啄木日記バナー


 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



甲辰詩程
明治三十七年日誌
 

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第13集
  発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷
なお、筑摩書房版全集と照合し、不突合の場合は調査、不明の場合は筑摩版を採用しました。

原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。
「甲辰詩程」(こうしんしてい)は明治37年1月1日から、同年7月24日まで書かれています。
その後、明治39年3月4日からの「渋民日記」までの間の日記は現存していません。

 
明治三十七年日誌
甲辰詩程
明治36年盛岡にて 親友金矢朱絃と

 
甲辰詩程一の巻
                           啄木庵日誌

    一月中(渋民荘にて)

一日。
   白姫が天ふる領の白彩に光は湧きて新世成りぬ。
   地に理想天に大日の()ゆき世に眩ゆき希望の春を迎へぬ。
 年はまた新しくなれり。手に希望と栄光との花束を携へて新世の幸なす初日の光は眩ゆく地上に舞ひ来れり。かくて我は十有九才の源頭に立ちぬ。如何にして過ぎ来しや、如何にして過ぎ去らんとするや、こは我今語るべき事に非ず。我はただ十八年の歳月を暗中に葬り去りて、更らに悠久なる希望の未来に対せるを知る。
 それ希望は高し、大なり、広し。何者かよく胸中に洶湧する澎湃たる波濤を防ぎえんや。これ希望なり。人はこの波の滅えざる起伏によりて初めて光明あり、慰籍あり。詩人は心うち悩めども又常になぐさみを失はず。それその胸中の幻楼は無辺、無終にして、容れざるなく、包まざるなし。その希望は無窮を追ふの勇みにして、朝に夕に夜に、この世を超えたる常楽の国土に憧る。我は遂に我自らのちからに酔ふ者也。
 美は神の影なり。理想の花の一葩なり。象られたる無窮なり。之を求むるはやがて太一、絶対に融合するの謂なるのみ。かくして我は我自らの内に無窮を見、永生を見、不滅を見る。これ神なりや、はた我なりや。知らず。ただ、この世の栄誉を超へ、争を超へ、不幸を超えたる浩蕩の極みに、我が霊が永劫の栄光を友とするを知る。
 我は仏徒に非ず。又基督教徒に非ず。然れども世の何人にも劣ることなき真理の愛僕なり。信者なり。
 ああ新しき年は来りぬ。永き放浪と、永き病愁と、永き苦悩の泪にうち沈みたる我精神はかくて希望の大海に舟出せんとするの時をえたり。
 此日金矢朱絃、同光一、沼田清左エ門の三君来り、夕刻に至りて帰る。沼田君は夜半まで談を続けぬ。
 午後「明星」一号、日報初刊、並びに瀬川藻外、小林花郷、佐藤善助諸兄の賀状来る。明星には我長詩「森の追憶」を載せ、岩手日報には「詩談一則」(東海よりの詩をよむ)を掲ぐ。共に十二月の作。
   栄光ありし初日の郷や真白雲、永劫にも人の(こころ)幸かれ。(藻)
   かくてしも栄の春といはばとはの世の新年の誉いかなる。(花)
余がこの日までに出したる賀状、左の諸兄へ。
阿部修一郎兄、小野弘吉兄、伊東圭一郎兄、小沢恒一兄、瀬川深兄、小林茂雄兄、岡山儀七兄、細越毅夫兄、金田一京助兄、田鎖徹郎兄、石亀守人兄、大井一郎兄、川上桜翠兄、よさの鉄幹兄、西堀秋潮兄、中山正治兄、平木白星兄、姉崎正治兄、山田長兄、海沼慶治兄、松平金雄兄、福士政吉兄、堀合せつ子、金矢信子、板垣たまよ、畠山亨兄、
村への新年賀は名刺にて済ます。
夜明星読む。二時就床。

二日。
 発簡
  野村長一兄、川越千代司兄、沼田目時両兄、佐藤善助兄、菊池治平兄
 来簡。
  岡山儀七兄、野村長一兄、中村清助兄、千葉治三郎兄、高村兵庫兄、
  石亀守人兄、小沢翠淵兄、田鎖徹郎兄、川越千代司兄、澤田兼吉目時政忠両兄。
 明星をよみて高村砕雨氏の短詩「白斧」の高潔崇妙なるに甚だしく興をおぼゆ。露花氏昨年の短歌壇を評して我を甲辰一月以後の壇上に望を嘱したり。
 夜、小学校時代の友秋はま来る。
 雪約七八寸。

三日。
 午前咏歌。試筆なり。
 畠山東川氏、豊巻毅君、細越毅夫君、海沼慶治君、金田一花明君、島泰五郎君の賀状来る藻外兄の端書も。
 豊巻兄一篇のソンネツトを寄せらる。結句
   ああ蔑侮(さげしみ)の魔をかるに権力それよ我友
   高き命令(よざ)なる天照す御威(みゐづ)の光か。
 午後三時より朱絃兄を川崎に訪ひ、夜八時かへる。夕飯馳走なり。雪足を没し、寒強し。
       微吟二三。
   大鐘を海に沈めて八千潮に巨霊呼ぶべき響添えばや。
   朱襞の裳長春姫うたひくる珠簾の車むかへん詩かも。
   行く年の鐘なる夜の冬の守髑髏がうめく荒墓に似る。
   鉄矢(まがねや)に天戸つぶれて雨とそそぐ野の滑石(なめらいし)抱く無興かな。
   堂にして胸に三世の火を見なば無頭の古仏抱き眠んも好し。
   嘲笑ふて黄鈍なす歯のすきまより凩吹かす古山男。
   古三輪に枕す僧は酔の禅、酒あり壇の仏も招ぜよ。
   世を(なみ)す酔歌作ると酒座のはて我を吊ふ挽歌はなりぬ。

四日、
 (発信)工藤弥兵ヱ君。島泰五郎君。
 (受信)工藤弥兵ヱ君。久保田練兵君。
 田村の義兄来泊す。
 それ運命は眩ゆきなり。人はこれを直視するをえず。かくて目くるめきて顔を背くるうちに、彼女は之を携へて、異なる所、不知の境に誘ひ行く。手縮み足萎へて立つこと能はざれば乃ち之を悲痛の深淵に投じ去るなり。
 終日雪。フロムゼイースタンシーをよむ。
 黄昏雪を犯して郵便局に行き外国郵便の料金問ひ合はせ来る。
 天は曠し。地は大なり。さて宇宙はこれを包みて無限の高きに見る。ここに我生命あり、思想あり。曠く大なるが故に、その動き見えず。限りなく高きが故に其丈計られざるなり。凡てを包むが故に、小さき眼はこれを無実虚無と見、限りなく深きが故に其深さ却りて浅きに似たり。ああ天の才のみ独り真に自由なるかな。

五日。
 久保田練兵君の賀状杜陵より来る。
 田村の兄盛岡へかへる。

六日。
 夕刻、川上桜翠兄の賀状落手。同時に一日東京消印の阿部修一郎兄の端書、姉君梅子君の永眠(十二月三十一日午後六時半)を報じ、遺骨は四五日に持ちかへるの由なり。この夜安眠せず。ああ我友は双親なきの人。一家散落して、又この悲痛に至る。泣かざらんとしてうべからざるなり。
 夜斬髪。セ川医院にゆきて夜談十二時まで。

七日、
 早朝、青森なる中山梟庵氏の賀状に接す。
 阿部梅子君を吊はんがために、午前十一時六分好摩発の上り列車にて出盛す。
 着直ちに阿兄の故家に至れば、人なくして戸をとざしたり。噫銷魂の情何ぞそれかくも強きや。梨木町の冲方に阿兄を尋ね、梅子君の遺骨を拝す。令妹松子の君もありたり。これ涙なき涙なりき、平温を装ひたる絶痛なりき、葬儀は明日と定まる。
 三時頃辞して、材木町の後藤医院に千葉君を訪ね、直ちに開運橋下の姉が家に至り、やがて海沼方に入る。
 夜、外国はがき等買ひ、瀬川君の留守宅をとひ、福士神川氏を加賀野なる宅に訪ひて、年賀と病気見舞。雑談大に興あり。馳走になりて十時頃かへる。
 海沼へ宿。

