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 (題字は石川啄木「悲しき玩具」直筆ノートより、写真は啄木が過ごした現在の小樽と小樽水天宮境内の歌碑)



明治四十五年 1912年日記 

石川啄木 啄木日記

石川啄木 啄木日記の原本は、次のものを使用しています。

  発行所:株式会社岩波書店
  書  名:啄木全集 全17冊のうち、第16集
  発行日:昭和36年11月10日 新装第1刷
筑摩書房版全集とも照合し、不突合の場合は、主として筑摩書房版を採用しています。
原文で使用している仮名遣いや送り仮名は極力原文どおりとしていますが、漢字はウェブ表示上問題があると思われる文字については、現在使われている文字またはかなに置き換えているものがありますのでご了承ください。啄木の正式名は「啄」に「、」(点)があります。


 
明治四十五年 1912年日記

                                           
石川啄木

一月一日
 今年ほど新年らしい気持のしない新年を迎へたことはない。といふよりは寧ろ、新年らしい気持になるだけの気力さへない新年だつたといふ方が当つてゐるかも知れない。からだの有様と暮のみじめさを考へると、それも無理はないのだが、あまり可い気持のものではなかつた。朝にまだ寝てるうちに十何通かの年賀状が来たけれども、いそいそと手を出して見る気にもなれなかつた。
 いつも敷いておく布団は新年だといふので久し振りに押入にしまはれたが、暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた。二日だけは気の張りでどうかかうか持ちこたへてゐたが、今日はとうとうまゐつてしまつた。先づ朝早くから雑煮がまづいと言つて皮肉な小言を言ひ、夕方に子供が少し無理を言ひ出した時には、元日だから叱らずに置かうかと自分で思つたのが癪にさはつて、却つてしたたか頬辺をなぐつて泣かせてやつた。ぢつとして行火に寝てゐても、背中に熱のあるのが絶えず意識に上つて、不愉快で不愉快で仕方がなかつた。新年を迎へたといふのがちつとも喜ばしくないばかりでなく、またしても苦しい一年を繰返さねばならぬのかと思ふと、今まで死なずにゐたのを泣きたくもあつた。『元日だといふのに笑ひ声一つしないのは、おれの家ばかりだらうな。』かう夕飯の席で言つた時には、さらでだに興のない顔をしてゐた母や妻の顔は見る見る曇つた。
 隣近所の廻礼は、今日から六つといふ京子に口上を教へて、午前のうちに名刺をくばらした。向うからも玄関まで来た。
 たつた一つ気持のよかつたのは、午後に『学生』の西村真次君からの使ひが五円封入の手紙を持つて来た事であつた。暮の二十九日に原稿料前借の手紙をやつておいたのが、旅行中で三十一日の晩まで見なかつたと言つて、自分のポケツトから貸してよこしてくれたのである。何度も何度も紙幣を折つてみたり、披げてみたりして、しみじみ有がたいと思つた。
 三十八度一分まで上つた熱は、寝る頃になつて七度三分まで下つた。

