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 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



戊申日誌
明治四十一年日誌
 

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第14集
  発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷
なお、筑摩書房版全集と照合し、不突合の場合は調査、不明の場合は筑摩版を採用しました。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。
戊申日誌は明治41年1月1日から12日まで、石川啄木が小樽で新年を迎えて書いていますが、12日でやめ、改めて「明治四十一年日誌」其一、其二、其三を書いています。
このページは、「戊申日誌」を紹介しています。
「明治四十一年日誌」其一、其二、其三については別ページに掲載しています。

戊申日誌

明治四十一年日誌

   睦月 ――小樽――

一月一日
 起きたのは七時頃であつたらうか。門松も立てなければ注連飾りもしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔したものもない。
 十一時頃出掛けた。世の中は矢張お正月である。紋付を着て、手に名刺を握つて、門毎に寄つて歩いてる男が沢山ある。自分は紋付も着ない。袴も穿かない。澤田君から借りて居るインバネスも正月らしくない代物だ。澤田君へ行つたが留守だつた。稲穂学校の前を下りて来ると、四方拝の式が済んだと見えて、正装した小供らがゾロゾロ門から出て来る。其等に立交つて歩いてると、何だか少し正月らしい気になつて来た。小供は何日でも可愛い。斎藤大硯君の僑居を訪ねたが矢張留守だった。馬鹿臭いから帰る。
 昨日から初めた英語の復習をコツコツやつて居ると、出入の魚屋や米屋が年頭の顔出しに来る。社の佐田と奥村も顔出しをして行つた。佐田は特務曹長の正装をして威張つて歩いてる。滑稽にも程もあらうぢやないか。藤田武治が吉野花峯といふ男を連れて来た。在原も来た。
 夜、自分が入社させてやつた白田北洲が酔払つて来た。餅を喰はした所が、柄にもない気焔を吐いて行つた。トンデモない話だ。

一月二日
 十一時頃起きた。初荷の馬橇の勇ましい声が聞える。怎も不景気だ。頭がムヅ痒くなつたので、斬髪にゆく。十九銭とられる。アト、石油と醤油を買へば一文もないといふ話。
 再出掛けて行くと、予て噂のあつた西掘秋潮君が、札幌から移って来て書店を開いて居た。寒い風の吹く店にチヨコナンと座つて居る。一時間許り話して帰る。
 家には斎藤大将と本田荊南(龍)君が待つて居た。正月らしい大きな声で笑つて居る。引張出されて一緒に斉藤君の所へ行つたのは日暮時であつたが、豚汁で盛んに飲み、盛んに気焔を吐いた。大硯君は不遠樺太へ行つて地所と露人の家を貰つて大地主になるといふ。本田君は北海道の新聞記者を罵倒する。
 帰つたのは十時過ぎ。流石に正月らしく陶然と酔ふて居た。

一月三日
 朝、在原が、社宛に来た小山内君の「新思潮」を届けてくれた。そして例の小林寅吉が二三日中に首になる話をして、大に祝盃を上ぐべしとニコニコして帰つた。
「新思潮」は誠によい雑誌である。附録に平木白星の「戯曲黄金の鍵」幼稚なもの、小栗風葉君の「七人目」左程の物でもない。岡田八千代女史の「白蛇」、この閨秀作者の将来は多望である。水野葉舟の「再会」、小説としては兎も角、自分の知って居る事柄を書いたので、異状の興味を以て読んだ。与謝野といふ人の半面が躍々として紙面に表はれて居る。予は色々と新詩社の事を考へた。
 (※以下抹消)夕方、本田君が三(抹消ここまで)

一月四日
 大北堂から太陽、新小説、趣味の三雑誌を届けて来た。
 夕方本田君に誘はれて寿亭で開かれた社会主義演説会へ行つた。樽新の碧川比企男君が開会の辞を述べて、添田平吉の「日本の労働階級」碧川君の「吾人の敵」何れも余り要領を得なかつたが、西川光二郎君の「何故に困る人が殖ゆる乎」「普通撰挙論」の二席、労働者の様な格好で古洋服を着て、よく徹る蛮音を張上げて断々乎として話す所は誠に気持がよい。臨席の警官も傾聴して居たらしかつた。十時頃に閉会して茶話会を開くといふ。自分らも臨席して西川君と名告合をした。
 帰りは雪路橇に追駆けられ追駆けられ、桜庭保君と一緒だつたが、自分は、社会主義は自分の思想の一部分だと話した。
 この日「明星」と新詩社名簿が来た。
 新詩社のやり方は一種の臭味があつて可かぬ。

一月五日
 新年の雑誌を読むに急がしい。一作を読む毎に、自分は一種の安心を覚える。
 吉野君から手紙が来て、函館にある質物「四十五円」を宮崎君が十円出して利上げして呉れたといふて来た。
 夜、澤田君が来た。男に節操が無かつたら女に血の気のないと同じ事サ。おへつらひは聴いて気持のよいものでない。
「世渡りの上手な人は」と自分は考へた。「自分らの仲間ではない。」信念! 信念!
 函館がなつかしくなつた。

一月六日
 寒さが大分弛んで来た。
 午后、約束だから、斉藤君から貰つた木綿の紋付を着て澤田君を訪ひ、美味い雑煮を三杯喰つて帰つた。
 西掘君の店を訪うたが、早稲田文学も中央公論も来て居なかつた。