八日、
明治37年 婚約時代の啄木と節子

 朝早く起きて、せつ子の君が許へ手紙かき、車夫に托して直ちに阿兄が寓を訪ふ。
 田鎖徹郎兄も来り合はせ、十一時頃遺族諸君親籍の人々と共に梅子君が遺骨を奉じて市外龍谷寺に至る。門を入ればせつ子、妹たか子さんと共に已にあり。瀬川、村井の諸友も会葬す。
 鉦の音、読経の声毎に胸刻まるる思ひして、やがて香を点じ、埋骨の場に至る。風寒く雲低けれど天気あしからず。已にして梅質妙香大姉としるしたる木標の墓上に起てられたるとき、我胸はいひしらずもうち慄ひたり。式終りて再び田鎖兄と共に冲方に至る。
 せつ子と約あれば早くかへらんと思ひたれど、法事にて種々饗応あり。三時漸く田村へかへる。
 我はこの日の感懐をここに記すの愚をなさざる可し。何となれば、これ、胸深く刻まれる涙痕にして終生忘るることなきを思へばなり。
 夜の八時すぎまでせつ子と語る。ああ我けなげの妻、美しの妻、たとへ如何なる事のありとて、我らは終生の友たる外に道なきなり。さなり、愛なくして我は如何にして生くべきや。ああこの一問はやがて我終生の方針なり、理想なり、希望なり。
 波立つ胸のいかに温かなりしよ。輝く瞳のいかに美しく、又鋭く我心を射たりしよ。
 海沼に宿す。我がこの夜の心地ぞ実に言明し難き者なりしか。逝きにし人を思ひ、悲しき友を思ひ、さて又、恋しき妻が面影をも夢みたり。我はわが幸福を心の底なる動かし難き岩の上に有つ。四周の事蝟集して身を迷はしむれども、心の底には不断の安慰あり、平和あり。この深き喜もてわれは友をめぐまん。世を容れん。ああこれ実に我とせつ子とがこの世に於ける最強の親和力にして、又未来に於ける最大のたづきなる也。

九日、
 午前早く、冲方に阿部君を訪はんとして、途に上田寅次郎氏に逢ふ。思想の人、研学の人、文芸の人、而して今は遠野中学に於ける歴史科の教諭なり。
 至れば阿兄あらず。令妹松子の君と語り、暫らくして辞し去り岩手日報社を訪ふ。明日の号に掲げんとて即坐九首うち
   枯花に冬日照る如吾うたに悲愁添ふべく恋のもゆるか。
   大天のみざに生れます美霊の面影と見る香のくゆらし。
                (阿部梅子君の霊前へ)
 桃岡、田中館、菅、諸氏、並びに主幹清岡氏に逢ひ、十二時頃かへる。
 午後松平先生を訪ふの約ありて藻外君を誘ひたれど、遊びくらして遂に果さず。
 今夜阿兄出京の筈故、夕刻急ぎ海沼にかへれば、延期の旨通知あり。又吾留守中に川口孝治君来訪の由なれど、外出の故を以て面会をえず。
 夜、上田寅次郎氏を大沢河原に訪ひ、談、詩、文、宗教に渉り、興味つきず。平明好謔の雑談のうち、猶犯しがたき敬虔の念を起さしむ。賢なる哉、又敬すべきかな。
 我詩稿を送るべきを約して十時辞しかへる。田村に一寸立寄り、海沼に眠る。

十日、
 起床八時。朝食して新刊の文芸雑誌類くりひろぐる間もなく、田村より迎ひ来る。至ればせつ子あり。
 未来を語り、希望を談じ、温かき口付けうち交はしつつ話は絶間もなくうち続きたり。詩、音楽、宗教のけぢめもなく、くつろぎて、云ひ渡り、さて語つくれば無音の語ぞ各自の瞳に輝きぬ。
 家人外出してしばらくかへらず。破壁の隙もる冬の風も我らには温き春の日のそよ風の如く覚えぬ。さて云ふ。かくてあらなんうまし世をぞ早く作らざるべからずと。
 望む者は遂にうるの期あらん。愛する者は遂に合ふの時あらん。田村にて昼食もろともに済まし、三時半、二人にて停車場に至る。此の日我は帰村すべかりしなり。
 汽笛と共に車動き初めつも、二人の瞳仲々にはなれず、遙かに我は我妻を、彼は彼が夫を見やり見かへしたり。
 好摩より雪路あしく、家に辿りつきし頃は已に点燈の時を過ぎたり。直に阿部兄への手紙かく。松子さんへ一首。
   寒き夜をみ姉が枕いだきつつ挽歌ずしてか君の眠るらん。

十一日、
 留守中の来書。
 小林花郷君の封書。(我詩につきて)
 小野弘吉兄、山田長兄、松平金雄兄、西堀秋潮兄、アベ修一郎兄(以上賀状)野村兄の端書、三句のうち
   窓ひけば五尺の雪や謡ひ初め。
   元始祭のうた聞ゆなり市の雪。
   朝川に鴨うつ砲や寒(かすみ)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 九時起床。十時頃より金矢朱紘君来り、夕刻かへる。
 小林君の書に、我を蒲原有明、ロセツチに比して世界同歩調の三詩人、共に愛の基礎に立つ者と云ひ、又、我詩を消極的悲哀に非ずして積極的叙情詩と評す。
 この日の受信。
 大阪山崎廉平君の賀状 小沢翠淵君の諏訪公園絵葉書。
 小沢兄へ、阿部梅子の君永眠につきて長書信認む。石亀、小林へ葉書。

十二日。
 起床例になく早し。
 朝、板垣たまよ君の賀状来る。午後金矢信子柳子二君の賀状及び平木白星君の賀状来る。新年に入りてより東京よりの郵便、皆一週間以上の日子を要す。甚だ迷惑なり。
 午前より秋浜善右エ門君来遊。三時頃うち伴れて其宅に至り、馳走になりて、夜かへる。沼田清民氏に逢ふ。夜詩作。

十三日、
 例になく寒さ少し弛む。
 阿部松子君の端書来る。
 昨夜の作、「生命の舟」、「西伯利亜の歌」、「孤境」及び、十一月よりの諸作合せて十一篇を録したる『生命廼船』の一詩綴をあみ、長書信とあはせて姉崎文学博士に送る。
 米国なる野口米次郎氏へ、一日の日報と端書送る。
 東亜の風雲漸く急を告げて、出帥準備となり宣戦令起草の報となり、近来人気大に引き立つ。戦は遂に避くべからず。さくべからざるが故に我は寧ろ一日も早く大国民の奮興を望む者なり。
 夜沼田清左ヱ門、石川勘之助の二君来り、高談快語、十一時すぎかへる。伊東、小野両兄へ、梅子さま永眠の報を端書にして出す。

十四日、
 十時起床。
 『西伯利亜の歌』一篇と共に万朝報社長黒岩涙香氏に書簡送る。
 午後金矢朱絃君来り談ず。氏が今春郷を出でて、遠く信濃佐久のほとりに詩骨を移さんとするの一件、はしなくも今朝、幸運の決定をみたりと。二人喜び禁ぜず。詩を応答してこの感慨を吟ず。
 田村姉より来書あり。余がせつ子と結婚の一件また確定の由報じ来る。待ちにまちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。ほほゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。
 この夜、朱絃兄一泊。十二時すぐる頃まで話題転々、舌頭花泡をとばす。我は安らかなる夢を結びぬ。友もしかりしならん。

