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啄木日記バナー
 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



明治四十三年四月より 

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第15集
  発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷
筑摩書房版全集とも照合し、不突合の場合は、主として筑摩書房版を採用しています。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。

明治四十三年四月より
                                  ((本郷区弓町二丁目十八、
                                    喜之床(新井)方にて))

○四月一日
 月給二十五円前借した。
 佐藤編輯長の洋行中、弓削田氏と安藤氏が隔日に編輯することになつた。
 夜、父と妻子と四人で遊びに出た。電車で行つて浅草の観音堂を見、池に映った活動写真館のイルミネエシヨンを見、それから電気館の二階から活動写真を見た。帰るともう十一時だつた。行く時の電車の中で、伊上凡骨君と岩田郷一郎君に逢つた。岩田君とは三十八年の五月に別れたきりだつた。――それは恰度あの江東の伊勢平で催した芝居から一月許り経つた時であつた。その芝居で、洋画家の岩田君は、高村光太郎君の書いた五幕物の主人公の洋画家に扮して、喝采を博した。相手の女はあの女であつた。電車の中の話は何日かあの女の事になつた。「あれが芸者になつて、流行るかなあ。」と岩田君は言つた。「どうだか。」と私は答へた。「今もやつてるか知ら。」「北原に聞きたまへ。北原は彼奴の妹に度々逢つてる筈だから。」
 吉原へ行つたのだらう。さうでなければ塔下苑の擒児になつたに違ひない。
 父が野辺地から出て来てから百日になる。今迄に一度若竹へ義太夫を聞きにつれて行つたきりだ。今夜は嘸面白かつた事だらう――悲しい事には。
 人間が自分の時代が過ぎてかうまで生き残つてゐるといふことは、決して幸福な事ぢゃない。殊にも文化の推移の激甚な明治の老人達の運命は悲惨だ。親も悲惨だが子も悲惨だ。子の感ずることを感じない親と、親の感ずる事を可笑しがる子と、何方が悲惨だかは一寸わからない。
 物事に驚く心のあるだけが、老人達の幸福なのかも知れない。
 母の健康は一緒に散歩に出るさへも難い位に衰へた。

○四月二日
 渋川氏が、先月朝日に出した私の歌を大層讃めてくれた。そして出来るだけの便宜を与へるから、自己発展をやる手段を考へて来てくれと言った。
 雨模様の、パツとしない日であつたが、頭は案外明るかつた。
 昨日発行の新小説へ私の先々月の初に書いた「道」が載った。方々の会話や文句の、少しでも男女の関係に関したところは……になつてゐた。これは度々の発売禁止に神経過敏になつた編輯者の所為だ。『スバル』以外に出た私の小説の最初のもの。但しこれの原稿料は一枚三十銭の割で先々月貰つてある。

○四月三日。 神武天皇祭
 休み。午後社に遊びに行く。佐藤氏を訪ふたが不在。何も用はなかつたが、出立前に一度敬意を表しておかうと思つたのだ。
 喜劇『父と子』(一幕ニ場)の概略の筋出来上る。
  △時。現代。二月末の夜八時-九時半。
  △場所。東京市内の一洋食店。及び其前の街路。
  △登場人物。
   紳士(○○女子学院長。五十歳位。禿頭。)
   芸妓(紳士の思ひ者。)
   学生(紳士の長男。不健全なる懐疑家。)
   其友人二三名及び洋食店の主人、給仕女。
   巡査。
   洋食店の客二三名。
  前場。――正面の壁の中央に柱時計。其前にやや
     長き卓子。外二ヶ所同様。卑近なる欧化趣
     味の装飾ある洋食店内部。入口は左方。右
     手に帳場及び厨房に通ふ入口。左方入口に
     瀬戸の傘入。
  後場。――街路。正面煉瓦造の建物。窓三つ。中
     央の窓に紅色のカアテンあり、燈火映り居
     る。ピアノの音。前面は葉なき柳の並木一
     列。其両端に青白き街燈。
 古い教育を受けた人達は笑はねばならぬ。同時に又、それらの人達に反抗する子も笑はれねばならぬ。笑つて笑つて此喜劇の幕が下りた時、真の明治の文化が幕を明けなくてはならぬ。
 明治に於ける最初の真の喜劇は時代の一切を笑ふ事だ。

○四月四日
 今日も休み。毎日新聞から三月分の歌四回分謝礼二円。
 家にゐて歌集の編輯をする。
 夜、せつ子と京子をつれて金田一君を訪ふ。さんざ巫山戲散らして十一時かへる。
 うまく出来てる。
 帰つてから、文学的迷信を罵る論文一つ書いて寝る。
 妻の勘定によると、先月の収入総計八十一円余。それが一日に一円いくら残つて、外に借金が六円許りある。

○四月五日
 電車で市川君に逢つて聞くと、二葉亭全集の一巻はまだ署名者の一件がきまらないで製本に取かからないと。好い加減な年をした大家にも子供みたいな心があるのだから可笑しい。
 木村爺さんから五円かりる。三円は下へ屋賃の残り払ふ。
 西村酔夢君は社をやめて富山房へ行くことになつた。血色のよくない顔をしながら、二葉亭全集の方の書類を私に引きついでくれと言つてゐた。