一月二日
 新聞によると、三十一日に始めた市内電車の車掌、運転士のストライキが昨日まで続いて、元日の市中はまるで電車の影を見なかつたといふ事である。明治四十五年がストライキの中に来たといふ事は私の興味を惹かないわけに行かなかつた。何だかそれが、保守主義者の好かない事のどんどん日本に起つて来る前兆のやうで、私の頭は久し振りに一しきり急がしかつた。
 朝から吹き出した風が一日やまないで、家の中には砂埃がまひこみ、天井からも土のやうなものが落ちた。空気までが埃臭くなつたやうで、一日いやな思ひをした。
 午前に西村君へ礼状をかいた。さうして妻を本郷までやつて、例の散薬を十日分とピラミドン五日分だけ買つて貰つた。散薬は一日分たつた七銭なのだが、それでさへこの三月許りのうちに、たつた一週間分だけ十二月の初めに買つたきりであつた。新年の雑誌も買ひたかつたがそれはやめにした。
 午後に思ひがけなくも作田喜三郎が手土産を持つてやつて来た。思ひがけなかつたとはいふものの、作田が来たと聞いた時には、その用向も大抵分つた。案の如く、私の名を騙つていねをその隠れ家から連れ出して行つたのは彼であつた。それで今はまた以前のやうに一しよに暮してゐるから、どうかもと通り御世話に預りたいといふのが彼の武骨な口上の要旨であつた。『そんならそれで可いだらうさ。』と私は言つたが、熱が出て来て苦しかつたので、失敬してピラミドンをのんで寝た。作田は隣室の母に逢つて来てから、問はず語りに色々家事に心を砕いた話をして帰つて行つた。父をば駿河台のとある病院へ使丁に入れた、其処では別に仕事といふ程の仕事もなく、泊り込みで月三円の外に患者や看護婦からの心づけもある。いねは家に置くと、すぐ向ひの親籍の家でまるで下女のやうに使ふので、相談の上逓信省附属の製本所へやつておく。其処ではまた万事が厳重に取りしまられてゐるので、自堕落になる怖れはない。――かう語る彼の顔には満足の表情があつた。さうしてその衣類も外套も新らしかつた。
 作田が帰つてゆくと、私はひとり微笑まぬわけに行かなかつた。彼にはなるほど一度私の処へ詫びに来る心はあつたかも知れない。しかし彼をして今日私の処へ来さしたのには、もつと痛切な理由がある。彼は平生自分といねとを踏みつけにする向ひ合はせの親類――昨夜から今朝へかけて烈しい喧嘩をしたといふその親類の家の悪口を言ふ家が一軒見つけたかつたのである!
 夜になると、熱は薬のために下つてゐたが、心はあたらしい暗さに占められてゐた。私は今月から何かしら書いて原稿料をとらなくてはならぬ事になつてゐる。何を書かうか? かう思ふと、もう何事からも興味を見付けかねるやうな私の今の心は、恰度ぎりぎりとしめ木にかけて生身を絞められるやうに痛んだ。いつしか行火にまどろんで、不図目をさまして、さうしてこれも夕方から居眠りばかりしてゐた妻を呼び起して寝床の支度をさせた時には、私はすつかり今日が正月の二日だといふ事を忘れてゐた。

一月三日
 たとへやうもない不愉快な日であつた。熱がやつぱり三十八度の上にのぼつた。ピラミドンをのんだ
 もう三ヶ日もすぎたのに、私の家には、近所の人が門口まで来た外、一人の客もない。
 今日までに送つて来た新年の雑誌は、『スバル、』『詩歌、』『層雲、』『ローマ字世界、』『精神修養、』『朱欒。』
 市中の電車は二日から復旧した。万朝報によると、市民は皆交通の不便を忍んで罷業者に同情してゐる。それが徳富の国民新聞では、市民が皆罷業者の暴状に憤慨してゐる事になつてゐる。小さい事ながら私は面白いと思つた。国民が、団結すれば勝つといふ事、多数は力なりといふ事を知つて来るのは、オオルド・ニツポンの眼からは無論危険極まる事と見えるに違ひない。

一月四日(木)
 午後に並木君が来た。彼は今年になつて最初のわが家の客であつた。二時間許り話して、一しよにとろろ飯を食つて帰つて行つた。久しぶりで友人といふものに逢つたのだから嬉しかるべき筈だつたのに、帰つたあとでは反対の心持が残つてゐた。
 四十日許り前に逢つた時に比べると、彼の頬は大分削けて、そして顔色が悪かつた。予防のために最新ツベルクリンの注射をうけたいなどと言つてゐた。何でも彼の親しい友人の一人で丈夫な男だつた又木といふのが洋行して、ドイツに着くか着かぬに喀血したといふ最近の事実が、大分彼の心を脅かしてゐるらしい。さうかと思ふと、おれは金持になつて、交詢社などを中心にしてゐる今の俗悪な実業家共に対抗する一つのサアクルを作るんだと威張つてもゐた。『それは面白いね』と私は言つた。面白いと思つたのは、しかし、彼の企てそのものではなくて、彼――肺病に脅かされてゐる無資本の彼が、さうした空疎なアスピレエシヨンを真面目に考へてゐるといふ事にあつたのは仕方がない。