十五日。
 降雪あり。
 友は午後にいたりてかへる。岡山、瀬川諸兄への消息。友が明日盛岡に行かんと云ふに托す。水沫集の瀬川兄へ送るべきをも。
 海の英詩 Surf and wave. 一巻、友が信濃に行くに餞す。
 この日、風邪の気にて、頭重し。夜八時就床。
 残紅岡山兄のやめるに一首。
   詩に春の調べ編ませと君がみ手に、愛の彩糸身もまゐるかな。
  朱紘へ。
   若うして愛の宮居にいつく子は、眩ゆき詩もて君を送らん。
  朱紘の答。
   送られて我は焔の中に入らん、浅間は今も火ふらす山よ。

十六日。
 十時起床。心地よし。
 昨夜の夢に。北上川大洪水にて太洋となり。怒涛洶湧する荒磯の上なる古代林中の一家、死の床のうちしかれたる室のをぐらき窓より大海を望む。希なり。奇なり。又惨たり。快たり。
 夜、瀬川三司君来遊。十二時かへる。
 日報社の福士政吉君へ手紙認む。(翌朝投函なり。)

十七日。
 朝より終日詩作。長篇「錦木塚」に五六六を一句とする新調をこころみ。(一)と(二)脱稿。
 博文館より葉書と、吾原稿送り来る。

十八日。(月)
 午後二時間許り秋浜善実来り談ず。
 姉崎博士より来簡。樗牛会趣意送り来る。
 「錦木塚」の(三)まで脱稿、「生命の舟」、「孤境」の二篇と共に、手紙とよさの鉄幹君へ郵送。
 終日雪。
 夜、沼田、石川の二君来り十二時頃かへる。談笑戯々、故友親むべし。夜半二時頃まで板垣たまよ君へ送るべき長信認む。翌朝投函なり。

十九日。
 朝早くせつ子の書状来る。よろこびの音づれ!!!
 午後、与謝野氏より吾歌稿送り来る。
 夜瀬川医院を訪ひ、八時かへる、寒し。

二十日。
 岡山残紅兄、小沢翠淵兄、の書信来る。岡山兄はわが詩を評して、「啄木鳥」を第一とし「杜にたちて」を第二。「森の追憶」を幽深の気句々に溢るとなす。
 此日秋善、ます沢文五郎ら来りて村酒をくむ。
 夜、在米野口米次郎氏への書信かき初む。日報へ「樗牛会に就て」

二十一日。
 野口氏への長信認め了りて午後投函。
 夜雪路を犯して朱絃兄を川崎に訪ひ、友が出関の漸く迫れるをきき、歓語中宵にいたる。此夜ここに一泊の馳走。
 この日阿部修一郎兄の来簡あり。ああ彼が運命は泣くべく作られたるか。わが幸福のまさに来らんとするの時、彼は卒然としてかなしき、否憤ろしき境遇に入りぬ。我は書を抱いて泣きつ。

二十二日。
 六時半金矢家に起床。
 十時、朱絃兄と共に家にかへり、快談一日。友が近く信濃に吟骨を移さんとするを送るとて、小庵に村醪を酌みて瀬川三司、立花直太郎らと共に別宴を張る。友この夜、泊。田村の兄も来泊。たへ難きまでなつかしき妻を思ひたり。
 この夜、ものとなき愁ひに襲はれて、友われ語なく、はた眠るべくもあらず。更けて万籟音なきの時、残燈影裡ひそかに涙を拭ひつ。
 ああ人生か、人生か。その烈しき悲憺の戦ひに乗り出づべく、我らの希望のいかに心細きよ。

二十三日。
 八時起床。    田村の兄かへる。
 宿酔の猶さめでや、心地いと重し、朱絃君午後三時かへる。友が出関は本月のうち。
 上京の車中に認めたる野村菫舟兄の絵葉書来る。
 昨夜来の愁情いかにしても去らず。はかなく心細き思ひ、胸に溢れてきて妻への文したたむべくも非ず。ああ向上か、勇往か。ふと心に浮ぶは、天上の安らけき祝福なり。噫。我れに美しくけなげなる妻あり。ゆたけき未来の光、夏の如き希望の気、前にあるに非ずや。さて猶、この憂悶のいと深き吐息我をはなれざるを如何。
 夜。独り空漠たる草堂の寂心にたへかねて、村の学校を訪ひ、オルガン奏でて多少欝を散するをえたり。宿直の佐々木君と語りて、八時かへる。空寒く、星悲し。苦叫胸にしきりなれど、なほ耳にある楽声の余響に心うち沈めて、辛じて庵に入りぬ。

二十四日。(日)
 岩手日報に吾「樗牛会に就いて」掲載。
 終日無為。心地すこしく優れず。十二時起床。

二十五日。
 帝国文学会より来簡。我長詩三篇二月の同誌上に表はるべし。
 相馬氏より借りて、太陽一号、及び議会史を読み、一時就床。
 この夕、高橋君を訪ふて、あらず。かへり、綱子と同伴。

二十六日。
 日報に「樗牛会に就きて」の続稿出づ。
 議会史をよむ。夜小林花郷兄への手紙かく。
 風邪の気。筆とれず。せつ子へのおとづれ書かんとしてそれも不果。

二十七日。
 鹿児嶋なる小野弘吉君より、阿部兄姉君の死去につき、哀悼の書信来る。
 長詩「鶴飼橋」「おもひ出」、終日苦吟してえたり。前者は我故郷詩の第二。
 夜姉崎博士へ長書信認め、前記の新作二篇と(日報の吾文をも)「沈黙の声」の「風絃揺曳」一節を時代思潮誌へとて送る。二時就床。(翌投函。)

二十八日。
 「太陽」編輯局より、大町、長谷川二氏の住所報じ来る。一月の太陽における二氏の文注目すべし。
 午後金矢朱絃君来り日暮まで閑談。夕飯後共に村教師高橋氏を訪ひ、校長排斥事件につき九時まで合談。
 かへりてより苦茗を啜つて、せつ子へ文したたむ。翌朝投函。
 一首。
   筆かみてほほゑみわれに曙の如、雲車天路に魂のする夜か。
 二時眠る。

二十九日。
 朝小林花郷兄より来端書。日報社へ手紙送る。
 夜。相馬氏へ一寸立寄り、学校にゆきて佐々木君を訪ひオルガンにロビンソン奏す。七時かへる。帰路小児ら連れ来て遊ばす。

三十日。
 十一時起床。佐蔵遊びに来て、三時まで。
 下閉伊山田町なる石川耕一と云ふ人より樗牛会につき照会し来る。日報の吾文を見てなり。直ちに答書出す。
 姉崎博士の「性格の人高山樗牛」を読む。(孝明天皇祭)

三十一日。
 十一時起床。
 セ川藻外君より明日姉崎博士、日本基督青年会の招待にて、来盛すべき由の端書来る。
 三時より朱絃兄を訪ひ、英詩文評釈かりて五時かへる。夜晩くまで読書。二時漸くねむる。心安らかならず、苦胸語るの友なし。ああかくて希望の年第一月は消えたり。

    
二月中

一日。
 朝早くせつ子の端書来る。羊牧場の絵葉書。
 午後小林花郷の端書に接す。嘲風の演説につきて出盛を促がし来る。
 夜、屋後の森に啼く梟の声に送られつつ、寒雪を踏みて嘲風博士に逢ふべく好摩ステーシヨンより乗車――。そこにて高与旅館より出したる同氏の端書受取り、寒さに躯ちぢめて九時盛岡に至り、直ちに俥を駆つて六日町高与旅店に嘲風氏を訪ふ。杜陵館の演説未だ了らず、乃ち十五夜の月に嘯いて暫らく散歩。十時頃いたれば、氏すでにあり。洋風の一室にビールを呑んで語る。十二時かへる。
 新しき年は幸なり。先生とこの地に会するが如きは実に千載の一遇なり。しかもこれ初対面なりき。種々の談話の如きは胸深く刻まれて忘るべくもあらねばここには記さず。
 海沼に宿す。この日氏の演題は「信仰の人高山樗牛。」「仏陀と基督。」の二題なりと。

