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 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



渋民日記
明治三十九年日誌
 
八十日間の記

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第13集
  発行日:昭和36年10月10日 新装第1刷

原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えていますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。
 石川啄木の日記「渋民日記」は明治三十九年(1906年)三月四日から同年十二月三十日まで記されています。
 但し、 四月三十日以降八十日間は日記の記述を中断し、後日、まとめてその間のことを「八十日間の記」としてまとめ、その後を書き継いでいます。
このページは「八十日間の記」以降を掲載しています。

明治三十九年日誌
渋民日記

八十日間の記

 日記を書くといふ事は、極めて興味のある事である。書く其時も興味がある。しかし幾年の後にこれを読み返す時の興味は更に大いなるものであらう。予は興味を以て、故山隠退以来四月二十九日迄毎日日記を書いて居た。が、その後、今日七月十九日迄八十日間はそれを中絶した。何の為めに中絶したか、それは別に理由もない。急がしくもあつた。頭が混乱してペンを取り上げたくない時もあつた。しかし要するに予は此間、自ら此興味ある仕事を放擲して居たのである。怠けて居たのである。
    ――――――――――――――――
 渋民村の皐月は、一年中最も楽しい時である。天下の春を集めて、そしてそれを北方に送り出してやる時である。花といふ春の花は皆この五月に咲き、鳥といふ春の鳥は皆この五月に啼く。山も野も人の心も春の装束をつけて乾坤の笑を湛えるのはこの五月である。五月は春の盛りで、又、趣深き行春の(とき)である。予は極めて幸福に、この五月を送つた。学校に出るのは愉快であつた。ただ貧乏だけは依然として居て、吾家の誰一人春衣といふものを新調しなかつた。
 春行いて六月となれば、いのちの色の浅緑、杜鵑閑古鳥の音を誘ふて、初夏の趣きは一雨毎に深くなる。ああ此の浅緑! 緑の蔭にさまよふて物思に耽つた渋民三十九年の水無月! 予は六月の初め十日を異様なる精神興奮の状態に過した。社会と習慣と規則とに対する一切の不平は危うく爆発しやうとした。爆発せんとして未だ発しえざる生命の煙はムラムラと胸の中に渦巻いて居た。予は此時、三月以後、予自身を中心としたるこの村の種々の騒擾を採つて、他日一の大小説を物しやうと思ふた。これは遠からず必ず出来る筈である。
 故郷の自然は常に我が親友である。しかし故郷の人間は常に予の敵である。予言者郷に容れられざるものであらう。予が幼なくしてこの村の小学校に学んだ頃、――神童と人に持て囃された頃から、既に予は同窓の友の父兄たる彼等から或る嫉視を享けて居た。この嫉視は、その後十幾年、常に予を監視して居る。高い木に風の強いのであらう。今年の三月、予が盛岡の寓を撤してあの村に移らむとした時、彼等はいかにもして予を閭門に入れまいとした。然し予は平気で来てしまつた。予が学校に奉職しやうとした時、彼等は狂へる如くなつてこれを妨げた。然し予は勝つた。勝つのは当然である。予が呑気に昼寝をして居る間に、郡視学が決めてくれたのだ。決めてくれる筈だ、郡視学自身も予を恐れて居るのだもの。かくて彼等は怒つた。種々たる迫害を加へやうとした。然し予は極めて平気であつた。鳥が啼いたり、犬が吠へたからと云つて、驚くやうな自分ではない。
 父が帰つて来て、宝徳寺再住の問題が起るに及んで我が一家に対する陰謀は益々盛んになつた。如何にもして我が一家を閭門の外に追ひ出さうとするのが、彼等畢生の目的であつた。
 吾党の士では、武道の竹田久之助が隠然として在野党の主領で、沼田清民が軍略家兼先鋒、この村第一の策士で戦士で、実際どこへ出しても恥かしくない男だ。畠山亨は役場の助役といふ地位に居て種々の経綸を短小な体躯から出す。この三人はいづれも普通の人間ではない。武道は真の男子で、世の中の甘い辛いも解かつて居るが、唯学識がない。満身これ胆、満身これ義気、豪傑である。畠山が一番――この村で学識もあり理想もある男だが、片眼で、財産は殆んど皆無。驚くべき才漢であるが、学識のある丈け稍々世上群犬の心を解しかねる――つまり見くびりすぎる傾きがある。沼田は学識も財産も前両者の中間であるが、実際の働きといふ段になると彼は無類の手腕を持つて居る。……かくて我が一家を――つまり予を中心とした問題が、宗教、政治、教育の三方面に火の手をあげて渋民村を黒煙に包んでしまつた。この戦争は、十九世紀の初の仏国王党と革命党との戦争其儘である。
 かくて六月の初め、一大打撃が来た。畠山は群犬の奸悪極まる謀計によつて、突然辞職せざるをえなくなつた。そして沼宮内警察署長が来て、種々訊問したり調査したりした、一時彼は絏紲の恥を見ねばならぬかと思はれた。無論これ謀計に陥入つたのである。幸にしてその事はなかつたが、村内は鼎の沸くが如く騒いだ。予は狂へる如くなつた。一夕校長を捉へて、気味悪い嚇し文句を三時間も述べた。その夜はこの嚇し文句のために敵党は数時間の秘密会議をひらいた。自分が盛岡の新聞と数年来或る関係を持つて居る事も、又、郡役所や県庁に友人や親籍のある事も彼等は知つて居る。だから彼等の驚愕するのも無理はないのだ。翌日から学校の校長やこの村土着の訓導などの予に対する体度が変つた。下にも措かぬお世辞をいふ。蓋し彼等は、可成予をば怒らせぬ様にして、ダマシテ置いて、陰に追ひ出す計画をしやうとする事に会議をきめたらしい。
 六月十日から田植が初まるので、二週間の農繁休業になつた。予は飄然として一人上京して、千駄ヶ谷の新詩社に十日間遊んで帰つた。
 予にして若し一家を東京に移さんとすれば、必ずしも至難の事ではない。予は上京の初め、都合によつたらさうしやうと考へて行つた。無論出来る。しかし予の感ずる処では、東京は決して予の如き人間の生活に適した所ではない、本を多く読む便利の多い外に、何も利益はない。精神の死ぬ墓は常に都会だ。矢張予はまだまだ田舎に居て、大革命の計画を充分に準備する方が(いゝ)のだ。
 滞京中感じた事は沢山ある。逢ふた人も沢山ある。然し豪い人は矢張無いものだ。予は常にこれに失望せざるを得ない。
 敬すべき上田敏氏は、今後文壇の各方面に活動するといふて大気焔であつた。戯曲をもやるといふ。
 日英米詩人の同盟した野口米次郎の「あやめ会」は『あやめ第一巻』を出した。上田氏と薄田氏の詩の外に邦人のでは読むに足るものがない。岩野や前田や児玉など、よく恥かしくもなくアンナ作を出したものだ。薄田泣菫氏の『白羊宮』はさすがに巧いものだ。目下の処どうしても日本の第一人である。然し今後はどうか知らぬ。大きい思想がないらしい。新詩社で合評会をひらいた時は、予は一言も口を出さなかつた。これは自分乍ら賢いやり方であつたと思ふ。