一月七日
 今日は七日正月と謂ふ、木綿の紋付羽織を斎藤君から貰つたから、今迄着て居た飛白のの羽織と蚊帳を質屋にやつて、馬肉を買つて喰つた。
 温かい日であつた。

一月八日
 朝起きて洗湯に行つて昨年以来の垢を落した。
 午后大硯君来る。二人とも何だか意気銷沈。
 夜、小樽新聞社長上田重良氏を自宅に訪ふた。洋風の応接所、ストーブが暖かい。中西代議士の出す新聞へ周旋を頼んで承諾を得た。帰路西堀君の店を訪ふと二十二三のハイカラな女が一人来て種々文学的な本を買ふ。西堀君とは知合らしい。何とかして其素性を探つて見ようと十時過ぐる迄店に腰かけて大にお喋語をした。女は自分が帰つてからも未だ残つて居た。遂々見当がつかぬ。帰りに一円五十銭借りて来た。
 家に帰ると札幌の小国露堂君が来た。十二時迄話す。

九日
 午前澤田へ小国君と共に、留守、
 夜再び、奥村、谷と鯉江、婦人の話、ゴルキイ、函館の女、社会主義、個人解放運動、

十日
 小国の件キマル、午后外出、夜桜庭、十円、澤田、万歳安心、

十一日石川啄木 小樽公園の歌碑
 朝、奥村、大硯、宗教、桜庭保、
 奥村と共に澤田、三時、

十二日
 十一時起床、奥村、保、共にちか子、諾、
 澤田、九時半帰る、万歳


   青柳町三四       大 竹
   〃  二五       吉
   青柳町三六       岩
   東川町二一一 宮嶋方  小 林  茂君
   新川町         大 塚 信 吾君


以下、[( )内は抹消または訂正をしめす]

   七月七日
沖をゆく一つ一つの帆をかぞへ我をかぞへぬ君としれども
夏の雨人ぞなつかしそぼぬれて窓の小鳥も日もすがら泣く
何しかも我いとかなし鳥よ鳥さはな鳴きそね我はかなしき
つねならぬ心おぽゆとそれだにもいひえず常の如くしありけれ
いづことも知らぬ浜辺にこの心よくしる人のありしと惑ふ
あはれはれ風とならばやそよとだにかのうたたねの髪に吹くべく
今宵そのその黒髪に香たいて眠りてあれな夢にかも往なむ
目をつぶり嵐の前の静けさの心地にありてわれは黙しき((その名をもよぶ))
                          〈以上よし子へ〉
     七月九日
わが生れし日より眠れる胸の鳥さめて羽ばたき七日眠らず
とみかうみやがて今日かつ君を思ふ我を我かと怪みてあり
いと高くわが名をよべばほのかにも木魂をかへす森に迷へリ
黙々と物を念じて今日もまた暮れにたるらし(アカリ)もて来よ
故もなく笑みぞ洩れつるおどろきてあたり見巡しややに安んず
おなじ街ゆきかへりしてゆきずりのその四度目にゑみし((あひし))人はも
ぼうと吹く船の汽笛は三方の山にこだまし我が上におつ
みづみづしこの黒髪に一すぢの白きまじゆる日を信ぜんや
つねに我いつはるゆゑにいと拙き汝がいつはりも責むるすべなし
その言葉皆疑ひて猶我を愛し給ふ((を))疑はずあり
「何故に手をばとらざる」「見よそこをわが亡き父に肖し人ぞゆく」
あでに笑み手とりて来る少女子の二人の中につとわけて入る
われ時に君を殺して国外に遁げなむとしき((むとまでに))無事をいかりて((いかれり))
口すこしあきてねたる((眠る))を見たるより疎みそめにし君と告げえず
     七月十日夜十二時半よリ
ただ白く白くふるへて立ちのぼるほそき((香の))煙も大空にゆく
淘然((に))酔ひつる人と淘然と酔ひつる人とありしのみなり
万有(ものみな)の外の一つをつくるてふ母の希ひに生れたれども((しなるべし))
神の山獣の出のその峡にいとうつたかし恋の屍
七月十一日
高空の雲にしあらば朝にけに汝が家の上を動かざらまし
今日もかくはたや明日またかくあらむわれに倦みにきされば君にも((このみづからに足らはずてあり))
鳥となり我てふもののいましめをのがれて遠くかけりいなまし
すでにして残れる年を数へむと笑みぞ消えにき今日の悲しみ
籠の鳥ふとなきやみぬ驚きて怖れて君が手より離るる
わが涙いまだ()なくに思出は君より君に肖ざる子にゆく
朝霧のほのになりゆく思出をすればやかなし老の迫るや
なびき寝しわが黒髪の落髪にまじる白髪をよく見れば憂し
七人のその一人をも忘れざる今日をよしともかなしとも見る
噛みふふめさとせどきかず寝むといふ稚なびたるを愛でて手捲ける((寝にけり))
〈海こえて汝にゆかむと〉
〈かくて汝に唯一足にゆくべくば〉
狭丹摺(さにづら)ひ明けゆく海を一すぢにいざ帆をはらむ((帆をぞはれよ))君がいそべヘ
もの怨む若きひとみのうるほひに見恍(ミホ)けてあれや柔き枕に


※戊申日誌は明治41年1月12日でやめ、改めて「明治四十一年日誌」其一、其二、其三を書いています。別ページに紹介しています。


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