二日、
 慶治君に托して、在中学の友へ、出盛を報ず。
 十一時五十三分の上り列車にて姉崎先生上京せんと云ふに、ステーシヨンに至り、立談暫時、やがて、珍らしき歓会をプラツトホームに手をわかちぬ。
 母上出盛。たのしき事に就きてなり。
 午後、朱絃兄の出盛を聞き、仁王小路の友が寓をたづね、それより梨木町に、阿部まつ子さまを訪ぬ。折柄伯母なる人留守にて、ただ二人相対して、修一郎兄のこと、人生、運命のこと、いしくも痕愴銷沈の物語に胸には涙とどめえざりき。ああ実に不運は彼女の一家に落ちき。慰めの言葉もえつくさず。点燈頃にいたり漸くかへる。殆んど二時間なり。かなしくもいとしき友よ、我ら何ぞまた深き友情を惜しまんや。
 夜、大清水小路に岡山儀七兄を訪へば、小林兄もありたり。ここにて、本月の「明星」に吾「錦木塚」「いのちの舟」、「孤境」の三篇載せたるを見る。詩談水の如く流れてやまず十一時友と共に辞しかへり。月色を踏んで城壁の下、母校の前、を散歩し、わかれて独り、阿部兄の故家の前にいたり、折しも雲にかくれたる十六夜の月のうす明りに、紀念多き悲しき家を眺めて、立ちつくすこと多時。ああげに悲しきは我友の一家なるかな。海沼に泊る。母と共に。

三日。
 書店をたづねて、本月の太陽を購ひ、帰路朱絃兄に立ち寄る。この日もまつ子の君訪ひたかりしも、帰心しきりなれば、四時の下り列車にて帰村の途に就く。車中、太陽なる嘲風氏の「清見潟の除夜」を読み、何となく胸乱れて、友の上、わが上、まつ子さんの上、思出でては静かに瞑想しぬ。
 この日、せつ子との事、母行きて、かの人の父母なる人と形式の定め事すべき日なりき。
 難路家につける燈の点ぜられたる後なり。新詩社よりは「明星」二号、小林君よりは「帝国文学」一号きてあり。十二時まで読書。

四日。
 諸雑誌読む。「帝文」の文芸消息十二月の部に我「愁調」も名をつらねられたり。晩翠氏の詩「南欧銷魂吟」中、「カンパニヤの大野に立ちて」の篇尤もよしと見ぬ。
 一時半、老母かへる。都合万事よろしかりき。
 夜、入浴。読書。十一時頃より阿部まつ子さんへ手紙認む。翌朝投函なり。三時漸く寝に就く。

五日。
 瀬川藻外兄より来書。
 姉崎博士、佐藤善助君、瀬川藻外君へ端書出す。(夕刻)
 与謝野鉄幹兄へ長書信認め、投函。

六日、
 悲劇「暗の祈祷」の構想にくらす。

七日、
 阿部修一郎兄へ手紙投函。かきもて行くに涙流れたり。
 この日の新聞、日露の局面急に激甚なるを告ぐ。村内の予後備兵も招集せらるるときく。手套は投げられたり。天の与へたる時は来りぬ。快心この一事。
 夜、朱絃兄を川崎に訪ふ。豆餅を俳趣味なりと笑ひ、苦茗を啜りて、高談十一時に至る。この夜ここに一泊。友の出関期近きにあり。
 小林花郷兄より「紫苑」の四号送り来る。

八日、
 午前十時金矢よりかへる。伊五沢丑松来る。
 夜。米国カリフオルニヤ州オークランドなる川村哲郎君へ長書信認む。翌朝投函なり。

九日、
 「天の旅」と題して、旧作の詩稿を集録す。
 新紙、急鐘を乱打す。御前会議の結果、閣臣皆断、天皇宜しと宣へり。大詔煥発両三日中、肉躍る。
 佐藤善助君の端書。与謝野鉄幹兄の手簡来る。七日に一葉会を故天才一葉女史の故宅に催したりと。
 夜、相馬へ一寸行く。佐蔵遊びに来る。

十日、
 午前野村長一君へ手紙かく。
 金矢朱絃来遊。露艦二隻仁川に封鎖せらるとの報あり。
 野村君の自筆の、森の絵葉書来る、甚だ美し。
 夜、野村兄への手紙投函に行き、郵便局にて遊び来る。

十一日、(木)紀元節。
 年越の餅つきなり。
 新紙伝へて曰く、去る八日の夜日本艦隊旅順口を攻撃し、水雷艇によりて敵の三艦を沈め、翌九日更に総攻撃にて、敵艦六隻を捕拿し、スタルク司令官を戦死せしめ、全勝を博したり、と。何ぞそれ痛快なるや。又朝鮮巨済島方面にも海戦ありたる者と云ふ。予欣喜にたへず、新紙を携へて、三時頃より学校に行き、村人諸氏と戦を談ず。真に、骨鳴り、肉躍るの概あり。
 夜、沼田丑太郎君来り、深更まで快談。
 「明星」二号せつ子へ送る。

十二日、
 午前より金矢朱絃兄来遊。一泊。午後学校にゆく。十一日細越夏村より来簡。

十三日、
 宣戦の詔勅十日午後五時天降す。新紙に掲載。
 露艦四、北海道渡嶋沖に来り、福山を砲撃し、我商船田子の浦丸を沈め、更に我水雷艇によりて三隻撃沈さる。
 朱絃午後三時かへる。夜郵便局に行く。福士氏へ送簡。
 金矢武吉少尉へ端書にて征途に餞するのうた。二首。
   ウラル超へて乙女名に美きコサク路、踏まば蹄にほまれ印せよ。
   剣とぐと君が眼によきバイカルや氷ふまずに軍馬肥へたれ。
 川口孝治君へも端書。短詩作る。長詩「沈める鐘」の初数行成る。

十四日、(日)
 今日は旧暦の我家の年越とて、出入の者来りて朝より急はし。
 阿部修一郎兄より時局について激越せる書翰来る。
 午後より夜へかけて、村の乙女ら来り、さだ子さんなどと共に加留多会催す。愛らしきエンゼルよ。
 夜遅く阿部兄へ長書信認む。

十五日、
 今日は旧暦の大晦日、借金の催促頻々として来る。困却とは我にとりてお手のものなり。痛快。
 午後佐蔵遊んで行く。夜郵便局にゆきてくる。

十六日、
 早朝福士政吉氏の端書に接す。畠山亨氏への端書投函なり。
 賀客来る。金矢君午後二時間許り遊んでゆく。沼田松太郎氏も来る。夜郵便局にゆき、福士氏へ返信出す。
 長詩「落瓦の賦」成る。

十七日。
 汽車時刻改正にて新聞本朝より朝の七時に来る。
 阿部まつ子さんの心こめたる書簡に接す。
 ソンネツト「山彦」成る。
 午後鉄幹氏へ、「落瓦の賦」「山彦」及び短詩数首と共に手紙送る。
 夜、燈下苦茗を啜つて、徐ろに前途を思ふ。

十八日、
 終日頭重くして筆を取れど興味索然。無為の一日なり。
 朝、野村長一兄の長信に接す。中に我詩を評するの語あり。沙翁の霊の手腕はなくとも、ゲーテの神を捕へて、神人をうたはん、と。白梅一輪を封じ越したり。征人故家を憶ひ、閑人旅を願ふ。都門の春を伝へて、我出門の思繁し。「我艦また旅順に敵艦三を沈む」
 夜、散歩がてら、伊東圭一郎、田鎖徹郎両君へ端書出しにゆき、学校にゆきてオルガン奏す。十時すぎ帰る。

十九日、
 昨夜より書き初めたる姉崎嘲風氏への書信かき終りて投函せしむ。午後秋浜善実、佐藤友武来りて将棊遊ぶ。

二十日、
 出入の者共来りて今日は「餅包み」の日なり。
 夜、杜陵なる妻へ長信認む。(翌朝投函なり)。田村の義兄来り一泊、明朝小坂に向け出発すべしと。

二十一日。
 朝、川口孝治君の端書、畠山東川氏の封書に接す。
 夜、沼田丑太郎君、沼田千太郎君、石川勘之助らと千太宅に飲み、卵子酒の酔に愛国を談ず。十時頃より更に丑太郎方に至りて飲み、写真、氏が出征のかたみとして送らる。

