行つてソバ屋に上つた。二本の銚子に予はスツカリ――釧路を去つて以来初めての位――酔つた。九時半、そこを出て、再び手をとり合つて十町許りもあるいた。
 予の心は淘とした!
 唯、淘とした!
 上野から電車、宿屋まで送つてまた電車で帰つた。羽織の紐の環を一つ残した程酔つた。別れる時キツスした。
 帰り来れば八重樫(朝鮮)からの手紙。
 金田一君の室へ行つて二十分許り、心のままを語つた!
 ああ、何といふ日であらう!!!

十二月二日
(七)の三。
 昼食がすむと、日本橋に坪仁子の宿を訪うた。座にゐたのは大阪炭鉱の逸身豊之輔、函館の奥村某――小奴は予の後に座つてゐた。三時頃異様な感情を抱いて帰つた。
 岡山君からの手紙。安村君が岩手毎日へ“啄木の小説”といふものをかいたと、そして、“鳥影”について色々いつて来た。なつかしかつた。
 夕方一寸平野。
 夜、アテにならぬ約にほだされて、殆んど何も手につかなかつた!
 予の心の平和は撹乱された。ああ、この日終日顔が上気してゐた。そして、何となく落付かなかつた。
 九時頃遂に堪へがたくなつて一人出て、パラダイスで麦酒を一本のんで、赤くなつて来て寝た。
 毎日社から“鳥影”に関する投書を送つて来た。

十二月三日
 八時頃目がさめた。宮崎君から久振の手紙。
(八)の一。
“赤痢”をかいてると、一時頃平野君が来た。今日は平出君の宅に“昴”の談話会。
 一緒に出て、予一人千駄ヶ谷に行つた。吉井君がゐ合せた。与謝野氏とは一ケ月ぶり。ヒゲを生してゐる。
 二時間許り楽しく話して帰つた。平出君の宅には、石井柏亭君、(一字欠)君、太田君、北原君、平野君、あとで吉井君も来た。予は六時に辞して帰つた。何のため?
 昨夜の気持をくり返した! 金田一君の室に行つたため、外出はしなかつたが、十一時すぎまでゐた。
 柴内栄次郎からハガキ。

十二月四日
 午前六時半平野君が昴の原稿催促に来たがまだ出来てゐない。すぐ起きて寒さにふるへながら“赤痢”の稿をついだ。午後一時までで一行隔四十枚煙草も忘れて執筆、脱稿。すぐ車夫に持たして平出君宅まで届けた。
 それから八の二。書き終るところへ太田君が来た。
 太田君と小奴の話をした。
 今日は実に満足な日であつた。日が暮れると阿部次郎を訪ねて、初対面、面白く話して原稿を頼んで七時半帰宿、金田一君と話して、それから平野君を訪ひ、寒さに首をすくめ乍ら森川町の通りをブラついた。

十二月五日
 遠藤から手紙。
 せつ子へ久振に手紙をかいた。
 九州の菅原芳子と平山良子へも手紙かいた。良子には明星百号送つた。内海信之へハガキを添へて原稿を返してやる。
 夜、碧海君。
 大和の雑誌“敷嶌”へ送る歌を十五首、藤岡君へ郵送した。
 阿部君から原稿“偉ナル野ノ鶏ノ歌”来る。
(八)の三。

十二月六日。
(八)の四。
 太田君から“五日の夜の印象”といふ画をかいたハガキが来た。
 午後一時、三秀舎へ行つて、少し直すところがあるので“赤痢”の原稿を持つて来た。門の前で、吉井君。入つて話してると、二時頃、女中が来て“先夜の方が”といふ。小奴だ。別室に通しておいて室に戻つてくると、吉井はすぐ帰つた。奴をつれて来て、夕方まで話す。突然平野君が来て半時間許りゐて帰つた。
 それから小奴と二人、日本橋の宿へ電車で行つて、すぐまた出た。須田町から本郷三丁目まで、手をとつて歩いた。小奴は小声に唄をうたひ乍ら予にもたれて歩く。大都の巷を――。俥で鈴本へ行つて、九時共に帰宿、金田一君を呼んで、三人でビールを抜き、ソバを喰つた。
 十二時に帰した。通りまで送つた。