 近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ、学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。しかし「偉大」がない。島崎氏も充分望みがある。「破戒」は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない。革命の健児ではない。兎に角仲々盛んになつた。が然し……然し、……矢張自分の想像して居たのが間違つては居なかつた。『これから自分も愈々小説を書くのだ。』といふ決心が、帰郷の際唯一の予のお土産であつた。予は決して、田舎に居るからといつて、頭が鈍くなつては居ない。周囲から刺戟をうけて進む手合とは少々格が違ふ。自然と人生とが目の前にある限り、自分が生きて居る限り、予は矢張り常に生きて居るのだ。
 詩の方は当分少し休んで見やうかとも思ふ。無論やめるの何のといふのではない。興があれば、何日でも書くが、然し休んで居たからと云つて時勢におくれる気づかひは少しも無いと思ふ。凡人や半天才がいくらあせつても大丈夫だ。馬鹿にすれば随分馬鹿にするによい世の中だ。
 休暇中盛岡に行つて居た妻と、汽車に乗り合して、滝沢から下車して夏の木陰の一里の路、閭門に入つて出迎ふ四五の児等を見た時は、十日の間忘れて居た高潔なる感情の遽かに泉の如く胸に湧くを感じた。家に入つてみれば、別に変つた事もない。種々の問題もまだ解決がつかんで居る。今もさうだ。
 七月になつた。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。これは鬱勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ。題も構想も恐らくは破天荒なものだ。革命の大破壊を報ずる暁の鐘である。主人公は自分で、奇妙な人物許り出てくる。これを書いて居るうちに、予の精神は異様に興奮して来た。そしてこれを中途で休んで、八日から十三日迄六日間に『面影』といふ百四十枚許りのものを書いた。これには今の小説家を盛んに罵倒した処がある。この十日許の間、予は徹夜すること数回、さらでも毎夜二番鶏が鳴いて障子が白んでから二時間か三時間しか眠らない。それで可成学校にも出た。尤も欠勤して書いた事もある。
 予は今非常に愉快である。すべてのものが皆小説の材料なやうに見える。そして予の心は完たく極度まで張りつめて居る。秋までには長篇小説少なくとも三篇と、非常に進歩した形式の脚本《五幕。「帝国文学」の懸賞募集へ応ずる積り。小説も「早稲田文学」と「大坂毎日」の懸賞へやつて一つ世の中を驚かしてやらうと思ふ》を書くつもりである。
 尤も今は日中九十度の炎熱に袷をきて居るのだから、汗が流れて兎ても充分に書くわけにいかぬ。日がくれると児童等――可愛い女の児らに誘はれて、舟綱橋の蛍狩にゆくのだから、さう時間もないが、暑中休暇になつて、若し原稿料が出来たら、どこか北方の淋しい海岸へ行つて盛んに書かうと思ふのだ。
    ――――――――――――――――
○七月十九日から、校舎修繕のため四日間休暇になつた。休暇は嬉しいが、貧乏袷に赤帝の猛威は少なからず恐入る。殊に西日一パイに当るこの天井低き二階、汗が一日乾く時がない。
 一発見をした。曰く、「常識」といふ語を口にする人に、昔から豪い事を成した人はない。自分も三四年前には、天才とは充分常識を具へた上で、更に普通以上の或物を持つて居る人の謂だと考へた事がある。そして充分常識を具へるといふ事は、完全な人格を有するといふ意味であるといふ様に解して居たのだ。然し今になつて考へれば、三四年前の自分は、今の多くの人と共に、確かに間違つて居る。居酒屋で濁酒を計つた五升桝に、一斗の白葡萄酒を入れやうとしたのだもの。一体常識はただ面積だけで、高さも深さもない。深さのない地面に高い立派な殿堂が建てられるものではないのだ。常識は外套で、人格は骨格だ。いくら美しい外套を着たからといつて、短小な見すぼらしい骨格の人間は、矢張り短小で見すぼらしく見える。シヨウペンハウエルは、天才とは完全な常識の謂だといつたさうであるが、然しこれは外面的に云つたのでなくて、内面的に道破したのだ。ここが肝腎である。天地の間に完全なる人格がただ一つある。宇宙の精神だ。天才とは畢竟この全人格の部分を最も多く持つて生れたものの謂である。外套はあづからない。ただ立派な骨格の人はどんな外套を着ても仔細に見れば立派に見える。シヨウペンハウエルの言もつまり此処の点の消息であらうと思ふ。常識の人間――文明の君子、乃ち凡人は、政府の量器局で作つた桝の様だ。精確無比であるけれども、一升桝は一升の酒しか入れられない。
 廿八日に法科大学の堀合由巳君が来て一日遊んで帰つた。
    ――――――――――――――――
 七月中に予は西洋上古史を少しく研究した。
○七月は予に取つて甚だ重大なる月であつた。予がこの月中に徹夜した事は十夜以上である。一ケ月のうちの睡眠時間を合計したら、恐らく百時間を出でぬであらう。『面影』を脱稿した。『雲は天才である』を半分許り書いた。この月、予は初めて小説をかいたのだ。そして予は予自身の小説の前途に就いて、少なからぬ希望を有する様になつた。
 学校から郡役所へ報告する筈の童話伝説俗謡の調査も頼まれてやつた。そのために費した時間は二三日に過ぎなかつたが、しかし様々の事を発見した。曰く純粋の国民的性情の発露した伝説は今漸く衰微して居る。曰く、唱歌教授の盛んなるに不拘、俗謡は決して衰微して居ない。但し、俗謡も古い純粋なのが段々忘られて、新らしい卑俗なのが盛んになつて来た。これは非常に注目すべき事であると思ふ。それから、古い俗謡には感情を露骨に歌つたのが有るが、事実――汚ない事実を露骨に歌つたのは殆んどない。且つその楽律も大抵一種の特色ある自然の声だ。然るに新しい俗謡、乃ち、在来の俗謡の調子に唱歌風、――洋楽風を加味した混血児は調子が極度に野卑で、調子だけをきいた丈けでも厭になる様な奴で、且つその歌詞に何等の情味もない、往々汚ない事実をそのまま歌つて居る。噫々、これらは或は、我が国民的性情趣味の堕落を告白して居るのではあるまいか。在来の旋律と洋楽風との折衷が、類例なき卑俗の調子を生んだといふ事実は、或は非常に適切に、明治革新以後の社会の傾向を語つて居るのかと思はれる。
 これらの事を研究して、特に情歌の趣味の下向を観察して、予は現代教育の欠陥が、殆んど根底からの欠陥であるといふ事を感じた。
 八円の月給で、一家五人の糊口を支へるといふ事は、蓋しこの世で最も至難なる事の一つであらう。予は毎月、上旬のうちに役場から前借して居る。予が諸方の友人へ疎遠をして居るのは、多く郵税を持たぬからだ。又、紙のない時もある。巧みに世に処するには、金が一番必要だ。予は此点に於て極めて不幸な境遇にある。実に予は不幸だ。或はこの不幸は自分の一生の間続くかも知れない。
 『面影』を、春陽堂に送つた処が、後藤主筆不在のため急には何とも出来ぬ、遺憾乍ら一時お返しするといふ丁重な葉書と共に返つて来た。更に後藤宙外氏へ直接に送つた処が、原稿堆積のため当分ダメだといつて矢張かへされた。又同氏は、今の世で筆で立つといふ事は到底至難であるといふて来た。『面影』は更に小山内薫君へ送つて置いた。
 三十一日で学校は第一学期の最終日となつた。僅か一月ではあるが、自分が平生の指導した事が、この間に破れはしないかと思ふと、何となく生徒に別れたくなかつた。


