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(題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑) | ||||||||||||||||||||||||||||||
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石川啄木 啄木日記 石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。 発行所:株式会社岩波書店 書 名:啄木全集 全17冊のうち、第14巻 発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷 なお、筑摩書房版全集と照合し、不突合の場合は調査、不明の場合は筑摩版を採用しました。 原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。 このページは、「明治四十一年日誌」(一)を紹介しています。 「戊申日誌」および「明治四十一年日誌(二)、(三)」については別ページに掲載しています。 明治四十一年日誌 睦 月 一月一日 起きたのは七時頃であつたらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に喰べた。正月らしくないから、正月らしい顔した者もない。 廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあつた事やら。此日は昨日に比して怎やら肩の重荷を下した様な、果敢ない乍らも安らかな心地のする中に、これといふ取止もない、様々な事が混雑した、云ふに云はれない変な気持であった。実に変な気持であつた。変な気持と云ふ外に、適当の辞がない。 十一時頃出掛けて見た。世の中は矢張お正月である。天も地も、見る限りの雪も、馬橇の馬も、猫も鳥も家々の氷柱も、些とも昨日に変つた所はないが、人間だけは――実にその人間だけは、とんでも無い変り様をして居る。昨日は迂散臭い目付をして、俯向いて、何と云ふ事なしに用事だらけだと云つた風な急ぎ足、宛然葬式にでも行く人の様に歩いた奴が、今日は七々子の羽織に仙台平の袴、薩張苦が無い様な阿呆面をして、何十枚かの名刺を左手に握り乍ら、門毎にペコペコ頭を下げて廻って居る。今日になつて恁う万遍なくお愛相を振蒔く事が出来るなら、何故昨日も一日笑つて居なかつたか。自分等が勝手に拵へた暦に勝手に司配されて、大晦日だと云へば、越すに越されぬ年の瀬の浮沈、笑顔をしては神仏の罰が当ると云つた様に、誰も彼も葬式面の見つともなさ。一夜あけての今日だとて、お日様は矢張東から出て、貧乏人は矢張寒くて餒じからうに、炭屋の嬶までお白粉つけて、それを復お屠蘇で赤くするとは何の事だらう。考へる迄もなく、世の中はヘチヤマクレの骨頂だ。馬鹿臭いを通り越して馬鹿味がする。 考へる迄もない事を、恁う兎や角考へるのは、然し乍ら、これ実に自分自身が貧乏人であるからだのだ。俺だとて、生活の苦しみと云ふものがなく、世間並に正月が来れば家内一同へ春着の一枚宛も着せる様になれば、愚痴は愚かな事、御芽出度うを百回云はされても敢て不平は唱へぬかも知れぬ、正月があつたとて別した損害を享ける訳でもないのだから。人間は本来横着なものである。世の中は何処迄も馬鹿臭いものである。 又考へた。人間の本来の本来は決して横着なものではない。人生は決して馬鹿臭いものではない。何故に人間に横着な考が起り、人生が馬鹿臭くなつたか。茲に一家族があるとする。其家族の中、主人一人を除いた外は、皆老人や婦人や小児だとする。そして主人は何かしら一人前の働きをして月々十五円なり二十円なりの俸給を得て居て、其俸給が其家族全体の生活費に足らぬとする。(現在では立派に人一人前の働きをして居乍ら二十円以下十円位迄の俸給を得て居るものが珍らしくない。少なくとも家族全体を養ふだけの俸給を得て居ないものが珍らしくない。)その家にも、富豪の家と同じに大晦日が来る。米屋魚屋炭屋から豆腐屋に至るまで、全部の支払をせねば、明日からの生活の資料を得られぬと云ふ恐ろしい大晦日が来る。過ぎたるは及ばざるが如しと云ふが、足らぬ金で全部の支払は出来る理があるまい。サア此処だ。此借金の申訳は誰がする。一人前の働きをして居て何一つ悪い事せぬ主人自身、若しくは其何の罪なき家族の誰かが、否応なしに頭を下げ手を揉んで、心にも無いお世辞やら申訳やらを列べねばなるまい。誠に変挺な話ではないか。 此驚くべき不条理は何処から来るか。云ふ迄もない社会組織の悪いからだ。悪社会は怎すればよいか。外に仕方がない。破壊して了はなければならぬ。破壊だ、破壊だ。破壊の外に何がある。 澤田君は留守であった。稲穂小学校の前を下りて来ると、恰度四方拝の式が済んだと見えて、取置きの身装に心から嬉しさうな女の児等がゾロゾロと校門から出て来る。雪路の狭い所を、小児等に立交つて歩いて居ると、何だか恁う底の底から微笑まれる様な、ホントの正月らしい心地になった。斎藤大硯君も留守。其儘帰る。家に入つて見ると、依然として正月らしくない。廻礼に行つて来た自分自身も、振かへつて見るに、些とも正月らしい所がない。着た儘の外に一枚もないのだから紋付も着ず、袴は例の古物一着、澤田君から借りて居るインバネスも、飽迄正月らしくない代物だ。 昨日から初めた英語の復習をコツコツやって居ると、出入の魚屋や炭屋が廻礼に来る。特務曹長の正装した日報の佐田君も奥村君と一緒に来た。白昼の猿芝居を見る感がある。藤田武治は吉野花峯といふ男を連れて来た。在原も来た。区役所の桜庭保君も来た。 夜、校正の白田が酔払って来た。餅を食はした所が、代議士になるといふ怪気焔を吐いた。憐れなもんだ。 一月二日 十一時頃目を覚ます。初荷積出しの馬橇の、勇ましい馬の嘶ぎと鈴の音が、凍つた空気を劈いて聞える。えならぬ気持だ。起きて見ると頭がムヅ痒い。斬髪に行つて十九銭とられる。アト、石油と醤油を買へば一文もないと云ふ話。 また出かけて、予て噂のあつた西堀秋潮君が、札幌から移つて来て暮の二十七日に開いたといふ書店を見舞つた。秋潮君は、寒い風の吹き通す新店に、チヨコナンと坐つて居た。 帰つて見ると、大硯君と本田荊南(龍)君が待つて居て、正月らしい大きな声で笑つて居る。一緒に大硯君の宅へ行つて、豚汁で盛んに飲み盛んに喰つた。気焔大に昂り、舌戦仲々素晴しかつた。三十六の大硯君は樺太へ行つて大地主になるといふ。二十五の本田君は成功せぬうちは北海から一歩も南へ帰らぬといふ。所謂文明北進主義だ。薩南の健児、屹度成功する性格だ。二十三の自分は、金さへあつたら東京へ行くと主張した。酔つて帰つて十一時眠る。 一月三日 朝、在原が寄つて、日報社の例の小林寅吉が二三日中に首になるから、大に祝盃を揚ぐべしだとホクホクして居た。社宛に来た小山内君からの新思潮新年号を持つて来て呉れたのだ。 新思潮に水野葉舟の小説”再会”が載つて居る。読んで異状な興味を覚えた。 水野といふ男は早稲田大学の政治経済を卒業した男で、六年前は矢張新詩社の一人、当時は蝶郎と号して盛んに和歌をやつたものだ。三十四年(?)に、随分世の中を騒がしてから例の鳳晶子、乃ち現在の与謝野氏夫人が故郷の堺を逃げ出して鉄幹氏の許へやつて来た。与謝野氏には其時法律上の手続だけは踏んで居なかつたが、立派な細君があつて子供まであつた。水野は逢つた事はないが好男子でよく女と関係をつける男なさうだ。そこで何とかした張合で晶子女史は水野と稍おかしな様になつた。鉄幹氏はこれを見付けて、随分壮士芝居式な活劇迄やらかして、遂々妻君を追出し、晶子と公然結婚して三十五年一月の明星で与謝野晶子なる名を御披露に及んだのであつた。窪田通治、水野蝶郎等の袂を連ねて新詩社を去つたのは此結婚の裏面を明瞭に表明して居る。聞く所によると、晶子女史は何でも余程水野に参つて居たらしい。故郷に居た時鉄幹氏から来た手紙などは一本残さず水野に見せたといふ。……”再会”は此水野と鉄幹とが赤木山で再会するといふ事を書いたもので、自分の見る所は、全篇皆実際の事、少しも創意を用ゐて居らぬ。新詩社中で予の最も服して居る高村砕雨君が水野と共に赤城山に行つて居て(二三年前の事)そこへ与謝野氏が行つたのも事実だ。但此時晶子夫人も一緒に行かれたつた様に記憶するが、此小説にはそれがない。小説中山田寒山乃ち与謝野氏の同行者で、色の黒い学生といふのは平野万里、地蔵眉の男は大井蒼梧、職人風の男は伊上凡骨だ。おらくさんと云ふ女の事も嘗て高村君から聞いた実際の女だ。 明星は十二月号で新年号の予告中に告白して今の所謂自然派なるものに反抗的体度を示した。そして今、自然派の一作家なる水野君は此小説を以て与謝野氏及び新詩社そのものに対する一の侮辱を発表した。何となく面白い世の中になつて来た。予は此”再会”を読んで何故といふでもないが一種の愉快を感じた。予も亦現在猶新詩社の一人であるのだが。 新詩社の遣方には臭味があると、自分は何日でも然う思う。此臭味は、嘗て自分にもあつた[かも]知れぬ。然し今は無い。毫末もない。此臭味は、ブル臭味である。ガル臭味である。尤も、新詩社の運動が過去に於て日本の詩壇に貢献した事の尠少でないのは後世史家の決して見遁してならぬ事である。詩と広く云ふよりも、単に和歌に於ける革新運動の如きは空前の大成功で、古今に比儔が無い。新体詩に於ての勢力は、実行者と云ふより寧ろ奨励者鼓吹者の体度で、与謝野氏自身の進歩と、斯く云ふ石川啄木を生んだ事(と云へば新詩社で喜ぶだらうが実は自分の作を常に其機関紙上に発表させた事)と其他幾十人の青年に其作を世に問はしむる機会を与へた事が其効果の全体である。新詩社は無論、団体としては、かの文学界の一団のなした以上の事を成功して居る。これは自分も充分、否充分以上に認めて居る。 然し新詩社の事業は、詩以外の文芸に及ぼす所極めて尠少であつた。あつた許りでなく、今後に於ても然うであらうと思はれる。原因は無論人が無いのだ。新詩社の連中は実に一種の僻んだ肝玉の小さい人許りである。彼等の運動が文芸界全般を動かす事の出来ぬのは実に此の為めである。新詩社は文壇の一角、僅かに一角を占領したに過ぎぬ。そして其同人は多く詩人ぶつて居る、詩人がつて居る。ぶつたり、がつたりする人達のやる事だから、其事業が従つて小さい。与謝野氏自身の詩は、何等か外来の刺撃が無ければ進歩しない。それは詰り氏自身の思想が貧しいからである。此人によつて統率せらるる新詩社の一派が、自然派に反抗したとて其が何になる。自分は現在の所謂自然派の作物を以て文芸の理想とするものではない。然し乍ら自然派と云はるる傾向は決して徒爾に生れ来たものでないのだ。新詩社には、恐らく自然派の意味の解つた人は一人も居るまいと自分は信ずる。水野君は巧みに彼等を嘲つて”彼等は何か一種の神経を持つて居る様な顔をして居る”と云つた。誠に小気味のよい嘲罵であると自分は考へた。 一月四日 ”明星”が新詩社同人名簿と一緒に来た。此名簿には新詩社臭が氤氳として籠つて居る。 大北堂から“太陽”“新小説”“趣味”の三雑誌を届けて来た。 夕方本田荊南君に誘はれて寿亭に開かれた社会主義演説会に行つた。会する者約百名。小樽新聞の碧川比企男君が体を左右に振り乍ら開会の辞を述べた。添田平吉の“日本の労働階級”碧川君の“吾人の敵”共に余り要領を得ぬ。西川光二郎君の“何故に困る者が殖ゆる乎”“普通選挙論”の二席、何も新しい事はないが、坑夫の様な格好で、古洋服を着て、よく徹る蛮音を張上げて断々乎として説く所は流石に気持よかつた。臨席の警部の顔は赤黒くて、サアベルの尻で火鉢の火をかき起し乍ら、真面目に傾聴して居た。閉会後、直ちに茶話会を開く、残り集る者二十幾名。予は西川君と名告合をした。 要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、其を実現すべき手段方法を研究すべき時代になつて居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると云ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。 帰路、区役所の桜庭保君と一緒だつたが、社の鯉江が後から追駆けて来て (あの人は何と云ふ人ですか) (桜庭君と云つて区役所に居る人です) (あゝ、さうですか。三面に画をかく桜庭と云ふ女の兄さんですな) (然うです。) 鯉江は道々進んで桜庭君に話しかけて名告をあげて、互ひに往訪を約した。愍れむべき男だと自分は思ふた。女に近寄るツテ、之が凡ての男の一様に欲して居る所乎。滑らかな雪路を勇ましい鈴の音立てる馬橇に追はれ追はれ、自分は彼のちか子女史の事を彼此と考へた。 一月五日 新年の雑誌を読むに急がはしい。一作を読む毎に自分は一種の安心を感ずる。新小説などは随分人を馬鹿にしたものだ。十幾人の作者が顔を列べて居て、読むべきものは僅かに柳川春葉の“残者”一篇だけ。 函館の吉野君から手紙が来た。封を截ると冒頭に“天下太平”。例の四十五円の質物を宮崎君が十円出して利上げして呉れたと報じて来た。なつかしき友かなと自分は繰返して考へた。誠に寔に持つべきは友である。 夜、澤田君が来た。自分の事が何とも決定せぬので、余程辛い思ひをして今迄来なかつたのだ。日報社の事やら社会主義の話。 一月六日 昨夜枕に就いてから、夢成らずして魂何時となく遠く飛び、色々な過去の姿が追憶の霞の奥に現はれつ消えつとする。函館が恋しかつた。実に恋しかつた。夜霧深き大森の白浪、露光る谷地頭の朝風、宮崎君吉野君岩崎君、大塚君の太い声も聞きたい。弥生校の、今は焼けはてた職員室も忍ばるる。青柳町といふ名は、何かしら昔の恋人の名の如く胸に繰返される。眠つたのは二度目の金棒の響過ぎて余程経つてから。 今朝は寒さが大分弛んで来た。 午后、昨夜の約束で、大硯君から貰つた木綿の新しい紋付を着て澤田君を訪ふた。話は左程はづまなかつたが、三杯平らげた雑煮は美味かつた。帰りに西堀君の店を訪ふ。 一月七日 温かい日。 原稿紙を出して机の上の塵を払つた。短篇小説二つ三つ書かうと思ふ。一つは彼の松岡政之助の事、題は“青柳町”としようと思ふ。一つは大塚君の牛屋の二階で牛乳を飲んだ時の事、この題は“牛乳壜”としようと思ふ。モ一つは高橋すゑ子君の事、何れも函館大火後の舞台だ。今日は構想だけで日を暮す。 今日は“七日正月”と云ふさうな。紋付の羽織を斎藤君から貰つたので、今迄着て居た飛白ののと蚊帳を質に入れて二円借りた。夕飯に馬肉汁の御馳走あり。 夜、例の如く東京病が起つた。新年の各雑誌を読んで、左程の作もないのに安心した自分は、何だか恁う一日でもジツとして居られない様な気がする。起て、起て、と心が喚く。東京に行きたい、無暗に東京に行きたい。怎せ貧乏するにも北海道まで来て貧乏してるよりは東京で貧乏した方がよい。東京だ、東京だ、東京に限ると滅茶苦茶に考へる。噫、自分は死なぬつもり、平凡な悲劇の主人公にならぬつもりではあるが、世の中と家庭の窮状と老母の顔の皺とが、自分に死ねと云ふ。平凡な悲劇の主人公になれと責める。 家の中が暗い様な気がする。 一月八日 朝、洗湯に行つて昨年以来の垢を落す。