一月五日(金)
 今日は朝から気分がよくて、土岐が来さうな日だと思つてゐると、果して午後一時少しすぎにその土岐がやつて来た。私は早速ピラミドンをのんで熱の予防しながら話した。
 二人の間には何時逢つてもこれといふ纏まつた話の出た事はない。しかし私の言ふ事には土岐は何でも賛成するし、また土岐の面白がる事は私にも面白い。人は彼には気障な処があるやうに言ふが、私にはその気障に見える処までが面白い。初めて洋服をこさへた者は、一寸近所へ行くにもそれを着たがるものだが、土岐は自分の心の新しいのが珍らしくて、それを正直に成るべく多くの機会に言葉や挙動に現はさうとしてゐるのだ。
 青柳のおこしの缶に入つたのと、門司から送つて来たといふ大きい朱欒とをお土産に持つて来てくれた。朱欒は四つ来たのを、一つは家、一つは生家、一つは細君の実家、さうして残る一つを私へ呉れたのだといふ。撫でて見ると不思議な肌触りが私の鋭い神経に一種のかなしみを伝へた。
『君は去年中にたつた一度僕ン処へ来てくれたつけが、あれは一月の十六日だつたつてね。』こんな事も土岐が言つた。二人は少しはにかんだやうな調子で、二人の親友になつた事を祝福した。彼は今度出す歌集を私にデジケエトする事を誓つた。夕方になると妻は鶏肉の入つた雑煮をこしらへてくれた。土岐はそれを食つて、これから夜勤にゆくと言つて帰つて行つた。
 夜にはその朱欒を家内中で食つてみた。そのあとで私は行火に眠つた。十二月中は不眠のために弱つたが、年が明けてからは眠いので困る。

一月七日
 昨日も今日も言ひがたき不愉快のうちに暮らさねばならなかつた不幸を、私は此処に嘆かずには居られない。妻はこの頃また少し容態が悪い。髪も梳らず、古袷の上に寝巻を不恰好に着て、全く意地も張りもないやうな顔をしてゐて、さうして時々烈しく咳をする。私はその醜悪な姿を見る毎に何とも言へない暗い怒りと自棄の念に捉へられずには済まされない。
 今日も私が行火に寝てゐると、妻は風の吹く縁側に出てゐるやうだつた。そこで私は前後二度『縁側は寒くないかい?』と言つた。初めの時はただ『いいえ』という返事しか耳に入らなかつたが、三十分許り経て二度目に言つた時には、『縁側になんかゐませんよ』と突樫貪な答へで酬いられた。次の間の行火に寝てゐるらしかつた。私はその時、何かしら怒つた言葉を言はねばならぬ心持になつた。しかしその時私は仰向に寝てゐたので、怒るだけの力がまるで腹になかつた。
 夜になつて、京子の寝る時、妻はまた烈しく咳をした。『お前も寝ろ』と私は命令的に言つた。妻も寝た。そこで私は、『咳の薬を買つて来るが、のむか、のまないか』と聞いた。『私が明日行つて買つて来ます。』『いいや。おれの親切はお前にはうるさいやうだけど、お前のその咳をきくとおれは気違ひになりさうだ。』かう言つて私は寒い風の吹く中を、電車通りまで行つて、咳の薬と浅田飴とを買つて来た。私は自分を憐れむの情に堪へなかつた。
 土岐から『早稲田文学』の新年号を送つて来た。