    八月中(暑中休暇中)

○(十九日記す)
 暑中休暇となつた。待構へた暑中休暇となつた。少なくとも三百枚の小説と一脚本『長夜』とを書かうと期して居た暑中休暇となつた。都合よく『面影』の稿料が来れば、北方の海岸へ行つて大に海の空気を吸ひ、そして大に書かうと思ふた暑中休暇となつた。
 然し乍ら、噫世事常に意の如くでない。今日既に十九日、休の三分の二が過ぎ去つたに不拘、予はただ『吹角』と題する一篇の長詩を書いた丈けである。それは上田敏氏の「芸苑」へ送つて置いたが、「明星」へは矢張失敬せねばならぬ仕儀となつた。
 何故予は筆を執らなかつた乎。……米箱の底掻く音に肝を冷やしたからだ。種々の事件があつたからだ。それから今は独逸語の外に何物も手につかぬからだ。
 九十度以上の酷暑に袷着て、夜は蚊帳を吊らずに過したのは今年の夏初めてである。夏と冬とに貧乏の針が骨まで徹る。
 四日の朝に一葉の葉書、――聴取る儀があるから来いといふ葉書が、沼宮内警察分署長から来た。早速行つて見たが、予に委託金費消の嫌疑がかかつて居るとの事。驚いた。実に驚いた。然しすぐ平生に返つた。罪なき者を罰する法律のある筈がないと思ふたからだ。問題は、昨秋共に雑誌『小天地』を創めた大信田落花と予との間の事であるとか。一々訊問に応じて帰つた。どうも世の事には意外な事があるものだと、甚だ意外に感じ、又人生の不安にまのあたり相面した様で、多少不快、すぐ落花へ宛てて手紙を出して詰つて見た。返事が来た、曰く、告発等の事は露だも知らぬ。他に心あたりがないか。と、予の想像は的中した。落花と予とは特別の関係ある友人である。且つ自分は彼に対して毫も心に愧づる様な事をした覚えはない。矢張りこれは誰かの悪意ある企画に相違ないと覚つた。すぐにその模様が知れ始めた。この村に於て、予は何の事もなく一派の人々から敵視されて居た。予の心から考へると、彼等は実に憐れなる人々である。噫、嫉み! 妬み! ツマラヌ事だ、と許り感じて居たのだが、寺問題やら党派心やから、遂彼等は皮肉なる計画によつて予を陥れんと企てたのだ。村の駐在巡査を買収して密かに捏造事件を密告せしめたのだ。たとへ予が罪にならなくとも、警察へ呼ばれたとか、裁判所へ引かれたとか云へば、それだけでも大に予を苦しめる事が出来ると考へたのであらう。然し乍ら、よしや、地獄に落され、牢獄に入れらるるとも、予は心疚しからざるに於て少しも変りはないのだ。
 越えて七日、又一葉の葉書、矢張り聴取る儀があるから……といふのが盛岡地方裁判処検事局から来た。噫、蛇の(たく)みは余程深く根を張つたものであらう。予はその夜出盛して、翌日大信田を訪ねた。彼は、被害者たる筈の彼は、其父と共に予を迎へて、大にもてなして呉れた。彼は事実によつて予の味方である。そして無論予に対して何の悪意をも持つて居ない。予は安心した。天道は矢張明らかである。
 九日午前、検事局に出頭した。そして今迄見た事のない別天地を見た。第二号調処といふ室で、眠さうな検事がハイカラな書記を随えて出て来て、予を訊問した。予は有の儘答へた。さらば大信田をつれて来いといふ。すぐ伴ふて来た。検事は大信田に訊問した。その答が無論予の言と同じ事であつた。予はかくて何事もなく飄然として裁判処の門を出た。
 ああ、世の中、世の中とは斯ういふものかと感じた。予は初めから此事件に就いて極めて平気であつた。若し罪なき身を罰する法律があるなら、監獄に入れられてもよいと思つて居た。然し今の世では矢張そんな事も出来ないものと見える。
 一方に極めて平気であつた予は、更に他面に於て大に奮慨した。石川啄木不肖と雖ども狗盗の真似をするものか。世の中は滑稽なものだ。予は貧乏だ、借金持だ。つまりそのために斯んな詰らぬ事に逢つたのであらう。平民と貧乏人は常に虐待される。日本はまだ憲法以外一切のものが皆封建時代である。予は奮慨せざるをえなかつた。すぐ大復讐をしてやらうかと迄思つた。しかし、石川啄木がそんな賤しい事は出来ぬと考へて、ただ笑つてしまつた。
 又、一方に於て、予は甚だ悲しかつた。故郷! 故郷の山河風景は常に、永久に、我が親友である、恋人である、師伝である。然し乍ら、噫、何故なれば故郷の人間はかく予を容れざらむとするのであらう。予は長嗟した。そして、すぐにも此の村を出やうかと考へた。然し、また、嬉しき景色、嬉しき人、嬉しき事の数々をかぞへ来ては、自分は矢張この、世界にまたとなき渋民を遽かに離れる事が出来ぬ様にも感ぜられる。
    ――――――――――――――――
 この月、村に祭礼が二度あつた。
 六日は陰暦六月十七日で芋田にある村社駒形神社の祭典、所謂「お蒼前さま」であつた。夜の明けぬうちから近郷の若者が馬を駆つて参詣する。昔の戦絵にある様な、紫、紅、朱、……様々の美しい飾を着た馬が鈴の音、嘶ぎの声、勇ましく跑を踏んで暁の村路を急ぐ様は、さながら幾十年の歴史を逆上りしたかのやうに感ぜられる。乗手は、或はコサアク兵の様な立派な若者、或は十二三の児の初乗、或は二八、二九の少女である。若者は皆自分の馬の立派なのや、乗方の熟練などをいと誇りかに見せて行く。駄馬に乗つた耻かしさ腹立たしさに、無暗に鞭を加へて人中を走せぬけて行くのもある。日に焼けた顔に得意の笑を浮ぶる我が児の初乗に、あやまちあらせじと気を揉んで馬の跡追ふ農家の父、新しい単衣着て、紅白粉つけた新婦を乗せて、鈴の音清しく手綱とり行く若き(をつと)、いづれは皆「みちのくの詩」である。此日かかる馬は駒形の社前に幾百となく集つて来るのである。この社は、其昔、九郎判官義経が高館の城落ちて、表向きは死んだ風に装ふて僣かに北海へ落人となつた時、其乗馬の斃れたのを葬むつた所であるさうな。されば今猶、その馬の足跡を刻んだ石がこの社に残つて居る。又、十町許り離れて武道の部落には、義経が一夜を明かしたといふ判官館といふのがある。
 十三日は陰暦六月二十四日で、この駅の後の山にある愛宕神社の祭典であつた。祭典といつても駒形の様に盛んなものではない。「お神酒上げ」といつて村の年老つた人々、男も女も、が社前の芝生へ行つて酒を呑んで歌ふ踊る。小児等が二三十人遊びに行く、彼等は皆半紙を貼ぎ合せた長い旒に「奉納愛宕神社 年月日 何誰」と書いて社前の立木の枝に吊る例がある。それから神楽の奉納がある。隣村から頼んで来る神官が、麻の神服を着て、ワケの解らぬものをきき取れぬ程の声で読みあげる。神楽は一種特別の組織だ。乃ち十二三才から十七八才位迄の村の少年が、毎年毎年其後継者に技を伝へて行くので、老人に一人か二人その師匠がある。されば、この村で大抵の人は皆、その若い時には神楽をやつた事があるのだ、予は斯ういふ習慣をば、可成永久に保存して行きたいものだと思ふ。
 夜になれば、踊が初まる。「盆踊」と総称さるる踊である。これには、甚句、三戸甚句、四ツ甚句、ヤンサガ、ヨシヤレ、長者の山、ダゲダゲ、等都合七種許りの種類があつて、太鼓のうち方も、歌の節も、踊方も皆多少違ふ。唯歌詞だけは同じもので、それを別々の節で歌ふのだ。大抵恋歌である。午后八時頃、夕飯が済むと駅内はそこに一団、ここに一団と涼みがてらの人の林が出来る。ふと駅の中程の、駒井といふ酒店(村一の富豪)の前で太鼓が鳴り出す。人の群はぞろぞろと南北から集つて行く。最もこの日は、盂蘭盆の夜の様に盛んではない。(盆には太鼓が十五六、踊手が二百人位にもなるが)やがて路上を楕円形に、鼓手が先立つて廻り初める。その後へ一人二人と段々に踊手が付いて来る。そしていつしか円形の一陣を作るのである。
 教育者は、学校生徒は踊をおどつては可けないと云ふ。しかし予――乃ち代用教員は、卑穢な歌は悪いが、盛んに踊るべしと教へた。踊は田舎一年中の最大快楽である。
 予はこの夜、或る少女から借りて、女の単衣に唐縮緬の帯、編笠を被つて深更まで踊つた。予が初めて盆踊を踊つたのは、一昨年の盂蘭盆の際であつた。昨年は盛岡に居たから、ダメ、今年は五月の歓迎会の夜に久し振りで踊つた。一体、予が踊ると少年少女が喜んで矢張り踊る。年とつた人まで捲き込まれる。『先生が踊る様になつてから、この村の踊が盛んになつた、今迄の先生達は踊などを生徒にやらせなかつた。そのクセ、自分達は酒を飲んで歌つたり踊つたり喧嘩したりし乍ら』と或者が云つた。予は笑つた。然し、予は今迄人から賞められて、これ位嬉しいと思つた事はない。

○二十七日記す。
 予は九日に盛岡で、文科大学へ行つて居る、以前からの友金田一京助君から独逸語の本を貰つて来た。ジヤーマンコース一部、新独和辞典一部、ハイネ、シルレル、ケルネル、レナウの詩集各一部であつた。
 九日の夕、ここへ帰つて直ぐ独逸語の独修を初めた。ジヤーマンコースの第一部は十日許りで終つた。自分は殆んど一切を忘れて毎日独逸語に全心身を打込んだ。斯くの如き頭脳の勤勉は、三十五年の冬、東都でゴルキイの短篇集の英訳を買つて三日も徹夜した時と今度だけである。イヤ、まだあるかも知れぬが、外国語に斯う惚れ込んだ事はその時と今度だけである。人間の智識慾はすさまじく逞ましいものだ。
 熱心は驚くべきものである。アーベーツエーを習ひ初めて未だ二十日ならざるに、予は既にハイネ、シルレルの詩を十数篇読んだ。今は専心ハイネの『ブツフ デル リーデル』を辞典片手にひもといて居る。
 小説は独語のために当分その寵を奪はれた。
    ――――――――――――――――
 小説の構想は沢山ある。(事実)と書いたのは、事実に基くもの