女湯の方から紅の石鹸がコロコロと輾げて来た。十一位になる美しい女の児が裸の儘で、恐る恐るそれを取りに来たが、シヤボンを拾うと何かに追駆けられる様に駆け出す。途端に運悪く辷つて倒れた。呀ツと自分は思はず声を出すと、紅くなつて遁げて行つた。 午后大硯君来る。二人とも何故か意気銷沈。 夜、小樽新聞社長上田重良を訪ふ。初めてだ。洋風の応接室にストーヴが暖かい。茶は微温かつた。中西代議士の新たに起す新聞へ周旋してくれると云ふ。帰りに西堀君の店を訪ふ。腰かけて“再会”の話をして居ると、黒綾のコートを着て女靴を穿いた二十二位の女が這入つて来た。二三冊文学的な本を買ふ。話の様子では西堀君と知合らしい。其素性が探りたくなつた。樽新の碧川君が来る。読売新聞の懸賞で当選した一幕物の喜劇を、此処の大黒座に居る俳優に演じさせようと思ふので、今其談判に行く所だといふ。これは昨年二ケ月も腸チブスで避病院に入院してる間に書いたのだ。避病院へ行くのは、実によい。月給は普通に貰つた上に恁う云ふ金儲が出来ると笑ふ。碧川君は帰つた。今の男はこれこれの者だと西堀君に説明すると、 (あれはみよし野生なんですか。) と女が僕に問ふ。そして遂々火鉢の端へ寄つて来て、自分と向合せに腰かけて手をあぶる。談は碧川君の小樽新聞にかいた小説の事に初まつて、 (それが面白いですね。誰一人面白いと云ふ人が無いんですから。) と云ふ。焙つて居る手には裁縫用の指抜きを篏めて居て、血の気の漲つた処女らしい肉の美しさ。顔は美人と云ふ程でないが愛嬌が溢れて居て、活気があつて瑞々しい。髪はマガレツトとか云ふのであらう。画の話になると、女学世界に挿絵を書いて居る夢二と云ふ人の女は、皆同じ様だと云つて、側らの女学世界を取上げてそれを見せる。成程皆パッチリした円い無邪気な眼をした女許りだ。恰も此女の眼の様に。……自分は面白くなつて来た。……そして夢二と云ふ人は高等商業学校の卒業生だが、天性の嗜好で画が大好きだと云ふ事、斯の如き眼は夢二氏自身の細君の眼其儘であるさうだと説明する。予の好奇心が益々煽られる。それから、東京の女学生は、文と蚊と音相通ずる所から、文士を称して“虫ヘン”と云ふと話した。自分が本を読むと、余り凝るからと云つて父なる人に叱られると云ふ事、小説の話の出た時、実社会には小説以上の事件が沢山あるといふ事も話した。自分は、初め女教師かとも思つたが当らなかつた。そして十時過ぎ迄様々話して居て、遂々解らず了ひに足が冷たくなつたから帰つたが、女はそれでもまだ帰らなかつた。若い女が唯一人、夜の十時迄も恁うして居るとは益々解らぬ。唯解つたのは、此女が嘗て江差に居つた事があつて其当時より西堀君と知合らしい事、現在は余市の向ふ六里の地に居て、札幌の親類へ行つたのが今日此小樽に来たのだと云ふ事。何れ気儘に育つた資産家の娘らしいが、独身(?)で居て男を恐れる風の少しも無い事は、此女の来歴を様々に想像させた。 西堀君から一円五十銭借りて来て、途中で腰煙草入を四十銭、煙管を十銭に求めた。巻煙草は断然やめる決心也。 帰つて来ると、札幌の小国露堂君が来て、二度見えたが、モ一度来ると云つて行つたと云ふ話。間もなくやつて来た。北門新報が財政上の窮状其極に達して、初刷を出してから休刊して居るので、何とか他に口を求めねばならぬとの事。十二時迄話した。 一月九日 午前露堂君と共に澤田君を訪ふたが留守。夜再び訪ふと、奥村寒雨君が行つて居て、二人で僕の所へ来ようと云ふ話の最中であつた。四人火鉢を囲んで煙草の煙と共に気焔を吐く。 日報社へ今度来て理事になつた華族の妾腹の子で法学士だといふ谷寿衛が蕩児鯉江の先棒で今夜桜庭女史を訪問した、といふ話は、大に予を激昂せしめた。澤田君は大いにハシヤギ出して、東京で同じ下宿で出くはした、吟声の巧みな女の話などをする。自分も大に火鉢の縁を叩いて弁じた。何日しか問題は社会主義に移り、革命を談じ、個人の解放を論じ、露堂君と予は就中壮快な舌戦を試みた。家へ帰つたのは正に午前一時二十分。 一月十日 午前の中に小国君が日報の札幌支社に入る件が決定。午後同君の札幌に帰るを送つて、石原の宿まで行き、一緒に晩餐を認めた。 日が暮れると、すぐ出懸けて、真栄町に桜庭ちか子君を訪ふ。永く永く忘られぬ此夜の事は成るべく詳しく書いて置かねばならぬ。 女史は今歳二十五になつた。区役所に居る学事の桜庭保君の異母妹で、今潮見台小学校に教鞭を採つて居られる。天性画が好きで、所謂才色兼備の、美しい、品格のある婦人。嘗て予が小樽日報の三面をやつて居た時、確か昨年拾月末の頃であつたと思ふ。三面に入れる挿画を此人に頼む事になつて、其以後二三回逢つたのであつたが、予の知る限りに於て最も善良なる婦人の一人である。奥村君嘗て評して“共に泣き得る女”と云つた。 澤田君が日報へ来た当座から、予は此二人を好一対の配偶だと思つて、それとなく澤田君の心を探つても見たが、無論何の異議のあらう筈がない。其後澤田君自身が奥村と共に彼女を訪問したと聞いて、密かに喜んで居たのであつたが、昨夜谷鯉江の一件を聞いてから、急に此問題は急ぐ必要があると感じた。 行つて案内を乞ふと、迎へたのが彼女自身。坐に就いて、其れや此やの話から八時頃まで盛んに予の主張に就いて論じたが、イザ本問題となると仲々緒が見付からぬ。これは何日そ例の赤裸々の方がよいと思つて、遂々口を開いた。 (実は、今夜は少しお伺ひしたいことがあつて、お訪ねした次第なんですが、……) (甚麼事か存じませんが、若し出来る事なら何でも……) (別に六ケ敷い問題ではないんですけれど、少し云ひ難い問題なんですがな。) (若し私で出来ます事なら何卒……) (実は其少なからず云ひにくいんです。詰り其何ですな、其、怎も云ひにくいんです。) (…………) (貴女は、結婚なさらんですか。) 彼女は少なからず驚かされた様であつたが、暫しあつてから、 (思懸けないお話で、何と急にお返事してしてよいか解りませんけれど、私は当分まだ学校の方をやつて居たいと思つて居るのでムいますが……。) (然うですか。それは大に困ります。実は僕大に勇気を鼓して、今夜此事をお話に参つたのなんで……。初め、其何でした、或人の事をそれとなく詳しくお話した上で、詰り其人の性格や経歴を充分虚心平気の裡に聞いて頂いた上で、今申上げ[た]問を発しようと云ふ心算だつたのですが、先刻から堅い事許り喋つたものですから、怎も然う円曲な云方をすることが出来なくなつて、遂其単刀直入と出かけた次第です。……其当分御結婚なさらぬと云ふのは、一体怎した理由なんでせう。) (別に理由と申しても無いのですけれど。……アノ若しお差支が御座いませんければ、――と思悩んで――其お話を聞かして頂く訳に参りませんでせうか。) (何も差支は無いですがな、……) (そんなら何卒聞かして頂きたいものですが……)と彼女は余程思込んだらしい。 (僕に一人の友人があるです。)と、予は、澤田君に関して知つて居る限り、少時東洋風の豪傑肌な男であつたのが、或事件によつて急に性格の一変した事、其事件は、岩崎君の亡き姉との恋が許嫁と云ふ段取にまで進んで居たのを、其人が病死した事で、其後其故人の姉なる人と結婚したが、何の同情なき家庭は、遂に昨年函館の大火に及んで、澤田君の悲しき決意と共に破れた事、其他様々細かい点まで話して、(それは外でもない澤田君なんです。……怎でせう。貴女は此男に同情して、そして此男を不幸から救つて下さる訳に行かんでせうか。最も此事は今夜澤田君と何の相談なしにお話するのですが、詰り、万々一御承諾を得難い様な時には、私だけの秘密として葬らうと思ふからですが、然し澤田君の貴女に対する心持は、私充分友人として知尽して居るのです。) 彼女は暫く考へて居たが、(恁那事申上げてよいか怎か解りませんが、実は澤田さんから昨夜お手紙を頂戴いたしたのです。それで若しやと思つて只今御話を願つた訳でムいますが、……此事に就いて実は母と相談したいと思つて、今夜来て呉れる様にハガキを出して置きましたが、参りませんです。先刻貴兄がお出の時に、実は母かと思つたのでした。) 予は澤田君の機敏なる行動に、聊か驚いた。然し其手紙といふのは、単に“自分は貴女と結婚する事を人から勧められて居る。其為虚心で御交際する事が出来ぬ。自分は嘗て結婚について苦い経験を持つて居る。だから之を全部貴女にブチマケテ、自分の心に曇りをなくして交際したい”と云ふ意味に過ぎなかつた。此単なる手紙によつて母とまで相談する彼女の心理を忖度して、予は水心あれば魚心だと観測した。そして自分が澤田君の心を忖度して云つた事が此手紙によつて確められたと云ひ、切に決意を促がし、且又、自分自身の敬服する貴女を是非自分の知つている人に嫁したいからと頼み、澤田君の孤独を救はむことを求めた。彼女は胸襟を披いて種々一家の事情を語り、兄とは義理ある我が母を、如何にもして自分が引享けて養ひたいと思つて今迄独身でやつて来たと話した。予は此事によつて、一層彼女の美しい心を感じた。 然し予は、(何れ母や兄と相談してから。)と云ふ彼女の、並大抵の返事に満足しなかつた。澤田君が既に意を決して手紙まで差上げ、自分の心を打明けむと云ふに至つては、貴女の心一つで彼は再び以前の深い苦痛を繰返さねばならぬかも知れぬ。自分は無論然らざらむことを祈るが、万一然うであるとすれば、友人たる予は何とかして其苦痛を出来るだけ軽く彼に感ぜしむる様な手段を採らなければならぬ。問題の調不調は別として、茲で単に貴女一個のお心を、友人たる私にまで洩して貰ひたいと迫つた。予は辞を尽して説いた。彼女は深く深く考へた末遂に (私一人では、喜んでお享け致します。) と云つて、静かに俯向いた。洋燈の光が横顔を照して、得も云はれぬ。ほつれ毛が二筋三筋幽かに揺いで一層の趣きを添える。予は恰も恁う夢でも見てる様な気がした。そして大に喜び、且つ感謝した。 (尤も澤田君と雖ども生きた人間だから欠点があるですがな。例へば、澤田君は去年火事後に擬似赤痢をやつて以来、腸が弱いです。これも一つの欠点ですな。それから之は就中大なる欠点で、僕も仲々朝寝をしますが、澤田君は或は其点に於て僕以上かも知れないです。)と云つた所が、彼女は幽かに美しい歯並を見せた。(僕は大いに愉快です、満足です。僕は、其、国の盆踊を知つて居るんです。これは函館の未曾有の大火の晩に踊つたので、頗る履歴付な踊なんですが、今度それを踊つて御覧に入れます。それは頗る巧いです。) 恁くて、前夜来たと云ふ谷と鯉江が、今後毎日曜に会いたいと云つた事を、如何にすべきかと云ふ事に就いて話し合つた末、自分は満心の愉快を覚えて辞して帰つた。午后十時。 ―― ・ ―― ・ ―― ・ ―― ・ ―― 帰つて見ると、留守中に恰度澤田君が来て、白石社長からの厚い好意なる――釧路新聞に書いて呉れろといふ原稿の前金として、――十円を置いて行つたとの事であつた。予は大体の事を母や妻に話して早速澤田君を訪ふた。幸ひまだ起きて居たが、仔細を話して同意を需めると、賛成の不賛成のと云ふ段ではない。初めから彼の心は然く決心して居たのであつた。且つ彼女の事は山田町の伯母からも、以前から勧められて居るとの事。一時半に帰つて寝た。 一月十一日 昨夜の事を考へると、何となく楽しい様な心地がする。世の中が急に幾何か明るくなつて、一切の冷たい厭な事が、うら若い男と女によつて暖められた様だ。運命と云ふ事が切りに胸中を往来する。 八時少し過ぎに奥村君を訪問して、借りて居た金を返し、昨夜の話をすると、奥村君も手を打つて喜んだ。実に思がけない頼母しい男だ。 午后、出かけようと思つてる所へ、大硯君が来て、三時半頃まで居た。樺太へ行つて宗教を剏めようと大に気焔を吐く。矢張僕等と同じに、空中に楼閣を築く一人だと思ふ。 相生町に桜庭保君を訪うて、赤裸々にちか子さん一件の話を出す。向ふでも隔てなく話してくれて、一家の経済的事情から何から皆聞いた。要するに本人の意衷如何にあるので、自分等に於ては決して束縛はせぬ、が事情はこれこれだと云ふ。暗くなつてから帰つて来た。 予は此事件には天祐があると信ずる。既に当事者二人の心に相許してあれば、現下の社会主義と同じで、問題研究の時代でなく、其実現方法研究の時代であるのだ。奥村君と共に澤田君を訪ふと、澤田君は小児の如く喜んで居る。母君も大に喜んで居る。 話に興が湧いて午前三時帰つて来た。男と女の問題や、埋もれたる天才の話は、深くも三人の心を楽ませた。予は白沢末蔵の話をしたのであつた。 それから、此日澤田君が山田町の伯父伯母を訪うて、一件の話をすると、これも大喜びで、一切僕に運んで貰へと云つてるとの事であつた。 一月十二日 十一時におきる。楊枝をつかつて居ると寒雨君が来た。昨夜の相談では二人で行く筈だつたが、それでは話が新しくなるといふので僕一人行く事になり、一時頃相生町に桜庭君を訪ふ。幸ひ、日曜だ。 話は要するに昨日の復習だ。昨夜家内相談の結果、母は不束者だから人様の家庭に入つて巧くやれるか怎か疑問だと云ふが、要する[に]本人の心次第である。妹は兄や母が行けといふなら行くと云うて別に進んでも居ないが、其理由が解らぬといふ。僕は、御令妹の然う云はれるのは誠に尤も千万の事だ、其所が乃ち御令妹の御令妹たる所以であつて、義理ある兄に遠慮してる所に、其美しい性格が躍動して居る。それを察せぬとは無粋な話ではないか、と云つた。三時頃保君を同道して真栄町に行つた。 不図門口に出たちか子さんの笑顔は美しかつた。這入つて話が初まる。谷が其卑しい希望を挫かれたので何等か返報するだらうと云ふのが、大部兄貴の心を痛めて居た。予は醇々として説いた。醇々と云ふよりは寧ろ堂々と、断々と説いた。 (一昨夜はアンナ御答を致しましたが、)とちか子さんが云ふ。(考へて見ますと自分は欠点だらけの不束な女でムいますから、却つて澤田さんに御迷惑では居らつしやらないかと心配で心配で堪りませんのでムいます。ですから若しも只此儘末長く御交際して頂くのでムいますと大変安心なのでムいます。) (婦人の生命は愛です。婦人から愛を取り去れば、残る所は唯形骸許りです。随つて妻になる資格は、何も面倒なものは要らない、唯愛一つさへあれば充分であると思ふです。尤も、貴女が澤田君並びに其家庭に同情して下さらむのなれば、幾何申上げても致方がないのですが、……然し先夜貴女の御洩し下すつたお言葉から考へるに、決して然うではあるまいと僕は思ふですがな。) (それはモウ御同情は充分……充分に致して居りまするのでムいます。)と切々に云つて仄かに其美しい顔を染めた。 (そんなら、それで何も面倒な事はムいません。既に母君及び兄上の御考が貴女次第となつて居るのですから、貴女は其唯一の財産、乃ち其美しい同情の御心だけを持つて澤田君の家庭の人になつて頂きたいです。澤田君は無論それ一つの外何物をも要らんです。貴女は手も足も途中に捨てて行つても宜敷い。其心一つで澤田君の落寞たる家庭に春が来ます。僕は頼むです。深く頼むです。) (若しも、)と云つて顔を上げて眼を輝かしたが、俯向いて、そしてシドロモドロの声で云つた。(若し私の凡ての欠点を御許し下さるなら、御言葉に従ひます。) 兄貴も聊か面喰つた様であつたが、尤早之以上に云ふ所はない。予は、本問題の骨子が只今の御一言で明瞭に解決を告げたから、アトは之に附帯した事件の解決だけである。然しそれは、今日きめるのも少し慾が過ぎるから、今日はこれだけで喜んでお暇をする。