一月九日
 兎も角もこの二日間は穏やかに過ぎたといふものだ。今日は殊に朝から気分がよかつたので、思ひ切つてひと月振りに湯に行つた。札を二枚買つて流させたが、ひどい垢だつた。熱い湯につかつて、湯槽のふちに項をのせて、静かに深呼吸をしてゐると、何だか自分のからだに病気があるといふのが嘘なやうに思はれた。それほど気持がよかつた。
 午後には、しかし、熱がまた三十八度まで出たので、うろたへてピラミドンをのんで、夕方までぢつとして寝てゐた。夜には午前に書き出した杉村氏への手紙を九時頃までかかつて書き了へた。それは此間の賀状に書いてあつた同情の深い言葉に対して礼をのべるためであつた。私の心には久し振りに平和があつた。
『学生』に何か書いて送らねばならぬといふ事が、絶えず私の心にあつた。しかし今日まではまだ何も書けない。

一月十一日(木)
『北西の風晴』といふ天気予報が何日も何日も続いてゐる。
 今日は気分がよかつた。午前に新聞をよんでから、『学生』に送るための『新しい歌の味ひ』といふものを書き出してゐると、もう午近くなつて丸谷君が来た。暮から一の関の許嫁の処へ行つてゐたのが、今朝帰つて来たのださうだ。豆銀糖と林檎を持つて来て、町の片側に雪の残つていた北国の静かな町の話をした。そのうちに並木の血色の悪い話が出ると、彼は『ラブぢやないかな』と言つた。『又木の妹か。』かう私が直覚的に言ふと、それが不思議に彼の想像と一致してゐた。両方で話し合つて見ると、二人の想像は余程事実に近いものらしくなつた。並木が恋をしてゐる! この事は少なからず私の興味を惹いた。しかし私は、どうしたものか、その恋が彼のために幸福を齎すとは思へなかつた。私には彼の血色のよくないのが、彼の生涯にとつて恋以上の重大事のやうに思はれた。
 土岐も髯を立ててゐる。並木も丸谷もこの頃立てた。さうして三人が三人とも毛織のロシア帽(?)をかぶつてゐる。
 丸谷を玄関に送り出した時も、『今日は実に気分がいい』と私は言つた。実際さう思つてゐた。しかし三時間も続けて話したのが、私のからだに何の影響なしには済まなかつた。一人になつてから、何だか少し変だと思つて計つてみると、熱は三十八度四分まで上つてゐた。さうしてまだまだ上つて来るやうな気がした。私はたつた一服残つてゐたピラミドンを服んで、夕方まで汗をとつた。
 夜になると熱は下つたが、からだは疲れてゐた。豆銀糖を食つてゐると、不図私は盛岡の蒸北起が食ひたくなつた。

一月十二日(金)
 今日も不愉快な一日を送らねばならなかつた。熱は三十八度三分まで出た。しかしもうピラミドンはなかつた。

一月十九日(金)
 大分久しく日記をつけないでゐたが、その間私は毎日熱に苦しめられながら、非常な苦しい思ひをして『学生』の西村君に送るべき原稿を書いてゐた。初めは『新しい歌の味ひ』と題して土岐の歌の評釈をするつもりだつたが、やつぱり私は人の歌の評釈などをする事に適しなかつた。それで途中から小品文をかくことにして、一日に十行の原稿紙へ一枚以上五枚位づつ書いた。いくら努力してみてもそれ以上は書けなかつた。さうして今日やうやう四篇だけ書き了へて『病室より』といふ題をつけて京子に投函さした。
 十三日か十四日の晩から、せつ子と京子を隣室へ母と一緒に寝せることにした。せつ子はやつぱり咳がはげしいので、炊事向は万事また母一人でやつてゐたが、その母が二三日前から時々痰と一しよに血を吐くやうになつた。それでもせつ子は、自分は薬を怠けて飲まずにゐたりする癖に、水まで母にくませてゐた。あまり顔色がよくないので、今夜熱を計つたところが、三十八度二分、脈搏百〇二あつた。医者に見せたくても金がない。兎も角二三日は寝てゐて貰ふことにした。『明日から私がします』とせつ子が言つた。
 京子も今日はよかつたやうだが、二三日来また少し熱があつた。私の家は病人の家だ、どれもこれも不愉快な顔をした病人の家だ。『おれは去年の六月、とうとうお前が出てゆかない事になつた時から、おれの家の者が皆肺病になつて死ぬことを覚悟してゐるのだ。』こんな事を今朝言つてみた。私の熱も三十八度一分まで上つた、さうしてもう薬がとうに尽きてゐる。
 昨日光子から手紙が来た。兵庫県武庫郡芦屋村の聖使女学院へ暮の三十日に移つたさうである。
 今日は函館の堀合から手紙が来た。赳夫が学校の不成績に失望し、父の預つてゐた漁業組合の金五十円を拐帯して逃げたのださうな。若し行つたらよろしくと言つて来た。
 去年のうちは死ぬ事ばかり考えてゐたつけが、此頃は何とかして生きなければならぬと思ふ。