◎荒廃した大家に、ひとり生き残つた、神経質で教育ある一青年(二十四五才)が発狂して、その後数年の後に自殺する、という仕組。これは狂人の脳裡に宿る思想を書くのが主眼。長篇
◎超人的な定吉の話。(事実)社会一切の法則を無視して海賊になる男
◎馬鹿茂とお夏(乞食)との話(事実)
狂者茂とお夏とが盛岡新山堂の社前で、秋の公孫樹の黄金の葉の雨とふる暁に手を取つて舞ふという段。
◎人生に於ける先天的な不幸。(事実)
これは、以前この村の登記処に居た亡友堀内錬三の話。
◎岩手山の頂上に住んで居た美人の恋。――傲れる恋の話。
◎ピラミツド。
学校で教師からピラミツドの話をきいた十三四の少年が、死んで、自分の死後ピラミツドを建ててくれといふたといふ事。及びその愛せる少女の話。
◎昔は美しく優しかりし女、失恋の結果、半生を惨憺たる堕落の間に送つて、病を担ふてふる里の廃屋に帰つた。秋の夜、ただ一人炉辺に病躯を横へて衰死の吐息の中に来し方を追憶して居る。沈黙。炉の火の消えなんとする真夜中、枕の下から初恋の男の写真を取り出して一語を洩す。曰く『噫、一番憎らしいのは矢張お前さんだよ』
◎夏の夜。石の巻。北上川。美しき人あり、舟を浮ぶ。海に紫の電す。女は快哉を叫ぶ。岸に笛の音起る。それが河上の方へ遠くなる、又近くなる。一片舟あり、笛の音を載せて流れ来る。朧月夜。笛の舟は櫂もなく梶もなく、笛声を載せて電する海原に流れ去れり。美しき人は月を賞める。笛を賞める。この一夜は忘られぬと同行と語る。笛の主は男であつた、若い楽人であつた。そして潜かに美しき人を恋して居たつたのだ。万事休す。(上野女史の話より取る。)
◎初秋の夜、当地寺堤の上、男四人、ローソクを一本ともして酒を呑み、歌ふ。一人は招集されて行く軍人、三人は友人で送別会だ。三十七年の秋也。二十日月が上る。一人が笛を吹く。軍人が泣く、人の足音がする。しかし誰も見えなかつた。翌朝その沼で死骸が発見された。それは近日中に或男と結婚するとかいふ話のあつた、美しい娘であつた。この娘と軍人と相愛の間であることは自分の外に知つたものなし。軍人はその日の夕、汽車で立つ時、自分の手を握つて、娘の葬式には自分の代理をしてくれと云ふ。それから『これで一生のお別れだ。』今年その軍人は殊勲あり、感状を貰つて凱旋して来た。金鵄章が遠からず貰へるとの確かな噂。しかし、帰郷一週間後、歓迎会の夜にその男は沼の堤上で自刃した。この消息を知るものは自分許り。(送別会は一昨年ありたる事なり)
◎五万円。
無頓着な男、役場の書記、唇あつく、目はドングリ。無頓着のために失策許りして居る。最後に矢張無頓着が種で恋する女にふられる。友人から忠告され、『然し、恋は考へてるヒマがないですよ、完たく無頓着な奴ですからなア』の一語を残して他村に転任になる。五万円は彼の仇名。指環に就いての失策あり
◎小樽港出帆。
美しからぬ女の恋、享けざる恋。夕暮、
『船は波の穂白き秋濤を蹴つて、圧する様な黒雲の下を湾外に進み出た。二人は船燈のうす明りの下に石の如く相対した。……
男 何処へいらつしやるのですか。?
女 貴君と同じ船に乗りました。
男 何故です。(と語気が強い。(ナジ)る様に云ふ)
女 お解りになりますまい。さうでせう。……お日様は月と並ぶことはありません。然し月は永久にお日様の後を追ふて居ます。』
    ――――――――――――――――
◎平凡なる一小説家と其妻。
女の起き出でる暁に男が寝る。女が夕飯を食ふ時に男が朝飯(?)を食ふ。二人は凡ての点に於て矛盾して居る。そして一つ家に夫婦として住んで居る。燕の声が()いな、と男がいへば、騒がしくてイヤですよ、と女がいふ。この蕪漬が実にうまい、と男がいへば、マアそうですか、先日中は貴夫が折角牛肉牛肉とおつしやつたから、今日は私、町まで態々行つて買つて来たのですのに。男 さう、何日も何日も牛肉ではあきるよ。」女が花の如き都の大路を想像して居る時、男は、今は亡き田舎の伯母の処へ行つて里芋を食ひたいと考へて居る。生活は二人にとつて倦怠だ。男のかく拙い小説の如く、二人の一生は実に平凡である。――人生の矛盾は常にかくの如し。
◎伊五澤千代治、狂人。(事実)
夜渋民村を見下す。夕の星を見て跳り上がる。(狂人の幸福)
◎法華経の新行者――今日蓮。
(これはまだ研究を要す。)
◎伯父なる老教育者の談。
彼の愛したる弟子、宿屋の息子の話、――天才、夭死、軽気球研究者、口笛の名人、烽火。

◎本年三月四日、乃ち予が帰任してからの渋民村、(一大社会小説。)
教育政治宗教三方面の問題を含み、明治現代の社会の縮図。過渡時代。純正なる旧時代の人間の死。旧時代と過渡時代を繋げる半文化人の暴威。新時代の暁光、(少年の新意気人格の感化)
主人公は予自身。その他数十名。
地方的特色の描写。
《挿話》
 △小雨ふる夜、武久の見舞に沼田清民と好摩へ行つた事、
 △礎子。恋愛の偏見。
 △愛宕山上の焚火。乞食の女。超道徳。

 ○八月の末に葬礼を送つて三度寺へ行つた。一体この村には、誰か一人死ぬと是非三人死ぬことになるといふ迷信がある。多くの場合に於てこれが実際だから不思議である。今度もすぐ近所で年若い男が十日間に遂々三人死んだのだ。
 死は矢張崇高な神秘である。死者に対すると、誰しも先づ厳粛な崇敬な感じを起すといふのもまた一の神秘である。予は死といふ事について様々考へた。不相変神秘であつた。
 予は十一歳(?)の頃死んだ母方の伯父の棺に入つた死顔を見た外には死人を見た事がない。その時は小児の時の事だから、種々の空想を刺戟された外には別に深くも考へなかつた。今度、二十二(*)で死んだ友人沼田千太郎の死後一時間許りのところを見て、数日の間忘るることが出来なかつた。
(*)
筑摩書房全集では三十二。『友人』であれば、二十二が正しいか?

 ○九月二日三日四日は陰暦七月の十四十五十六日、乃ち田舎で一年中の最楽時たる盂蘭盆会であつた。盆踊例年の如し。
 予は十四日の晩から十八日の晩まで、五夜つづけて踊つた。
 踊が済んで、暁近い霧の寄せて来る頃、月下の焚火にあたつて、「ああ労れた」といふ心地!