鶴の如く首を長くして待つてる人もあるから。と云つて辞した。日は既に暮れて居る。雨さへ催した温かい日で、道の凍付いた雪が解けて、ザクザクする。 帰つて飯を済まして、早速澤田君を訪うて、委細復命した。山田町の伯母さんも行つて居て、見合も何も要らぬから至急キメテ呉れと喜ぶ。九時半頃帰つて来て寝た。 日報の三面に小樽新聞の松田作嶼君が来たと云ふ話をきいた。 媒人は急がしいものである。 一月十三日 九時頃、山田町なる澤田君の伯父君の訪問を受けて起きた。顔を洗ふて居る所へ本田君が来た。本田君の話によれば、北門新報の休刊について、社長村上祐氏を初め、主筆上野?(※尸に隻)履氏佐々木秋渓君等皆本田君の居る小樽支社に来て、鳩首前後策に腐心して居るとの事であつた。 山田町の伯父さんは無論澤田君の縁談一件に関してであつた。万事虚飾を避けて一日も早く迎へるといふ事にきまる。 十二時頃、朝飯と昼飯を一緒に済まして相生町の桜庭家を訪うと、母堂が頭痛で就褥して居られる。仕方なく帰つて来た。一体保君とちか子さんとは義理のある異母妹の間なので、保君にあつては成るべく世間体を飾りたいのであるから、双方の事情上単簡に済すには、先づ母堂を説かねばならぬのだ。 三時頃日報社に行つて宿直室で白石社長に逢ふ。 (薩張僕の所へ来て呉れないが、怎して居たんです。)と喜色満面で這入つて来られた。(我儘一件があるんで怎も気が済まぬもんですから。)と迎へた。自分が旧臘我儘を起して日報を退いてから、今初めて社長に逢つたのだ。 (二三日前は、澤田君の手から頂戴したですが、何とも御礼の申様がありません。) (イヤ何、何れまた何とかするつもりで居たんだが、……怎です、タイムスの方の話が纏りましたか。) (否、何にもキマリません。天下の浪人です。) (あの方の話が澤田君からあつたから、自分でも出来るだけ運動して見るつもりで居たのだが、怎です、釧路へ行つて貰ふ訳に行かんのですか。実は君には御母さんや小さい子供もあるといふ事なので、釧路の様な寒い所へ行くのは怎かと思つて躊躇して居たんですが。) 恁くて同氏が十何年前から経営し来つた釧路新聞の事を詳しく話されて、結局自分は、家庭は当地に残し、単身白石社長と共に十六日に立つて釧路へ行く事になつた。釧路は無論人口僅か一万の小都会に過ぎぬが、今其新聞は普通の六頁に拡張せんとして居るので、自分の責任も軽くはない。日報へ復旧してもよいと云ふ話だつたが、遠からず一大改革した後には自分の勝手で釧路に居るなり日報へ来るなり怎でも構はぬと云ふ話であつた。 十六日に立つと云ふのは、聊か面喰つた。然し必ずしも一緒に行かなくともよいと[の]話ではあつた。予は外に何も面倒はないが、澤田君とちか子さんを二人並べて、一度でもよいから、“奥さん”と云つてからでないと怎も気が済まぬ。此事を社長に話すと、至極喜んで呉れた。 本田君へ寄ると、加減が悪いと云つて寝て居た。釧路行を話して、日報改革後共に携へて同紙へ這入るといふ内約を整へた。北門の如き悪徳を敢てするを否まざる新聞に居ることは同君も大に不快に思つて居るのだ。斎藤君へ寄る。晩酌中であつたので、早速二盃許りやらせられた。焼鮭で飯を喰つて辞し去る。同君も喜んで居た。 家に帰つて話すと異議のあらう筈もなし。真栄町にちか子さんを訪ふと相憎留守。途中福原病院の坂で二度辷つて転んだ。 奥村君を訪ふと病気で寝て居た。今日は怎したものか病気が流行する。澤田君へ行つて十時頃帰る。一件は出来る事なら十五日にやりたいものだ。 一月十四日 十一時起きる。函館の吉野君、札幌の小国君、野辺地に居る父、岩見沢の兄等へ手紙かいた。 今朝早く桜庭君へ、昨夜書いた手紙、例の件に就いて、式を簡単にする事や、ちか子さんの月給を母堂の小遣として実家へやる事や、自分が釧路に行く事などを認めた手紙をやつて置いたので、午后一時半頃、同家を訪ふて母堂の意見をきく。確答は函館に居る一親類へ相談する迄待つてくれとの事。成程尤も千万の話なので、流石の僕も一言なく帰つて来た。 帰つて見ると、今しがた澤田の母が結納の品を持つて来て、置いて行つたとの事、自分は聊か困つた。 奥村君を訪うと、佐田が行つて居た。つまらぬ話で時間許り喰ふて仕方がないから、奇策を弄して奥村君を連れ出し、一緒に澤田へ行つた。山田町の伯母さんも来て居て、今日の次第を話して帰る。 夕方には桜庭君が区役所の帰りに寄つてくれて種々相談した。要するに年寄の云ふ事も通さねば、アトが面倒になるから、当分時間を延期して呉れとの事。海老名天口堂も来た。 八時頃澤田から帰つて来ると、藤田武治と高田紅果が来て居た。大に文芸談をやらかす。十一時頃帰つて行く。高田が持つて来た長谷川二葉亭の“其面影”を読む。 一月十五日 十一時頃、実相寺一二三の脳病面が来たので起される。自分は此男の顔を見るとイヤになる。好きな煙草もうまくない。マルで不調和な卑い人相だ。 斎藤君が来て、明日函館へ行つて一週間許り居てくるといふ。函館にも総選挙の準備として内山代議士が新聞を起す計画があるさうな。 斎藤君が帰ると奥村君が来た。本田君が来た。野口雨情君が久振りで来た。本田君は別れのつもりで蜜柑をドツサリ買つて来た。野口君は天下の形勢日に非なりだから、東京へ帰るつもりでそれぞれ手紙を出したといふ。見ると着て居る着物はマルで垢だらけ、髯も生え次第になって居る。自分は何とも云へぬ同情の念を起した。此人の一生も誠に哀れなものである。 奥村君と二人で真栄町のちか子さんが許へ出かけた。途中で西村君に逢つた。相不変気味の悪い団栗眼をギロギロさして、旭川の新聞から来いと云ふが、怎しようかと思つて居ると云つて居た。無論これも嘘だ。昨日佐田君の話によると、信善屋へ人を以て脅迫を試み、三十円貰はうとしたのも此西村君だとやら。然し世の中を茶にして過さうと云ふ人間は、此男だけでもあるまい。新聞社会には実際イヤな分子が多い。 芝居橋を渡つた時は、既に四周が仄暗い位であつた。(居るだらうか?)(居るだらうか!)と同じ事を云ひ乍ら右へ曲つて、突当りの、川に臨んだ家が乃ちちか子さんの寓だ。居るか居ないか半信半疑で案内を乞ふと、直ぐ美しい淑やかな声に迎へられる。すぐ上る。洋燈はまだつけて居ない。 (石川君から残らず聞かされて居りますが、怎も此度はお芽出度い事で。)と、奥村は武張つて丁重な挨拶をすると、薄暗い中にもしるきちか子さんの慌て様。 (アノ、)とつつましやかに云つて、自分の顔をジツと見たが、(其事でムいますね。……是前には貴所に那麼お返事申上げましたけれど、あとで考へて見ますと、怎も余り軽卒な事をしたと、大変後悔して居るのでムいます。それで、今夜でもお伺ひして申上様かと存じて居つたのでムいますが、アレは何卒お取消して頂きたいのでム[い]ます。真個に恁麼事申上げるのは、誠に済みませんけれども、何卒さうお願ひしたいのでムいます。) と、誠に悩ましげに俯向く。 (これは驚いた。)と自分等二人は同時に云つた。(石川さん、怎したんです、一体。)と、奥村君は自分を佶と見る。自分はそれには答へずに、(一体怎なすつたのです。)と膝を進めた。 (アノ、)と復俯向いて、(恁麼事申上げて、私真個に消え入りたい様でムいますが、実は一昨晩貴所のお帰りになつたアトで、兄と一緒に相生町の宅へ参つたのでムいます。そして母から、其麼軽卒な事をするものでないと大変叱られたんでムいます。それから考へて見ますと、成程私は、百本二百本のの見えない縄に縛られて、身動きも出来ない身でムいますのに、遂それを忘れて、自分一人の考へなぞ申上げましたのは、誠に軽卒であつたと気がつきましたので、真個に怎も貴所には相済みませんですけれど、何卒お許しなすつて……。) 百本二百本の見えない縄! 見えない縄! と自分は心で繰返して、何とも云ひ難い、悲しい、哀い、感に胸が一杯になつた。木の枝は折られても天へ向かうとする。一本なり二本なり見えざる縄を断ち切つて幾分なりと自由を得ようとするのは自分等。踏み蹂られても折れた儘で下むく美しい花を開く百合の花。縛られれば縛られたなりで、温なしく観念の眼を閉ぢ、運命に服従しようと云ふのが女の身の優しい所、美しい所。自分は暫しは云ふべき言葉を見出しかねた。 (さうでしたか。それで安心しました。)と云つて自分は吻と息を吐いた。そして、母君として子たる貴女に然う云はれるのは尤の話だ。然し母君は決してさう許り思つて居られるのではない、と、昨日会見の結果を詳しく話して、要するにアトの事は、母君や兄上に任せて置いて貰ひたい。自分は数日中に此問題は芽出度解決すると信ずる。と云つて、そして斯様な事は新旧思想の衝突絶えざる今の世に於ては誠に止むを得ぬ出来事である。然しさうかと云つて、決して悲観する事はない。凡ての人の縛られて居る見えざる縄を、一本宛二本宛断ち切つて、自由の新時代を早めてゆくのが我々の務めである。然し、今貴女に自ら其縄を切つてくれと無理な註文はせぬ。唯そんなに悲観せずに、万事天祐を信じて待つて居てくれと話した。 釧路行の話などしてる所へ、兄の保君が来た。話に花が咲いて、自分は頻りにビスケットを頬張つたが、七時頃辞した。出て来る時、自分は此事件の解決を見ずして釧路に行くのは実に残念であるけれども、然し自分は確かな希望を持つて居る。(今夜は自分の、桜庭ちか子さんにお目にかかつた最後であると信じます。今後永劫に、再びと桜庭ちか子さんにはお目にかかりません。……) (成程!)と保君が云つて膝を打つた。 二人は女の事を彼是と話し乍ら、雪に喰ひこむ足駄の歯を鳴らしつつ帰つて来た。 ―― ・ ―― ・ ―― ・ ―― ・ ―― 奥村君の宅――と云つても人の家の坐敷を借りて妊娠五ケ月の妻君と弟と三人雑居の――に寄つて、海カジカの煮たので夕飯を御馳走になつて、いろいろ話し乍ら澤田君を問ふた。ちか子さんを連れて来るものと許り思つて居たので、失望したらしかつたが、自分等は其理由を話して、雑談に時を移した。然しちか子さんの云つた事だけは洩さなかつた。 社長の出立は十八九日になるとの事。今日昼に一寸社へ行つて、社長に逢ひ、家族は当地に置いて自分一人行く事にキメて来た事を忘れて居た。 宅へ帰つたのは十二時過であつたが、飯を喰つて――大口魚の煮たので――“其面影”をよんで、目をつぶつたのは二時過ぐる頃。 一月十六日 十一時頃、山田町の伯父君に起された。話は何分頼むとの事だけ。 今日は一日外出しないで、“ほととぎす”の新年号を読む。寒い日だ。保君に手紙出す。 一月十七日 短篇小説“牛乳壜”をかき初める。 夕方、日報社の小使が迎ひに来たので、白石社長を訪ふ。釧路行は明後日の午前九時と決定した。話がはづんで種々と意見を戦はしたが、自分は此温厚なる紳士が案外にも若々しい考を持つて居るのに驚いた。 帰路奥村君を訪ふたが留守、澤田君へ行つて、一時帰つた。 一月十八日 起きて飯を食ふと、ドンが鳴つた。山田町の伯父さんが来て行つた。 三時日報社に行つて白石氏に逢ひ、十円貰つた。買物して帰ると、桜庭から人を以て断りの事を云つて来たとの事、自分は成す所を知らなかつた。形勢斯く激変しようとは毫も予期して居なかつたので、実際自分は途方に暮れた。日が暮れてから待ちに待つた奥村君が来たので色々相談したが、妙案が浮ばぬ。兎も角も一応桜庭へ行つて見る事にして出かけたが、途中立小便して巡査の小言を喰つた。桜庭へ行つたが老母が一人居た。頗る要領を得ず。帰つて相談して、仕方がないから澤田へ行く事にした。 山田町の伯父さん夫婦も来て居た。自分は生れてから此時許り困つた事がない。漸々話をすると、澤田君の顔色は思つた程でなく、且つこれは多分函館の岩崎の方の中傷のためだらうから、これさへ充分弁解すればよいといふ話であつたから聊か安心はした。三時頃漸く帰る。 小樽に於ける最後の一夜は、今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つて行くべき手廻りの物や本など行李に収めて、四時就床。明日は母と妻と愛児とを此地に残して、自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ!!! 一月十九日 於岩見沢 朝起きて顔を洗つてると、頼んで置いた車夫が橇を曳いて来た。ソコソコに飯を食つて停車場へ橇を走らした。妻は京子を負ふて送りに来たが、白石氏が遅れて来たので午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰つて行つた。予は何となく小樽を去りたくない様な心地になつた。小榑を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。 白石氏の宅へ行つて次の発車を待ち合せるうちに、初めて谷法学士に逢つた。才子肌な薄ツペラな男。午前十一時四十分汽車に乗る。雪が降り出した。 札幌で白石氏は降りた。二等室の中に人は少ない。急に旅にある様な心地になつて、窓を透かして見たが、我が愛する木立の都は雪に隔てられて、声もなく眠つて居た。午后四時岩見沢に下車、橇を駆つて此姉が家に着く。札幌の妹も来て居たが、夕方の汽車で帰つて行つた。凍れるビールをストーブに解かし、雞を割いて楽しい晩餐を済ました。此夜は茲で一夜を明かすのだ。“雪中行”第一信を二通書いた、日報と釧路新聞のために。 一月二十日 於旭川 曇天。十時半岩見沢発。途中石狩川の雪に埋もれたのを見た。神威古潭で夏の景色を想像した。午后三時十五分当旭川下車、停車場前の宮越屋に投宿。 旭川は小さい札幌だ。戸数六千、人口三万、街衢整然として幾百本の電柱の、一直線に列んでるのは気持がよい。北海旭新聞を訪問した。 知らぬ土地へ来て道を訊くには女、特に若い女に限ると感じた。其女は、十六許りの、痩せて美しい姿であつた。 日が暮れて白石氏も着いた。晩餐を済まして、“雪中行”第二信と手紙数本をかいて就寝。 旭川駅前「宮越屋」写真へのリンク 一月二十一日 於釧路 午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川発に乗つた。程なくして枯林の中から旭日が赤々と上つた。空知川の岸に添うて上る。此辺が所謂最も北海道的な所だ。 石狩十勝の国境を越えて、五分間を要する大トンネルを通ると、右の方一望幾百里、真に譬ふるに辞なき大景である。汽車は逶迤たる路を下つて、午后三時半帯広町を通過、九時半此釧路に着。 停車場から十町許り、迎へに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、幣舞橋といふを渡つた。浦見町の佐藤氏宅に着いて、行李を下す。秋元町長、木下成太郎(道会議員)の諸氏が見えて十二時過ぐる迄小宴。 一月二十二日 起きて見ると、夜具の襟が息で真白に氷つて居る。華氏寒暖計零下二十度。顔を洗ふ時シャボン箱に手が喰付いた。 日景主筆が来た。共に出社する。愈々今日から釧路新聞の記者なのだ。 昨日迄に移転を了した新社屋は、煉瓦造で美しい。驚いたのは、東京で同じ宿に居た事のある佐藤岩君が三面の記者になつて居た事で、聞けば同君は此処に来てから料理屋の出前持までやつたとの事。モ一人は上杉儔といつて、前中学教師、物理の先生とは寔に意外な話だ。 職工のおとなしいに驚く。 