一月二十一日(日)
 母の吐血はやつぱりとまらない、咳をする度に多少づつ出る。もう初めからで御飯茶碗に二つ位は出たらしい。それだのに売薬さへ買ふことが出来ないといふ事は、ひどく私を悩ました。昨夜は寝る前に、『明日か明後日少し金をこしらへるから、それまで待つてくれ』と母に言つたが、しかし別にアテがあつたのではなかつた。
 今朝ふと思ひついて森田草平君へ手紙をかいた。事情をこまかに書いて、そして原稿を以て返すからといふ条件で金策を頼んでやつた。
 午後になると丸谷君と並木君がつれ立つて来た。別に変つた話もなかつたが、二人とも元気であつた。母の話をすると丸谷君は見舞だといつて一円置いて行つた。
 一円あると最初二日分の薬価には大丈夫間に合ふといふので、早速妻を、去年も母の病気にたのんだ近所の老つた医者へ走らした。しかしこれは失望に終つた。医者は十二月以来脊髄炎で動けないでゐるのださうだ。
 そこで、兎も角も森田君の方の返事のあるまでと、夜になつて売薬を二種買はせた。一つは痰咳のきれる薬、一つは解熱。
 それでやうやつと少し安心したやうな気持になつたが、今朝からすつかり床に就いてしまつた母の、あの直視するに忍びない程老衰したからだを思ふと、音がなければ息がきれたのではないかと心配せねばならなかつた。妻には夜便所へ起きる度に母の様子を見るやうに吩咐けた。
 昨日あたりから痛かつた頭は、夜になつて雨が降り出したために少しなほつた。
 佐藤さんと釧路の秋浜融三とから思ひがけない手紙が来た。佐藤さんからは、築地の海軍大学構内にある市立施療院へ入らないか、入るとすれば社の太田昇三郎氏が手続をしてくれる筈だと親切に知らして下すつたのだつた。それについて考へる私の頭は、明くなり暗くなりした。妻の顔はひどく明るかつた。
 秋浜からは東京へ出たいと言つて来た。

一月二十二日(月)
 今のやうに薬ものんだり、のまなかつたりしてゐるやうでは仕方がないから、進んで施療院に入院する、但し今は母が悪くてゐるから少し待つて貰ひたいといふ返事を佐藤さんへ書いた。
 堀合へ出奔人の来ない通知も出した。来ても臨機の処置以外の世話は病人だらけの家だから出来ないと書いた。
 午頃になつて森田君が来てくれた。外に工夫はなかつたから夏目さんの奥さんへ行つて十円貰つて来たといつて、それを出した。私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかつた事もないのである。それから征露丸といふ丸薬を百五十許り持つて来てくれた。これは日露戦争の時兵隊に持たせたもので、ケレオソオトと健胃剤が入つてゐるから飲んだらよからうといふ事だつた。さうして千駄木にゐる知人の医者を紹介してくれると言つて、自分で出向いてくれた。
 その医者は、しかし、夕方まで待つても来なかつた。夜になつても来なかつた。母は今日は少し気分がよささうだつたが、それでも矢張数回血の交つた痰を吐いた。
 夜に二月ぶりに熱が三十六度七分五厘まで下つた。うれしくて仕方がなかつた。外に理由がないから征露丸のおかげかも知れないと言つて、寝る前にまた二つのんだ。昼には三十七度二分五厘までの熱だつた。