 ○九月中は、殆んど毎日、初茸狩に平田野に行つた。未明に起きて行つて、露深い秋草の香と初茸の香とを嗅ぎわけつつ、そこの松蔭、ここの松蔭と尋ね歩く楽しみは? 嗚呼、胸が涼しい。
 そして、生徒が学校へ来はじめる頃、心地よい朝日の光を一杯にあび乍ら、葺を満たした竹籠を腰にして、かへつてくるのであつた。
 放課後、美しい教子の一人二人と共に、また平田野に行く。

 ○漆の葉の色づくを先立てて、野に、山に、巷に、天に、人の心に、犇々と迫つて来る秋の力!!
 予は秋に会ふ毎に思ふ、秋は自然の大悟である。禅定である。
 予は「秋」の前に跪づく。秋の心は大聖人の心である。

○九月中、(註 この項は斜線で抹消されている)

 二日から三日間、陰暦の盂蘭盆会。田舎で一年中一番楽しい時がこの三日間である。それは云ふ迄もなく盆踊――月下に篝を焚き、太鼓をうつて夜を明す盆踊のあるためである。そしてこの踊は十四、十五、十六、の三日が済んでも屹度三四日の間まだおどり続けるのである。自分は無論毎夜踊った。――暁の霧の篝火を消す頃まで、――五夜。
盆が過ぎて秋が来る。秋! 秋! 秋! 自分は「秋」の思ひを充分に写す筆をもたぬ。
葺狩、栗拾、

 ○十月の初め、学校に一変動があつた。
 予の親愛なる女友上野さめ子女史は、本宮村に転任になつた。四日、告別式をあげた。生徒は皆涙ぐんで居た。予も心に泣いた。送らるる人も涙であつた。女史の告別の辞は、実に一言一句涙であつた。そして、沈痛なる声に力をこめて、教へて曰く、常に読書せよ、我も川崎の如く寂しき処に居りしなれど、書を読めば心おのづから全世界に拡がる様な心地であつた。書を読め、そして自己を大にせよ――と。これは女史の言葉である!!
 女史は二ケ年半の間、この渋民の小天地に於て、「新婦人」の典型を示してくれた人である。真に立派な、男優りな、見識の高い、信仰の厚い人であつた。
 予は此日の尋常二年の教室と、全校の告別式と、女生だけの送別会との光景を永く忘れる事が出来ぬ。
 五日は、日戸小学校に授業批評会があつて出席した。この会は遺憾なく、今の教育の欠点を予に語つた。
 六日、上野女史と好摩ステーシヨンに別れた。遠かり行く汽車の窓の白いハンケチ!
    ――――――――――――――――
 上野女史のかはりに、矢張師校出の堀田秀子といふ丸顔の人が来た。後に至つて予の知つた所では、この人も亦予のために親しむべき人である。

 ○十月の十日前後は、自然が一年の中只一度の盛装を凝す紅葉の盛りであつた。そして、軈て落葉の時となつた。後の山の林木、朝な朝なに疎らに透いて行く。葉の落ちゆくを見れば、我が心の虚飾も段々はげて行く様な心地がする。

 ○十月の十四日、盛岡の師範生全部が二泊行軍の途次、この渋民に宿つた。
 統導の教師は校長小林氏をはじめ、皆知人であつたので、この夜は麦酒二本を携へて其宿舎を訪問した。白井種徳といふ人と此辺の史料や伝記や名勝について語つた。翌朝は判官館に案内してやつた。又、生徒のうちの一人が、予を訪ねて、詩談を交へて行つた。彼は予を呼ぶに「先生」を以てした。予は可笑かつた。
 数日経て、奉書にかいた立派な礼状が師校から来た。

 ○聊か感ずる処あつて、十月一日から、自宅で朝読を始めた。男女二十人許りの生徒が、夜のまだ明け放れぬ頃から、我先きにと集まつて来る。此一事だけでも、この朗読が善良な感化を与へて居る事がわかる。尤も自分は大抵暗いうちから彼等に起される。夜おそく寝た時などは、随分辛い事もあつたが、しかし彼等の心――清い、尊い心に想ひ至ると、予は或る感謝の念に胸を一杯にし乍ら、蹴起せざるをえなかつた。
 それから学校の方では、受持の尋常二年の外に高等科の地理歴史と作文とを併せて受持つ事になつた。高等科の生徒は非常に喜んで居る。予は代用教員として成功しつつあるのだ。この一事は予をして少なからず満足させた。

 ○十一月――みちのくの神無月とはなつた。
 教場の西向の窓をあけると、岩手山は雪をいただいて立つて居る。三日――天長節の朝に初雪がこの里にも降つた。
 街の向側の或る大きい家の屋根の後から、一株の大公孫樹が、澄み切つた空に黄金色の大きな手をさし上げて、巨人の如く立つて居る。この樹を眺めるのは、予にとつて日課の一つである。予はこの樹に対する毎に、或る力と洗礼とを天から与へられる様に感ずる。十一月半ば頃になつて、かの金色の葉が皆ちりはてた。そして、赤裸々なその枝の、堅い堅い姿は、亦、予のために老哲人の如く見える。

 ○十一月中旬、予は旧稿『雲は天才である』の一部分を書き直した。

 ○十七日せつ子臨月に近いたので、盛岡へ行つた。
 ○十九日から、左の胸が痛く、頭の加減もよくなくなつた。予は心配した、ああ肺病になるのか?
 しかし、これは、平生筆をとる時左の胸を机の角で圧迫されて居た為めであつた。然しこの為め、予は五日間欠勤した。
 ○病は予のために一面天の賚物であつた。予は十九日夜に稿を起して、二十二日夜までに、小説『葬列』の前半五十七枚を脱稿し、“明星”に送つた。
 浅沼茂が標本である。――小説中では高沼繁と呼ばるる。
 お夏といふのも実際の人物。
 藻外は瀬川深君、花郷は小林茂雄君、この号も本物。但し須山教師は空想中の人。
 新山堂の伯母さんの家といふのは、我がせつ子の実家である。
 馬町の先生は新渡戸仙岳先生。鹿川先生は猪川先生。
 姉の家の魚店に変つて居るのも事実。
 但し本物の繁は死んだのではない。
 昨年の暮の頃であつた。新山堂の(タカ)子さんがその当時盛岡加賀野磧町であつた予の家へ遊びに来ての話に、茂がお夏にかの白孤龕を占領されて、猫の様に哮んだといふ事をきいた。予はそれが非常に愉快に感じられた。その後、この事を是非書いて見ようと思つて居たのであつた。

 ○廿三日(新嘗祭)の日から、盛岡中学の校友会から頼まれて居る寄稿に筆を染めた。題は『林中書』半紙半截二十四字詰七十一枚。十二月三日に脱稿して送つた。
 これは極めて痛快なるものである。
 日本文明の積極的批評! 明治の教育界に投ぐる爆裂弾!

 ○この秋になつてから、一ケ年も二ケ年も音信不通で居た友人から、よく手紙が来た。秋は人の心に温みを持つてくるのであらう。
 又、未知の詞友からも求友の文が二つ三つ来た。

 ○十一月十七日夜、長詩『公孫樹』『雪の夜』の二篇をえた。

    十二月中

 ○一日一日に今年もなくなるのかと思ふと、実に倦駑鞭影に驚くの感がある。二十一歳のひと年も今ひと月で暮れるのか! 噫予は二十二歳になる前に「お父さん」になるのだ。
 お父さんになつたら、この俺も矢張お父さんらしくなるだらうか、これは何だか疑問である。生れて見ねばまだ解らぬが、……
 自分の子がせつ子から生れるのだ。
 ああぞくぞくする、満足である、幸福である、十八歳の暮には、詩壇の新作家を以つて目され、二十歳で処女詩集を公にして、同じ年せつ子と一緒になつて、そして二十一歳、筆を小説に染め初め、小供から一躍してお父さんになる。……予は悲しまぬ。否、悲しむ理由がない。

 ○三日に“明星”十二号が来た。
 我が『葬列」が載つて居る。アンナに〆切後に送つたのに、ズント前の方へ、二十頁余。
 予は、白状すると胸がドキドキし出したのであつた。これは初めて活字の厄介になつた予の小説である。
 明治三十六年の“明星”十二号は、初めて予の詩を載せた雑誌であつたが……十二月は、予のために何か好運の縁があると見える。

 ○四日に京なる金田一京助(花明)君から来たハガキは次の如し。
『浅沼が死んだんですか?――私と同級で、小学校は四年の頃、一番末席で、女のすぐ後ろについて、涎たらし乍ら、をかしな目つきして、ニヤリニヤリと馬鹿(とは失敬なれど)笑ひしてあつた面影が目にうかんで、いろいろ今日は思ひに耽つた。――“明星”は今朝着いたのです。
 何と言ふていいか、ことばを知らぬ、赤いインキで、凡そ五回もよみ返したあとで、とうとうけん点づくめにしてしまつた。就中二十五頁の或三行(満二行)には二重けん点をうつて羨殺された。ああ、猪川先生や、田中の地蔵さんや花卿藻外さん!
 凡そ後半の文字は、私、鏡花漱石以上のものと賛して憚らぬ。君には或はこんな人と比べて失敬なと怒らるるかも知れないけれど、
 実をいへば、物を読んで、恍として巻を措けたかつたほどに感じたのは、この後半と、それから一生の中に、先年即興詩人を読んだ時とだ』