一月二十三日 今夜、佐藤氏の宅から此洲崎町一丁目なる関下宿屋に移つた。二階の八畳間、よい部屋ではあるが、火鉢一つ抱いての寒さは、何とも云へぬ。 一月二十四日 寒い事話にならぬ。今日から先づ三面の帳面をとる。日景君から五円かりて硯箱や何やかや買つて、六時頃帰宿。社長の招待で編輯四人に佐藤国司氏と町で一二の料理店喜望楼へ行つた。芸者二人、小新に小玉、小新は社長年来の思ひ者であるといふ。編輯上の事何かと相談した。機械が間に合はぬので、三月初めまでは現在の儘で時々六頁出すことにした。 町にはモ一つ北東新報と云ふ普通の四頁新聞が此正月出来た。碌な記者も居ぬけれど、兎に角好敵手たるを失はぬ。社では先づ此敵と戦ひつつ、順次拡張の実をあげねばならぬ。日景主筆は好人物、創刊以来居る人なさうで度量の大きくないと頭の古いが欠点だといふ。佐藤国司氏は理事と云つた様な格で、社長の居ぬ時万事世話をすると云ふ。一見して自分の好きな男だ。 机の下に火を入れなくては、筆が氷つて何も書けぬ。 一月二十五日 夜、日景主筆が遊びに来、隣室に居る北海旭新聞の支社長甲斐昇君とも初めて逢つた。 方々へ手紙を出す。金田一花明君へも長いたよりを認めた。 一月二十六日 今日は日曜日。朝社長からの使があつて、行くと、昨日あたりから新聞の体裁が別になつたと云つて大喜び。五円と銀側時計貰つた。十一時頃から第一小学校に開かれた愛国婦人会釧路幹事部の新年互礼会に臨席。乞はれて現代婦人に関する一場の演説をした。出席女性四十余名。 来月の二日に、社の新築落成の大宴会があるので準備委員長仲々気がもめる。今夜から福引の考案にかかる。 一月二十七日 今日、昨日の互礼会の記事と共に、演説の綱要を“新時代の婦人”と題して二面へ入れた。 小樽なるせつ子から手紙が来た。花園町十四の内、星川丑七方へ移つたと。 佐藤君が遊びに来た。 一月二十八日 今日から一面に詞壇を設け、且つ大木頭と云ふ名で、百五十行位づつ政界の風雲を書くことにした。 佐藤国司氏や社長が、是非永く釧路に居てくれよと云ふ、三月になつたら家族を呼寄せるようにして、社で何処か家を借りてくれると云ふ。自分も、来て見たら案外釧路が気持がよいから、さうしようと思ふ。不取敢せつ子へ其事を云送つた。 一月三十日 今日は孝明天皇祭で休み。一日手紙をかき、福引のクヂを作る。社長から貰つた金で下宿料四円六十二銭払ふ。宿料十二円五十銭に布団代二円の割。 一月三十一日 社から日割ともつかず全額ともつかず十五円貰つた。佐藤国司氏を訪ね、十円貰ふ。 せつ子から今日も手紙来た。 如 月 二月一日 今日日景君の宅へ行つて晩餐の御馳走になる。帰つて来て植木せんちやんへ手紙かく。 午前中に電為替で十八円小樽へ送り、別に一円せつ子へ。 二月二日 愈々今日の日曜は我社新築落成式だ。早朝出社して、編輯局を装飾するやら、福引の品物を整理するやら。 日景君から借りた羽織袴を着る。一時頃から来賓が来た。予は先発隊となつて宴会場なる喜望楼に行き、席を作つて準備して居ると、四時に開会。来会者七十余名に芸妓が十四名。福引は大当りで、大分土地の人を覚えた。九時散会、小新の室で飯を喰ふて帰れば十一時。 堀田秀子氏へ手紙かいた。 二月三日 今日は編輯局昨日の噂で大繁昌。 夜、生田葵君へ久振で手紙かいた。 二月四日 今暁四時浦見町釧路見番附近に失火あり、全焼十六戸半焼一戸に及ぶ。九時に起きて聞いてビックリ。 日景主筆が正午から帰宅したので、大分急がしい目を見た。佐藤も上杉もまるで役に立たぬ。これで新聞記者とは驚いたものだ。七時帰る。 野辺地の父から手紙来た。小樽から、四十日間一銭も送金せぬといふ手紙行つたとて大に心配して居る。誠に不埒な事を云つてやつたもので、一月中に十五円、再昨日の十八円で三十三円、外に建具を売つた筈だから、一ケ月に四十円以上も使つて居るではないか。後日のため厳重な手紙出す。 玉山の舅、及び札幌の向井君へも手紙認めた。少しく風邪の気味。 二月五日 午后四時、斧を揮つて編輯を〆切り、帰る。せつ子から金受取つたといふ手紙が来て居た。 飯を喰ふ時、今日社で逢つた日報の小林の顔が目にちらついた。白石氏を訪問したが留守。昨夜認めた堀合の父や向井君や、斎藤大硯本田荊南君らへの手紙を投函した。 此数日、気候は余程緩んで居るが、今夜帰りにはチラチラ白いものが降り出した。釧路に来て初めての雪である。 二月六日 上杉も佐藤もまるで活動せぬ。日景君の頭は相不変光つて居る。編輯局は天下太平だ。 四時に帰つて、洗湯へ行つて来て晩餐。今月の雑誌が来たかと思つて本屋へ行つたが、まだ来て居ない。東京と釧路とは少なくとも十日が間時勢が違つて居る。東儀鉄笛の“音楽通解”と石原即聞の“仏教哲学汎論”とを持つて来た。釧路には唯一軒の本屋正実堂といふのがあるきり。松屋でも取次はするが、本は一冊もない。 白石社長を訪ひ、御馳走になつて十時帰る。社長は明日立つて上京する。議会に対する釧路築港のの運動だ。 二月七日 四時半頃、帰らうと思つて社の玄関まで来ると、弥生で代用教員して居た時代の同僚遠藤隆君の訪問をうけた。一緒に下宿に帰つて、飯を喰ふ。昨年十月当地に来て、第三小学校に出て居るといふが、実に意外な邂逅であつた。第三学校は当町で一番成績の悪い、醜聞の多い学校だ。一つ内情を聞かうと思つたが、仲々話さぬ。乃ち社長から貰ふた時計を五円半に質に入れて来て、共に出かけた。 喜望楼の五番の室は暖かであつた。芸者小静よく笑ひ、よく弾き、よく歌ふ。陶然として酔ふて、十二時半帰宿。喇叭節の節が耳について居て、眠を妨げられた。 今日なつかしくも函館の宮崎君から、手紙が来た。釧路の人となつて以来、何だか余りに人間の世界から離れた様な気がして居るので、手紙といふ手紙のなつかしい事。 二月八日 今日は時計が無いので、何となく張合がなかつた。習慣といふものは恐ろしいものだ。 昼頃、一寸支庁へ行つて、第一係首席の梶君に逢ひ、第三学校の事を談じて、四月迄には校長其他二三を動かすといふ言質を得た。吉野君を釧路の学校へ呼ぶことを話して、至急交渉する事を頼まれた。 今夜は、函館なる宮崎吉野二君へ長い手紙を認めた。宮崎君へは、自分が今感じて居る所謂現実暴露の悲哀について詳しく書いた。 虚無といふ語が、此頃漸々恐ろしくなくなつて来た。“自然主義が処世上について人間を教訓し得る語は、唯勝手になれといふ一言のみだ”と書いた。 二月九日 十時起床、今日は日曜で休み。 十一時から、第一小学校で開かれる釧路婦人会総会に臨んだ。集るもの僅か二十名足らず。相不変時間には二時間半の懸直があつた。午后四時済む。此会でも愛国婦人会でも大に紙上で刺激を与へて発奮させる必要がある。 午后五時から、釧路に於ける新聞記者の月次小集で、梅月庵といふへ行つた。会する者総て十三名、社の四人とタイムス支社の太田君と、実業新報の古川君、北海旭の甲斐君だけ欠席で、北東からは西嶋君、小泉君、花輪君、横山君、高橋君、それから何とか云ふ虫ケラの様な奴と商況記者一人。雞鍋をつついて飲んで、飯を喰つた。七時半散会。随分無意味なものだ。 その帰足を米町へ曲げて、三四人で初めて釧路の劇場宝来座を見た。林一座とか云ふ田舎廻り、見るに足らぬ。芸者小静が客と一緒に来て反対の側の桟敷に居たが、客を帰して僕等の方へ来た。三幕許り見て失敬して、古川君と小静と三人で、梅月庵といふ小集の際の会場であつた蕎麦やでそばを喰ふ。酒二本。古川が芸者論やら新聞論を初めたので坐がさめた。帰つて枕についたのが十二時半。 二月十日 目のさめたのが十一時。驚いて飛び起きて、朝飯もソコソコに済まし、社にゆくと不取敢昨夜の話が出た。お安くないと云ふ、いや高くもないと云ふ。こんな事から段々釧路の事情が解つて来る。 小静の事を少し書いて置かうか。彼[女]自身の語る所では、生れは八戸、小さい頃故郷を去つたと云ふ。両親は今此町に居て、姉なる小住と二人で喜望楼の抱妓になつて居るが、家には二才になる小供があるとの事、一昨年から昨年へかけて半年許りも脳を煩らうたと云ふが、成程其目付が、何処か恁うキラキラして居て、何となき不安を示して居る。そして札幌の大黒座で堀江四郎、川上薫、稲葉喜久雄等と共に壮俳になつて居る朝霧映水と云ふのが、彼女の兄だと云ふ。兄は声がよくて、且つ三味線や唄は、妹が師匠から稽古するのを、聞いて居ただけで覚える程、芸にさとい方ださうな。……人の話によると、彼女の二才になる小供といふのは、雲海丸(運開丸?)の船長とかの間に出来たのださうなが、今の芸妓十人中、芸にかけては小静の右に出るものなく、又顔から云つても助六の次であるといふ。そして脳を悪くした為めに、時としては不意に卒倒する事があるさうで、今、知れ渡つて居る弗旦は笠井病院の万沢医学士とモ一人は仲買商の富士屋と云ふ男なさうな。又彼女自身は、北東新報の社長たる西嶋君から、嘗て結婚を申込まれたが、断つて了つたので、その所為か北東紙は常に悪感情を持つた記事を掲げると喞して居た。 今日漸やく今月の“明星”が来た。 夕方宿に帰ると、せつ子と母から弁解の手紙が来て居た。 今夜と明晩、新夕張炭山の惨事の為めに、北東社が催した慈善演劇会があつて、社中の者のみで演ずるといふから、七時頃釧路座へ見に行つた。随分不真面目なものだ。記者だけでやつた中幕“編輯局の光景”で、横山君の芸妓お佐勢だけは実に巧かつた。記者席の向ふの桟敷には、鹿島やの市子やの初子が来て居て、其処へ行く男の方が、芝居其物よりも多く人の注意を牽いて居た。十一時帰る。 今月の文芸倶楽部は発売禁止になつた。それを鈴木正実堂から特別を以て持つて来た。巻頭生田葵君の“都会”、普通の事件を新しく書かうと云ふのが同君近頃の立場らしい。此篇の如きも其意味に於て幾分の成効をして居るが、禁止になつたのは多分此うちの或部分が余程赤裸々な書方をしてる為であるらしい。 紀 元 節 二月十一日 今日は、大和民族といふ好戦種族が、九州から東の方大和に都して居た蝦夷民族を侵撃して勝を制し、遂に日本嶋の中央を占領して、其酋長が帝位に即き、神武天皇と名告つた紀念の日だ。第一学校の式に臨むつもりであつたが、朝寝をしたため駄目。今朝の新聞には、僕が釧路婦人会を幽霊婦人会と罵倒した記事が載つて居る。釧路の発達は斯くして刺激を与へる外に、仕方がない。 野辺地の父から、前便を取消す手紙が来たので、小樽の母と、父へ手紙を書いた。 午后一時頃、上杉小南子がやつて来た。物理学校を卒業して六十五円の中学教師を勤めた人だが、敗残の人ははかないもので、今二十円の新聞記者とは可哀相である。無能な代りに頗るの好人物だ。世間話に花が咲いたが、今日は紀元節だからと、連立つて鹿嶋屋に行つたのは三時頃。平常着の儘の歌妓市子は、釧路でも名の売れた愛嬌者で、年は花の蕾の十七だといふ。フラフラとして好い気持になつて、鳥鍋の飯も美味かつたが、門を出たのは既に黄昏時であつた。芝居にはまだ早しとへ時化込む。例の五番の室は窓に燃ゆる様な紅のカアテンを垂れて、温かである。小静はお座敷といふので助六を呼んだが、一向面白くない。女中のお栄さんと云ふのが、其社会に稀な上品な美人で、世慣れぬ様がいぢらしいと小南子が浮かれる。芝居につれて行かうぢやないかと云ふので交渉したが、今夜は釧路懇話会があるので急しいとの事。 八時頃に飛出して釧路座の慈善演劇へ行つた。昨夜よりは見上る許り上手に演つて居る。同じ桟敷に本行寺といふ真宗の寺の奥様が娘の三尺ハイカラと一緒に居たが、釧路病院の俣野君や太田君も来合せて仲々賑かであつた。娘の手は温かであつた。帰りは午前一時半。 二月十二日 今日は編輯局が賑やかであつた。日景緑子に播州赤穂で芸者をして居る“みどり”といふ女から長い手紙が来た。緑子はそれを読んで聞かせる。早速それを編輯日誌にかいた。小南子、宿酔の気味で時々女中美論を称へる。 三時半に〆切つて、宿へ帰つて小南子と夕飯を共にし、仏教論や人生論が出た。そして人間といふものは、考へれば考へる程ツマラヌ者だと云ふに帰着した。不如、そんな事を考へずに人生の趣味を浅酌低唱裡に探るべしと、乃ち相携へて丸コに進撃した。 二階の五番の室を僕等は称して新聞部屋と呼ぶ。小玉と小静、仲がよくないので座は余りひき立たなかつたが、それでも小静は口三味線で興を添えた。煙草が尽きて帰る、帰りしなに小静は隠して居た煙草を袂に入れてくれた。 此日は余程好い日であつた。朝に、小樽の澤田信太郎君、藤田高田両少年詩人、及び本田荊南君からの詳しい消息に接し、社に行つて京なる与謝野氏のハガキを見た。 寝たのが一時。 二月十三日 夕方、日景君と共に鶤寅といふ料理店へ行つて、飲み乍ら晩餐を認めた。歌妓ぽんたの顔は飽くまで丸く、佐藤国司君の嬖妾なる小蝶は一風情ある女であつた。八時頃隣室に来て居た豊嶋君讃井君及び福西とかいふ人々と一緒になり、座を新らしくして飲み出した。すゞめと云ふ芸妓は、実に小癪にさわる奴であつた。十時頃辞して帰つて来ると、第三学校の遠藤君が来た。 十一時、二人で鹿島屋を襲ふた。例の愛嬌者の市ちやんと清子、景気よく騒がしたが、今朝の新聞に市子の事を出してあるので、少なからず脂を絞られた。二人を唆かして色々と粋界の裡面を覗ひ、市ちやんから“釧路粋界”一部に自筆の名前とデヂケーシヨンを書かして貰つて来た。 寝たのが一時。 二月十四日 昨日の酔のためか、十一時に漸く起きて出社。風邪の気味で、何となく躯の加減がよくない。昨日入社した編輯助手永戸泔水は、女にかけては訥言敏行といふ人相をして居る。 今日の編輯局は南畝氏太田氏を初め有馬君古川君らの来訪で大分賑やかであつた。然し僕にとつては少し風向が悪くて、市ちやんの“粋界”事件が曝露し、小静が問題になり、緑子はぽんたの事まで引合に出して、散々大笑ひをした。 〆切つてから、富士屋といふ宿屋に今度来た薩摩琵琶手有馬正彦君を訪問、晩餐を御馳走になつて八時帰る。 久振に宿に居る様な気がする。一月中に来た年始状を調べた。 二月十五日 毎晩就寝が遅いので、起床は大抵十時過であるが、今朝は殊に風邪の気味で十一時に起きた。寒気は余程緩んで来た。南の窓に日が一杯さして、春めいた心持もする。屋根には鳩がポツポと啼く。 社に行つて、並木翡翠君からの上京の通知に接した。午后三時編輯を締切つて帰る。 手紙が三本来てゐた。野辺地の父からは、早く此方へ来たいといふ事。堀合の父からは詳しい消息。モウ一本は京なる植木女史の長い長いたよりで、封じ込めた白梅の花に南の空の春を忍ばしめる。三年前の四月十五日、隅田川辺の桜老いたる伊勢平楼で新詩社の演劇をやつた時、一曲春の舞を舞ふた村松某といふ少女が昨年あへなくも亡き人の数に入り、其母君も間もなく物故せられたといふ。世の中は恁うしたものかと書いてる。世の中のといふ言葉はヒシと許り胸に応へた。 四時半頃から有馬君のために催した釧路座の薩摩琵琶会に行つた。定刻の六時過ぐる十分の頃には既に木戸〆切といふ盛会、釧路初めてだといふ。琵琶は左程でもなかつたが、琴、ヴアイオリン、剣舞、独吟など、仲々に陽気であつた。佐藤衣川子の剣舞には僕が詩吟をやつた。 鶤寅と鹿島屋から芸妓が来て居た。背の低い丸顔の、本行寺といふ寺の娘の伊藤某女は、明後日の愛生婦人会総会は、貴君に攻撃されるから、時間は正確に午前十一時から初めるといふて居た。植木の千ちやんから来た白梅の花を、どこやら面影の似通つて居る鹿島屋の市ちやんにやつた。 