○四月六日。
 午前九時半、世界一周会員の出発を新橋停車場に見送る。
 中央公論の春季附録にある小説を読む。つくづく文学といふものが厭に思はれた。読んで読んでしまひにガスガスした心持だけが残つた。「もう何もない、何もない。」と『動揺』(白鳥)の主人公が言ってゐる。

○四月七日。
 三途の川の川銭は、情死した二人連の男女は二二が四銭、産後のわづらひで死んだ女は三五の十五銭、腸を悪くして毎日ソツプを二杯づつ飲んで死んだ本多博士はソツプ六十四の二倍一円二十八銭とられた――と、一度死んで生きかへつた博士が新聞に話してゐる。久し振りで床の中で一人で笑つた。笑つても笑つても可笑しかつた。
 父は一人で上野の花を見ると言って出て行つたが、腰が痛いと言つてすぐ戻つて来た。
 社で池辺主筆から、二葉亭全集に関する引継を西村君から享けて、そして第二巻の原稿を印刷所へ渡すやうに言いつかった。帰りに上野へ廻つて、薄雲のやうに咲いた桜を見た。夕飯後、西村君を訪ふたが不在。中島君も不在。留守居の内山君と半時間許り話して帰つた。間のぬけたやうな内山君の細君を見た。
 帰つて『故郷に入る』を書き初めた。

○四月八日。
『故郷に入る』を十枚許り書く。

○四月九日。
 内田魯庵氏を訪ふた。先月のうちに来た二葉亭全集中『浮雲』の序文の校正に不審の箇所あつて廻しておいたのが、まだ手元にあつた。これだから何時迄も何時迄も長くなるのだ。
 それから出社。
 夜、雨を犯して西村君を訪ふと、蛯原君もゐた。飲む。二葉亭全集の原稿や書類の引継を享けて十一時帰る。
「我党の士」といふ事を西村君が何回も言つた。我党の士! 我党の士! さびしい言葉だ。

○四月十日。
 今日は日曜日なので西岡老人が編輯した。
 全集の事で主筆に打合せる。「煙」の直筆の原稿は保存しておく為に別に清書させる事になつた。会計に『片恋』を買つて貰ふ。これで第二巻の原稿は全部揃つた。
 夜、羽織を質に入れて、ビールを飲む。

○四月十一日。
 夜、上野の花をみるつもりで、母と妻と子と四人づれで出かけたが、母が動悸がして歩けないといひ出したので、三丁目から戻つた。
『仕事の後』編輯終る。歌数二百五十五首。
 今日樋口蝸牛君から、俳論「阪に車」を何処かの本屋にやることを頼まれた。

○四月十二日。
 休み。歌稿西村君の雑誌へ送る。
 歌集と「阪に車」を持つて春陽堂に行き、高崎春月君に託して来た。本田君がゐなくて駄目だつた。社に寄つて森田草平君に逢つた。みづみづしい、然し気のつまる様な余裕のない会話をする男だ。かへりには電車の中で、森川町の文友堂といふ文房具屋の主人だつた男に会つた。失敗して了つて今は神田にゐると。
 宮崎君から久し振の手紙。返事を書く。頭が悪くて弱つてゐるらしい。
 夜、雨の中を内田氏を訪ひ、全集の事打合せる。

(日付なし)
 何がなしに不満足な日が続いた。歌集はとうとう売れなかつた。
 妹――名古屋の伝導学校で及第した妹は、十五日に北海道から出て来て二十一日の夕新橋から名古屋に向つた。立つ時は金田一君から旅費を借りた。
 宮崎君の弟の省三君が高商の入学試験をうけるために上京した。丸谷君が訪ねて来てくれた。
 若山牧水君から「創作」へ歌を頼まれて送つた。東京毎日の中村君からも。
「今月は駄目な月だつた!」そんな事を妻と語つた。

○四月二十五日。
 夜宮崎君へ電報うつた。

○四月二十六日。
 休みの日であつた。二葉亭全集第二巻の原稿引合せのために大橋図書館へ行つた。筆耕に書かした原稿は非常に疎漏なものであつた。図書館の中の空気は異様な気分を与へた。
 図書館! あすこは決して楽しい場所ではない。
 帰つて来ると、宮崎君から二十円の為替と電報が届いてゐた。



[明治四十四年当用日記巻末補遺欄に記されている、明治四十三年一ヶ年の回顧]