二十二日、
 午前勘之助来りて、斬髪。
 午後朱絃来る。相携へて一寸学校にゆき、沼千方に帰路立ち寄り、五時家に入る。七時頃より沼千、沼丑二氏来り、快談流るるが如く、暁近き三時半漸くかへる。朱絃は泊る。

二十三日、
 朝、姉崎博士より、「時代思潮」一号と共に書信来る。
 十一時頃朱絃かへる。一日思潮をよむ。
 昨夜より、横笛一管蔵したるを取出で、吹奏す。
 夜、散歩のついで、はがき一葉買ひ来りて、野村君へと認む。翌朝投函なり。さだ子さんに逢ふ。

二十四日、
 思潮の口絵、ベクソンが「浪のたはぶれ」壁間にかかぐ。
 午後秋善来る。
 夜、学校に行き、佐々木君と談ず。さだ子さんの清書もらひて九時半かへる。

二十五日、
 瀬川君の端書来る。
 嘲風博士へ書信認め、送る。
 夜。学校の佐々木、高橋両君来遊。九時かへる。

二十六日、
 朝、豊巻剛君の書信来る。
 夜、学校にゆき、郵便局にさだ子さんに逢ふ。九時かへる。家に入るや直ちに、沼田千太郎、石川勘之助、立花直太郎三人御年始なりとて手見やげもちて来る。清談。二時漸く就眠。

二十七日。
 朝、伊東圭一郎兄の端書。田鎖徹郎兄の封書来る。
 瀬川兄、豊巻兄、内田秋皎兄へ端書出す。
 学校に一寸行き説子さんに托して朱絃君に手紙やる。
 夜、甚だ憮然。

二十八日。(日)
 旅順第三回砲撃の詳報伝はる。其我廃艦を埋めて敵港を封鎖せる如き。日本軍にして始めてなしうべき大胆の事たり。痛快。
 十一時頃より朱絃兄を訪ひ、快談。御馳走になりて五時頃帰る。
 夜学校にゆきオルガン奏す。

二十九日。
 高山樗牛先生の令弟斎藤信策氏へ書信送る。
 午後学校に一寸行く。佐蔵文五郎遊んでゆく。
 小林花郷兄、及び杜陵のせつ子より来簡。

    
三月中

一日。
 夜、散歩、丑太郎君に逢ひ、仁川らと共に高橋君を訪ひ十一時半かへる。月明。心地よし。小林へはがき。

二日。
 今日は旧暦の一月十六日の事とて、何処の寺院も参詣人多き也。沼田丑太郎君来りて夕刻まで。盛んな加留多会催す。
 昼日報へ原稿送る。
 夜学校へ。

三日、
 朱絃兄来る。石川勘之助君も。夕刻かへらる。
 朝“明星”三号来る。“落瓦の賦””山彦”我詩二篇を掲ぐ。
 夜。郵便局に一寸行き。村学校の校長排斥事件にて談合。それより瀬川医院に行き十時頃まで三司君と話し来る。例の一件は逢ふ人の数賛成なり。この日より“戦雲余禄”日報に掲げそむ。

四日。
 午前より秋浜善実来り、一件相談。沼田逸蔵氏も来られて三時半まで種々合談。日報へ原稿と手紙送る。小林兄より絵葉書来る。
 夜、学校にゆき佐々木君と一件相談。七時半より郵便局の立花家に訪れて十二時まで遊びかへる。話しは例の一件なり。月明。さだ子に逢ふ。

五日。
 朝、畠山氏より「帝国文学」二号(我“無絃”のソンネツト三篇載せたる)。小林兄より「新小説」三号送り来る。正午、朱絃へ手紙やる。一寸学校に行く。
 雨降る。新しい雑誌読む。小説つまらなし。有明氏の“姫が曲”の詩うまし。“帝文”の我詩尤もうまし。
 夜一寸秋浜へ。

六日。(日)
 午後より夜へかけて加留多会。集る者十三名。佐々木君沼千君。秋善君等。外は小児乙女ら。愉快。

七日。
 小沢翠淵兄の端書来る。せつ子へ絵葉書。出す。
 瀬川、岡山両兄へ端書出す。
 正午学校へ一寸行く
 日報へ戦雲余録連載

八日。
 福士政吉氏より来翰。
 午前、金矢君を訪ふ。病気にて気色すぐれず見えたり。
 頭痛し。

九日。
 姉崎氏より“時代思潮”二号送り来る、我詩三篇“つるかひ橋”“おもひ出”“風絃揺曳”掲載。嘲風博士の東北遊記に我と逢ひたる事をも記せり。小林君より“帝文”二号来る。
 瀬川兄より来簡。“鶴飼橋をよむの詩”あり。
 夜、郵便局にゆきて遊ぶ、畠山氏、小林君、松平先生へ書信投函。

十日、
 小沢翠淵兄へ樗牛会規約と共に書信送る。
 秋浜へ一寸行く、金矢朱絃兄来り談ず。天地有情もてくる。夕刻朱絃と共に学校に行く。伊東圭一郎兄より来翰。
 夜、沼田丑太郎兄秋善来遊、二時頃かへる。

十一日。
 一日心地悪し。岡山兄の端書来る。雨。
 天地有情読む。せつ子へ手紙と、“帝文”二号送る。
 瀬川兄へ端書出す。夜散歩。

十二日。
 柳沢文五、立花直太郎、沼田丑太郎、沼田松太郎諸氏来り、大に飲む。仙台なる金田一花明兄へ手紙投函。
 夜、仁川君、石勘君らと共に学校に佐々木君を訪ふて十二時半かへる。

十三日(日)
 午後より夜十時まで朱絃君、さだ子さん等とかるた会す。おもしろし。

十四日。
 昨夜一泊したる朱絃かへる。
 せつ子、及び阿部まつ子さんより来簡。
 まつ子さんへ返信認む。夜、町にゆきて飲む。
 この夜、就寝後、瀬川三司君、秋善と共に来り、松本くに子の履歴書持ち来る。

十五日。
 朝新聞は旅順口殆んど陥落するを報ず。石亀守人君より端書。瀬川医院へゆき松本女のことに就きて愛子さんと語る。
 郵便局にて御馳走になる。“コザツク兵”せつ子より来る。
 金田一花明兄、小沢翠淵兄より来簡。
 沼田丑五郎君来る。
 早く就寝。

十六日、
 “戦雲余録”日報へ連載。
 一寸学校へゆく。明星せつ子へ送る。
 午後“夜の鐘”成る。
 夜、“暁鐘”“暮鐘”成る。傑作也。

十七日、
 昨夜脱稿の三篇の詩鉄幹氏へ手紙と共に送る。
 沼丑君来る。瀬川へゆく。学校へゆく。
 夜、平野郡視学に宛てて、当村校長排斥の事、松子女まつ子さんの事認書。

十八日、
 昨夜の手紙かきつぐ。沼逸諸氏に見せて投函。
 畠山亨氏午後三時より十時まで来遊、相馬の一件賛成也。談話痛快なりき 秋善、立花理平君も来る。
 “塔影”深夜成る。

十九日。
 “沈める鐘”一より三まで全部成り“塔影”と共に姉崎博士に送る。瀬川君より端書。
 姉崎博士より、書信と「思潮」二号の我詩の原稿料来る。
 夜、金田一、瀬川、小野、小沢、石亀諸氏へ端書投函。
 丸善へ葉書注文してやる。
 夜、郵便局立花理平君方に行き、快飲、十一時かへる。雪。