十二月七日
“赤痢”を直して三秀舎に送つた。
(八)の五。
 日本橋から今日来てくれとの電話。予は先頃から電話をかけることをおぼえた。どうも変なものだ。
 夕方一寸平野君。
 飯がすむと日本橋へ行つた。(お待兼でムいます。)と女中が階子口で言つた。奴は八畳間に唯一人、(逸身氏は大坂に行つて了つたのだ。)寂し相に火鉢の前に坐つてゐた。イキな染分の荒い縞お召の衣服。
 共に銀坐に散歩した。奴は造花を買つた。
 それからまた宿に帰つて、スシを喰ひ乍ら悲しき身の上の相談――逸身の妾になれ、と勧めた。
 十一時、言ひがたき哀愁を抱いて一人電車で帰つた。

十二月八日
 吉井君に起された。昨夜“獣の女”と芝浦の宿屋に泊つて飲んだといふ。(君に一昨日あてられて飲む気になつたんだよ!)
 話をし乍ら(九)の一を書いて送つた。
 電話、昴の用で来てくれと平野君から。
 二人で平出君許へ行つて、ハガキ広告をやるその台帳のハガキを分類した。久振で伊上凡骨に逢つた。
 夕方三人で三秀舎にゆき、それから予の許に来ることにして、電車。菊坂町でビールをのみ、洋食二三皿を食つて帰宿、三人で色々“昴”の話。
 平野君は帰り、吉井君は予と共に七番の室に寝た。
 枕の上で、頻りに釧路の事を思つた。市子のことなど――

十二月九日
 朝、明日から昴の校正が初まるので、吉井が、この下宿へ来ることにして帰つて行つた、妹からハガキ。伝道婦になる件。
 平野君が来た。すぐ原稿の催促に行つた。
 夕方また来た。共に晩餐。昨夜三秀舎の近所に火事のあつた話をしてるところへ、三秀舎からハガキ、校正は十五日からに延びた。
 二人で夜おそくまで交換広告の依頼状を出したり、広告主を調べたりした。ソバを食つた。

十二月十日
 九時半平野君に起された。
(九)の三。
 午后藤岡君。帰ると、久振に並木君。やがて太田君。太田君とゴルキイの話、面白かつた。今後独逸語をきく約束。
 太田君が帰つて間もなく平野君、共に千駄ヶ谷に行つた。お二人共居られて、寛氏の小説“大畑駅”が出来てゐた。晶子さんから小奴の話をきかれた。
 十時かへる。
 坪仁ちやん、不在中に来て空しく帰つたとのこと。
 平野君は到頭“昴”を予にぬたぐつた!

十二月十一日
(九)の四。
 朝に平野君が下まで来て、上田市が出京してるからと言つたので、午後一時頃に訪ねた。風邪の気味で京都の方電報でのばして静養中との事。原稿は明日までの約。今後毎号昴にかく約束。
 帰つてくると、北原白秋君。――予は今日虚心坦懐で白秋君と過去と現在とを語つた。実に愉快であつた。北原君の幼時、その南国的な色彩の豊かな故郷! そして君はその初め、予を天才を以て自任してる者と思ひ、競争するつもりだつたと!
 戦は境遇のために勝敗早くついた。予は敗けた。
 共に夕飯をくつた。其詩集“邪宗門”は易風社から一月に出ることになつたと。
 平野君が来た。二人七時頃帰つて行つた。
 此日二時頃、坪仁子からなつかしき手紙。昨日はほめられるつもりで、一人電車で来たつたのだといふ。
 夜おそく長い手紙をかいた。