一月二十三日(火)
 昨夜のよろこびはぬかよろこびだつた。今日もやつぱり三十八度以上に発熱した。午前に妻が病院へ行つたついでに散薬を一週間分とピラミドン五つ買つて貰つた。
 朝早く森田君の手紙をみた。アテにして行つた医者は眼科医だつたので、知人と相談して下谷の柿本医師に今日の午後行つて貰ふことにしたといふのだつた。母の喀血は少しとまり気味だつた。
 待ちに待つたが、その手紙の中の医者はとうとう日が暮れても来てくれなかつた。そこで思ひ切つて近所の三浦といふ医者に使ひをやつたところが、三十位の丁寧な代診が来た。診察の結果は、母はもう何年前よりとも知れない痼疾の肺患を持つてゐて、老体の事だから病勢は緩慢に進行したにちがひないが、もう左の肺は殆ど用をなさない位になつてゐるといふ事だつた。
 喀血したからこそ『或は…』と思つてゐたものの、これは私にとつて全く初耳だつた。しかし不幸にして私は、医者の言葉を証拠立てる色々の事実を知つてゐた。母がまだ十五六の頃に労症乃ち今の肺病をわづらつたといふ話も母の口から聞いた事があつたし、そればかりか数年前から、母は左を下にして寝れば咳が出て眠れないと言つてゐた。さうして去年私の入院中にも母は多少喀血したことがあるさうである。……私はまた長姉の死因についても考へなければならなかつた。
 三浦の代診の帰つて行つたあとで、薬をとりに行つた妻の戻る少し前に、柿本医師が来てくれた。診察の結果は矢張同じだつた。病気が重いし、老体の事であるから、十中七八は今明両月の寒さを経過することが出来まいといふのである。医師は世慣れた調子で色々親切な注意をして帰られた。薬は三浦からよこした散薬と水薬でいいといふ事だつた。
 母の病気が分つたと同時に、現在私の家を包んでゐる不幸な原因も分つたやうなものである。私は今日といふ今日こそ自分が全く絶望の境にゐることを承認せざるを得なかつた。私には母をなるべく長く生かしたいといふ希望と、長く生きられては困るといふ心とが、同時に働いてゐる……

一月二十四日(水)
 小樽の山本、芦屋の学校の光子、それから丸谷君へ母の病状を報ずる通知をかいた。それから佐藤氏へも当分施療院へ入れないことを報じた。
 熱を犯してこれらの手紙を書いたのが、ひどく私のからだの怒りにふれたらしく、一旦下りかけた熱が夜また三十八度一分まで出た。それでピラミドンをのんで寝たが、殆どひと晩うなつてゐたさうだ。明方目をさまして計つてみるとやつぱり三十八度一分あつたので、またピラミドンをのんだ。
 母は医者の注意でなるべく動かさぬやうに、大小便も便器にとり、夜は湯たんぽを入れて寝ることにした。せつ子は急に一切万事をやらねばならなくなつたので非常に急がしい。母のは食器は煮る事、痰は容器にとる事にした。

一月二十五日(木)
 せつ子は病院へ行つて、もう大分可いから一週一回づつ薬をとりに来るだけで可いと言はれて来た。私は今日は悪い日だつた。午後に三浦医師が来てかへつた後、三十八度六分まで熱が上つた。