二十日、
 姉崎博士へ書信認む。
 午後朱絃兄を訪ひ、種々合談、一泊す。“白狼賦”起稿。

二十一日、
 朝金矢よりかへる。田鎖兄へ端書、小林へ手紙。
 夕、沼丑君来り、相馬一件合談の後、共に瀬川を訪ふて十一時まで快飲す。

二十二日、
 阿部修一郎兄より来簡。
 小学校の卒業式に臨席。その後沼丑、秋善と家にかへり、飲む。沼田君夜八時まで遊ぶ。明日は杜陵の詞友の来るべき日也。

二十三日、
 朱絃来る、小学校事件にて平野郡視学より吉報来。
 午前、学校へ行く、
 夕刻、松平金雄先生及び瀬川藻外君来る。
 高談。夜二時まで村の少女らと共にかるた会、朱絃も宿。

二十四日、
 午前皆と共に学校にゆく、午後松平君の帰盛せらるるを送りて三人好摩まで到り、日暮かへる。
 夜、三人にて瀬川医院を訪ひ、ビールの杯をあげて深更かへる。松平師は仏教徒。瀬川君は基教徒。朱絃を我れ哀れと思ひぬ。
 阿部松子さんより端書来る。返事直ちに。

二十五日、
 雨降る。丸善と小沢兄より来簡、
 夜、沼田専太郎を三人にて訪ひ、ビールの盃。

二十六日、
 瀬川君朱絃と共に今日盛岡に出発す。せつ子へ手紙半ばかく、福士氏へ手紙出す。米国加州オークランドなる川村哲郎兄より端書初めて来る。
 この日の朝門前に縊死者あり。夜、立花理平君来る。

二十七日、
 母風邪にて臥床。
 夕方沼丑君来る。

二十八日、
 せつ子へ手紙投函。
 秋善方にて鴨汁沼逸先生と共に食ふ。
 夜、沼丑君と共にかへり、豪飲。

二十九日、
 朝、藻外兄より来書、写真も来る。
 午後、松平金雄先生より端書来る。

三十日、
 福士氏へ手紙。

三十一日、
 弥生の月もかくて暮れたり。風邪の気にて筆とれず。
 朱絃兄より手紙来りたれど行かず。
 夜学校にゆき、郵便局に行く。

      
四月中

一日、
 朱絃兄を川崎に訪ふ。石亀兄より来簡。
 午後より秋善方に行き高橋兵庫君立花直太郎君もあり、夜かるた遊び十時かへる。

二日、
 高橋、立花、石川勘、秋善来り遊ぶ。「明星」四号(特別刊行、桜花号)来る。我鐘の歌三篇、及び藻外兄の我「つるかひ橋を読みて」の詩載せたり。
 午後金矢光一君も来り、一時半許り、乗馬す。
 夜高橋君来泊。

三日、
 光一君兵庫君立直君、来る、学校にゆきて遊ぶ。
 兵庫へウエブスター英辞典送る。夕刻沼丑君来り、共に町に出づ、瀬川へ一寸、郵便局へゆき十時まで遊ぶ。

四日、
 秋善へゆく、豚汁、夜郵便局へ。

五日、(※日付のみ)

六日、
 招かれて沼丑君方に至り、沼逸先生瀬三君らと飲む。
 この夕、金田一六郎君杜陵より来り泊す。細越兄の手紙。
 米国オークランドなる川村哲郎君より来簡。

七日、
 若松の阿部松子さん、金田一京助兄、より端書。豊巻兄より「啄木兄に送る」のソネツト一篇よせらる。江鉤子の瀬川兄より書面。午前、金田一と共に学校に行き遠藤、上野諸氏に逢ふ。田鎖たけし君も来遊。金田一今夜もとまる。夕刻、光一君七郎君。乗馬して来る。
 夜瀬川三司君沼丑君らも来り、盛んなるかるた会やる。