会が済んでから、明晩は釧路北東二新聞合同して余興に文士劇を三幕やるといふ事が決定した。僕も亦出演するので、筋は新聞社探訪の内幕といふ話。僕の役は日景君と共に記者になるのだ。 北守夫人や鈴木信子女史や、釧路婦人会の連中も来て居たので、先日紙上で幽霊婦人会と攻撃してやつた話が出た。不遠会員を募集するといふて居た。これは自分の記事の反応だ。 十時半帰る。正実堂へよつて“滝口入道”買ふ。 二月十六日 今日は日曜日。十時起床。 手紙二通、函館の斎藤大硯君と吉野白村君から来た。大硯君は総選挙まで函館日々新聞へ筆をとる事になつたといふ。吉野君の転任問題は、要するに俸給問題である。 十一時、支庁の梶君を其自宅に訪ふたが、留守。名刺と吉野君からの手紙を置いて来た。佐藤国司君を訪うたが矢張留守。斬髪して、予て毛生薬を貰ふ約のある釧路病院の俣野君を訪ふ。これも留守。今日は人間が皆家に居ぬ日だと思ふ。 今日は正午から釧路座へ集つて、釧路北東両社合同演劇の稽古をする筈なので、行つて見ると、日景君を初め二三の人が早来て居た。芸題は“無冠の帝王”一名“新聞社探訪の内幕”ときまり、全三場、予は第一幕及び第三幕には新聞社主任記者として登場し、第二幕には大山師の乾分となりて出ることになつた。(一)新聞社主筆室。(二)料理店客室。(三)編輯局。 三時半頃から既に詰かけた会衆があつた。これは今朝の新聞に、定刻前に来なくては入場することが出来ぬと書いて置いた為である。新聞の勢力と云ふものは、意外に強いものと思つた。へ行つて夕食を了へて来ると、既に開会に間がない。 有馬君の琵琶は、今夜余程声がよくなつて居た。ヰオリンと琴の合奏やら剣舞やらで、八時頃愈々芝居になる。僕は顔に少し白粉を施こし眉をかいた。 第一幕は日景君と予との対話で幕があいた。土地喰山師花輪(北東)が上杉伯爵に伴はれて来て、此日の紙上で攻撃された事を弁解し、帰りに袖の下を置いてゆく。僕が佐藤探訪を呼んで精探を命ずると幕。第二幕は料理屋奥座敷で、花輪と其乾分なる僕が密議を凝す。隣室で佐藤が一々話をきゝ取るといふ仕組。北東の横山君の芸妓お佐勢は実に巧かつた。第三幕は編輯局、模様よろしくあつて佐藤帰り来り、精探の結果を僕が書く。北東の西嶋社長の予審判事が家宅捜索に来る。僕が委細弁明して帰す。それを呼びとめて新聞記者は無冠の帝王だと威張る。幕。 芝居は一回の稽古だにしなかつたのに不拘、上出来であつた。十時半に済む。それからへ行つて大に飲むで、一時半帰る。 今日は、どうしたものか、大に浮かれた。 二月十七日 起きてせつ子と母の手紙を見た。社に行つて珍しくも、小樽に居る野口雨情君の手紙に接した。今日は編輯局裡深く宿酔の気に閉されて、これといふ珍談もない。緑子は頭痛のため正午帰宅、小南子亦早退。四時頃〆切つて帰ると、角掛清松の手紙は此方へ来たいから旅費を呉れといふ。宮崎郁雨君からは、其結婚問題に就いて意見をもとめて来た。 郁雨君へは早速返事をかいて、其昔の恋人の妹なる人に聟となることを勧めた。晩餐を済して佐藤南畝氏を訪ひ、北東の横山分取案を話し、八時半帰つて来ると、モ少し先に女の方が訪ねて来たといふ。よく聞いて見ると、本行寺の娘さんらしい。今日同寺で愛正婦人会の総会があつたのだが、社の都合で行けなかつた。 昨日留守中に釧路病院長の俣野君が置いて行つて呉れた毛生薬を今夜からつけ初めた。 二月十八日 夜、植木へ手紙書いて、風呂に行くと、工場の者が二三人来合せた。つれて帰つて、お菓子をくはしてやる。 一時就寝。 この日堀田秀さんから手紙が来た。 二月十九日 この日、本道鉄道冬季操業視察の新聞記者一行歓迎委員として、緑子旭川に向つた。新聞上一切の責任がこの一身にある。 二十二日の新聞に附録とすべき統計の調査を命じて、午後二時〆切る。風邪の気味で筆をとる気にも成れぬので、ブラブラ出掛けて第三学校の後の窪地に遠藤君を訪ねた。夕食を喰つて帰つて、浦見町に南畝氏を訪ねる。讃井君も来て居た。色々話して九時帰る。 二月二十日 起きて楊枝を使つている所へ、内国生命の林斅君が来た。初対面の挨拶よろしく、一寸気持のよい男で、八字髯が長い。 出社。昨夜遅く書いた“増税案通過と国民の覚悟”を載せる。 夜、また林君が来た。操業視察隊一行の出迎は失敬して、一緒に鹿島屋に飲む。市ちやんは相不変の愛嬌者、二三子といふ芸者は、何となく陰気な女であつた。強いてハシヤイデ居る女であつた。十一時出たが、余勢を駆つて、鶤寅へ進撃、ぽんたの顔を一寸見て一時半帰る。 室に入つて見ると、誰かしら寝て居る者がある。見るとそれは澤田天峯君であつた。小樽日報特派員として視察隊一行と共に来た澤田君であつた。話はそれこれと尽きぬ。桜庭嬢の事も聞いた。母者人が頑固なため容易に物にならぬといふ話。それから室蘭で金六といふ芸者に惚れられた事、札幌で生れて初めて遊郭に遊んで、松が枝といふ太夫の美しかつた事、……午前三時半枕に就く。 枕を並べて寝て、えも云はれぬ心地がする。なつかしいものだ、友達といふものは。 洋燈の光に友の寝顔を見つつ眠る。 二月二十一日 日景君に起された。秋浜融三君から、今度の日曜に出釧して逢ふと云ふ手紙が来た。 今日は急しい日であつた。明日の紙上に附録とすべき釧路発達状態一覧の統計を編んだ。午前中に視察隊の一行が来て、一緒に社の前で撮影した。緑子は一行を案内して安田の炭山などへ行く、自分は午後四時漸々斧を揮つて編輯を締切つた。 澤田君と共に帰ると、北東の横山城東が来た。別室で話して、今日先方を退社された事を聞いた。理由は、僕の方へ運動したからといふのださうな。両三日中に此下宿へ来る事、そして僕の方へ入社する事を決定した。 刑事の三浦君も訪ねて来た。 七時澤田君と共に、有志発起の視察隊歓迎会に望む。会場は喜望楼。来会者約八十名に上り、仲々盛会であつた。樽新の坂牛君、タイムスの小川君、道庁属にして詩人夜雨君の兄なる横瀬君らに逢ふ。市ちやんと鶤寅の小奴は仲々大モテで、随分と面白い演劇もあつた。帰りに一行の宿なる三浦屋を訪ねて、小川黙淵君と築港問題について談る。 少なからず酔ふて居た。十二時眠る。 二月二十二日 一行と共に日景君も今朝七時旭川に向けて出立した。出社すると函館の西堀秋潮君から絵葉書が来て居た。 小奴が佐藤君を今朝訪ねて、何か僕の事を云つたとかで、少し油をとられて大笑ひ。四時に締切る。 今夜は、二十日に初号を出した実業調査会機関の“釧路実業新報”創刊祝で、南畝氏の招待をうけ、同人と共に六時鶤寅に行つた。北東からは西嶋社長と花輪君、タイムス支社の太田君、北海旭の甲斐君、外に神稲葉君らで、小蝶に小奴に春吉、小奴のカツポレは見事であつた。 釧路へ来てから今夜程酔うた事はなかつた。十時半景気よく送出されて帰宿、その儘枕についた。 此日社から今月分俸給二十五円受取つた。 二月二十三日 今日は日曜日。秋浜融三君が来るか来るかと待つたが、遂に来なかつた。岩手の小笠原迷宮君から珍らしく久振の手紙が来た。 夕方、林君が来て、晩餐を共にした。 夜、南畝氏を訪ふたが留守。タイムス支社の太田君を訪うて十時頃[迄]話す。誠に角のとれた人で、十二になる娘のきくちやんは可愛い児である。 二月二十四日 朝から晩まで、“雲間寸観”を初めとして三百行も書く。終日筆を放たずに、昼飯を喰ふのも忘れた。 五時頃締切つて帰ると、秋浜君から、昨日来られなかつた詫状が来て居る。林君から明朝立つて札幌に帰るといふ手紙と共に、煙草一箱を贈つて来た。 九時頃、衣川子を誘ひ出して鶤寅亭へ飲みにゆく。小奴が来た。酒半ばにして林君が訪ねてきて新規蒔直しの座敷替。散々飲んだ末、衣川子と二人で小奴の家へ遊びに行つた。小奴はぽんたと二人で、老婆を雇つて居る。話は随分なまめかしかつた。二時半帰る。 小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活発な気持のよい女だ。 二月二十五日 社から帰ると夕飯。詞壇の歌をかいて居るところへ横山君が来た。晦日には愈々此下宿へ来るといふ。一緒に出掛けて、鶤寅へ行つたが、室がないとの事で仕方なく、或る蕎麦屋へ行つた。小奴へ手紙やつて面白い返事をとる。 一時頃まで喰つて飲んで、出かけると途中で変な男に出会した。跡をつけて見たが二時間許り、時間を空費したに過ぎなかつた。 二月二十六日 自分の対北東策は着々として成功して行く。誠に心地がよい。 朝起きて和賀君からの手紙と岩崎君のハガキ、社に行つて松坂君の手紙。帰つて来て向井君の旭川出張先からのうれしい手紙と、昨日打電して置いたに対する宮崎郁雨君からの三十五円の電報為替を受取つた。友の厚意に何と謝する辞もない。 小南衣川泔水三子に誘はれて、鹿嶋屋に行つた。今日はオゴラセられた。市ちやんの踊。 十一時頃、小南泔水と鶤寅へ進撃、すぐかへる。 二月二十七日 電為替を受取つたので、気持がよい。夕刻鹿嶋屋へ寄つて、佐藤南畝氏を訪ふ、快談一時間。帰りに衣川、小南、泔水三子に逢ひ、つれて帰つて一緒に牛鍋の夕飯。遠藤君が来て居た。三人が帰ると、工場の福嶋が来たから金を呉れて探訪にやる。遠藤君と鶤寅に行つた。中家正一(第三学校教員)といふ人が来て初対面、大に飲む。すずめに大に泣きつかれる。 二月二十八日 朝起きて、せつ子からと小国君からの手紙を読む。せつ子は第二の恋といふ事を書いてよこした。何といふ事なく悲しくなつた。そして此なつかしき忠実なる妻の許に、一日も早く行きたい、呼びたいと思つた。京子の顔も見えた。 社に行つて、小僧に十五円電為替小樽へ打たせた。今日は何となく打沈んだ日だ。編輯に気が乗らぬ。心が曇つて居る。 旋網漁業に関する社長からの特電を号外として出さして、四時頃帰る。アトは三人に委せて来た。 社長へ打電して、小奴が一昨夜から胃痛で居るのへ見舞に行く。寝て居た。ぽんたは頻りに介抱して居る。随分苦し相である。心は益々重くなつて五時帰る。 宮崎君からまた十五円来た。遠藤君が来て、第三小学校改革に関して、記事を中止する事を申込む。帰つて行つてから、宮崎君へ手紙認めた。八時頃小奴の許へ、手紙やつて、見番の出資者を訊したが、知らぬといふ返事が来た。 二月二十九日 昨日来た日高の大嶋君の手紙を繰返し読む。下下方小学校の代用教員とは何の事だ。噫、自から人生の淋しき影をのみ追ふ人、自から日の照る路を避けて苔青き蔭路を辿る人! 大嶋君は怎して斯ういふ人だらうと、自分は悲しさに堪へぬ。去年の七月末、風もなく日の照る日の事だ、函館の桟橋で白い小倉の洋服を着た君の、背をそむけて去る後姿を見送つた時の光景が目に浮ぶ。 盛岡の師範学校に居る千葉春松君から、其作を浄書した“十三絃”の一集と、謄写版刷の雑誌“満潮”一部に、丁重なる手紙を添えて送つて来た。何といふ事はない、自分は無性に七八年前の白羊会時代が恋しくなつた。不来方の古城の跡の蔦の葉が見たくなつた。アノ内丸の時の鐘の、蒼古の声が聴きたくなつた。 岩見沢の姉からも手紙が来た。光子は病気で小樽に行つて居るといふ。 社へ行つてから、遠藤君から十二円八十銭送つて来た。宮崎君の為替も受取らした。五時〆切つて帰る。途中方々の払を済し、松屋の佐々木君から自分の“あこがれ”一部没収して来た。 今月自分の手に集散した金は八十七円八十銭、 釧路へ来て茲に四十日。新聞の為には随分尽して居るものの、本を手にした事は一度もない。此月の雑誌など、来た儘でまだ手をも触れぬ。生れて初めて、酒に親しむ事だけは覚えた。盃二つで赤くなつた自分が、僅か四十日の間に一人前飲める程になつた。芸者といふ者に近づいて見たのも生れて以来此釧路が初めてだ。之を思ふと、何といふ事はなく心に淋しい影がさす。 然しこれも不可抗力である。兎も角も此短時日の間に釧路で自分を知らぬ人は一人もなくなつた。自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。噫、石川啄木は釧路人から立派な新聞記者と思はれ、旗亭に放歌して芸者共にもて囃されて、夜は三時に寝て、朝は十時に起きる。 一切の仮面を剥ぎ去つた人生の現実は、然し乍ら之に尽きて居るのだ。 石川啄木!!! 弥 生 三月一日 日曜日。 工場の者が二人来て、起された。十一時。小野清一郎君からハガキと盛岡中学校校友会雑誌を送つて来た。 間もなく永戸が正宗二本持つて来て、牛鍋で飲み初める。此男は矢張駄目だ。漸々一本平らげた所へ北東の小泉君が遊びに来た。男らしい気持のよい人間だ。相携へて鹿嶋屋へ行く。 飲み、且つ食ふ。小泉君はお国自慢の磯節を歌ひ、且つ北東社中の機密まで赤裸々に語つた。横山をとる事議一決。さて、市子は可愛いゝ眼をして無邪気な話をする女だ。酒が廻つてから一つ宛自分の惚れられた話をする事になつて。小泉君は電車の中の束の間の恋を談つた。市ちやんは小学時代の稚い恋物語をした。 四時頃帰宅。敗徳教員問題について、教員五名連署の記事中止申込が来て居た。 雪が頻りに降つて居る。夜また工場の者が来た。 十一時前に枕についたが、二時過ぐる迄眠れなかつた。 三月二日 (※日付のみ) 三月三日 朝、横山君が訪ねてきて、今夜この下宿へ来る事に決定。 編輯は早く締切る。日景主筆が今暁四時無事鉄道操業視察を終つて帰社したので、五時から鶤寅亭に慰労会を開いた。南畝氏を初めとして、社中同人一同、小南、衣川、泔水に予。校書は小蝶、小奴、ぽんた、後で妙子といふのも来た。小奴は予の側に座つて動かなかつた。 酔ふて九時半頃散会。出る時小奴は一封の手紙を予の手に忍ばした。裏門の瓦斯燈の仄暗き光に封を切ると、中には細字の文と共に、嘗て自分の呉れてやつた紙幣が這入つて居た。小奴の心は迷うて居る。予は直ぐ引返して行つて玄関をあけた、奴を呼んで封筒のまゝ投げて返す。 本行寺の加留多会へ衣川と二人で行つて見たが、目がチラチラして居て、駄目であつた。帰りに小奴に逢つた。 宿には横山城東子が約の如く待つて居た。今夜から隣りの部屋に居るのだ。 三月五日 夜に入つて吹雪となつた。窓の硝子が礑めいて、飃々たる風の音、何とはなく心地よく胸に響く。城東子と連立つて鹿島屋に進撃した。追風を背に受けて、人一人通らぬ真砂町を走つた。 既にして市子が来たが、常の如くでない。小奴に金色夜叉を置いて来た事を一晩怨まれた。一時頃帰つて大笑ひ。 三月六日 夜、北東の小泉奇峰君と語る。朝に四合、夕に四合、酒がなければ生きて居られぬといふ男で、常に都の空を慕うて居る。男らしい、邪気のない、少しも隔てのない男だ。 三月七日 今日は記者月例会、早く締切つて冨士屋にゆく。会する者十一名、月番幹事の永戸が一番殺風景で、一番遅く来た甲斐君が一番愛嬌を振巻いた。席上、記者倶楽部建設(予算三千円)の件を決議。旋網漁業組合から一千円出させるといふ軍略。それから趣意発表を兼ねて資金造成の演劇会をやる事も決し、其下相談として、九時頃から花輪君、古川君、衣川と四人鶤寅亭に飲んだ。 三月八日 日曜日。十一時半起きたが、戸外は凄まじとも何とも云はん方なき大風雪。 第三学校に児童学芸会がある筈だつたので、一時頃、蛮勇を揮つて独り行つた。途中二度許り雪中に立往生せんとして漸く辿りついたが、会は一週間延期。夕刻、人々の止めるのもきかで帰らうとしたが、少し来て歩けなくなり、再び学校に引返して遂々泊つた。布団四枚に男八人。夢も結び難き大荒で、戸が脱れて硝子の壊れる音凄じかつた。 此日の風雪で春採其他に多数の潰家及び圧死者が出来た。 