  
 前年(四十三)中重要記事

 本郷区弓町二ノ十八新井(喜之床)方二階にて年を迎ふ。前年十二月二十日野辺地より上京せる父を併せて家族五人なり。前年三月一日以来東京朝日新聞社勤続、月給二十五円。
 一月――無事。
 二月――無事。
 三月――無事。
 四月――雑誌「新小説」に小説『道』掲載せらる。原稿料一枚三十銭。またこの頃朝日紙上及び東京毎日新聞に作歌を発表す。蓋し前年初夏以後初めての作なり。社中の評判可し。この月北海道旭川に在りたる小妹光子名古屋なる聖使女学院に入るを許されて十七日入京、滞在数日にして名古屋に向ふ。
 五月――無事。
 六月――幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。これよりボツボツ社会主義に関する書籍雑誌を聚む。この半期末の社の配当三十四円、賞与十五円、計四十九円、前年末と同じ。移転を企てて果さず。前年十二月以来予の校正したる二葉亭全集世に出づ。
 七月――光子休暇にて上京、九月初旬まで滞在す。
 八月――より九月にかけ、東京及び各地に大水害あり。盛岡加賀野磧町の旧居流出せるを聞く。
 九月――十五日より朝日紙上に「朝日歌壇」を設け、予選者たり。渋川柳次郎氏の好意に由る。月末本籍を東京本郷弓町二ノ十八に移す。
 十月――四日午前二時節子大学病院にて男子分娩、真一と名づく。予の長男なり。生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。二十九日浅草区永住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて荼毘に附す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及び与謝野寛氏。産後節子の健康可良ならず、服薬年末に及ぶ。またこの月真一の生れたる朝を以て予の歌集『一握の砂』を書肆東雲堂に売り、二十金を得たり。稿料は病児のために費やされたり。而してその見本組を予の閲したるは実に真一の火葬の夜なりき。
 十一月――八日野辺地の葛原対月老僧盛岡にて死す。父の師父にして母の兄なり。報に接して父急遽盛岡に下り、親属の無礼を怒りて、宿ること一夜にして帰り来る。
 十二月――初旬『一握の砂』の製本成る。序は藪野椋十氏(渋川氏)表紙画は名取春僊君。一首を三行として短歌在来の格調を破れり。定価六十銭。半期末賞与五十四円を貰ふ。またこの月より俸給二十八円となれり。二葉亭全集第二巻また予の労によりて市に出でたり。
 四十三年中予の文学的努力は主として短歌の上に限られたり。これ時間に乏しきによる。歌集の批評は年内に聞くをえざりしと雖ども努力はたしかに反響を得たり。主として朝日紙上及び雑誌「創作」に作歌を発表し、年末に至りては「早稲田文学」その他三種の雑誌に寄稿を求めらる。
 思想上に於ては重大なる年なりき。予はこの年に於て予の性格、趣味、傾向を統一すべき一鎖鑰を発見したり。社会主義問題これなり。予は特にこの問題について思考し、読書し、談話すること多かりき。ただ為政者の抑圧非理を極め、予をしてこれを発表する能はざらしめたり。
 文学的交友に於ては、予はこの年も前年と同じく殆ど孤立の地位を守りたり。一はその必要を感ぜざりしにより、一は時間に乏しかりしによる。森氏には一度電車にて会ひたるのみ、与謝野氏をば二度訪問したるのみなりき。以て一斑を知るべし。時々訪ね呉れたる人に木下杢太郎君あり。夏目氏を知りたると、二葉亭全集の事を以て内田貢氏としばしば会見したるとは記すべし。その他の方面に於ては、金田一君との間に疎隔を生じたると、丸谷喜市君の神戸高商を了へて東京高商研究科に来り、往復度を重ねたるを一変化とす。函館諸友と予との交情は旧によりて親密なり。予の『一握の砂』は宮崎君及び金田一君にデヂケエトせられたり。これ往年の友情と援助とを謝したるなり。しかも金田一君はその為に送本受領のハガキをすら寄越さざりき。また予はこの年に於て、嘗て小樽に於て一度逢ひたる社会主義者西川光次郎君と旧交を温め、同主義者藤田四郎君より社会主義関係書類の貸付を受けたり。
 経済的状態は、逐月収入に多少の増加を見、その額必ずしも少からざりしも、猶且前年来の疲弊及び不時の事によりて窮乏容易に緩和せざりき。家人の動静は、前記節子の出産及び産後衰弱の外、父は夏の頃を以て脚気に患み、母また著しく衰弱したり。而して猶且節子不健康の故を以てよく一家の事を処理されたり。予の健康も概して佳ならざりき。京子一人頑健なり。
 十月より三日に一夜の夜勤あり。為に財政の上に多少の貢献ありたれども、健康と才能とを尊重する意味に於て十二月末、事を以て之を辞したり。
 年末収入総額は左の如し。
     円
  五四、〇〇   社の賞与
    五、〇〇   米内山より御礼
    三、六五   十二月分俸給前借残り
    三、〇〇   精神修養稿料
    一、〇〇   秀才文壇稿料
    一、〇〇   早稲田文学稿料
  二五、〇〇   宮崎君より補助
  二七、〇〇   一月分俸給の内前借
    九、〇〇   夜勤手当
    八、〇〇   朝日歌壇手当
  一五、〇〇   協信会より借入
    五、〇〇   書籍質入
  計 百六十五円六十五銭
 而して残額僅かに一円二十一銭に過ぎず。不時の事のための借金及び下宿屋の旧債、医薬料等の為にかくの如し。猶次年度に於て返済を要する負債は協信会の四十円及び蓋平館に対する旧債百余円也。


(※「明治四十三年四月より」日誌終り)
  「明治四十四年当用日記」に続きます。

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