八日、
 金田一盛岡にかへる。
 午後、田鎖徹郎君、達曽部の任地を罷められて来り、杜陵より阿部龍二君を伴ひて来る。夜快談。



七月二十一日。
 あざみの花、つり鐘草の花したたかに活けたる夏の日の窓よりかすかに啄木鳥の羽叩きを聞きつつ、此一征矢み胸の底深うまゐる。保登々芸須鳴くがままに繁り行くそよ風の杜を前にして、み文に詑心地鎮めにし慰めの日より七日目の朝、心も静かに、空なる雲もゆるやに驕りて候。美しの胸広うあけて此北なる風の趣き入れさせ玉へ。
 さて何とか云はん。あはただしくも経つ月日の流れ哉。と見るまに二人、運命の小舟擢ぎ出でて、河は希望の花浮む朝靄の岸、ローレルライの歌麗しう聞き酔ひつつ、行方無涯のただよひに、十里百里、さすらひわたる夢の世のただずまいに似たらん想ひ哉。のぞみの山高く、憧がれの力腔に充つるを、「禍ひ」は弱きが胸に巣くふと覚えて、私既に五十日許りを薬餌の寵子となれるにて候。酔ひぬるがままに佇らん我路ならず思ひ候へば、病骨徒らに心聳へて、脾肉の嘆声今更ならず。思ふこと云はぬが腹ふくるる業とかや。うちに健闘のいさみ燃えつつも、筆に嘱せんこととどめられ候が、私最大の苦痛に候ひき。されば私、病めば休火山となるやうなりとて笑ひ居候。それ休むなり、遂に死せるには非ず。爆発の期まさに来らざる可からず候。
 霖雨止み候てよりは身、心ともに、大に引き立ち来り候。加之、去る十日の頃よりは友なる人々陸続として来り会し候事とて病余の勇を鼓して舌戦笑倒、宵を撤するを忘るる事数々に候ひき、いとしの妻よ心安め玉へ。夫が気力日を追ふて快復しつつあり。新来の喜びを携へて相見んの日遠くもあらずと存じ候。
 見舞呉れしは多く杜陵の詩友にして、かはるがはる此山室の静けさにたのしき活気を焚き申候。慰めんとて訪ひ来し人々を、私例の怪弁(?)を揮ふて漫罵哄笑、却つて対者(むかふ)を慰めてやり申候。かかる時は私更に病の人の如くあらず候へど。閑座夜深うして悲愁しきりに襲ひ至るの時。さすがにせきあへざりし涙の、思の胸より迸しる宵もなかりしに非ず。さはれ過ぎ来しの情は今更に語らずもがな。克快のよろこびを告ぐるに止めていざ話題を他に転ぜんか。
 海沼君(君も記憶し居玉ふべし)暫らく滞在のつもりにて参り居候。この人風騒の趣きを画ペンに運びなすこと甚だ巧みになられ候に、私も二三枚ねだり申候。出来上りたるは『少年楽人』の一幀にて、原図をカルテロンの『天才の失意』の趣題に取り、年少きチゴイネルにも似つらん俊高の天才が、ヴオリンかき抱きて憤烈の情懐を現はせる画、私ものとしもなく好きに候。二三日先より描きはじめられたるは、『反響』の復写にて、これまた捨て難き神韻の人を襲ふもの有之候。驚かるるものは人の心の変転に候哉。この人画才決して侮るべからず。我は芸術の融化を通じてあらゆる人間の人格を改造せん事を欲す。信仰は高尚なる趣味の根本にして、純なる風尚の趣く所に精霊の勝利を得べし、然らば乃ち美の斧を以てしたる凱旋の更生はやがて乃ち世界が真の生命に入るべき第一の階段に非ざるか。芸術の尊き所以は乃ち此故なり。而して芸術の人の敬せらるべき所以も亦実に這般の消息に存せざる可からず。話頭は思はず、横路にそれぬ。立ちかへりて我らが友の上を思ふに、阿部兄の洋画に於ける、藻外の音楽に於ける、各見るべきものあり。其他一人として詩楽画の好む所によつてひたすらに聖らかなる趣味を渇望せざる者なきに至つては、吾人の驚喜措く能はざる所、就中阿部兄の画才に於て、意外なる風格の羨むべきに似たり。夫れ日は悪しきものにも善きものにも照すなり。天意の普きところ、其処に吾人の幸福ぞ横はらずや。妻よ、われらの理想の為めに祈れ。《以上午前》
    *     *     *
 帰省中ののぶ子君、りうさまと共に、小供達ひきつれて訪づれられしが先きつ方かへれり。君は此女とお逢ひなされしや。私ら如き武骨者には手にあまる流暢の応対には、海沼君もろともに大に狼狽いたし候。恋しの妻よ。人は何時までか自らを欺きうべき。恐るべきは沓々として所謂都府の風を装ふものにあらずや。若し世界に最も醜なるものありとせば、そは必ず自らが何の上に立てるかを知らずしてひたすらに四辺の風光に眩惑し危憂する底の人ならざるべからず。而して我れは実に社会のあらゆる人が凡て此最醜の事を敢てなしつつあるの怪事に驚かざるをえず。古の哲人は教へて『汝の立つ所を掘れ、さらば清き泉湧き来らん』と云ひき。自家の深く掘れる井戸より呑むと、隣りの家より貰ひ水すると、人はこの見安き道理をだに弁へざるなり。自らを装ふは自らを欺く者に非ずや。欺かれたる『我』は最早や生きたる『我』にあらざるなり。この故に我れは思ふ。守るべき力なくして攻むる事能はず。自らの立つ所を知らざればまた人の立つ処をも知るに由なし。畢竟「値」は自らの作る所にして自らの内にのみ存す。装へるものに何ぞ真の情あらんや。「愛」とは遂に裸なる『我』と『我』との合同に帰せざるべからず。熱烈なる愛の福音は意志最深の融合が齎す所の尊き活動なり。宜なる哉、今の世の人多く熱情を知らずして漂々として空誕の夢に之れふける事や。さるが故に我が一度外界の空気に触るるや、慄然として内心の制約を顧みざるなき能はず。顧みて而して常に無限の慰安と悦楽のつきざる満足に浴す。ああ我恋しき妻よ。此不断の幸の泉こそ実にわが心の上にそそぎかけたる君が聖歓の霊酒にして、装はず欺かず、研き上げたる宝玉のいつはらざる光にてあるなり。聖書に「神の合せたまへる者はこれを離す可からず」と云へるもの、また此意に於て解せらる。イエスの所謂「神」と吾人の所謂「我」の本性とは、畢竟同一の解決にして、ただ彼はこれを客観的に視、吾人はこれを主観的に索めたるのみ。人の霊的本能の叫ぶところを外にして何処にか所謂神の声なるものあらんや。されば最も美しき神の宮居は白壁蒼穹を摩するの偉観に存せずして却つて人々の心の奥に刻まれたる信仰の一字にあり。ああ君よ、われらはこの神の声に応じて潔き白百合の相抱く如く一体となれる者。世に何処にか斯かる絶対の権力あらんや。我は世の偽りの情け装へるものを見る毎に、恋しきわが半身の如何に貴きかを顧みて、君なつかしさのますます深うなり行くを覚ゆ。自らの立つ所を深く掘りて清き泉を得。自らの心を深く極めて自らの心の神なるを発見しえたるものは、また再び人の家の井戸を思はず。世の中の推し移りに憂ふる事無きなり。
 ペンはまたしても余岐に走りぬ。君よ許せ。われは遂にわが情をいつはるすべを知らざるなり。自らを欺かざれば所謂坊間の交際子となりえざる社会を見、その衆人が冷眼環視の間に立ちて、内心の回顧の外に些の慰めなき身の、たまたま今日新来の客に対して益々何物かの胸を刺激するに似たるを覚えて、かくは記し来りぬ。吾は凡ての人を愛す。博き同情の鏡の前に立たん時、吾眼には何物かあらゆる差別を没して一ケの小児たらざる。されど其愛と此愛と、愛は乃ち愛なりと雖ども一方は「恵み」の愛にしてこれは「酬ひ」の愛なり。夫れ恵は万生を一心に摂するの謂にして、融合はあれども包括は未だし。酬ゆるは本我を闡いて直ちに相抱くの愛にして、渾通溶和正に一体を形づくるの意。茲に於てか乃ち円満包括の無上光明を体現しうべきなり。光は外にあらずして却つて内にあり。ああ此光りよ。誉むべき不断の栄光よ。讃ふべき二人が常楽の理想よ。
《以上夕餉前》
     *     *     *
 日は暮れて黄昏の散歩済み。夜深うして友已に安らかなる夢を呼べり。慷げの夏の想ひをこめて、此世此室今我のみの領となりぬ。尊むべき哉。寂静無限の楽しみのうちに浩蕩の虚誕をのがれて救済の直路ただちに愛歓の驕りを誘ふ夜の秘密の賜物よ。
    ――――――――――◇――――――――――
  Consider the sea's listless chime:
  Time's self it is made audible,
  The murmur of the earth's own shell.
  Secret contenuance sublime
  Is the sea's end:our sight may pass
  No furlong farther.Since time was,
  This sound hath told the lapse of time.

  No quiet,which is death's,-it hath
  The mournfulness of ancient life,
  Enduring always at dull strife,
  As the world's heart of rest and wrath,
  Its painful pulse is in the sands,
  Last utterly,the whole sky stands,
  Gray and not known,along its path.

  Listen alone beside the sea,
  Listen alone among the woods
  Those voice of twin-solitudes
  Shall have one sound alike to thee.
  Hark where the murmurs of thronged men
  Surge and sink back,and surge again,-
  Still the one voice of wave and tree.

  Gather a shell from the strown beach,
  And listen at its lips,:they sigh
  The same desire and mystery,
  The echo of the whole sea's speak.
  And all mankind is thus at heart
  Not anything but what thou art;
  And earth,sea,man,are all in each.
          ((THE SEA-LIMITS.))
          -Dante Gabriel Rossetti.
     *     *     *
 愛誦のロゼツチが秀篇をしるして、書き送るべき山々はあくる日の光をまたん。夜はいたくも更けたり。夢よ、妻とわれとの上に幸あれ。
 さらば恋しき妻よ。われは今宵も亦さびしくただ一人思寝の枕に就くぞや。さびしきさびしき枕に病み痩せの腕をまきて、………魂はなが和らかき春の肌にひたと添へつつ………ああ堪へられぬこの血の栄へよ………(二十一日夜、十二時半)

二十二日。
 起き出でて先づしめやかなる雨の音に心を洗ひぬ。静けきあしたの窓や。今日はまた頭重し。定めの散歩も叶はざればつとめてこの喜びの筆続けん。喜びとや。さなり。尊き愛の永生を外にして、何所にかまたかかる悦楽の泉あらんや。
  My mind to me a kingdom is:
    Such perfect joy therein I find,
  As far exceeds all earthly bliss,
    That world affords or grows by kind:
  Though much I want what most men have,
    Yet doth my mind forbid me crave.
 ああげに我が心は我に於て一箇の王国にてあるなり。夫れ超世の愉悦なるが故に、装はず欺かず、また人を羨み嫉まず。この常楽平和の栄光は美しきクエンが愛抱の権力によつて久遠の庸道を保たれつつあるなり。
     *     *     *
 私時折は学校にゆきて相馬先生の楽譜帖より、何かと漁り試み居候。御送り被下し曲、うれしう候。近頃は破格ながらマーチ二ツ三つ習ひて、出来もせぬくせに、慾丈けが人並あると云ひて笑はせ居候。上手にならぬうちが楽しみに候べし。或人の「子供は不具なる程可愛きもの」と云ひし例もあれば。呵々。とは云へ由来不器用の私、なまなかに覚えはじめたるが千古の不覚なるやも知れず。
 ワグネルのそれ、メンデルゾンのそれ、早くききたきものなり。
              (来客あり、ペンををく。)