三月九日 八時頃、飯も食はずに第三学校を辞した。或る漁夫が来て春採の潰家の話をしたからで。 街上の雪は庇まで達して居る。衣川子を叩き起して春採行の命を伝へ、真砂町を帰ると、入口から雪へ墜道を掘つて、出て来た男を見た。生れて初めての大風雪、形容も何も出来たものぢやない。雪は全く人間を脅迫して居る。 社に行つたが、工場に雪が這入つて機械に故障あり、止むなく一日休刊。 夕刻衣川子が来て報告、随分無惨の死を遂げたものもあるとの事。殆んど半日雪の中を歩かしたので、鶤寅へ晩餐を食いに行つた。酒は飲まなかつた。 衣川から、今迄に三四回自分を留守中に訪ねて来た女が本行寺といふ真宗の寺の娘、小菅まさえ、三尺ハイカラと綽名された奴だと聞いた。そして鶤寅へ行く途中、真砂町の雪の中で逢つた。帰つて来て見ると、その後で訪ねて来たとの事。所謂三尺事件なる者茲に起る。 三月十日 朝、向ひの笠井病院の看護婦梅川操といふ女から手紙が来た。一度加留多会に逢つただけの人、不思議に思つて封切ると、それは三尺娘から依頼されて、会見の日時を尋ねる手紙。返事は態とやらぬ。 出社して、風雪被害の記事一頁書いた。田舎の新聞には惜しい程の記事と思ふと、心地がよい。 心地よく帰つて来ると小泉君が来て居た。何日逢ふても気持のよい男である。社に使やつて十円とり、横山と三人出掛けたが、途中羽鳥に逢つて捕虜にし、鶤寅に繰込んで盛んに飲む。小奴は非常に酔ふて居た。此日自分へ手紙出したといふ事であつたが、まだ届かぬ。(此夜の事を翌日“雪の夜の記”にかく) 三月十一日 小奴の長い長い手紙に起される。先夜空しく別れた時は“唯あやしく胸のみとどろぎ申候”と書いてあつた。相逢ふて三度四度に過ぎぬのに何故かうなつかしいかと書いてあつた。“君のみ心の美しさ浄けさに私の思ひはいやまさり申候”と書いてあつた。 今日も亦終日の大吹雪、八日程ではないけれど午后は全く交通杜絶。辛うじて社から帰つた。籠城の準備の葡萄酒を買つて。 八日以来各地との連絡全く杜絶、全道の鉄道不通、通ずるのは電信許り。 夜に這入つて雪は雨となつた。葡萄酒を飲んで小奴へ長い長い手紙の返事を長く長く書いた。俺の方では、名も聴かなかつた妹に邂逅した様に思ふが、お身は決して俺に惚れては可けぬと。 三月十二日 昨夜は風雪の為小僧を帰して印刷出来ず、今日の新聞を今日十二時に漸々刷つた。其為明日のは二頁。 留守にまた例の三尺が来たと云ふ。 上杉君葡萄酒を買つて来た。北東の野村、羽鳥も来た。十時まで語る。 三月十三日 三尺事件には弱つて了ふた。名詮自称、背の極て低い、庇髪の、獣の如き餓ゑたる目をした女で、東京に行つて居つたといふのが自慢、歌留多を種によく男を訪ねる。今迄にもをかしな噂に上つた事一度や二度ではない。その三尺女史が今自分を繁々訪問するとは何の事だ。訪問するだけならまだよい、臆面もなく梅川その他の人に向つて僕に対して云々といふ心中を打明けるとは抑何事だ。 夜、梅川が来た。横山と二人で応接する。結局此第三者二人に全権を委任して、一度だけ三尺を連れてくる事、其時巧く芝居をやつて将来寄せつけぬ様にする事と議一決。 梅川は十一時頃まで居た。そして色々な話をして行つた。年は二十四、背の高くない、思切つて前に出した庇髪を結つて、敗けぬ気の目に輝く、常に紫を含んだ衣服を着てゐる、何方かと云へば珍らしいお転婆の、男を男と思はぬ程ハシヤイダ女である。其語る所によると、――女の母は釧路に、父は函館に、或事情からして別れて居る。母と頑固な伯父が、ズット以前にきめて置いた許嫁があつた。函館に居た時、父も亦或熊本生れの軍医と許嫁にした。とある夏、女は母が大病といふ電報で釧路に呼帰されたが、大病な筈の母が波止場に出迎へて居た。本人は進まなかつたが、許嫁との縁談が漸く熟して、先づ毎日其家に行つて居る事になつた。朝に行つて夕方に帰る。然し本人は当時脚気で熊本に行つて居る軍医がなつかしくて、当の男は厭であつた。熊本から正式に申込書が来た時は、然し乍ら、断つてやつたさうな。既にして男は、女の友達なる或女と関係を結んだ。ソレが却つて当時の自分に嬉しかつたと女は云ふ。(無論これは負惜みだ。)やがて此縁は切れて、或女は此女と位置を代へた。日露の戦役が起つて、予備中尉なる男は従軍した。そして間もなく旅順で戦死した。此戦死も毫も心を動かさなかつたと女がいふ。女は東京に出た。そして造花を習つた。当時熊本生れの軍医は東京に居て、妻もあり、子もあつた。訪ねて行くと、其妻君は実に実に親切な人で、宛然妹の如く遇してくれた。それを喜んだのは此方の弱い所、嬉しいと思つて時々訪ねるうちに、細君は段々変つて来た。著しく変つて来た。女といふものは怎して恁麼ものでせうと梅川は嘆じた。茲に於て女の東京に居るべき根本の理由がなくなつた。残骸の如き女は、恨みを呑んで函館に帰つた(昨年四月?)。そして造花の先生をして居たが、火事に逢つて釧路に帰つて、上京前にも居た事があつたから再び笠井病院に入つたといふ。 此女は嘗て何処かで見た女だと思つて考へた。そして漸々解つた。去年の七八月の頃、函館に居て、或夕方友と共に、――確か白村君と翡翠君?――公園に杖を曳いた。通りぬけて谷地頭に行つて、また公園に来て、運動場に来ると、一群の小供らと共に、ブランコに乗つて居た、誰が見てもお転婆と見える一人の女があつた。其女は此女であつた。実に此女であつたのだ。 現実修飾の悲哀を、(と自分は看た、)此女は感じて居る。男を男と思はぬ様な、ハシヤイダ、お転婆な点は、閲歴境遇が逆説的に作り上げた此女の表面の性格である。然し二十四にして独身なる此女は、矢張二十四で独身な女である。心の底の底は、常に淋しい、常に冷たい。誰かしら真に温かい同情を寄せてくれる人もと、常に悶えて居る。自ら欺き人を欺いてるだけ、どちかと云へば危険な女である。 三月十四日 夜、歌留多会を開く。来会者、小泉、横山、羽鳥、野村、高橋、平尾、佐藤、と僕。久し振で腕は鈍つて居たが、自分が一、佐藤が二、横山が三。男許りで騒いでる所へ梅川が来て、遂々一の株を奪はれた。 女は一番遅くまで残つた。僕も横山も眠さうな顔したので三時半やうやう帰る。 三月十五日 日曜日。第三小学校の児童学芸会へ午后一時から臨席。半日を天真爛漫の裡に遊んで夕刻帰宿。 梅川と三尺が来て歌留多。小泉佐藤らも一寸来て帰つた。横山が巧く芝居をやつてくれて、三尺は、モウ之で満足だから今後来ぬと云ふて帰る。十時頃。横山と共に二人を送つて行つて、帰りに波止場の先の荷揚場へ行つた。十五夜近い月が皎々と照つて、ヒタヒタ寄せくる波の音が云ふ許りなくなつかしい。船が二隻碇泊して居る。感慨多少。名刺を波に流した、二人も流した、芸者の名刺も流した。潮が段々充ちて来た。自分らは、梅川の袂に入れて行つたビスケツトを噛つて、“自然”だと連呼した。 月が明るい。港は静かだ。知人岬の下の岩に氷交りの波がかかると、金剛石の如く光る。光る度に三人は声を揚げて“呀”と叫んだ。三人! 二人は男で一人は女! 三人は“自然”だと叫ぶ。三人共自然に司配されて居る。そして寧ろそれを喜ぶものの如くであつた。噫、自然か、自然か。此夜の月は明かつたが。 “三月十五日は忘れまい”、と一人が云ひ出した。“さうだ、忘られぬ”と一人が応じた。かくて此三人を“ビスケット会”と名づけた。“ビスケット会は自然によつて作られ、自然を目的とす”と誰やらが云ひ出した。“毎月十五日には、お互何処に居ても必ずビスケットを食ふことにしませう”と女が附加した。二時頃月を踏んで帰つて寝る。 三尺事件の前篇は、ビスケット会で結末になる。まだ後編が必ずある、必ずあると云ふ様な気がして、我知らず眠つた。 三月十六日 起きて見ると腹中形勢不穏。朝飯に章魚を喰つて愈々痛み出した。社を休む。 何にも面白い事が無い。夜九時過ぎ、何か美味い物が喰ひたくなつて横山と共に近所の蕎麦屋へ行つた。隣室に小泉君と羽鳥が来た様子だつたので、横山と相談して、昨夜小泉君が名刺(女名の)で欺いた復讐をした。うまく行つて哄笑ひ。 帰つて寝る。 三月十七日 十二時起床。何とはなく不快で今日も休む。灰神楽に逢つた鉄瓶の尻みたいな顔をして、永戸が一寸来て行つた。 夕刻、日景君が衣川子と共に来た。一緒に晩飯を認める。与謝野氏の手紙と“明星”が社に来て居たといふから、女中をやつて取寄せる。今月の応募歌題“瓶”の撰者を事後承諾で僕にして居る。手紙には、自然主義が大体から見て文壇の一進歩だと書いてある。 梅川が、小さい花瓶に赤いリボンを結へて、燃ゆる様な造花の薔薇一輪をさしたのを持つて来た。日景君が散々揶揄する。 日景君は自分の初恋の話をした。失恋といふ事は、恁麼男の性格まで変へるのかと思ふ。軈て帰つて行つて、佐藤と梅川残る。 二人が帰るといふので、門口まで送ると、戸外には霜かと冴ゆる月の影、ウツカリ下駄をつツかけて出た。心地がよい。誰の発議ともなく、此間の晩の浜へ行つた。汐が引いて居て砂が氷つて居る。海は矢張静かだ。月は明るい。氷れる砂の上を歩いて知人岬の下の方まで行くと千鳥が啼いた。生れて初めて千鳥を聞いた。千鳥! 千鳥! 月影が鳴くのか、千鳥の声が照るのか! 頻りに鳴く。彼処でも此方でも鳴く。氷れる砂の上に三人の影法師は黒かつた。 三月十八日 今日は出社。面白い事もない。四時頃小南君と伴つて帰宿。 隣りの横山君の室に三尺の声がする。十分許りして帰つた様子。横山が来ての報告によると態々呼びつけて今後此下宿に訪ねぬ様忠告してやつたとの事。七時頃一寸外出。 三尺は必ず梅川に寄つて行つたに違ひない。何と云つたらうといふので、横山から梅川へ手紙やつた。今行きますといふ返事。軈て来た。泣いて居る。涙がとめどもなく流れる。何といふても泣いて居る。此女も泣くのかと思つた。 漸々にして解つた事は、三尺が帰りに寄つて“今後石川さんに途中で逢つても言葉もかけぬから御安心なさい”と云つて行つた事。上杉君が先刻来て、三尺の事を云つた時、何か気に障る言を発したとかで、アトで口惜くて口惜くて、一人人の居ない診療所に入つて声を放つて泣いた事、そこへ衣川子が来て親切な言を以て慰めた事。そして頻りに泣く。横山も自分も、殆んど持余した。 泥酔した声が下に聞えて、グデングデンになつた永戸と刑事の三浦がやつて来た。永戸は是非今夜一つ飲まして呉れと云ふ。何と恁う人間といふものは浅間しいものだらうと、自分は不愉快でたまらなかつた。永戸一人なら剣突を喰はしてやるが、三浦が来てゐるので、仕方なく、アトで行くからとて二人を梅本楼へやつた。迎ひが来た。又来た。十一時半漸く行つて見ると、二人共マルで獣の如く見える。芸者小梅も獣、半玉雛子の声は鰹食つた猫の様だ。 十二時出た。路次の雪に倒れた三浦を永戸に任して、月明らかなる真砂町を帰る。ぽんたが客を送つて来るのに出会して、気の毒な思ひをした。 三月十九日 八時頃永戸に起された。此男の面を見るとイヤでイヤで仕様がない。一緒に湯に行つて帰つて朝飯を食はせる。そして一緒に出かけて社に行つた。何と運の悪い日だらう。 昨夜帰つた時、小樽日報の高橋美髯が来て居た、此室に泊めた。澤田君からの手紙を持つて来た。 医師の俣野君が来て、社で種痘して貰つた。 夕刻帰る。下の室に居る盛中出の銀行員増田が一寸来た。佐藤氏宅の書生富安君が来て十時頃まで居た。一緒に出かけて散歩して、そばを喰つて帰ると高橋や工場の者。澤田君とせつ子へ手紙かく。 十五日、汽車が通じてから今日までの受信、在京の社長からの長い便り。岩崎正君。小樽の白田北洲は新聞配達をしてるといふ。本田君から通信料の催促。与謝野氏の手紙。せつ子から二通。高田紅果の絵葉書。都のてい子さんから二通。澤田君一通。小国善平君一通。二戸の小田嶋孤舟から葉書。秋浜三郎から無邪気な葉書。遂々北門の校正をやめて代用教員になつた加地燧洋から一通。外に明星の歌稿二十余通。 三月二十日 弥生二十日、噫、(と目をさまして枕の上で考へた。)今日だ、今日だ。去年の恰度今日は、渋民小学校の卒業生送別会。“梅こそ咲かね風かほる 弥生二十日の春の昼 若き心の歌声に 別れの蓆興たけぬ”と、自分の作つて与へた“別れ”の歌を、絹ちやんと文子と福田のえき子とが、堀田女史のオルガン、自分のヰオロンに合せて歌つた日。慶三が開会の辞を述べ、栄二郎が金矢氏に一杯喰はせ、自分受持の尋常二年から兼吉、浩一、と七人迄演壇に立つた日。噫、この弥生二十日、今日だ、今日だ。 今頃、自分の弟や妹共は、何をしてるだらうと、なつかしい渋民の村校の職員室やら教場やらを目に浮べ乍ら、朝飯を喰つた。 五時帰宿。程近い宿に小泉君を訪ふと、北東社に新たに入社した菊池君が居た。衣川君も行つて居たが、すぐ帰つて了つた。 菊池君は漢文にアテられた男である。正直で気概があつて、為に失敗をつづけて来た天下の浪士である。年将に四十、盛岡の生れで、怖ろしい許りの髯面、昔なら水滸伝中の人物、今なら馬賊と云つた様な人物。イザと許り小泉君と二人を引張つて、鹿嶋屋に行つた。市子はお座敷、一寸来て金色夜叉事件の嫌味を並べて行つた。 一時間許りして鶤寅に鞍替。女将の愛嬌は此家繁昌の原因だ焉。小泉君は程なくして酔うて帰つた。快男子菊池、飲む事宛ら長鯨の百川を吸ふが如し。既にして小奴が来た。来てすぐ自分の耳に口を寄せて、“佐藤国司さんが心配してるのよ”と云ふ。何をと云ふと、“小蝶姐さんがネ、石川さんには奥様も子供さんもあるし、又、行末豪くなる人なんだから、惚れるのは構はないけれども、失敬しては可けないツて私に云つたの。”と云つて、“可笑しいのネー。”と笑つた。自分も亦哄然として大笑した。“ほんとに可笑しいのネー。”と奴は再云つた。 十二時半頃、小奴は、送つて行くと云ふので出た。菊池とは裏門で別れた。何かは知らず身体がフラフラする。高足駄を穿いて、雪路の悪さ。手を取合つて、埠頭の辺の浜へ出た。月が淡く又明かに、雲間から照す。雪の上に引上げた小舟の縁に凭れて二人は海を見た。少しく浪が立つて居る。ザザーツと云ふ浪の音。幽かに千鳥の声を聴く。ウソ寒い風が潮の香を吹いて耳を掠める。 奴は色々と身の上の話をした。十六で芸者になつて、間もなく或薬局生に迫られて、小供心の埒もなく末の約束をした事、それは帯広でであつた。渡辺の家に生れて坪に貰はれた事、坪の養母の貧婪な事、己が名儀の漁場と屋敷を其養母に与へた事、嘗て其養母から、月々金を送らぬとて警察へ説諭願を出された事、函館で或る人の囲者となつて居た事。釧路へ帰つてくる船の中で今の鶤寅の女将と知つた事。そして、来年二十歳になつたら必ず芸者をやめるといふ事。今使つて居る婆さんの家は昔釧路一の富豪であつた事。一緒に居るぽんたの吝な事。彼を自分の家に置いた原因の事。 月の影に波の音。噫忘られぬ港の景色ではあつた。“妹になれ”と自分は云つた。“なります”と小奴は無造作に答へた。“何日までも忘れないで頂戴。何処かへ行く時は屹度前以て知らして頂戴、ネ”と云つて舷を離れた。歩き乍ら、妻子が遠からず来る事を話した所が、非常に喜んで、来たら必ず遊びにゆくから仲よくさして呉れと云つた。郵便局の前まで来て別れた。 机の上に高橋美髯の置手紙があつた。明朝の一番で立つから、今夜は停車場前の旅屋へ泊ると。 三月二十一日 春季皇霊祭。休み。 十一時半起きる。顔を洗つて来て、煙草をのんで居ると、鹿嶋屋のてるちやんが来た。二十歳になるといふのに、丈こそは高いが十五六の子供の様だ。