(紙片メモ、十二月分)

三日 栄次郎

四日 (八)ノ二 六時平野(赤痢)太田
    電話 阿部へゆく、平野へゆく

五日 (八)ノ三 手紙せつ、取置 よし、良、内海、阿部カラ 遠藤 碧海

六日 (八)ノ四 三秀舎、かへり吉井、小奴
    太田ハガキ、平野、日本橋、鈴木帰、金田一
                        ノム十二時

七日 (八)ノ五 オクル赤、電話、夕日本橋、銀ザスシ 話(身上)十一時かへる

八日 吉井(九ノ一)電話、平出へゆく、三秀舎
   かへり洋食、帰り三人、吉井とまる 釧路をなつかしがる

九日 よしゐかへる
   午前平野、午後平野、昨夜火事の話
   光子 二人でかせぐ、交換広告
        三秀舎より ハガキ

十日 九ノ三 藤岡 並木 太田
   平野(三字不明) 午前会見 平野と千駄ヶ谷 留守に坪

十一日 九ノ四 上田へゆく 北原――平野、坪手紙返事

十二日 新渡戸ハガキ、平野 九ノ五、吉井、平野、千駄ヶ谷 夕方かへる、パンノ会

十三日 田子来る、平野、千駄ヶ谷にゆく、九ノ六、上田原稿
    千駄ヶ谷京都ゆきの話――平出、ハガキ
    もつて夕方岡(一字不明)良子の手紙――十二時酔ふてかへる 小奴

十四日 九ノ七、かいてるところへ平野、メシ、ハガキ六百枚かく
    夕方かへつてゆく、毎日へ手紙

十五日 吉井、共に飯、十ノ一、平野、太田、かへる二人かへる
    不安、金トかたる。隆文館、春陽堂(三字不明)コース初める

十六日 十二火事、平野かへる、吉井シヨゲテ、十ノ二、モウパツサン
    平野、吾、二人、毎日社十円、日本橋、平野かへる、一円
    (二字不明)春陽堂、ハガキ出す、質キモノウント(二字不明)平野

十七日 堀合ニオコサレル、吉井、平野、坪かへる
    三人で飯(十ノ三)太田――(二字不明)手紙、北原手紙
    校正おくれる(一時間四分)平野訳す、雨、テンプラ 金田一

(断片メモ、裏面)

十八日(十)ノ四 文章世界へやる ハガキ

十九日(十一)ノ一 遠藤手紙 吉井平野と 平出、伊上、三秀舎――毎日 日比谷 神田天ドン 三秀舎かへる 二人は森へ――ハガキ頼む――金田一と二人、甘酒、オデン、ビール

二十日(十一)ノ二、平野――電話(平出へゆく)
    ハガキ書く――伊上回顧一年 かいてる 山城より原稿、田子はがき、朝スガハラノ手紙、ところへ毎日から手紙(三字不明)へ手紙返事泣く 夜平野

二十一日(十一)ノ三 ヤマシロハガキ、小林手紙、(毎日)
     平出へゆきしらべる、三種トラヌ語、三秀舎――下宿たづねる 神田明神の縁日

二十二日(十一)ノ四、ハガキ出来る 吉井来り、昴の不平――平野――表紙出来る、夜太田、電話、酔うて来る、快談、平野黙す、出てゆく、寒、雨、シルコ

廿三日(十一)ノ五 吉井、平野、外套袷、テンプラ、浅草、――馬肉――東 一時半 校正二時

廿四日 平野におこされる(十一)ノ六、太田、電話、来る話、三秀舎校正――パンノ会
    酔、かへる金田一、住所、三時

廿五日 朝平野少し怒つてる、飯、生田君――三秀舎、千駄谷


【※明治四十一年日誌 其三終り】
 ※このあとに続いて、住所録(清盟帖)がありますが、別ページとしました。



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石川啄木 啄木日記