一月二十六日(金)
 朝から寒い雨がびしょびしょ降つて、終日晴れなかつた。母も私も、それから家事に追はれてゐる妻も、あぢきないやうな淋しい一日を送つた。夏目氏夫人へ礼状を書いた。
 夕方、妻は一寸夕飯のおかずを買ひに出た。そのあとで子供にお話をせがまれながら寒い雨の音をきいてゐると、杉村氏から手紙が来た。私のためにまた社中に義金の醵集を企てたといふ通知だつた。感謝の念と、人の同情をうけねばならぬ心苦しさとが嵐のやうに私の心に起つた。さうしてそのあとには、兎も角もまたまとまつた金が来るといふ安心が残つた。手紙には回章も廻さず、金額の記帳も求めず、単に掲示にとどめたから金額は例より少いだらうが、それは然し促さざる同情の結果と見て諒とせよと書いてあつた。

一月二十七日(土)
 堀合からまだ赳夫さんの行方が不明だといふ葉書。
 杉村氏へ礼状を書いた。土岐君へは葉書。
 三浦といふ医者は横平な奴だ。来ると案内も乞はずに勝手に上つて来る、さうして図々しい物の言ひ方をしながら診察して、済むとまた碌に挨拶もせずに帰つて行く。癪にさはつて仕方がない。母は別段変りなしといふ事だつた。

一月二十八日(日)
 昨日も一昨日もピラミドンを二度づつのんで熱を抑へた結果却つて夜寝る頃になつて三十八度以上に出て困つたから、今日は朝にも昼にものまずにゐた。すると午後三時になつて三十八度四分まで上つた。その時初めて一服のんで汗をとつた。私のからだももう大分悪くなつてるらしい。
 母はことによると、もう直らないと覚悟しているのかも知れない。無論病気の性質や名はちつとも知らず、矢張いつか怪我をした時の打血が出たのだと思つてゐるらしいが、今度喀血する前に自分がまだ小さくて父と一しよに何処かへ遊びにゆくところを夢に見たさうだ。母はもう何十年とも知れない前から、自分の父の夢を見ると屹度何か悪い事が起るといふ事を信じてゐた。さうして昨日は妻に、北はどつちだときいてゐたし、今日はまた、矢張自分がまだ小さくて、盛岡の仙北町の長松寺(母の生家の菩提寺)の庭でお菓子や米のどつさり落ちてゐたのを拾つて食つてゐる夢をみた話をした。昨日から喀血はすつかりとまり、呼吸する時の雑音も聞えなくなり、胸のいたみも直つたといつてゐるが、からだは極度に疲労してゐて、目をあいてゐるのさへ疲れるといふ。意識ははつきりしてゐる。それからいくら言つても聞かずに、昼だけは大便は便所へ行く。
 此間来た秋浜融三の手紙に返事をかいた。
 丸谷君の一円、森田君からの十円、合せて十一円の金はもう一円ばかりしか残らなくなつた。

一月二十九日(月)
 もう少しで十二時といふ時に、社の人々十七氏からの醵集見舞金三十四円四十銭を佐藤氏が態々持つて来て下すつた。外に新年宴会酒肴料(三円)も届けて下すつた。私はお礼を言ふ言葉もなかつた。
 今日は医者が、母の容態は少しいいと言つて帰つた。私の熱も朝に三十七度八分あつただけで、ピラミドン一服のお蔭でそれ以上には出なかつた。
 夜にせつ子の綿入と羽織と帯を質屋から出させた。

一月三十日(火)
 今日は午後にせつ子が子供をつれて本郷まで買物に行き、こしらへ直す筈の私の着物も質屋から出して来た。子供は久振りに玩具だの前掛だのを買つて貰つて喜んだ。
 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのつて神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひに出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシヤ文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかつた。
 本、紙、帳面、俥代すべてで恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送つてゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。

一月三十一日(水)
 見舞を送られた社の有志十七氏にそれぞれの葉書の礼状を書いて出した。

二月一日(木)
 せつ子は午前に病院へ行き、午後は社へ行つて前借して来た。その留守に並木君が来て、今後丸谷、土岐の三人で私の薬を欠かずに飲ませたいから、何といふ薬だか知らしてくれと言つた。私は薬はまだあるし、それに当分は買ふだけの金があるからと言つて好意だけを謝した。今日は二人とも快活に話した。熱は三十八度一分まで出た。