社の広岡が遊びに来た。一時間許りゐて帰る。てるちやんも帰る。鈴木の店から持つて来た写真の額を市子へやる。 間もなく社の工場の者が二人来た。厄介だから大気焔を吐いてヘコませる。ヘコませる積りだつたのが、的がはづれて、却つて面白がつて夜になるまで居た。 一日の籠城、怎やら気が済まぬと、九時頃横山を伴れて鶤寅に進軍。水を持つて来さしたコツプで飲まうとすると、妓小奴銚子を控へて大いに酔ふことを許さぬ。自分には飲ませずに人の盃をとつて飲んで居た。 十二時が打つて弾迎へ。にならぬうちに、奴は先に出て門で待つて居て送つて行くからとて坐を辷つた。程なく辞して出ると、奴は其家からコートを着て提灯を持つて出て来た。満街の雪を照して月は水の如く明るい。 酔が大分廻つて居てフラフラする。奴の温い手にとられて帰つて来て、室に入ると火もあり湯も沸つて居る。横山と奴と三人で茶を飲んだ。 兎角して一時となつた。“石川さん、”といふ声が窓の下から聞える。然も女の声だ。窓を開けば、真昼の如き月色の中に梅川が立つて居る。“お客様がありますか”“あります”“誰方?”此時奴は梅川と聞いて、入れろと云ふ。“お這入りなさい。” 月は明くても、夜の一時は夜の一時である。女の身として、今頃何処をどう歩いて来たものか一同合点がいかぬ。入口の戸をトントンと叩いて室に入つた顔を見て驚いた。何といふ顔だらう。髪は乱れて、目は吊つて、色は物凄くも蒼ざめて、やつれ様ツたらない。まるで五六日も下痢をした後か、無理酒の醒めぎはか、さらずば強姦でもされたと云つた様の顔色だ。這入つて来て、明い燈火に眩しさうにしたが、“あまり窓が明かつたもんだから、遂……”と挨拶をする。“これは梅川さん、これは私の妹”と紹介すると、“おや貴女は小奴さんで”と女は挨拶。顔を上げた時、唯一雫、唯の一雫ではあつたが、涙が梅川の目に光つた。 横山と二人で、頻りに目で語つて見たが、一向要領を得ぬ。今時分、若い女が唯一人、怎して歩いて居たのだらう。それは、よしや此女の性格として、有りうべからざる事で無いにしても、今時分下宿屋に居る男を訪問するとは何事だ。且つそれ其顔色は、と幾何疑つても少しも解らぬ。唯、今夜は此女の上に何かしら大事件があつたのだナと云ふだけが、明瞭に想像せられる。 梅川は殆んど何も云はなかつた。唯時々寂しく笑ふては、うつむいて雑誌などをまさぐつて居た。一時が二時となり、三時になつた。それでも帰らうとせぬ。奴も亦帰らうとせぬ。ハハア、根気競べをして居るのだナと思つて、自分は奴と目を見合して笑つた。 夜が閴として、人は皆鼾のモナカなのに、相対して語る四人の心々。雞の声が遠近に響いて暁が刻々に近いて来る。 遂に四時になつた。懐に右手を入れて考へ込んで居た梅川は、此時遂々“どうも晩くまで失礼しました”と云つて帰つて行つた。“私の方が勝つた”と奴は無邪気に云つて笑つた。“勝つ筈ですワ、お呪符を二つやりましたもの。” 見れば、小さい箆甲の髪差を逆さにさして居て、モ一つは、蹴出しの端を結んで居た。これを以て客を帰す呪符だと、我が無邪気な妹は信じて居る! “私が勝つたんだから、これを貰つてつても好いでせう”と奴は云つた。梅川が拵へて来た一輪の紅の薔薇の花は、かくて奴の物となつた。五分許りして奴も亦独り帰つて行つた。 奴の帰つた時、自分は云ひ知れぬ満足を感じて、微笑を禁じ得なかつた。冷えきつた茶を飲み干して自分は枕についた。 が、が、暫しは眠れなかつた。 三月二十二日 日曜日。 小奴からの使で目をさました。十一時半。手紙に添へて、去年の夏捉つたといふ小蝶と二人の写真を贈つて来た。 揃ひの浴衣、立つてるのは小蝶で、左の手を挙げて胸のあたりに白い花を持つて居る。右手は、腰かけた小奴の肩。奴は右の手で、其手をとつて、横を向いて幽かに笑つて居る。小蝶といふ女には、毒がある。心の毒か身の毒か、それは知らぬが毒がある。奴はハッキリして居る、輪廓が明かである。少しも翳がない。花にすれば真白の花である。 江戸のてい子さんから長い手紙が来た。 一時頃、梅川から、二時から三時までの間に訪問するといふ手紙が来た。所へ上杉君が来た。昨夜十一時頃、泥酔した衣川子と梅川が米町を歩いて居た事を聞く。上杉君は、屹度衣川が梅川を姦したに違ひないと云ふ。昨夜の事を思合して見ると、成程と思はれる節の無いでもない。よしソンなら、今日すつかり白状させようと、上杉君をば横山君の室にやつて置いて、室を浄めて待つて居た。 間もなく梅川が来た。怎やら浮かぬ顔をして、其癖、目が輝く。所へ鹿嶋屋の市子が遊びに来た。二十分許り居て帰る。玄関で、“お楽しみ!”などと狎戯けて出て行く。 “昨夜は、私悪魔と戦つて勝つて来ました。”と梅川が云ふ。其話は、昨夜衣川が病院に来て飲んで、十一時頃梅川をつれ出した。厳嶋神社へ行つて口説いて、アハヤ暴行に及ばむとしたのを、女は峻拒して帰つて来たのだといふ。衣川は愍むべき破綻の子、その一身の中に霊と肉とが戦つて、常に肉が勝利を占めて居る男である。別れ際に、“貴女は僕より豪い。”と云つたとか。 “私、悪魔と戦つて勝つたのですね。愉快でした、愉快でした、実にモウ愉快でした、だから私、昨夜アンナに遅かつたけれど、お知らせしようと思つて伺つたのでした。” 予は一種の戦慄を禁じえなかつた。此女は果して危険な女であると思つた。浅間しいやら、可哀相なやら。“花は怎うなすつて?”とは此日此女が此室に這入つて来て初めて出した語である!! 上杉君と横山君が這入つて来て、一緒に梅川に忠告した。語を円曲にして、今度訪ねて来ては不可ぬと云ふ事も云つた。日が暮れても帰らぬから、お帰りなさいと云つて帰してやつた。 男は男、女は女! 噫、女は矢張女であると考へて、洋燈をつけた。急に心地が悪い。不愉快で、不愉快で、たまらない程世の中が厭になつた。 ―― ・ ―― ・ ―― ・ ―― ・ ―― 今明雨夜、去る八日の空前の大風雪罹災者救助の慈善演芸会が米町宝来座に開かれて、鶤寅芸妓の芝居がある筈なので、七時頃横山君と共に出掛けた。途中小泉君も同伴。 “煙草屋源七”一幕。小奴の上使は巧みなもの、煙草に酔うて花道からの引込みが、殊に手際よかつた。二番目新派“乳貰ひ”奴の妾、表情が少し足らなかつたけれど、降る雪に積る思ひ、自然な所作が気に入つた。最後に所作事“喜撰”奴は此でも喜撰になつた。 漸く不快を忘れて一時帰つて寝る。 夢が結べぬ。それからそれと考へて、果敢ない思のみ胸に去来する。つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになつた。噫。 三月二十三日 何といふ不愉快な日であらう。何を見ても何を聞いても、唯不愉快である。身体中の神経が不愉快に疼く。頭が痛くて、足がダルイ。一時頃起きて届けをやつて、社を休む。 終日寝て暮した。隣室の横山君も不快だと云つて寝て居る。 天井板の隙から、屋根の穴が見える。灰色に曇つた空が一寸四方程覗はれる。 鉛の様な、輪廓の明かでない、冷たい、イヤーな思想が全心を圧して居る。同じ様な陰鬱が胸の中にもあつて、時々朦々と動き出す。鮮かな血を三升も吐いて死んだら、いくら愉快だらうといふ様な気がする。小奴の写真を見て辛くも慰めた。 夕方、同宿して居る根室銀行の鎌田昻君が来て、一寸でよいから一緒に行つてくれといふ。強ひての頼みに、雪融の悪路をゆくと、丸コへ引張込まれた。窓から港が見える。落日の色を染めた雲が低く、波高い海面を圧して、今日は艀が四艘沈んだと云ふ。その光景が目にチラツク。小静と助六。 用は田代対見番の菊寿の問題であつた。それから、嘗て“明治の山田長政”と昨年四月頃の新聞に書かれた男が此鎌田君である事も聞いた。印度の話が面白かつた。 鎌田が下へ行つて上つて来た時、其顔には或計画が閃めいて居た。芸者二人に秘密命令を伝へて、石川君を酔はせろと云ふ。癪にさわつたから、グイグイと飲んだ。二人を相手に無闇に飲んだ。鎌田は丸コ女将の頼みを享けて、僕と小奴の間に離間策――卑怯なる離間策を施さんとした。噫、何と浅間しい世の中だらう。 だまされた振をして、出て共に宝来座へ行つた。九時頃であつたらう。奴の“乳貰ひ”は昨夜よりも巧みであつた。が自分には何も見えなかつた。酔が全身に漲つて、頭が馬鹿にグラグラして、断間もなく疼く。奴は白酒などを寄越した。一寸逢つて、明朝来いといふて帰る。“人を馬鹿にしやがるな。”と幾十回繰返し乍ら、宿に帰つて寝て、疼く頭を抑へた。故もなき涙が滝の如く枕に流れた。 三月二十四日 新聞を見ると、昨日の編輯日誌に、自分の欠勤届が遅かつたので日景君が頬をふくらしたと書いてある。馬鹿奴。 今日も一日床の上。 “明星”募集和歌の選を済して投函させる。別に与謝野氏へ長い手紙を認めた。釧路へ来て酒を飲み習つた事、歌妓小奴の事。胸の不平のありツたけを。 二時頃、小奴から使が来て、今日来られぬ申訳。 夕刻上杉君が来て、衣川が梅川事件で日景君に叱られた事、日景君が自分に対して不愉快で居る事など話す。九時頃帰つて行つた。 三月二十五日 今日も床上の人。 石川啄木の性格と釧路、特に釧路新聞とは一致する事が出来ぬ。上に立つ者が下の者、年若い者を嫉むとは何事だ。語らぬ、語らぬ。新機械活字は雲海丸で昨日入港した。二週間の後には紙面が愈々拡張する。誰が其総編輯を統率するか。頭の古い主筆に出来る事でない。さればと云つて自分にやらせる事も出来まい。否恁麼事は如何でもよい。兎も角も自分と釧路とは調和せぬ。啄木は釧路の新聞記者として余りに腕がある。筆が立つ、そして居て年が若くて男らしい。男らしい所が釧路的ならぬ第一の欠点だ。 早晩啄木が釧路を去るべき機会が来るに違ひないと云ふ様な気が頻りに起る。 夜、小泉君が来て語つた。踊は足を見るべしと云ふ論を吐く。 三月二十六日 十二時頃、俗悪愚劣の人間古川萍水に起されて、三時までのお合手。頭が一層痛くなつた。日景君からの間者だと思つたから、妙な事許り云つてやつた。 少し許り神経衰弱が起つたのらしい。立つと動悸がする。横になつてると胸が痛む。不愉快だ。 立花直太郎から手紙が来た。 夜、北東の奇漢子菊池武治君が来た。自分で手を打つて女中を呼んで、ビールを三本云附けた。横山君も来て飲む。 既にして唐詩を吟じ出した。自分も吟じた。鷲南筆をとつて柳暗花明の詩をかく。 柳暗花明楼又楼 月高沈曲響愈幽 艶姿二人倚欄立 笑弄春風心暗愁 慷慨淋漓、九時頃帰る。 世の中は色々だ。過去に生くる人、現在に生くる人、未来に生くる人。酒に生くる人もあり、理由なく生くる人もある。 横に見た人生は未解決だ。涯が無い。波と波。――結論は虚無。 三月二十七日 九時頃衣川に起された。真面目腐つた病気見舞。 一時頃遠藤隆君が来て一時間半許り居て帰つた。 夕刻上杉小南、衣川を伴ふて来る。晩餐を喰はして語る。京都の話、奈良の話、邪気のない話であつたが、明朝の新聞に小奴の事を日景君が書いたと云ふ。そんなに社の者の事を書いたりするなら、僕は何日でも釧路を去るサと云ふと、二人目を見合した。日景君の僕に対する意志は此二人の目に読まれる。 鈴木の本屋から、予て頼んで置いたカルコ集(二葉亭訳)が来た。 十一時、横山君をつれてそば屋へ行つた。帰つて一時枕につく。 自分が釧路を去るべき機会は、意外に近よつて居る様な気がする。 三月二十八日 今日も休む。今日からは改めて不平病。 十二時頃まで寝て居ると、宿の女中の一番小さいのが、室の入口のドアを明けかねて把手をカタカタさせて居る。起きて行つて開けて見ると、一通の電報。封を切つた。 “ビヨウキナヲセヌカヘ、シライシ” 歩する事三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。 日景君も度量の狭い、哀れな男だ。が考へて見ると、実にツマラヌ。 電報を見て、急に頭がスツキリした。これだ、これだ、と心は頻りに躍る。横山を呼んで話した所が、何処までも一緒に行くと云ふ。 反逆の児は、………噫。 先ず函館に行つて、日々新聞に入らんと考へた。船でゆく事、歌留多は梅川に置いて行く事、などまで相談一決。 これで自分は釧路に何の用もない人間になつた、と思ふと。嬉しい、心から嬉しい。 小奴へ手紙やつた。 甲斐君が来て、色々話す。電報を見せると北海旭に来てくれぬかと云ふ。話半ばにして小奴が来た。かねちやんを連れて。甲斐君は座をはづす。 話はしめやかであつた。奴は色々と心を砕いて予の決心をひるがへさせようと努めて呉れた。“去る人はよいかも知れぬが、残る者が……”と云つた。一月でもよいから居てくれと云つた。僕の為めに肘突を拵へかけて居ると云つた。此頃一人で写真がまだ出来ぬと云つた。これが一生の別れかと云つた。否、々、また必ず逢はうと云つた。何処へ行つても手紙を呉れよと云つた。…………… 明日の午后奴の家を訪問する約束をして、夕刻別れた。 衣川が一寸来て行つた。 下へ獣医の大森君が来て居て、一寸来てくれと云ふ。行つて小国君の話をして、酒を三杯洋盃で飲んで来た。少しく酔発して感慨多少。酔に乗じて次の如きものを書いた。