 ○五日夜、堀田女子をおとづれて、趣味多き談話の中より左の三材料をえた。
×一、師範女子部から退学された、美しからぬ女の話。表面美、裡面醜。写真盗の事、高師と公使の間違――舞踏一件。
×二、内田君と外岡絹さんとの事。卒業式の鐘。
×三、男を屁とも思はぬ冷やかな女の事。女子部出の女教師。悲劇あり。……彼女は遂に泣かなかつた。そして平生の如く、ツンとした顔をして、然し全く蒼ざめて、辞表を出した日の午后、好摩停車場から、北の方へ汽車と共に去つた。南方の盛岡へ行くと、人へは云つた癖に。

 ○六日に来たせつ子の手紙の一節。
『……繁とお夏とは、如何に活動致し候か、見ものに候べし。しげるは、人の留守宅に入りて一夜の楽しみを得候ふ翌日、花巻なる父の許にひきとられ候由。夏子は今猶此地に居り候。私の考にては、トルストイに顔似たる平倉沢の伯父と、山中の神さびし古きお宮にての物語、それから大光寺の昌三が彼女に同情して、丸飯二個を与へたる事なども、おもしろき一幕と存じ候。これは皆この秋の出来事、昌三は精神に異常あらはれしとかにて、様子変り候由、お夏は、平倉沢には住みなれし処とて、伯父の山に栗拾に行きし由にて候。
 ……いかに値ある御作なるべきかなど、早や自分のものの様に自惚気にも成申候、かくては私も、二つ並べて見劣りせぬ位の子生まねばならぬと思ひ居候。……私は君を夫とせし故に幸福なりと信じ、且つよろこび居候、生るるは京ちやんにて候ふべきか。まちどほしく候ふかな。十二月五日夕、なつかしき啄木様み許に。せつ子。』

○七日、盛岡の内田秋皎君から来信。
『林中書うれしく頂戴いたしました。以て雑誌の光栄といたします。原稿用紙大分お気に障つた御様子、仕方がない勘弁して下さい。……「葬列」鼓春兄より承りました。まだ見ないのを失敬と思はれては困りますが、当地には鼓春兄への外は来て居ない様子故、つひまだ拝見しないで居たわけです。ぜひ見なければ、気が落つかんで困ります、浅沼茂とやら狂人のことを御かきの由ですが、彼の話なら一つ僕のところにもあります。去る九月のはじめ頃でしたらうか。僕の部屋は御承知の書籍乱雑、投つぱなし、紙も筆も一寸在所がしれぬ程ゴチヤツイテ居ますが、此部屋の障子が一寸ばかりあいて居たのです。恰度僕は学校へ行つて知らずに居ましたが、次の間に居た母が、何だかカタカタ音がすると思うて来て見ると、例の浅沼先生窓近くあつた紙と筆とをとつて、何やらかいて居たさうです。ところへ母が行つたもんだから、例のニヤニヤをやつてそのまま飄々と去つたとやら。茂大明神浅沼先生の御直筆は其時から永く僕の珍宝としてとつてあります。これは再び得ようとして得られないものですが、何かの材料にでもならうかと兄へ割愛します。アンマリ粗忽にせずに下さい。茂大将の自筆ですから。……』
 この書中にかいてある天下無類の贈物、浅沼茂の親筆は、予をして殆んど手の舞ひ足の踏む処を知らざるまでに喜ばしめた。半截の西洋半紙へ『盛岡市新山小路 浅沼茂』とかいてある。予はこの朝、これを持つて、階子を飛ぶ様にはね下りて、父や母やにこの絶世の珍宝を披露した。それでもあき足らず、出校の道すがら家の前を通る堀田女史を態々呼び入れて、そして、殆んど誇大妄想狂患者の様な事を云つて、之を示した。
 予のかいた小説のうち、初めて公にされた「葬列」の主人公は実にこの浅沼茂をモデルにとつたものであるのだ。予は他日この親筆を金縁の額にして書斎に飾るつもりだ。
    ――――――――――――――――
 ○この日記を訂正して、『林中日記』と題し(其一)五十枚許り『明星』へ送つた。ああ予の『我が懺悔』!!!
    ――――――――――――――――
○予は信ずる、生涯の第一戦にマンマと地に(まみ)れた敗兵の一人は、今第二戦の準備中だと。
 第二戦の開戦喇叭を吹く前に、予は「お父さん」にならねばならぬ。それから、老父の宝徳寺再住が事実とならねばならぬ。
 この二つは何れ遠からず事実となるであらう。

 ○渋民尋常高等小学校で、一番生徒に信用ある先生は、と問ふたなら、……。ああ、予の九ケ月間の努力は、決して無益ではなかつた。予は小学教育に重大なる価値を認めて居た、そして予は、小学教育者として確かに成功しつつあるのだ。予は衷心から、天を仰いで感謝する。予に教へらるる小供等は、この日本の小供等のうち、最も幸福なものであると、予は確信する。そして又、かかる小供等を教へつつ、彼等から、自分の教へる事よりも以上な或る教訓を得つつある予も亦、確かに世界の幸福なる一人であらう。
 渋民村の一代用教員は危険なる哉、彼は百幾十人の『成人の父』の心を司配して居る。
 『至幸なる兄』は、毎日、顔で笑つて、心で温かい涙を流して居る。ああこれ位嬉しい事が天下に二つとあらうか。
 予はまだまだ戦はねばならぬ。戦つて敗けるかも知れぬ。しかし、敗けても安心だ。自分にとつては、一代用教員の職が、六国の相印を帯びるよりも栄誉である。
 「勝つた日本よりも、敗けた露西亜の方が豪い」と教へて居る予は、抑々どういふ人間を作らうとして居るのであらう。かへすがへすも、渋民村の一代用教員は危険なるかなである。

 ○二十日、『岩手公論』の需に応じて、『鎖門一日』三百行許り書いて送つた。

 ○二十六日夜、雪の夜のサといふ物音さへ無い静けさは、少なからず予の心を冴えかへらしめた。十二時頃一旦枕についたが、眠られぬ。
 不図思ひ出したのは、室の隅にある竹行李に、予がこの五年間せつ子に送つた手紙の一束が這入つて居る事であつた。この思出は、宛然暗闇の林の中でふと春月に照らされた心地の様であつた。
 予は起きた、燈火を明るくした。豆粒ほどの火種が二つあつたのに炭をついで、吹くほどに吹くほどに三十分許りして鉄瓶も松風の音を立てた。
 この数日来、また一生懸命にやつて居る独逸語に取りかからうか、此間の如く村の医者へ復独逸語の手紙を書いて見ようか、とも思つたが、否々、
 取り出したのは、百幾十通といふ手紙の一束!
 ああ、これが乃ち自分の若き血と涙との不磨の表号、我が初恋――否一生に一度の恋の生ける物語であるのだ、自分と妻せつ子との間の!
 読みもてゆくに、目に浮ぶは、ああ、過ぎし日の彩と香ひ。喜びの涙と悲しみの涙に書きわけた我等二人の生命の絵巻物! 随分曲折に富んだこの恋は、実に人に聞かしたら立派な一の小説であらう。
 せつ子よ、せつ子よ、予は御身を思ふて泣く。
 ああ、御身は実に我が救主であつた。今の自分に、若し人に誇るに足る何物かがあるとすれば、それは皆御身の賜物なのだ。嘗て、前後二回、死なうと思つた事のあるこの身の、今猶生きて、しかも喜びを以て生きて居るのは、ただ御身といふ恋人のあつた為めではなかつたか。御身はこの身にとつてこよなく愛らしき懐かしきもの、又同時に、こよなく貴き有難きものである。
 結婚は恋の墓なりと人はいふ。いふ人にはいはして置かう。然し我等は、嘗て恋人であつた。そして今も恋人である。この恋は死ぬる日まで。
 せつ子よ、天が下に唯一のせつ子よ、予は御身を思ひ、過ぎ来し方を思ふて、今夜只一人、闃たる雪の夜の燈火の下、目が痛む程泣いた。せつ子よ、実に御身が恋しい。!!!
 御身は今盛岡に居る。我と御身との子は、遠からず御身から生れるのだ。その嬉しい嬉しい便りが今日か今日かと待ちわびて居るのに、予期した二十日も過ぎて、まだ来ない。予は実に毎日郵便のくる時間になると今度こそはと胸を轟かして居るのに。! この心を知るものは唯御身のみである。おくれるから屹度男だらうと人が云ふ。せつ子よ、御身から生れる我が子は果して男であらうか。男なら『行雄』と名付けよう。若し女だつたら、嘗て御身の云ひ出した『京子』といふのが、当然その子の名となるのだのに。
 ああせつ子よ、若し御身が自分の事について何か不平があるなら、予は地に額づいても謝しよう。予は実に此上なく幸福である。
 予はせつ子へ手紙を認めた。月落ちて世は暗、鶏の声に東白の間近い事が知られる。再び枕についたが、一人寝のさびしさ、まざまざと御身の姿や来し方の事が目に浮んだ。
    ――――――――――――――――
 ○八月に三週間やつて、盆踊の時から殆んど打すてて置いた独乙語をこの頃またセツセとやつて居る。今ではちょっとした手紙位は書ける様になつた。
 アト三ケ月で、一通り本を読む位になつて、そして来年の四月からは仏蘭西語、それから伊太利亜語、明後年の四月からは露西亜語といふ順序。
    ――――――――――――――――
 ○自分が今迄九ケ月に充分観察した処では、高等科で将来極めて有望なのは、(少なくとも予が始終教育して行けば)三年で柴内陸七郎、二年で立花慶三、柴内栄二郎、長岡義一、一年で米田善四郎の五人である。柴内兄弟は必ず一人前になる、兄の方は或は驚くべき文才を有して居るかも知れぬ。彼の作る歌には「詩」としての価値の充分あるのもある。慶三は或は十七八歳なつて俄然変るかも知れぬ。長岡は意地が悪いところによい処がある。米田は天才だ。
 柴内陸七郎と二年の奥山絹子との恋は、予の近頃発見して実に多大の興味を感じて居る処である。さながら一葉女史の『たけくらべ』を読む心地。しかし絹ちやんは、悧巧ではあるが決して美しき性格をもつた婦人には成れぬ。
 一体人が十三四、時として八九歳になると、既に異性に親しむ様の心をもつものだ。二十歳の上を過した女などで、まだ恋を知らぬなどは、殺風景な話だ。人生に恋程美しいものはないではないか。
 予は『小供の恋』といふものは大変面白いものだと思ふ、これを主題として小説をかきたい。