二月三日(土)
 昨日午前から降りだした雨が降りつづいた。熱はまた高くなつた。昨日は三十八度五分、今日は同じく四分。
 母の容態は変化がない。医者は隔日に来る。光子からは通知してから手紙も来、鳥羽先生の好意だといふ真綿の間着も送つて来たが、小樽からは今以て葉書一枚来ない。

二月五日(月)
 昨日も今日も朝から三十八度以上の熱でなやまされた。ピラミドンを二度も三度ものんでも仲々抑へきれなかつた。全く何もしないで寝てくらした。食慾不進。
 医者は、母の容態は少し可いやうだから、これからは隔日には来ないと言つた。併し喀血こそ止つたれ、食慾は進まないし、殆ど食つたものより余分なくらいの通じがある。そろそろその薬代が心配になり出したが、小樽からは矢張葉書一枚さへ来ない。
 母の病気の事の分つた時は、何だか今迄正体の知れなかつた自分の不幸がよほど明らかになつたやうで却つて安心したつけが、此頃はその分つた結果の恐ろしさが目に見えて不愉快である。私は母をも一度丈夫にしてやりたい、併しそれは望まれない事だ。さうして母の生存は悲しくも私と家族とのために何よりの不幸だ!
 函館の赳夫さんの事が二三日前の盛岡の新聞に詳しく出た。五十円拐帯して海を渡り、青森で色々贅沢な買物をして盛岡にのりこみ、大手先の宿屋にとまつてゐて女郎買をしたり旧友と牛肉店をあらし廻つた末、月末になつても宿料を払ふことも出来なくなり、自殺するといふ書置をしてブラツいてゐるところを巡査につかまつたといふのだつた。新聞の記事だけでは、学問以外で身を立てようとして家出したといふやうな心掛は少しでもありさうになかつた。妻は泣いた。
 今日森田君から親切なハガキを貰つた。それにはハウプトマンの「織匠」をよんで自分も何か憤る所あつて筆をとりたいと思つたといふことが書いてあつた。――『芸術のための芸術には堪へがたく候。陽気な文学にも堪へず候。』

二月六日(火)
 今日も目をさますとから八度以上の熱で、ピラミドンを〇・三宛三度ものんだが、とうとう一日八度以下に下らず、夜の九時頃になつて初めて三十七度三分まで下つた。一日床に行火を入れて寝てくらした。
 日が暮れてから小樽の姉夫婦から冷淡極まるカラ手紙の見舞状が来た。あれだけ詳しく書いてやつたのに、金の無心をする積りで故意に書いたのか、少くとも針小棒大の手紙とでも思つたらしく、母が肺患だといふ事も信じないらしい。憤慨で憤慨でたまらなかつた。

二月七日(水)
 朝飯の時、母にほんとの病名を知らした。しかし左程驚きもしなかつた。『十四の時労症をやんだのだもの。』かうも言つた。聞いて見ると母の親類には肺病で死んだものが少くなかつた。
 私はやつぱり熱になやまされた。とうとう今月も何も書けぬらしい。こなひだ買つた本さへ読むことが出来ない。

二月八日(木)
 せつ子が病院へ行つたあとで、私の熱は三十八度九分まで上つた。ひどく汗が出たので夜にはずつと下つた。
 こなひだ仕立屋に頼んだ寝巻がやうやう出来て来た。

二月二十日(火)
 日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかかつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
 母の容態は昨今少し可いやうに見える。併し食慾は減じた。


(※啄木日記 終り)
この年(明治45年3月1日) 母カツ死去、
同年、4月13日 妻節子、父一禎、京子、若山牧水に看とられて、石川啄木死去。
26歳2ヵ月。葬儀は東京浅草の等光寺で営まれた。


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石川啄木 啄木日記