十時頃甲斐君が来た。再考の余地なきかと云ふ。無しと答ふ。明日早速旭川の本社へ照会して見ると云ふ。多分出来るとの事だ。旅費も三十円位は出すと云ふ。かくて一時頃まで語つた。僕の休んで居たのを、世上では早く不平病だと云ふて居るさうな。 異様なる感情を抱いて枕に就く。 三月二十九日 今日は日曜日。目をさまして、此頃何日でも寝汗の出てるのが誠に厭な気持。起きて顔を洗ふたのが十一時。 自分の下駄を穿いて出た横山の帰るを待つて、一時頃、約の如く奴を訪ねる。 六畳間、衣桁やら箪笥やら茶棚やら長火鉢やら、小ヂンマリとした一室に、小机の上には、何日ぞや持つて来た梅川の薔薇の花が飾つてあつた。 這入つた時は、ヒドク動悸がして居た。長く出歩かなかつた故か、それとも又病気の故か。ぽんたは留守、お稽古に行つたとの事。 さし向つて、薬の様な名知らぬ酒を酌む。何と云ふ事はない変な気がする。生れてから初めての変な気だ。奴はいろいろと無邪気な事や身の上の悲しい話などをする。兄なる人の話もした。沢山の写真を出して見せた。そのうちから一枚、最も素人らしく撮れた奴の写真を貰ふた。 何を考へるとも無い、唯恁う、自分の心臓の鼓動を数へて居る様な、打沈んだ心地であつた。時々奴の若々しい笑声に、驚いて顔をあげると云つた調子。自分では何を話したか、薩張解らぬ。恐らく何も話さずに、唯打沈んで居たつたらしい。 四時頃。隣室にはぽんたの帰つた様子、低い声で義太夫を唸つて居る。その低い声がまた、自分の心を一層沈ませた。 辞して出た時は、既に夕暮時であつた。泥深い路を、人々は寒さうに往来する。自分の脳には、依然打沈んだ調子が続いて居た。 宿に帰つて、床にもぐり込んで、何をするでも無い、唯洋燈の火を見つめたまゝ、打沈んで半夜を過した。死といふ事が、怎やら左程困難な事ではない様な気がする。 三月三十日 目をさましたのは九時頃だつたが、頭が鍋を冠つた様で、冷たい、冷たい室の中に唯一人取残された様な心地がする。女中の顔までが獣の様に見える。天井の隙から屋根の穴の見えるのが、運命と云ふ冷酷な奴が自分の寝相を覗いてる様だ。何とも云へぬ厭な心持である。 十二時起きると日景君が這入つて来た。“顔色が悪い、医者に見せなくちや不可。”と云つて、すぐ向ひの笠井病院長へ手紙をやつた。“僕に対して何か不平があるなら、云つて呉れ玉へ。”と云ふ。“不平のあらう訳もないが、此電報に対しては大不平だ、人間を侮辱するにも程がある。”と云つて、社長からの電報を見せると、変な顔をして、何も云はなかつた。自分も不遠編輯の方から手を抜いて、実業界に立つのだから、アト宜敷頼むと云ふ事、一日も早く全癒して出社して呉れと云ふ事、但し、横山入社の件は絶対に不賛成だと云ふ事などを話して帰つて行く。 二十分程して、萬沢医学士が来た。“不平病なら僕の手で兎ても癒せぬですが、”と云つて聴診器をとる。神経衰弱だとの事で、種々其理由を尋ねたが、自分では可笑くてたまらぬ程であつた。アトで薬を寄越すと云つて帰る。 薬は、便通をつける頓服と、例の臭没とか云ふやつ。嘗て一年余も口にしたので、単に睡眠薬にすぎぬ。フンと自分は腹の中。 此日は朝からの雨。風さへ窓硝子を礑めかして、不愉快此上もない。 夕刻、衣川が来て居る所へ、梅川が院長の命だと云つて熱をとりに来た。客があるからとて追ひ返してやる。八時頃また来た。験温器といふものが、若し自分にも信ずる事が出来るものなら、此夜の自分の体温は三十七度一分であつた。 梅川は長尻の女である。自分も横山も、今夜は大分不機嫌な顔をして居たに不拘、早く寝なけれや病気に悪い悪い、と云ひ乍ら、遂々十二時迄居て行つた。自分は、何でも、盛んに医者を罵倒した様だつた。医者が増るから病気が増る。神武天皇が風邪を引いたことも、天照大御神が赤痢に罹つた事も、記録に載つて居ないと云つた。それから、露西亜に行きたいと云ふ事、トルストイの“The Cossacks”にあつた少女マリアンナの事などを語つた。 人々は知らぬらしい、自分との別れの、モハヤ目前に迫つてる事を。!! 三月三十一日 五厘銅貨二枚の晦日。 卯 月 四月一日 目をさまして寝て居ると、福嶋が来た。意志の極めて弱い、云ひ知れぬ愛嬌を目に湛えた、男振のよい二十五六の男で、金さへあれば米廓へ駆けつける。仙台生れのロール廻し、風船玉の様に世の中を渡つて歩く。喰逃位はするかも知れぬが、窃盗などは出来ぬ人柄。 目的の無い生活と云ふ事が頭に浮んだ。目的の無い生活! 生存の理由も価値もない生存! そんなら死んで了へばよいのにと思ふが、………… 今日は何とかして、金を拵へなければならぬ、と考へた。其次は、イヤ、何とかして東京に行かねばならぬ。………… 坪仁子、乃ち小奴へ手紙書いて、横山君に行つて貰ふ。一時頃返事が来た。用件は駄目。 横山と相談して、釧路病院長の俣野景吉君へ手紙、七八日迄に十五金貸すといふ返事。 ―― ・ ―― ・ ―― ・ ―― ・ ―― 此日、早朝の一番汽車で、北東の小泉奇峯君、誰にも知らせずに帰京の途についた。送つたのは横山許り。 人知れず小泉君が去つたと云ふ事は、異様の衝動を自分の胸に与へた。然うだ、異様の衝動とだけ書いて置かう。 彼も亦、或は目的なき生活をして居る一人かも知れぬと考へた。朝も酒、夜も酒、酔うて居さへすれば万事足りる。誤つて釧路に来た彼は、遂に、さうだ、遂に、人知れず都に帰り去つた。都に帰つた彼は、矢張十五円二十円の下級記者! 噫、塵埃の中で一杯二杯の酒を唯一の趣味として、彼も亦何日か此世を終るであらうと思ふと、何かは知らぬ悲しい心地がする。 目的の無き生活と云ふ事が、此夜また自分の頭に浮んだ。 四月二日 朝、鎌田君から十五円来た。新聞を披いて出帆広告を見ると、安田扱ひの酒田川丸本日午後六時出帆――函館新潟行――とある。自分は直ぐ決心した。“函館へ行かう。”“さうだ、函館へ行かう。” 安田船舶部へ手紙やつて船賃などを問合せる。宮古寄港で三円五十銭との事(二等)、奴へは今夕立つと知らした。俣野へも手紙。 カバンには手紙、原稿、手記など。委細は横山に含めた。 一時頃上杉君来る。遠からず上京したいと云ふ話。函館行を話すと、日景君へ知らして行く方がよいと云ふので、手紙をやる。家族に関する用と許り。 四時少し前、奴から手紙が来た、愈々お別れかと書いてある。お餞別として五金、私の志を受けて呉れと書いてある。 宿の主婦を呼んで、函館へ行つて来ると許り話して、四時十分、横山高橋の二人に送られて出る。途中“今夜船にて釧路を去る”と云ふ電報を、節子其他へ打つ。 安田の店へ行くと、出帆は明日の午前十時迄延びたと云ふ。二等の切符(三円七十五銭)買ふ。荷は店に預けて、三人そば屋にゆく。酒が美味かつた。今迄に無い程美味かつた。窓の下を古瀬君が通つた、小若も通つた、小新も通つた、小福も通つた。既にして市子とてるちやんが通るので、呼ぶと這入つて来た。一緒に蕎麦を喰ふ。暮れては艀が面倒だと、四人に送られて波止場へ行つたがモハヤ駄目、店が閉つて居て荷物が出せぬ。 宿に帰るも不見識と、途で横山らに別れて行くと、上杉日景佐藤の三子に逢ふ。旅館に投じて一夜を明す事にする。 紙と筆を買はして小奴へ此夜の感じを書く。女中をして届けしめる。 此家に泊つて居る北東の菊池馬賊君へ、置手紙して行かうと思つて書いて居ると、同君が帰つて来た。本行寺に催された記者月例会の帰りである。飲まぬと大人しい男だ。十二時迄語る。 異様な感情を抱いて眠る。 四月三日 今日は神武天皇祭だ。八時起きる。欄に倚つて見ると、家々の軒には日の丸の旗が翻がへつて居る。一天晴れて雲もないが、海は荒れて居る。幾千幾万の鯉の鱗を散らした様に、白い波が港内に起きつ伏しつして居る。 飯を食ふ間に、菊池君が宮古の道又金吾といふ医者へ紹介状を書いて呉れる。十時波止場へ行く。遠藤君に逢つた。波が高い。十時半波止場に菊池君と手を分つて艀に乗つた。二三度波を冠つて酒田川丸に乗る。 三百四十九噸二、汚ない船だ。二等室は第二後室、畳を布いて、半円形に腰掛がある。窓が左右二つ宛、左舷の窓の下の高い所に陣を取る。唯一人だ。 石炭を積まぬから明日の出帆だと云ふ。船がゆれて、気持が悪い。飯だけは普通に食つたけれど、寝て居た。 窓から陸を見る。何とも云へぬ異様な感情が胸に湧く。寒い。 うつらうつらと一夜。 四月四日 起きて甲板に出る。気分がよい。風も無ければ波もない。 船員は皆退屈さうに遊んで居る。何時の出帆かと聞くと、今日は潮が無くて炭が積めぬと云ふ。 支庁と警察が、坂の上に明瞭と見える。釧路座の屋根には、昨日の如く国旗が翻つて居る。魚菜市場の催しにかゝる慈善演劇があるのだ。 無聊……然し乍ら頭は色んな考へに乱された。 夕方、漸々石炭を積んだ艀が一隻来た。落日の光は、釧路の町を浮々と明らかに見せる。思出多き北海区を、忘れぬ様にすつかり見て置けといふやうに。 波、千鳥を聴く。 四月五日 七時起床。荷役の人夫に頼んで、ハガキを三枚出す。石炭を積み了つて七時半抜錨。波なし。八時港外に出た。氷が少し許り。 後には雄阿寒雌阿寒の両山、朝日に映えた雪の姿も長く忘られぬであらう。知人岬の燈台も程なくして水平線上に没した。 十一時半、十勝国大津港沖で、浪間に潮を吹く巨鯨を見る。一時頃から風、波が甲板を洗はむとする。夕刻漸く凪いで、襟裳岬の燈台が光り出した。船も燈火を提げた。此処から船は真直らに宮古港をさすのである。 ケーシングの上で暖をとり乍ら、水夫らと話して見る。燈台の話などが興を引いた。賄方の不平談も面白い。 夜、当直室で老船長や機関長と十時過まで語る。陸奥丸事件では、老船長頻りに郵船会社の亡状を憤つて居た。海賊の話。船を盗む話。樺太の話。 自分は少しも船に酔はぬ。食慾が進んで食事の時間が待たるる。海上生活の面白さ。 然し、海上に生活して居る人は、皆一様に陸上の人を羨んで居る。 四月六日 起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が眼界を閉ぢて、海は灰色の波を挙げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。 十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先きに届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になつたり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。街は古風な、沈んだ、黴の生えた様[な]空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎮痛膏を顳顬に貼つた女の家でウドンを喰ふ。唯二間だけの隣りの一間では、十一許りの女の児が三味線を習つて居た。芸者にするかと問へば、“何になりやんすだかす。”(※) 夜九時抜錨。同室の鰊取の親方の気焔を聞く。 (※岩波の【啄木全集】は“何になりやんすだすか”、 筑摩の【石川啄木全集】は“何になりやんすだかす”となっています。 ここでは筑摩書房版を採りました。) 四月七日(函館) 風強く、波が高い。船は可成海岸に沿うて北に進んで、尻矢岬の燈台から斜めに津軽海峡の潮を乗切つた。宮古から恰度一昼夜で、午后九時二十分函館に着いた。 背後から大森浜の火光を見て、四十分過ぎて臥牛山を一週。桟橋近く錨を投じた。あはれ火災後初めての函館。なつかしいなつかしい函館。山の上の町に燈火の少ないのは、まだ家の立ち揃はぬ為であらう。 昨年五月五日此処に上陸して以来将に一週年。自分は北海道を一週してきたのだ。無量の感慨を抱いて上陸。俥に賃して東浜町に斎藤大硯君を訪うたが留守。青柳町に走らして、岩崎君宅に泊る。何といふ事もない異様の感情が胸に迫つて、寝られぬ。枕を並べた友も、怎やら寝られぬ気であつた。 四月八日 吉野君が朝早く来てくれた。鼻の下に、あるか無いかの髯を蓄へて居る。 岩崎君、今日は仮病して郵便局を休む。午前、相携へて公園を散歩する。目に触るるもの何れか思出の種ならぬはない。午后、旭町に宮崎君を訪ふ。相見て暫し語なし。 夜、吉野君が宿直なので、東川小学校の宿直室で四人で飲む。 宮崎君と寝る。 ああ、友の情! 四月九日 十時起床。湯に行つて来て、東京行の話が纏まる。自分は、初め東京行を相談しようと思つて函館へ来た。来て、そして云ひ出しかねて居た。今朝、それが却つて郁雨君の口から持出されたので、異議のあらう訳が無い。家族を函館へ置いて郁雨兄に頼んで、二三ケ月の間、自分は独身のつもりで都門に創作的生活の基礎を築かうといふのだ。 一時頃から郁兄と二人で公園から谷地頭まで散歩。断片的生活といふ事が話題に上つた。さうだ、自分の今更の生活は実に断片的だ。 夕、吉野君宅で御馳走になる。九人の家族。この冬、妹なる人に銀鍔を縁日に売らせて、吉野君……詩人白村が、それを暗い所から見て居たといふ。――自分が去年の秋函館を去る日に生れて、浩介といふ名をつけた児が、大分大きくなつて居た。 吉野君を見て、生活といふ事が如何に痛切な事であるかを、今更の如く感ずる。 八時頃三人で岩崎君へ推かけた。時に警鐘の音、郁雨白村の二君は直ちに駆け出した。自分と正君とは十二時過ぐるまで語つて、枕を列べて寝た。社会的生活が人を卑しくするといふ事について談つた。 岩崎君の姉君とし子さん! 嘗て澤田君の夫人たりし人! 淋しき婦人! 自分はそれについて何事をも云ふ事が出来ぬ。 四月十日 九時起床。斎藤大硯君を日々新聞社に訪問。帰に小便が出たくなつたが便所が無い。池田座の前に“竹内一郎一座”の幟が立つて居たので、一計を案じ出し、“竹内君が居るか”と云つて這入つて行つて小便して出た。宮崎君宅で昼飯。宮崎君も善い人である。父上も善い人である。母上も善い人である。姉なる人も善い人である。何故なれば斯う善い人許り揃つてるであらう。 三時頃出て、途中で弥生小学校の遠山[二字空白]、日向操の二女史に逢ふ。其足[で]弥生校を訪問し高橋すゑ、森山けんの二女史を見た。一寸小林茂君を訪ねる。斬髪。吉野兄の跡を追廻して東川校で逢ひ、トある蕎麦屋で飲んで語る。それから郁兄宅に帰つて三人で話す。小雨ふる夜。 四月十一日 晴れたる日。郁兄と大森浜を歩む。波の面白さ。岩崎兄を誘ふて三人で谷地頭を散歩。夏堀君を訪ねて、岩崎君宅で夕飯を食つて語る。帰りに郁兄頻りに胸が淋しいといふ。 せつ子、山本へ手紙、大嶋小国植木金田一へハガキ書いて一時寝る。 四月十二日 今日は日曜日。吉野君来る。郁君の代議士候補談に花が咲く。山背吹いて打湿つた日。夕刻、小雨を犯して吉野兄宅に行き、九時頃ヅブ濡れになつて帰る。 枕の上で一時迄語る。“平凡”中の犬の話から栗原先生の話、大嶋君の話。やがて性格大気説を自分は説く。海峡新聞の計画、太平洋大学の空想。 小樽の六日間 十三日夕七時十分、郁雨兄から十五金を得て函館発。十四日朝八時小樽着。俥を走せて花園町畑十四星川方の我家に入る。感多少。京子が自由に歩き廻り、廻らぬ舌で物を云ふ。一時頃野口雨情君を開運町に訪ひ、共に散歩。明日立つて札幌にゆき、本月中に上京するとの事。夜、澤田来る。いくら努めても、合わぬ人とは矢張合はぬ。 十五日。二葉亭の“平凡、”鏡花の“草迷宮”読む。午後札幌より小国善平君来る。自分の代りに釧路に行くとの事。夜、藤田武治高田紅果二人来り、一時迄語る。 十六日。晴、夕小国君と公園に散歩し、佐田君を訪ふ。奥村君と四人にて十二時迄語る。小樽日報が谷子やめ、山県との手きれて形勢頗る不穏との話をきく。 十七日。郁雨兄より手紙。実際的常識の必要を説いてある。七円。其返事と、白村正二君へと、立花直太郎、釧路の上杉小南等へ手紙書く。夜、社会主義者塚原新人来る。 十八日。小樽日報今日より休刊、実は廃刊。不思議なるかな、自分は日報の生れる時小樽に来て、今はしなくも其死ぬのをも見た。小国佐田奥村諸君来る。夜奥村再来、十二時快談。 十九日。古道具屋を招いで雑品を売る。夜、図らずも本田荊南君来る。荷物の事奥村に置手紙で頼んで、八時十分、一家四人小樽駅から汽車に乗つた。切符は函館迄。 最後の函館 車中の一夜はオシャマンベ駅で明けて、四月二十日の日は、噴火湾から上つた。午前八時四十分函館着。郁雨兄に迎へられて同家に入る。横山城東来る。午后鈴木方(栄町二三二)の二階の新居に移る。米から味噌から、凡てこれ宮崎家の世話。吉野君来る。 二十一日。風烈しく砂塵硝煙の如し。岩崎君朝来て郁兄と共に夜九時迄語る。夜に入りて雨。大嶋兄へ手紙書く。 二十二日。一日雨。岩崎兄の母堂来る。 二十三日。明後日出帆の横浜行三河丸で上京と決す。郁兄と共に岩崎君を訪うて一日語る。夕刻吉野君も来て、四人でビールを抜いて大に酔ひ、大に語る。 これが最後の一夜。 二十四日。午前切符を買ひ、(3.50)大硯君を公友会本部に訪ふ。郁雨白村二君と共に豚汁をつついて晩餐。夜九時二君に送られて三河丸に乗込んだ。郁兄から十円。 舷窓よりなつかしき函館の燈火を眺めて涙おのづから下る。 老母と妻と子と函館に帰つた! 友の厚き情は謝するに辞もない。自分が新たに築くべき創作的生活には希望がある。否、これ以外に自分の前途何事も無い! そして唯涙が下る。唯々涙が下る。噫、所詮自分、石川啄木は、如何に此世に処すべきかを知らぬのだ。 犬コロの如く丸くなつて三等室に寝た! ※明治四十一年日誌 其一終り、其二(東京、赤心館での生活)に続きます。 ページトップ |
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石川啄木 啄木日記 |