○廿七日。
 老父の宝徳寺再住問題について、一大吉報が来た。白髪こそなけれ、腰がいたくも曲つた母上は、老の涙を落して、一家開運の第一報だと喜んだ。予は母の顔を見て心で泣いた。ああ不幸なる児! この二年間の貧は父と母とをして如何程心を痛ましめたであらう。そしてこの両親の慈愛は、日がな夜がな、予のためによかれと神仏に祈つて居らるるではないか。有がたいは親の心である。予は母の喜びの涙を見て、今迄の不孝をひしひしと感じた。
 九ケ月間紛紜を重ねたこの問題も、来る一月の二十日頃には父の勝利を以て終局になる。或は母のいふ如く、先づこれをキツカケに、我が一家の運が開けてくるかも知れない。先づ父の方がきまつて、可愛い児が生れて、そして自分の第二戦! ああ天よ、我を助け玉へ。

○廿八日。
 朝起きて見れば、雪積ること一尺余。心地がよい。
 学校では、今日第二学期の終業式をやつて、明日から一月六日まで九日間、年末歳始の休暇になる。雪合戦をやつて、学校から帰つたのが正午の頃。
 夕方、五円紙幣一枚、駒井から、手紙をかいて母に行つてもらつて借りた。
 晩餐の仕度はモウ出来て居たのであつたが、馬肉の御馳走をしようといふ相談になつて、母が買ひに出て行つた。予は郵便局へ行つてハガキ九十枚、それから、綱子の家へ――嘗て借りて居たお菓子代を払ふために行つた――綱子は今年十六の、気のサツクリした、美しい、どこかせつ子に似た少女である。三十六年の二月から三十七年、一昨年の秋まで二十ケ月の間予が寺に居て、病骨を養ひ、且つは日夕吟詠に耽つて居た頃、彼女は猶学校の生徒であつた。彼女を始め、沢山の子等は其時から予になついて居た。中にも彼の綱子は、おもざしの何となくせつ子に似た所から、最も自分の愛するところであつた。予は其時から、今でも、綱子を自分の妹――可愛い妹の様に思つて居る。別に訪ねてくるでもなく、又逢ふ事もメツタにない、従つて話をする事もないのだが、綱子は自分の妹なのだ。そして綱子の段々大きくなつてゆくのが、常に自分に心配なのだ。どうやら可愛い妹一人ほかの人につれてゆかれる気がして。
 彼女の妹のさの子といふのが今高等科の一年で、その弟の兼吉といふのは尋常二年、自分の受持の組の級長。この兄弟は矢張り少なからず予の気に入る。
 彼女の家は、あまり裕かならぬ駄菓子屋である。もとは石油も荒物も、またチヨイト喰へる位の菓子も売つて居たのであつたが、恰度向ふの村長の家の店が出てから、一向さびれて来た。予は残念に思つて居る。
 彼女は、竹を割つた様な性質で、そして又、男にまけぬシツカリした気性である。笑ふ時の笑くぼは、無心の孩堤のそれの様に愛らしくて、目はせつ子に似た、声は極めて太くて、常に臆せずよく喋る。これは心の白くして直きを現はすのだと予は思ふ。一体、声が太くて佞奸な奴は無い。予は綱子を妹だと思つて居る。綱子は以前自分を『一さん』若しくは『(あえな)さん』と云つた、今は『先生」といふ。彼女は今自分を兄とは思つて居ぬかも知れぬ。然し妹といはれるに異議はなささうだ。
 今年の春二月、自分が来住以前に一度この村へ来た時、――恰も今夜の様な月美しき雪の夜であつた。――予は彼女の店へ煙草を買ひに行つたのであつた。
『オイ綱子、「朝日」を二つ。』
『ハイ、』が笑くぼと共に自分に答へた。
 シヤツの(カクシ)を探つて白銅を一攫み、七八十銭もあつたらうか、「朝日、」を持つて来た手に握らせた。
『綱子、大きくなつた喃。』
『アレ多額(よけい)で御あんす。』
『足らないだらう。』といつて、予はツイと出たのであつた。月の美しかつたこと。夜の静かであつたこと。故郷のなつかしかつた事!!!
 その後、予は此村に移住した。一度彼女は、我妹へ遊びに来たことがある。此方へ来いと云つたが、羞かしいといつて自分等の居る部屋へは来なかつた。
 夏の事、彼女は時々馬を曳いて畑へ行つた。或時馬の背に乗つて、大威張で、この家の前を過ぎた。この二階の障子を明けて居た予を見て、例の如く笑くぼと共に一礼して、そして平気で行つた。予は実に面白かつた。
 矢張夏の事、その頃予は日の出前に起床するのが常であつたが、或朝、起きて、楊枝を啣へて町端の泉へ行かうと外へ出ると、何か用あつて向ふの家へ来た彼女とバツタリ逢つた。彼女は矢張笑くぼを見せて、そして、
『雨がふらねエばよいが。』
と呟やく様に云つて笑つて行つた。これは、嘗ての昔から予が有名な朝寝坊なことを知つて居るので、多分其朝だけ不時の早起と誤解して、自分にからかつたのであつた。面白い子だ。
 予は彼女の店の前を通る度に、いつでも其春の泉の様な笑くぼを見せられる。この兄とこの妹との間はこれで満足なのだ。お菓子を借りた時も、小供を使ひにやつたので、自分の行つたのではなし。されば、二月の月の夜、「朝日」を二つ買つた時以来、別に話した事はない。
 ところが、十日許り前の事、予は所用の道すがら、彼女の店の前を通つた。彼女は家の前の小堰の水で大根を洗つて居たが、立つて腰を曲めて、そして
『寒くなりあんしたなつス――。』といつた。
 この挨拶は無論うれしかつた。うれしかつたが悲しかつた。予の心では、綱子はいつまでも小供で、そしてただ小供らしい笑くぼだけを見せてくれれば沢山なのだ。今年も来年も、また、十年二十年の後までも、綱子は怎うかいつも若くて小供らしくつて居てくれれば満足だ。恁うマセタ挨拶などはして貰はない方がよい。
 綱子といふ妹は、妹らしく黙つておとなしく兄さんを見たら微笑んで居ればそれでよいのだ。こんな挨拶などをする様になると、何だか他人の様だ。他人には他人に相違ないが、これでは、ほんとうの他人らしくなる。それはいけない。いつまでも、自分が恋人の面影に似て居る子だと思ふて、妹の様に可愛がつた時の綱子で居てほしいのだ。
 今夜行つた時は、同年位の子守が二人行つて居て、綱子と何か話をして居た。自分がツイと這入ると、面をむけた。相憎ランプを背にして居て、笑くぼが見えなかつた。
『いつか借りて居たのは幾何(いくら)だつた?』
『なんぼだつたか……』
 奥の方に居た父親が
『十四銭でごあんした……』と云ふ。
『何か、うまい物はないか。』
『何もごあんせん。(奥の方へ向いて)先生の()がるやうなのは無えおなつす――。』
 予は凍えた手で五十銭銀貨一枚を彼女にやつた。綱子は黙つて受取つて、ニツと笑つたが、
『ありがたうごあんす。』と声低く。
 予は戸外に出た。月が美しかつた。雪に埋もれた百戸の村は夕餉時の静けさ。戸口から綱子が顔を出して見送つて居た。予は三年前、夏の舟田橋の蛍狩、よく彼女を伴つて行つて、流るる蛍をとつてくれた事を思ひ出した。冬ながら柳の若葉の香が風と吹く心地。そして又つくづく心に念じた。恋しきせつ子の面影に似て居るところから、別れて居る心に日ねもす憧れて居た予が、面影ぞと思つて、心に妹にして居たこの綱子が、怎かいつまでも何も知らぬ小供であつて欲しいものだと。
    ――――――――――――――――
 今夜年賀のハガキ、大に節して七十五枚、書いて投函して置いた。