二十三日。午前七時。
 昨日は朱絃君訪れられてひねもす遊びくらし候。かるたやりて私墨ぬられ申候。話は板垣たまよ子の君の事のみにて持ち切りの姿に候ひき。私大にほめてやり申候、彼の人如何に思ひけんか知らず。
 夜に入りては更に手を携へて、海沼君もろとも三人、川崎の宅へ推しかけて、十二時頃まで遊びふかしてまゐり候。加留多に奮戦して私龍子さまの手より血を流させ申候。思へば気の毒の事哉、はた笑止の事哉。かへりには夜の道の静けき小草の夢を踏みて、暗澹たる空に小さき星のただ一つかかれる。私初めて甦りたる様の心地いたし候。蜒々たる東西の山趣。天地は深き黙思の眠りに静みて、路に臨む楊柳の影黒く、草舎遠近に散点する所、ああかかる時に、たよる者を恵まぬ事なき「自然」てふ全能の女神は、其いと高き所の霊精の座を下り来て、慕へる者の胸ふかく、温かき慰安のくちづけをぞ賜ふなる。かくて我は思ひぬ。ああそれ小児の心乎、小児の心乎。!!! 禍ひは罪なき小児の心を襲ひえざるなり。清き泉のほとりに咲ける蘋の花のたとへ流れて濁江の岸に泥の香さぐるとも、潔浄清白の色は何時の世がそのけだかき趣を失はん。飾ることなき小児の心はやがてその不断の清白に非ずや。若し今の世の粉黛を事とする交際の道を更めてさらに吾人の救済を求めんと欲せば一に此小児の心を以て人と交るの法あるのみ。
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 日は午に上りて暑さ加はり遠く夏蝉の声きこゆ。我は喜びを以てワグネルの事書かんとす。
 楽劇「タンボイゼル」中のマーチが絶代秀俊の作なるは西欧の評家も多く讃賞の道を一にする者の如し。我はその天品の遺韻をはしなくも洋濤万里の天に於て恋しき妻よりきくをうべき好運を荷へる者なり。僕やワグネル研究に多大の趣味を有するもの。而してそが人間再生(ヒユーマンゼネレーシヨン)の説を体現して能く冲天の神才を発揮しえたる此偉人の諸作が他日わがたのしき家庭の鳳歓に伴ふて、われらが愛の尊き宣伝者たらんとするに至つては、夫としての我名誉、何ぞこれに如くものあらんや。妻よわれは限りなき満足を以て、今、「タンホイゼル」に就て君の参考となるべき事を書き送らん。
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 《夜一時。今日も同窓会の相談にて朱絃君来り、午前より終日、奔走いたし候。あまり遅くなり候まま今夜はこの室に三人枕を並ぶる事とし、先きつ時より蚊帳の裾くぐり候へど、私目冴えて中々に眠をうべくも思はれず候まま。此筆萎れたる薊の花の下にて。》
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 Tannhauser 物語はロヘングリン、ニーベルンゲン、パルシフアル等と共に独乙古譚の一にして早くより此民族間に伝唱せられたるものなり。ワグネルが古譚神話に於ける嗜好は早く幼年の日に於て表はれたれどそが有力なる研究の端緒に入れるは巴里滞在の期を以て主とするが如し。タンホイゼル物語の初めてワグネルの味ふ所となりしは千八百四十一年の終りにして、彼が内外蹉陀困惑交々心を襲ふの際における巴里客舎の燈下に繙かれたるなり。当時ワグネル二十九才。『リインヂ』『漂流和蘭人(フリーゲンデホレンデル)』等の諸作を出して才藻漸く渾円の域に進みながら。世は依然として彼を迫害し誹謗し、愛妻ミンナ(Minna Wagner)と共に客情苦愁に囲まれて、崢嶸の路其極に達せるのみか、妻また彼を愛すと雖ども彼の天才を認むる事能はず。憂痛内外より併せ攻むるの状ありき。かかる間にありても彼の「活動」の頭脳は毫も其力を収めずして、古史古譚の研鑽に従ひぬ。茲に注意すべきは、多年流浪に労かれて故国を思はざりし勇邁のワグネルが、このタンホイゼル物語を読みて郷土の風情を忍ぶや、堪へられざるまでに墳墓の地を慕ひ初めたるの一事なり。かくて彼が胸中に帰思漸く動くと共に、楽劇『タンホイゼル』も亦其神来の翼を延べて、ワグネルが胎中に宿りぬ。』
 太陽は物影の草葉にも照らすなり。一滴の水も大海の極みに至らざれば、其力を休めず。夫れ『力』は遂に大石の下をもくぐりぬけ、黒金の扉をも徹さざれば鎮まらざりき。一千八百四十二年飛報は祖国の光を伝へて流人の手に至りぬ。曰く、ドレスデン劇部はまさにワグネルの「リインヂ」Rienziを公演せんとす、と。《以下二十六日朝書続ぐ》
 ワグネルは勇躍して客地を捨て蒼惶として北方にむかへり。鷹の北するや、其望みただに雲濤を呑むの勢のみにあらざりき。』
 二月、テプリツツに着し、止まること六ケ月。其間主として新劇『タンホイゼル』のために思索し努力し、果た苦心具さに肝胆を砕きぬ。《此曲中の有名なる「進行曲」は当時の作にかかる部分なり》七月ドレスデンに入り万難を排して十月二十日遂に『リインヂ』の第一回公奏を開くに至れり。
 『リインヂ』は一千八百三十八年より同四十年までに成りたる作にして、之をワグネルが全体の作中に措くときはさまで重大の価値を有する者に非ずと雖ども、其活躍たる天才の発動、熱烈なる情操の流露せるに於て、又遂に天上の者ならざる可からず。加ふるに共演者中には熱心なる崇拝家チヒヤチエツク氏、シラデル、デヴリイント夫人等ありしが故に、此公演は非常なる成功を以て其局を終り、午後六時より深更に至るまで《従来のオペラはさまで時間長きものに非ず》間断なく復奏せられて、演者また一点の批をも加へらるる事なかりき。《以下廿七日朝かきつぐ》此成功に伴ふてワグネルの名は漸く人の注意をひく所となり、つづいて「漂流和蘭人」を公演し、幾何もなく伯林楽部に入りて其監督官となりぬ。されど「和蘭人」以後の彼は最早其意見趣味共に民衆の上に超絶し、渾円の詩想は遂に俗耳の理解する能はざる所となりて、処女公演の「リインヂ」が非常の全盛を極めたるに拘らず、「和蘭人」に至りては頗る寂寞たる者なりき。俗悪なる趣味の如何に天才を障害するやは此一事にても明らかなるに非ずや。伯林に於ける彼も亦、共進勇の噴気おのづから他と相容れずして間もなく再た民間の一楽場に下れりき。
 楽劇「タンホイゼル」は実にかかる変転の間に、一千八百四十二年より同四十四年の終に至るうちに幾度かの改作修正を経て成りぬ。ワグネルの苦心は非常なりき。而して茲に「タンホイゼル」の有名なる所以は元よりそがよく楽詩の高調を示せるによるは云へ、ワグネルが思想発展上の見地より之を見るに、「タンホイゼル」以前の諸作乃ち「和蘭人」「リインヂ」等にありては詩才元より超凡の趣きありとは云へ、之を形式より論ずればただ一に在来の「オペラ」(歌劇)の成形を踏用したるに過ぎず。「タンホイゼル」に於ては乃ち然らず。彼が巨論『未来の芸術』及び『オペラとドラマ』等に切言したる所、所謂彼自身の天職なりと自覚したる新芸術「ミユヂツクドラマ」(Music-drama.)を体現して自家の主張を世間に発表したる最初の試金石にてありしなり。さればワグネルの真の生命は「タンホイゼル」以後の諸作に於てのみ見るをうべく。従つて彼は此作によりて自家の開拓すべき広大なる王国の門戸を開放したるなり。《以下二十八日朝かきつぐ》我は今彼の美論をうかがひ更に其作物を評せんとするにあたりて、まづこの作の梗概を語るべきを説話の順序なりと思惟す。左に記す所は乃ちリツヂー氏がワグネル劇解説中の『タンホイゼル』の一章を抄訳するものなり。


甲辰詩程はこれで終りです。
 明治39年3月4日から書き始める「渋民日記」までの間の日記は現存していません。】



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石川啄木 啄木日記