 廿九日
 岩手公論社より名刺百枚と稿料送り来る。
 今日は(午後三時頃)盛岡なる節子分娩したる日なり、京ちやんの誕生日なり、予の「若きお父さん」となれる日なり。

○三十日
 朝電報来る
 イマブジオミナヲウム○トキ(二十九日午后三時四十分発)
 予はこの電報を握つて臥床の中より躍り起きぬ。ああ盛岡なるせつ子、こひしきせつ子が、無事女の児――可愛き京子を生み落したるなり。予が「若きお父さん」となりたるなり。
 天地に充つるは愛なり。
 予は此日の心地を、いかなる語を以ても表はす事能はず。嬉しさに立つても臥ても居られぬ様なりき。心の底がうすから()ゆき様なりき。
 喜びの知らせのハガキ十五枚かきぬ。
  ああ明治三十九年十二月三十日、
  石川啄木は京子の父となりぬ。
 午后川崎の金矢家へゆき、大に御馳走になりて夜かへる。吹雪はげしくして、吹き塞がりたる路の雪、股に達する処も多かりき。かへり来て老母と今日のうれしき便りにつきて語る。
 この日我家の晩餐は、京ちやんのために祝意を表して、「カケス」といふ鳥の御馳走なりき。
    ――――――――――――――――
 ○この日、函館苜蓿社より、「紅苜蓿」第一冊来る。予の詩、「公孫樹」「かりがね」「雪の夜」の三篇を載せたり。


明治四十年一月賀状発送名簿

 ・尾崎行雄氏   東京、荏原郡北品川東海寺跡、
 ・姉崎正治氏    〃 小石川区指ケ谷町七十八、
 ・細川芳之助氏   〃 京橋区銀座三丁目佐久良書房
○・与謝野寛氏    〃 豊多摩郡千駄ケ谷村大通五四九、
○・上田敏氏     〃 本郷区西片町十、にの四四号
○・蒲原有明氏    〃 麹町区隼町八、
 ・薄田淳介氏   備中国浅口郡連嶋村
○・高安月郊氏    京都市新烏丸頭町
 ・前田林外氏    東京市、神田三崎町三ノ一
○・岩野泡鳴氏     〃 芝、西久保八幡町九、
○・綱嶋梁川氏     〃 牛込区大久保余丁町四八、
 ・原敬氏       〃 芝区公園第七号地
 ・長谷川天渓氏    〃 神田区駿河台鈴木町十二、
○・小栗風葉氏     〃 牛込区納戸町四〇
 ・小山内薫氏     〃 小石川区宮下町五、
 ・平野万里氏     〃 本郷駒込神明町四四三
○・川上桜翠氏     〃 深川区伊沢町一、
○・岩田郷一郎氏    〃 本郷区駒込曙町十三。
 ・森鴎外氏      〃 本郷区駒込千駄木林町団子坂上
○・平出修氏      〃 神田区北神保町二、
○・後藤宙外氏    岩代国耶摩郡三ツ和局区内戸の口
 ・登張信一郎氏   東京 小石川区白山御殿町一一一、
○・茅野儀太郎氏   〃 小石川区久堅町七十四、二三号
 ・馬場孤蝶氏    〃 牛込区弁天町一二三、
 ・正宗白鳥氏    〃 京橋銀座一丁目読売社内
○・金田一京助氏   〃 本郷区菊坂町八二、赤心館
○・田子一民氏    〃 弥生町三ノ三十二、小原方
○・堀合由巳氏    〃  〃  〃  〃  〃
○・福場幸一氏   広嶋県双三郡吉舎村
○・小嶋烏水氏   横浜市西戸部町山王出[六三五、
○・豊巻剛氏    金沢 上柿木畠四五
○・瀬川深氏    岡山県岡山市第六高等学校寄宿舎
 ・入沢涼月氏    〃  〃 花畑三〇
○・江南白雪氏   金沢市第四高等学校寄宿舎時習寮、
 ・細越夏村氏   東京市牛込区下戸塚六二六、山内方
 ・生田葵氏     〃 千駄ケ谷村大通坂下入
 ・渡辺勉氏    岩手県江刺米里村
○・小林花京氏   仙台市道場小路四、
○・渡部虹衣氏   大阪市西区江戸堀南通一ノ一三二、伊予屋
 ・島村抱月氏   東京市牛込市ケ谷薬王寺前寺二〇
○・石川半山氏    〃 麹町区三番町八十三、
 ・木下尚江氏    〃 麻布区広尾町三十五、
○・苜蓿社     北海道函館区船見町
○・山本千三郎氏  北海道小樽区稲穂町九、
○・工藤大助氏      上閉伊郡釜石町
  〈葛原対月    青森県上北郡野辺地町常光寺〉
○・田村叶氏    秋田県鹿角郡小坂鉱山重三衛十三、
○・米内謙太郎氏   青森県沼崎停車場
○・小笠原迷宮氏   県下紫波郡煙山村
○・高野桃村氏    〃 九戸郡葛巻村
○・佐々木孤舟氏   〃 二戸郡浄法寺村
○・堀合忠操氏    〃 岩手郡玉山村
○・村山竜鳳氏    〃 川口村
○・村山寛得氏    〃 大更村
○・内田秋咬氏   盛岡市内丸
○・下村垣哉氏    〃 四ツ家町
○・阿部康蔵氏    〃 鍛冶町
 ・堀合内      〃 新山小路三
○・福士神川氏    〃 加賀野新小路
○・大信田勇八氏  盛岡市川原町
○・清岡等氏     〃 川原小路一
 ・長岡拡氏     〃 馬場小路
○・小田嶋慶太郎氏  〃 日影門外小路
○・加藤正五郎氏   〃 上田、農林校前
○・新渡戸仙岳氏   〃 馬町
○・岡山儀七氏    〃 小人町五五
○・大矢馬太郎氏   〃 加賀野磧町
○・下長根澄氏   盛岡市上小路
 ・岩手公論社、上村才六氏  〃 本町
○・阿部泥牛氏    〃  〃
○・小林鼎氏     〃 加賀町磧町三、
 ・平野喜平氏    〃 大沢河原小路
○・上野さめ子氏   〃  〃
 ・高橋嘉太郎氏   〃 加賀町
○・稲村大次郎氏  岩手郡川口村
○・植木千子氏   東京布京橋区大鋸町五、

○ 山本健次郎氏
○・赤林コ人氏
○・秋浜正氏   
○・千葉春松氏
○・金子定一氏   士官二中隊
○ 伊五沢文五郎氏
○・伊東圭一郎氏   牛込南榎町九
○ 西堀藤吉氏
○ 浅利操氏
○ 佐藤良助氏
○ 伊五沢文五郎氏
○・畠山
 ・橋本


※渋民日記(八十日間の記以降)終り。
 「明治四十丁未歳日誌」に続きます。


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